5 / 6
5話
夜会の大広間は、今宵も眩い光に満ちていた。
けれど私の心は、不思議なほど静かだった。
いえ、静かでありながら期待に満ち溢れている。
父の「驚くな」という言葉が、胸の奥で何度も反芻される。
隣には不審者のように落ち着かないマーカス。誰かを探すように視線をあちこちに向けている。
やがて、淡い色のドレスを見つけたのだろう。彼の身体がわずかに前のめりになる。
――エルザ。
私はその様子を、ただ観察していた。
もう、胸は痛まない。諦めてしまえば感覚が薄れるものなのだと知った。
今まで苦しんできたことが嘘のようだった。
エルザは、やはり迷惑そうだった。彼女もまたマーカスによる被害者なのだ。
笑顔は浮かべているけれど、距離を取ろうとする仕草は隠せない。扇でさりげなく顔を隠し、周囲へ視線を投げる。
そこへ――
「また同じことを繰り返すのですか」
落ち着いた声が割って入る。
ウィリアムだった。
彼は人垣を越え、まっすぐにマーカスを見据えている。
「迷惑なことはやめるべきだ」
「……またお前か」
マーカスが苛立ちを露わにする。
「他人の恋路に口を出すな」
前回と同じ言葉。明らかに不機嫌な表情。
けれど今夜のウィリアムは、わずかに口元を上げた。
「恋路、ですか。ならばまず――」
静かな挑発。
「オードリー嬢との婚約関係を終わらせてから、本命の女性に近づくべきでは?」
ざわり、と周囲が揺れる。
私は息を潜める。
父の言葉が、脳裏をよぎった。
――何があっても驚くな。
婚約破棄を衆目に晒すことも父の計画なのかもしれない。
マーカスがここまで非常識な振る舞いをし、その挙句、婚約破棄までしてしまえば撤回できなくなるだろう。
マーカスの顔が赤く染まる。
「俺の気持ちは本気だ」
「では、証明なさっては?」
逃げ道を塞ぐような言い方。
沈黙が落ちた。
そして――
「……オードリー」
マーカスが振り返り、私に視線を向ける。今までなかったような真っすぐな視線。
「婚約を破棄する」
はっきりとした声だった。
「俺は……彼女を愛している」
大広間に、ざわめきが広がる。彼女がエルザを意味していることは明らかだった。
婚約者である私を愛することはなく、別の女性を心の中で愛し続けていたことが明らかにされた。
「承知いたしました。マーカス様がそれほど本気でいらっしゃるのであれば、私は身を引きます」
驚きの色が、彼の瞳に浮かぶ。
私が取り乱すとでも思ったのだろうか。素直に受け入れることが予想外だったのだろうか。
あれだけ酷い態度を取っておきながら、どうして私が拒むと考えるのだろうか。
「……分かってくれるのか」
「ええ。愛のために決断なさるのですもの。淑女として、応援いたしますわ」
その言葉は、甘やかで、そして冷たい。破滅へ向かう彼を後押しする言葉。
彼はそれに気づかないようだ。まさかとは思うけど、私が本気で応援しているとでも考えたのだろうか。
彼はエルザへ向き直り、距離を詰めていく。
エルザは思わず一歩後ずさった。
しかしマーカスは構わずに近づき、彼女に向かい合う。
「聞いただろう。俺は本気だ。君のために婚約も破棄した」
誇らしげな声音。
「俺は、君を愛している」
会場が静まり返る。
エルザはしばらく彼を見つめていた。
そして、はっきりと言った。
「……不誠実な方とは、婚約できません」
空気が凍る。
マーカスの顔から血の気が引いた。
「な、何を言っている」
「婚約者がいながら、他の女性に執着する方です」
エルザの声は震えていない。
「そのような方を、どうして信じられましょう」
「俺は本気だ!」
「本気であれば、なおさら問題です」
きっぱりと。
「普段から、不愉快な視線を向けられて迷惑でした。何も言わず、ただ意味ありげな視線を向けられていました」
周囲が息を呑む。
「迷惑……?」
「ええ。好意の押しつけは、ただの自己満足です。相手のことを考えず、一方的に自分の気持ちを押し付ける人だと、よく理解できました」
彼が言葉を失う。
「俺は……君を想って」
「迷惑でした。嫌がる素振りを見せてもお構いなしでしたよね」
重ねて言い放つ。
「ですから、あなたと婚約することはございません」
断言。完全なる拒絶。
マーカスは呆然と立ち尽くす。
先ほどまでの自信は跡形もない。まさか本気で彼女と婚約できるとでも思っていたのだろうか。
私は、その背中を見つめながら思う。
これが、あなたの選んだ結果。
婚約者を捨て、本命に告白し、そして拒絶される。自ら誠実さを失い、信頼も失った。
ざわめきが広がる。
視線は彼へ。あるいは彼女へ。もしくは私へ。
私への視線は哀れみではない。納得の視線。
マーカスがどのような人間なのか明らかになった今、私を非難するような人はいないだろう。
終わった。
完全に。
私はもう、彼の婚約者ではない。
その時、視線を感じる。
ウィリアム。
