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些細な一歩を踏み出して…。
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告白する気なんて無かった。
「あのね……」
叶わぬ恋だって、そう思ってたから。
「私……」
だけど、叶わなくたって、もういい。
「私、貴方のことが……」
伝えたい、この想いを。
1
桜が散り始めたこの季節。それは彼女たちが高校に入ってから二度目の春がもうじき終わることを告げていた。
今日は金曜日。今日さえ凌げば楽しい週末がやってくる。そんな想いは誰の胸にも少しはあるのか、心なしかみんな足取りは軽く、高まるテンションを隠せないかのように、各教室からはそれはそれは楽しそうで朗らかな笑い声が聞こえてくる。
が、
「はぁっ!? アンタ、マジで言ってんのっ!?」
とある教室で、京子の怒声が響いた。周りの生徒も偉いもので、京子が怒鳴りそうな気配を敏感に感じ取り、怒鳴る前にはそそくさと退散していた。
一方、逃げることが許されない、怒られている張本人である芽依は椅子の上に正座させられていた。いや、失礼。『させられて』はいない。迫力に負けて芽依が自主的に『している』のである。
ぱっと見、不良に絡まれる小学生のように見えなくもないが、京子はそこらの男子より喧嘩が強いという定評はあるものの一応不良ではないし、芽依も多分小学校の教室に紛れ込ませてもバレないだろうが一応京子と同い年の高校二年生である。
「い、いや、ちゃうねん。あの……、聞いてな? 誘おうとは思ってん……。誘いにも行こうとしてん……。けど……、中々……、やっぱ……」
「言い訳すんなっ!」
「うぅっ……」
ビシィッ! と京子に一喝され完全に委縮する芽依。この二人の図、どう見ても蛇に睨まれた蛙の図である。辞書の使用例として使いたいくらいだ。そして蛙こと芽依は助けを求めるように、渦中から少し離れたところで髪を整えていた彩花の方を見る。いや、私の方見るなよ……、とは思いつつ、彩花は芽依の方へと近づくと、
「まーまー、京子、落ち着い、」
「彩花は黙ってて」
「……はーい」
同じく京子に一喝され、帰ろうとする彩花の服の裾を芽依は必死に引っ張って止める。
「あやぁ~、待って~、見捨てとんといて~」
「いやいやいや、あやちゃんにアレ止めろって無理な話でしょ? 今の見た? ガオーだよ、ガオー。あやちゃん食べられちゃうって。骨も残らないって」
「嫌や~、ウチも食べられたくない~」
ライオンの檻に入れられてもそんな顔しないだろう、というくらいの必死の顔でイヤイヤ、と芽依が顔を横に振るが、同じくらいの顔で彩花もイヤイヤ、と顔を横に振っていると、
「ってか、彩花も聞いてよ!」
彩花も盛大に巻き込まれた。『黙ってて』と言われた直後に『聞いてよ』ときた。これは黙って聞いてろ、ということですね? 逆らう勇気も無い彩花は仕方なく芽依の近くの椅子に腰を下ろす。
「二週間だよっ!? 二週間っ!!」
何の話でしょう? いきなり唐突にそれだけ聞かされてもサッパリ分かりません、とは食べられる危険性があるため言えない彩花は困った顔で曖昧に頷いている。
「それだけあって、誘うはおろか話し掛けてもいないってどういうことっ!?」
「あー……」
そこまで言われてようやく彩花も察した。が、そこまで意外そうな顔はしない。芽依ならそうなりそうだな、とは彩花は思っていた。
2
事の発端、というかきっかけは、件の二週間前、三人で出掛けた際に、芽依が福引で映画のチケットを二枚当てたことにある。
末等に近い賞だったにも関わらず、ずいぶん良いのを貰ったなー、と思ったものだったが、チケットを見て納得した。そのチケットは上映してから大分経っている映画のチケットだった。恐らく売れ残った前売り券なのだろう、ということが何となく察せられた。
