個の孤独を謳うということ

天之奏詩(そらのかなた)

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ep.5

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「櫻木さん、休日なのに今日は一日ありがとうね」
 礼を述べる司書に軽く会釈して社交辞令を返すと、俺はポケットに入れた部室の鍵を握って図書室を後にする。
 土曜日、学校の図書館イベントが催されるにあたって文芸部員としてその協力を迫られ足を運んだ俺であったが、実際来てみれば特別大した仕事もないまま午後四時の終了を迎えた。このイベント自体、子供から大人まで地域の人々を招いて図書館を利用してもらって、その感想や指摘を収集する為に開かれたもので、俺のしたことといえば精々、子供達が机に放置して帰った図書を背表紙の分類番号を確認して元の棚に仕舞うくらいのものだった。
 しかし案外、それについて不満を抱いているわけでもない。というのも、今日登校することは俺にとっても都合が良かったからだ。昨日の放課後、海莉から明かされた楓の状況とその証拠を柳先生に突きつけるべく職員室に寄ったが、用事で既に退勤した後であると他の先生に聞かされ会うことは叶わなかった。だが、その先生が言うには、柳先生は土曜日はいつも遅くまで勤務しているとのこと。そういえば一ヶ月前、柳先生が最近忙しくしているという話は楓からも聞いていたなと思う。俺は、丁度学校に足を運ぶ予定ができたのだから、柳先生と確実に顔を合わせられるこの機会を逃すわけにはいかないと、足早に部室へと向かった。
  またあの惨劇を目の当たりにしなければならないと思うと、闘志に反して、踏み出す足が重くなった。
 そういえば、昨日柳先生と話ができなかったことで、今日、海莉が楓の元を訪ねるのと時間が重なった。本来ならば俺が直接様子を伺いに行きたいところだが、楓が虐めを受けた原因の一つに俺との距離の近さが挙げられるから、熱りが冷めるまでまでは火に油を注ぐような真似は慎むべきだろうと考え、敢えて海莉に行ってもらうことにしたのだった。今頃、向こうはどうしているだろうか。
 そんなことを考えながら部室に置いて帰った袋を手に取り、その足で職員室へ向かう。女子バドミントン部の活動は今日は午後三時までと聞いているから、活動終了からもう一時間も経過している。昨日聞いた通り、今日も柳先生が遅くまで残っていることを強く祈りながら職員室の引き戸を引いた。
「失礼します、二年三組の櫻木です。柳先生はいらっしゃいますか」
 形式的な挨拶を述べると、こちらを振り向いた先生らは途端に奇妙な物でも見たように眉間に皺を寄せた。視線の集中する先は俺ではなく、俺が手に提げた袋である。それを一目見ただけで、俺がここを訪ねてきた理由がただ事ではないことくらいは見抜けたに違いない。心なしか、職員室が仄かに沈黙に包まれたような気がする。
  だがその中に一人、空気を切り裂くようにしてこちらに向かってくる女性の姿が目についた。冷たいほどに美しい目はゴールドの細いボストンフレームの眼鏡と重なることで締めが効き、より一層淑やかに、優美に人目を惹きつける。グレーのスーツに身を包んだ凛とした立ち姿は間違いなく柳先生だ。長い髪を揺らしながら鋭い表情で空間を裂く様子は、まるで弓から放たれて風を切る矢みたいだと思った。
 俺の目の前まで辿り着き、先生は開口一番にこちらの要件を言い当てる。
「花野の件だね、櫻木。昨日も来てくれたみたいで、対応できず申し訳ない」
 俺の中に渦巻いていた怒りや悔しさといった不愉快な鎖は、先生の言葉によって少し弛んだように思えた。もともとは、私情に現を抜かして部活のことなど少しも把握していない先生に道理の一つでもぶつけてやるつもりだったが、予想外にも当人は事の深刻さを把握しているようでその必要もなくなった。