彼は静かに、私を見ていた。
問いかけるような、しかし確信を含んだ眼差し。
私は微笑み返す。
けれど私の心は、不思議なほど静かだった。
いえ、静かでありながら期待に満ち溢れている。
父の「驚くな」という言葉が、胸の奥で何度も反芻される。
隣には不審者のように落ち着かないマーカス。誰かを探すように視線をあちこちに向けている。
やがて、淡い色のドレスを見つけたのだろう。彼の身体がわずかに前のめりになる。
――エルザ。
私はその様子を、ただ観察していた。
もう、胸は痛まない。諦めてしまえば感覚が薄れるものなのだと知った。
今まで苦しんできたことが嘘のようだった。
エルザは、やはり迷惑そうだった。彼女もまたマーカスによる被害者なのだ。
笑顔は浮かべているけれど、距離を取ろうとする仕草は隠せない。扇でさりげなく顔を隠し、周囲へ視線を投げる。
そこへ――
「また同じことを繰り返すのですか」
落ち着いた声が割って入る。
ウィリアムだった。
彼は人垣を越え、まっすぐにマーカスを見据えている。
「迷惑なことはやめるべきだ」
「……またお前か」
マーカスが苛立ちを露わにする。
「他人の恋路に口を出すな」
前回と同じ言葉。明らかに不機嫌な表情。
けれど今夜のウィリアムは、わずかに口元を上げた。
「恋路、ですか。ならばまず――」
静かな挑発。
「オードリー嬢との婚約関係を終わらせてから、本命の女性に近づくべきでは?」
ざわり、と周囲が揺れる。
私は息を潜める。
父の言葉が、脳裏をよぎった。
――何があっても驚くな。
婚約破棄を衆目に晒すことも父の計画なのかもしれない。
マーカスがここまで非常識な振る舞いをし、その挙句、婚約破棄までしてしまえば撤回できなくなるだろう。
マーカスの顔が赤く染まる。
「俺の気持ちは本気だ」
「では、証明なさっては?」
逃げ道を塞ぐような言い方。
沈黙が落ちた。
そして――
「……オードリー」
マーカスが振り返り、私に視線を向ける。今までなかったような真っすぐな視線。
「婚約を破棄する」
はっきりとした声だった。
「俺は……彼女を愛している」
大広間に、ざわめきが広がる。彼女がエルザを意味していることは明らかだった。
婚約者である私を愛することはなく、別の女性を心の中で愛し続けていたことが明らかにされた。
「承知いたしました。マーカス様がそれほど本気でいらっしゃるのであれば、私は身を引きます」
驚きの色が、彼の瞳に浮かぶ。
私が取り乱すとでも思ったのだろうか。素直に受け入れることが予想外だったのだろうか。
あれだけ酷い態度を取っておきながら、どうして私が拒むと考えるのだろうか。
「……分かってくれるのか」
「ええ。愛のために決断なさるのですもの。淑女として、応援いたしますわ」
その言葉は、甘やかで、そして冷たい。破滅へ向かう彼を後押しする言葉。
彼はそれに気づかないようだ。まさかとは思うけど、私が本気で応援しているとでも考えたのだろうか。
彼はエルザへ向き直り、距離を詰めていく。
エルザは思わず一歩後ずさった。
しかしマーカスは構わずに近づき、彼女に向かい合う。
「聞いただろう。俺は本気だ。君のために婚約も破棄した」
誇らしげな声音。
「俺は、君を愛している」
会場が静まり返る。
エルザはしばらく彼を見つめていた。
そして、はっきりと言った。
「……不誠実な方とは、婚約できません」
空気が凍る。
マーカスの顔から血の気が引いた。
「な、何を言っている」
「婚約者がいながら、他の女性に執着する方です」
エルザの声は震えていない。
「そのような方を、どうして信じられましょう」
「俺は本気だ!」
「本気であれば、なおさら問題です」
きっぱりと。
「普段から、不愉快な視線を向けられて迷惑でした。何も言わず、ただ意味ありげな視線を向けられていました」
周囲が息を呑む。
「迷惑……?」
「ええ。好意の押しつけは、ただの自己満足です。相手のことを考えず、一方的に自分の気持ちを押し付ける人だと、よく理解できました」
彼が言葉を失う。
「俺は……君を想って」
「迷惑でした。嫌がる素振りを見せてもお構いなしでしたよね」
重ねて言い放つ。
「ですから、あなたと婚約することはございません」
断言。完全なる拒絶。
マーカスは呆然と立ち尽くす。
先ほどまでの自信は跡形もない。まさか本気で彼女と婚約できるとでも思っていたのだろうか。
私は、その背中を見つめながら思う。
これが、あなたの選んだ結果。
婚約者を捨て、本命に告白し、そして拒絶される。自ら誠実さを失い、信頼も失った。
ざわめきが広がる。
視線は彼へ。あるいは彼女へ。もしくは私へ。
私への視線は哀れみではない。納得の視線。
マーカスがどのような人間なのか明らかになった今、私を非難するような人はいないだろう。
終わった。
完全に。
私はもう、彼の婚約者ではない。
