婚約者に本命の女性がいるのは明らかでした

南部

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5話

 夜会の大広間は、今宵も眩い光に満ちていた。

 けれど私の心は、不思議なほど静かだった。

 いえ、静かでありながら期待に満ち溢れている。

 父の「驚くな」という言葉が、胸の奥で何度も反芻される。

 隣には不審者のように落ち着かないマーカス。誰かを探すように視線をあちこちに向けている。

 やがて、淡い色のドレスを見つけたのだろう。彼の身体がわずかに前のめりになる。

 ――エルザ。

 私はその様子を、ただ観察していた。

 もう、胸は痛まない。諦めてしまえば感覚が薄れるものなのだと知った。

 今まで苦しんできたことが嘘のようだった。

 エルザは、やはり迷惑そうだった。彼女もまたマーカスによる被害者なのだ。

 笑顔は浮かべているけれど、距離を取ろうとする仕草は隠せない。扇でさりげなく顔を隠し、周囲へ視線を投げる。

 そこへ――

「また同じことを繰り返すのですか」

 落ち着いた声が割って入る。

 ウィリアムだった。

 彼は人垣を越え、まっすぐにマーカスを見据えている。

「迷惑なことはやめるべきだ」

「……またお前か」

 マーカスが苛立ちを露わにする。

「他人の恋路に口を出すな」

 前回と同じ言葉。明らかに不機嫌な表情。

 けれど今夜のウィリアムは、わずかに口元を上げた。

「恋路、ですか。ならばまず――」

 静かな挑発。

「オードリー嬢との婚約関係を終わらせてから、本命の女性に近づくべきでは?」

 ざわり、と周囲が揺れる。

 私は息を潜める。

 父の言葉が、脳裏をよぎった。

 ――何があっても驚くな。

 婚約破棄を衆目に晒すことも父の計画なのかもしれない。

 マーカスがここまで非常識な振る舞いをし、その挙句、婚約破棄までしてしまえば撤回できなくなるだろう。

 マーカスの顔が赤く染まる。

「俺の気持ちは本気だ」

「では、証明なさっては?」

 逃げ道を塞ぐような言い方。

 沈黙が落ちた。

 そして――

「……オードリー」

 マーカスが振り返り、私に視線を向ける。今までなかったような真っすぐな視線。

「婚約を破棄する」

 はっきりとした声だった。

「俺は……彼女を愛している」

 大広間に、ざわめきが広がる。彼女がエルザを意味していることは明らかだった。

 婚約者である私を愛することはなく、別の女性を心の中で愛し続けていたことが明らかにされた。

「承知いたしました。マーカス様がそれほど本気でいらっしゃるのであれば、私は身を引きます」

 驚きの色が、彼の瞳に浮かぶ。

 私が取り乱すとでも思ったのだろうか。素直に受け入れることが予想外だったのだろうか。

 あれだけ酷い態度を取っておきながら、どうして私が拒むと考えるのだろうか。

「……分かってくれるのか」

「ええ。愛のために決断なさるのですもの。淑女として、応援いたしますわ」

 その言葉は、甘やかで、そして冷たい。破滅へ向かう彼を後押しする言葉。

 彼はそれに気づかないようだ。まさかとは思うけど、私が本気で応援しているとでも考えたのだろうか。

 彼はエルザへ向き直り、距離を詰めていく。

 エルザは思わず一歩後ずさった。

 しかしマーカスは構わずに近づき、彼女に向かい合う。

「聞いただろう。俺は本気だ。君のために婚約も破棄した」

 誇らしげな声音。

「俺は、君を愛している」

 会場が静まり返る。

 エルザはしばらく彼を見つめていた。

 そして、はっきりと言った。

「……不誠実な方とは、婚約できません」

 空気が凍る。

 マーカスの顔から血の気が引いた。

「な、何を言っている」

「婚約者がいながら、他の女性に執着する方です」

 エルザの声は震えていない。

「そのような方を、どうして信じられましょう」

「俺は本気だ!」

「本気であれば、なおさら問題です」

 きっぱりと。

「普段から、不愉快な視線を向けられて迷惑でした。何も言わず、ただ意味ありげな視線を向けられていました」

 周囲が息を呑む。

「迷惑……?」

「ええ。好意の押しつけは、ただの自己満足です。相手のことを考えず、一方的に自分の気持ちを押し付ける人だと、よく理解できました」

 彼が言葉を失う。

「俺は……君を想って」

「迷惑でした。嫌がる素振りを見せてもお構いなしでしたよね」

 重ねて言い放つ。

「ですから、あなたと婚約することはございません」

 断言。完全なる拒絶。

 マーカスは呆然と立ち尽くす。

 先ほどまでの自信は跡形もない。まさか本気で彼女と婚約できるとでも思っていたのだろうか。

 私は、その背中を見つめながら思う。

 これが、あなたの選んだ結果。

 婚約者を捨て、本命に告白し、そして拒絶される。自ら誠実さを失い、信頼も失った。

 ざわめきが広がる。

 視線は彼へ。あるいは彼女へ。もしくは私へ。

 私への視線は哀れみではない。納得の視線。

 マーカスがどのような人間なのか明らかになった今、私を非難するような人はいないだろう。

 終わった。

 完全に。

 私はもう、彼の婚約者ではない。

 その時、視線を感じる。

 ウィリアム。

 彼は静かに、私を見ていた。

 問いかけるような、しかし確信を含んだ眼差し。

 私は微笑み返す。

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