  小さく頷いた後思わず呆然としてしまっていると、先生はそのまま生徒指導室が空いているからと俺を抜いて職員室を後にする。その右手には、既に生徒指導室を開けるものと思われる鍵が握られていた。俺は後に続いた。
「失礼します」
 生徒指導室に入ってお互い向かい合わせに席に着くと、先生は長い髪をヘアゴムで縛って姿勢を正した。さっきよりも面が開けたことで、その目力や口元の笑わない様子が俺の緊張を直に刺激する。俺の気を察したのだろう、先生は「そんなに固くならなくて良い」と小声で諭す。その落ち着きはらった態度に余計に背筋が凍る思いがした。
 先生は机の横で口を開けた袋に視線をやった。溜息を吐くと、再び俺の目を見た。
「バドミントン部で花野が虐めを受けていたことが明らかになって直ぐ指導も行ったよ。……とは言っても、既に花野が退部した後のことだが。事情を尋ねてみたが、虐めの主犯となった生徒は悪口や噂を広めたことしか自白せず、周辺生徒も未だ黙秘を貫いている。その空気がどうやらおかしいと睨んで私個人として探りを入れていると、どうやら彼女が以前部活で使っていた個人ロッカーの中がやけに汚れて臭ったりしていることに気が付いた。生徒らの自白以上に何か行われていたことは確信したが、しかし証拠がなくてね」
 楓の家にも連絡をしてみたが一度も繋がらず、どうやら自分たちを拒否しているようだと先生は付け加えた。俺は先生の話を聞きながら、証拠が掴めなかったのは海莉や俺がそれを所持していたからだと思い至る。海莉の言い草から、先生達が虐めを見て見ぬ振りをしているような雰囲気を勝手に感じ取ってしまっていたが、その思い違いが、寧ろ事の解決を遅らせていたのだと自覚して申し訳なく思った。同時に、あれだけ感情的になっていた昨日のことを思い出し、当時の自分たちの真剣さが空回りしていたのだという事実に悔しさが込み上がってくる。
「すみません、僕らが勝手に持ち出してしまったせいで」
 そう謝罪して俺が唇を固く閉じると、それを見て先生は初めて表情を柔らかくした。それから膝に置いていた手で顔を覆うような仕草をして、今度は机に両肘をつく。「とんでもない」先生は俺の謝罪を諫めて軽く目を閉じた。
「生徒が友人を助けようと必死に行動するのは、私は素晴らしいことだと感心している。勿論、被害が拡大する心配もしているのは事実だがね。しかし私は櫻木の行動に敬意を表するよ。何なら校長に言って全校集会で表彰式を上げてもいいくらいだ」
 言い終わると同時に、先生は姿勢を直して続けて礼を述べる。「それはそれは……」俺はその場にふさわしい反応が分からずにたじろいでいたが、しかし先生が顔を上げるのを待って一箇所訂正した。
「でも先生、俺じゃないんです」
 証拠を持ってきたことや事情を教えてくれたこと、実際に行動したのは海莉であって、自分はただ無理を言ってその一部を掬い、今こうしてこの場に居るのだということを伝える。それを聞いた先生は一度鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしたが、再び口元を緩めた。
「そうか、そうか。それなら東雲にも礼を言わんとな」
 それから先生は、俺に少しだけ説法を説いた。大変な状況にある海莉の傍について、真に彼女の支えとなれるのはお前だけだ、といったような話をして小さく息を漏らす。それからまた険しい表情を浮かべてテーブルの上で固く両手を結んだ。伺うように「先生」と呼びかけると、先生はおよそうんざりしたようにわざとらしい溜息を見せつけてそのまま机に突っ伏した。続いて、背筋を伸ばすのにつられてぎこちなく引き伸ばされた、濁音交じりの声を吐露した。
「どにかくごれはきぢんと受げ取るよぉ。さて、本人たちにはどう話をするべきか。まったく厄介なことだ」
「心中お察しします。楓の様子は、ちょうど今、東雲が見に行ってくれているところです」