その時、視線を感じる。
ウィリアム。
彼は静かに、私を見ていた。
問いかけるような、しかし確信を含んだ眼差し。
私は微笑み返す。
あなたにおすすめの小説
幼馴染が最優先な婚約者など、私の人生には不要です。
たると
恋愛
シュタイン伯爵家の長女エルゼは、公爵子息フィリップに恋をしていた。
彼の婚約者として選ばれた時は涙を流して喜んだが、その喜びもいまは遠い。
『君は一人でも大丈夫だろう。この埋め合わせは必ずする。愛している』
「……『愛している』、ですか」
いつも幼馴染を優先するアルベルトに、恋心はすっかり冷めてしまった。
『病弱な幼馴染を優先してください』と言った妻が消えた翌日、夫は領地の会計書類が全て白紙になっていることに気づいた
歩人
ファンタジー
侯爵家に嫁いで五年。ルチアは夫エミルの領地会計・社交・使用人管理を全て一人で担ってきた。だがエミルはいつも幼馴染のアリーチェを優先する。「アリーチェは体が弱いんだ、お前とは違う」——その言葉を百回聞いた日、ルチアは微笑んで離縁届に署名した。「ええ、私は丈夫ですから。どうぞ幼馴染様をお大事に」。翌朝、エミルが目にしたのは——税務報告の締切、領民からの陳情の山、そして紅茶の淹れ方すら知らない自分。三ヶ月後、かつて「地味な妻」と呼ばれたルチアは、辺境伯の財務顧問として辣腕を振るっていた。
「幸せになりなさい」と言われたので、そうしました
はな
恋愛
「幸せになりなさい」と言われて育った令嬢は、
その通りに生きてきただけだった。
王子の婚約者として政務を完璧にこなしていたリリアーヌ。
だが婚約は、義妹のためにあっさりと解消される。
――それでも彼女は困らなかった。
「本が読めるので、幸せですから」
彼女がいなくなった王宮は崩れ始め、周囲は初めてその存在の大きさに気づく。
けれど彼女はもう戻らない。
“従順だったはずの令嬢”が選んだ、本当の幸せとは――
*10時と20時配信・・義妹、王子、義母、父視点も更新していきます。
*一部A Iの表現もあり
家族に裏切られて辺境で幸せを掴む?
しゃーりん
恋愛
婚約者を妹に取られる。
そんな小説みたいなことが本当に起こった。
婚約者が姉から妹に代わるだけ?しかし私はそれを許さず、慰謝料を請求した。
婚約破棄と共に跡継ぎでもなくなったから。
仕事だけをさせようと思っていた父に失望し、伯父のいる辺境に行くことにする。
これからは辺境で仕事に生きよう。そう決めて王都を旅立った。
辺境で新たな出会いがあり、付き合い始めたけど?というお話です。
君は私が全力で守るから・・・
透明
恋愛
王立高等学園のパーティーで公爵令嬢のリリアナはジュリアス王子から婚約破棄されてしまう。
王子の腕の中には平民の少女メロディが。
王子は言う。「君は私が全力で守るから。」
あれ?私を全力で守ってくれてたのは本当は誰だったの?
愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました
由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。
尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。
けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。
そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。
再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。
一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。
“尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。
静かに離婚しただけなのに、
なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。
おかしくなったのは、彼女が我が家にやってきてからでした。
ましゅぺちーの
恋愛
公爵家の令嬢であるリリスは家族と婚約者に愛されて幸せの中にいた。
そんな時、リリスの父の弟夫婦が不慮の事故で亡くなり、その娘を我が家で引き取ることになった。
娘の名前はシルビア。天使のように可愛らしく愛嬌のある彼女はすぐに一家に馴染んでいった。
それに対してリリスは次第に家で孤立していき、シルビアに嫌がらせをしているとの噂までたち始めた。
婚約者もシルビアに奪われ、父からは勘当を言い渡される。
リリスは平民として第二の人生を歩み始める。
全8話。完結まで執筆済みです。
この作品は小説家になろう様にも掲載しています。