三人居るのに二人分のチケットを貰った芽依は困った顔をして振り返る。まず京子の方を見てみるが、
「映画観るのって疲れるんだよな……。アタシ、パス」
そもそもあまり映画自体に興味が無い京子にはアッサリと振られた。自然と芽依は残った彩花の方を見るが、彩花も気まずげに頬を掻いている。
「アタシ、それもう観ちゃったんだよね……」
公開してから大分経っているチケットなので、当然そういうこともあり得る。
「え~……、これどうしよ……」
芽依が困ったように二枚のチケットを見ていると、
「アイツと行けばいいじゃん」
アイツ? すっとぼけたわけではなく、本当に分からなかった芽依は首を傾げたが、
「アンタの好きな人」
言われて、気付いて、顔を真っ赤にして、芽依は首を横に振る。無茶である、無理である、不可能である。ロクにプライベートな話をしたことさえないのに、いきなりそんなデートになんて誘えるわけがない。
と、思っていたのだが、
「いや? でもありじゃん?」
「あ、あやまで~」
イジワルする~、と言いたげな芽依に、
「いやいや、だってこの状況よ? チケット無駄にするのは勿体ないって大義名分があるし、比較的誘いやすいんじゃない?」
それはもうある程度距離感が近くなっていて、そういう誘い方をしても不自然でない関係性を築けていたらの話である。さっきも言ったように、芽依は彼とプライベートな話をしたことなどほとんど無い。朝会って、消え入りそうなほど小さな声で、『おはよう……』と言うのだって、結構勇気を振り絞ってやっている芽依にとってはそれくらいの武器で誘いに行くのは至難の業である。
芽依の不安は尽きない。
「この映画好きか分かんないし……」
「それは聞いてみないと分かんないでしょ」
「予定空いてるか分かんないし……」
「それは聞いてみないと分かんないでしょ」
「もう観ちゃってるかもしれないし……」
「それは聞いてみないと分かんないでしょ」
「……え、えっと、」
「それは聞いてみないと分かんないでしょ」
「ま、まだ何も言ってないっ!!」
「え~っ? だってどうせ似たようなセリフ続くだけでしょ~? そんなの無視無視。『彼を映画に誘いますか? はい/いいえ』で『はい』を選ぶまで、アタシは同じ回答しかしないことに決めたのだ」
『はい』を選ぶまでは無限ループで同じ選択肢が表示され続けるらしい。選択肢は用意されていても、選択の自由は無いのである。
「大体めいめいさー、やらない理由を必死に探すくらいなら、やる理由を必死に探しなよ。やらない理由ばっか探してるんじゃ、そりゃいつまで経ってもできないよ?」
「うっ……」
割と的確に、芽依が自分自身でも直したい、と思っているところを突かれ、芽依は小さくなる。
「別に露出度の高い服で女出して誘惑して来いなんて言ってないんだから」
「誘惑できる体でもないしな」
「いやいや京子。合法ロリって意外と需要あるのよ?」
「へー、だってさ、良かったな」
「ふ、二人していじめる……」
別に体が小さいということも、顔が童顔だということも芽依的にはコンプレックスとも何とも思ってないからいいのだが、そんな二人して言わなくたっていいと思うのだ。
「まぁ、誘惑云々は二割弱冗談だとして」
「八割強本気で言ってたの……?」
「『デート』って言葉が恥ずかしいみたいだから、言い方変えるけど、一緒に映画は観に行きたいでしょ?」
「そ、それは……」
行きたい。間違いなく行きたい。彼と一緒に行けるのであれば、既に観た映画だろうが、苦手なジャンルの映画だろうが、喜んで観に行きたい。それは自分でも自覚している芽依だが、結局口から出てきた言葉は、
「で、でも……」