 背中を上下させて呼吸する先生にそう声を掛けると、机と額の間に挟んだ手の手首から先がひらひらと振られる。それからやはり項垂れた声が空中を揺れながら伝わってきた。
「そうか、助かるよ。私はやはり必要とされていないみたいだからね」
「いえ、そんなことは……」
 しかし先生がこう卑屈になってしまうのも致し方ないか。これだけ対応に追われた挙げ句、加害者達からの真っ当な自白も、被害者からの信用も得られないのだから。その山の険しさたるや胸突き八丁、霧の濃さにその頂を望むことすら叶わないか。
「ところで櫻木」
 先生がゆっくりと顔を上げる。
「東雲とは一体どうなんだ。ぶっちゃけた話、君らが交際していたのは知っている。さっきはああ言ったが、あれは少しばかり無責任な発言だったかもしれない。花野の件について献身的に行動してくれたことへの感謝の証と言っては何だが、私も何かそちらの力になれることは無いかな」
「あっいや……はい、大丈夫です。上手くやってます」
 肩の荷を分け持ってくれようと伸びをした先生を、しかし俺は咄嗟に拒んでしまう。それは自分の悩みによってまた先生の負担が増えてしまうことを不憫に思う心があるからとも言えるが、寧ろ、自分は他人に内面を晒すのがあまり得意では無いからだ。俺の拒否を聞いて先生は一度「そうか」と嘆息したが、続いて俺の頭の中ではいつしかの楓の言葉が適時に響いていた。

 ――全部一人で抱え込まなくていいんだよ、信頼できる誰かを頼っていいんだよ。

 そう優しい言葉を言っておきながらしどろもどろするあの日の楓の微笑ましい姿が眼に浮かんで、次の瞬間、先生の引け目を感じたような表情が胸を痛ませた。
 この人の優しさを無下にしてはいけない。そんな気がした。
「あの、先生。やっぱり、少しだけ」
 先生は頷いて椅子に座り直して、何でも話しなさいと教師の貫禄のようなものを感じさせる眼差しをこちらに向けた。頭を下げて、とうとう俺は先生に心の内を明かした。
 直接関わってみて初めて実感できる新しい人格がそこにあるのだということ。元の東雲海莉の人格が戻ってこないのは、新しい人格の彼女が身体を所有しているからかもしれないということ。そして元の東雲海莉の人格をまたその身体に宿すとして、仮に、今そこに在る彼女を追い出したのだとしたら、それは殺人に値する行為なのではないかということ。
「俺は正直、いま東雲海莉の身体に宿っている彼女も、一人の友人、くらいには考えてます。だから彼女が消えなければならないような選択はしたくないんです。でもそれだと海莉がいつまでも戻って来られないから、このままの状態を継続、というわけにもいかないと思ってます」
 話を聞いている間、先生は何度か頷いていた。先生は俺が言葉を切ってからすぐに返事を寄越しはしなかった。考えあぐねて、しばらくしてから徐に口を開いた。
「私は大学時代、哲学を専攻していてね。今でもそういう類の本に目を通すことがよくあるから、櫻木が言ったような悩みについて、きっと私は櫻木と有意義な話し合いができると思うわけだ」
 しかし、と先生は付け加える。
「悪いが私は櫻木がどうすべきかについて話すつもりはないし、これから話す全ての事柄において、櫻木は私の思想に囚われてしまってはいけないよ。約束できるか?」
 先生は朗らかな表情を浮かべて言った。
  俺がこくりと頷くと、先生はさっそく、具体的には何を知りたいのかと俺に尋ねた。それについて俺は、人格とは何で、どういうものか、どこにあるのか。また現状の捉え方、転じて、昇華の方向性はどれくらいあるのか、そういったことを先生の知識を借りてよく考えたいのだと返答した。
  先生は話し始めた。
「一応確認しておくと、櫻木は人格、すなわち精神と肉体についてはデカルト二元論的な立場であり、人格の本質は精神にあるという解釈で間違いないね」 
 俺が首肯するのを確認して、先生は続ける。それは先生の持論から始まるものだった。
「私が思うに、人格と精神を同等と捉えた場合、それが肉体と隔離されているというのは少々過言ではないかな。精神の在り処が肉体とは違う場所、古代からそれはいわゆる高次元空間のようなところであると言われているけれど、仮にそこにあるとした時、それだけでは私達の人格を形成することは出来ないと思う。何故なら、人格の構成要素において記憶が重要な役割を果たしているのは明確であるからだ。例えば、アルツハイマー病がニューロン間の連結の消失によって引き起こされることから、記憶は脳のニューロン群で電気的に保存されているというのが現在有力な説だ。ここで三段論法を用いれば、「人格構成は記憶と密接に関係する」「記憶は身体構造と密接に関係する」よって「人格は身体構造と密接に関係する」と導ける。記憶はプラトンの唱えた感覚的世界、イデアに依存せず、この次元での経験はこの次元の仕組みでのみ記憶される。つまり、人格の本質は精神のみということではなくて、あくまでも精神と肉体との相互作用によって発生するものだと言えそうだ」
 ここまでは理解できるかと聞かれて俺が頷くと、先生は感心だと呟いて、ではもう一つと続けた。
「二元論の発展形として、イギリスの物理学者ペンローズとアメリカの麻酔科医ハメロフは量子脳理論というものを唱えている。量子論は分かるかい?」
 量子論は、現在、この世の最小単位として取り扱われる量子―すなわち、原子を構成する電子、陽子、中性子のうち、電子自体や、陽子と中性子を更に細かく分解して取り出したクォーク、他にもレプトンやヒッグス粒子、ゲージ粒子があるが、それらが引き起こす量子現象における自然科学の理論のことだ。
「はい、まだ齧った程度ですけど多分補足説明は必要ないです」
「素晴らしい! 量子脳理論では、微小管で行われる量子の波動性の収束によって意識が発生するとしているんだ。
 中には、波動性の収束などの量子効果を観測しうるのはあくまでも量子レベルの話であって、マクロな世界では発生しないものと主張する学者も存在するが、実はフラーレンのような大きな分子でも二重スリット効果を確認していて、クマムシなどの微生物サイズでもその体内で量子もつれ状態を発生させることに成功している。
  というわけで、まずマクロな世界でも量子効果が現れるのだということを前提に話を聞いてほしい。
  量子脳理論ではまさに微小管こそが量子的なゆらぎ状態にあるんだよ。微小管には伸縮性があるんだが、その伸縮が通常はゆらぎ状態となっていて、観測によって伸縮状態が確定、つまり波動性が収束するということが分かった。というのも、微小管を構成するチューブリンというタンパク質に量子効果が働いている可能性があるということだ。まだ観測には至っていないらしいけどね」
 波動性の収束とは、いくつかの固有状態が重なっている量子が観測によって一つの固有状態へと定められる現象のことだ。物質を細かく見ていくと分子の結合体であることが分かり、分子は原子という〈粒〉の結合によって、原子は原子核を構成する陽子、中性子という〈粒〉と、電子によって構成されている、というのは化学基礎で習った通り。しかし電子や、それらを構成するクォークなどの量子は〈粒〉と〈波〉の状態が同時に重なって存在しており、観測によってどちらかの状態に定められる。
「人間の意識は波動性を収束させ、同時に波動性の収束は意識を生み出す、ということですか。それじゃまるで汎心論になり得る考え方ですね」
 先生は俺の確認と意見を肯定して同感だと言うと、話の続きを述べた。
「そもそもこの宇宙は量子もつれ状態にある二次元平面を投影したものであるとするホログラフィック理論というのがあるだろう。ハメロフらは人間の意識もそういうものではないか、とも考えているようだよ。ここまでくると、むしろ一元論に還元されているようにも感じるが」
「リベットの実験では意識は脳の錯覚であると主張されていますよね。刺激を受けてニューロンの電気活動が開始、シナプスを通じて伝達物質に変換されたものを樹状突起が受け取って微小管に接続されると意識が生まれる。確かに、ニューロンの活動のほうが先に発生するなら、意識よりも先に次の指令が出されていると考えるほうが納得できる。……なるほど」
「櫻木詳しいね、感心したよ」
 先生に発言を褒められて照れくさいような気持ちになる。小さく頭を下げると、先生はコクリと頷いた後少しばかり顔をしかめた。疑問に思って先生の言葉に耳を傾ける。
「しかし、量子脳理論でいけば、今、櫻木が抱えている問題は考える価値を失ってしまうかもしれないね。何せ人格形成は記憶と意識の延長であり、その意識が量子効果によって引き起こされる錯覚だというのだから。しかし、そう思うことで自己意識の概念は曖昧なものとなるから、仮に、この先も現状を変えられないのだと知っても割り切れる……というのは些か傲慢かな」
 先生は言葉尻に苦笑して首を傾げた。俺はそれを聞いて少し悲しい気持ちになったが、笑って答える。
「それなら、俺は二元論者でありたいと、今は、思います」
 静かに「そうだね」と首肯して、先生は考え込み唸った。その時一瞬沈黙が降りたが、再び別の話でも紹介しようかといった様子で先生は小さく息を吸う。
「それよか、他にも教えられることはあったか……っと、すまない」
 先生は言いながら壁掛け時計に視線をやり、何か思い出したらしく目を見開いて、少々焦り気味で席を立った。
「これから会議がある。少し待っていてもらえるか……いや最終下校時間を過ぎてしまうな、またの機会に話すと約束しよう。それでいいかい」
 先生はそう言いながら袋を持って部屋の電気を消し、一人そそくさと部屋を出てゆく。
「あっはい、勿論です。ありがとうございました」
 ドアを開けたまま待ってくれているので、急な転換だが俺も鞄を背負って、礼を述べながら急いで教室を出た。先生は俺がドアを閉めたのを見届けて、キビキビと職員室に向かう。俺はそれに続いた。
「では私は戻るとするよ」
 職員室前で先生は振り返って、俺にそう声をかけた。
「はい、今日はこれで失礼します。ありがとうございました」
 深く頭を下げると、先生は俺の右肩にポンと軽く触れて顔を上げさせた。
「いや、こちらこそありがとうな櫻木。気をつけて帰るんだぞ」
 俺は笑顔で会釈して、先生が職員室へ消えていったのを確認すると下駄箱へと歩を向けた。
 二元論者でありたい、とは言ったものの、自分の中で量子脳理論に思想が傾いてゆくのを感じる。やはり思考実験で発展させていく哲学的な解よりも、観測を経て具体的な数値や事実確認を提示しながら仮説を立証して結論を出すような科学的な解のほうに強力な説得力を感じた。
 スマホを取り出してペンローズについて検索をかけると、しかし彼自身は量子脳理論において非計算的物理という立場を主張しているようだった。
  〈数学を矛盾なくどのように形式化しても、証明も反証もできないような命題が存在する〉
  〈どのような形式的体系も、その体系自身が矛盾していないことを証明することはできない〉
  と呈するゲーデルの不完全性定理が理屈の基礎にあるようだ。
  とすれば、哲学は不完全性定理を埋める一つの手段と成りえそうであり、俺にデカルトの二元論を支持し考え続けることを肯定させてくれるような気もするが、ペンローズは物理学者、やはり不完全性定理を埋めるのは新たな物理法則であると考えていて、それが哲学的な思考体系によって導き出されるものであれば俺は救われるものの、そうでなければそれは俺にとって革新的ではない。まあ、特殊相対性理論の発表を始めとして現代物理学の父と呼ばれるアインシュタインのように、元来、科学の世界ではこれまでの定説を覆す理論を発見することこそが革新的であるのは確かであるが。
 恋人である東雲海莉を取り戻すことと、現在そこに生きている新たな存在を殺さずしてどういう形かに収束させること。その両立は可能だろうか。現在の科学や哲学で提唱されている理論や、人類が持つ技術レベルでは、現状の仮定付けこそ可能かもしれないが、解決にまでは至らないに違いない。このまま恋人を曖昧に失い、新たな存在を無理やり認めて、共にまたは別々に生きてゆくか、自然回復がみられて以前の恋人を取り戻す代わりに、一時的にでも親しんだ友人を見殺しにすることを甘んじて受け入れるか。
 いずれにせよ近い将来、俺は苦しい決断をきっと迫られるのだ。
 校門を出てふと見上げた空はすっかり残照に染まり、今にも暮れんとしていた。どの選択肢を選んでも結局後悔するに違いない、なんて思いながらふらふらと駅方面へ歩を進めていたが、後ろの方で二度クラクションが鳴ったのを聞いてそちらへちらりと視線を寄越す。背後には轟音で空気を深く振動させながらこちらに接近する黄色いスポーツカー。ぺたりと地面に張り付いたそいつはハイビームでこちらを凝視しているように見える。ウィンカーを点滅させて歩道に幅寄せしながら減速している。どうやら誰かの注意を引こうとしているようだが、適当に観察しているのも束の間、車は俺の真横を通過する際に一度わざとらしくアクセルをふかして、すぐ目の前で停車した。
 全体的に曲線的なフォルムが特徴的だが、ボンネットからは二つ、目のようにヘッドライトが展開している。何処かで見覚えのある車だなあと記憶を辿っていると助手席側の窓が開かれたので、軽く屈んで覗き込むように中を確認してみた。
 助手席には誰も座っていなかったが、運転席で先生がハンドルを握っていた。
「櫻木、お前歩くのが遅いな。丁度良かったよ、乗れ」
 軽快なジャズミュージックと共に、雑な誘いが掛けられた。
「え、先生、会議があったんじゃ。それより、乗れっていうのは……」
 先程と話が違うこともそうだが、あの淑やかな先生がこんな車を運転していることのギャップに呆然として身体が固まる。たどたどしく質問を発する俺に先生は「良いから早く乗れ」と念押しして、俺は言われるがまま車に乗り込んだ。ノブを引く際、ツードアであることの珍しさに何となく違和感を感じながら。
 先生は俺がシートベルトを閉めたことを確認するとウィンカーを出して、後方確認のあとにシフトノブを操作し、サイドレバーを降ろしてアクセルを踏み込んだ。ゆっくりと響き始める重低音が身体を振動させる。見慣れない動作がいくつか目についたが、家の車とは操作方法が異なるのだろうか。あまり車に詳しくないためさほど関心も湧かないが、あの先生が運転しているのだという事実が妙にその左手や左足の動きを俺に意識させた。
 他人の車に乗ると何だか緊張して話が出来ないものだなとむずむずしていると、道幅の広い大通りに出たくらいのタイミングで先生の方が再び口を開いた。
 衝撃的な内容を、先生はこちらに視線を向けることなく静かに述べる。
「東雲が意識を取り戻したと、親御さんから連絡があったよ」
 それを聞いた瞬間、車の重低音も車内のジャズミュージックも鳴り止む。その静寂はまるで一瞬意識が飛んだみたいな感覚で俺を包んだ。
  先生の言った〈東雲〉が自分の恋人を指したものだというのが、先生の言葉の抑揚から瞬時に理解できた。
  瞬きくらいの短い暗転から還ってきた来たら、途端に恋人からの愛情の飢えを感じて情緒が乱れ始める。
 生々しい恋慕の情が蘇り身体が火照っていくのを感じていると、気が付けば俺は眠ってしまったようだった。半ば気絶と同義かもしれない。先生に肩を揺すぶられて意識が覚醒したときには、フロントガラスの向こうにはよく知っている病院があった。
 先生は目を開けた俺に再び同じ言葉を投げかける。
「――東雲が、意識を取り戻したようだ。」
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