「あんまウダウダ言ってっと、そのチケット金券ショップで売ってくるぞ?」
「うっ」
京子の言葉に芽依はサッと、チケットを背に隠した。どうやらお金に換えられたくはないらしい。そしてそれはそのまま、彼と一緒に映画に行きたいという気持ちを表したことにもなる。
「ほれ見ろ、行きたいんじゃねぇか」
こうなってはもう否定はできない芽依は、それでも最後の最後、恐らくさっき彩花に言ったのは全て建前で、一番の不安であろうことを芽依は口にした。
「で、でも……、断られたら……?」
「そん時はアタシがアイツを殴ってきてやるよ」
「だ、だめぇっ!」
思っていた以上に強めにきた芽依の必死な制止の声に、京子はおかしそうに笑うと、
「だったら、アタシがアイツを殴んなくても済むように、ちゃんと誘えよ?」
3
と、言ってから早二週間というわけだ。言われるまで手助けは止めようとは思いつつ、ずっと何も言ってこないから、彩花も多少嫌な予感はしていたわけだ。
「めいめいさー、急かすつもりはないけど、早くしないと映画終わっちゃうよ?」
手に入れた段階ですでに上映している映画館が少なかった。そしてその数は減ることはあっても、増えることはない。あれからさらに二週間過ぎているのであれば、上映自体はやっていたとしても、この近辺の映画館でやっているかが怪しくなってくる。
「分かってる……、分かってるんやけど……」
いや、芽依も努力はしたのだ。というか芽依的にはもう自分のことを拍手喝采で褒めてあげたいくらいには頑張った。この二週間、ストーカーと言われても文句言えないな、と自分で思うくらいには彼の周りをウロチョロしていたのだが、近づけて精々10メートル付近。それ以上は緊張で心臓が持たないため近付けなかったのである。
「二週間もあったなら渡せるチャンスなんていくらでもあったろうに……」
「あったろうねー。あったあった。あやちゃんが見てただけでもこの二週間で10回以上は渡せただろうねー」
「えっ? み、見てたの……?」
「見てたというか、たまたま視界に入ったというか。例えば、向こうと目が合いそうになる度に急いで物陰に隠れるところとか」
「うっ」
「勢い余って男子トイレに突入しようとしたところとか」
「うっ、うっ」
「気付いてもらいたいのか何なのか、一回追い抜いてから、戻ってきて、もう一回追い抜くとかいう意味不明な行動取ってるところとか」
「うっ、うっ、うっ。うぅ~……っ」
「彩花、泣かすなよ」
「どこに泣く要素があったのっ!?」
これが泣かずにいられようか。自分で思い出すだけでも恥ずかしいのに、それを人の口から暴露されては恥ずかしさの極みである。
「ってか、そんだけ周りをウロチョロされて、男の方は気付かんのか?」
「いや? 気付いてたんじゃない? 何回か話し掛けようとしてる雰囲気あったし。でもほら、その度にめいめいが逃げるから」
「自業自得じゃねぇか」
「仰る通り」
二人してガンガン傷口に塩を塗り込んでくる。何て酷い友人たちだと、芽依が椅子の上でいじけて小さくなっていると、
「ったく。まぁ、別に無理に誘えとまでは言わねぇけどよ、そんな調子じゃ、そのうちアイツが他の女と付き合うことになっても知らねぇからな」
「えっ……」
何気なく言った京子のその言葉が、嫌に芽依の胸をざわつかせた。
「何素っ頓狂な顔してんだよ? お前が好きになったなら、他の奴が好きになったっておかしくないだろ?」
「まぁ、そりゃいつまでもフリーって保証は無いわね」
「そこで諦められればいいけどな。ズルズルと好きを引きずるとしんどいぞ」
「あー、嫌な言い方をすれば見せつけられることになるもんね? 例えば、目の前でイチャイチャされたりとか」
「うっ」
「髪を耳にかけてキスしだしたりとか」
「うっ、うっ」
「終いには燃え上がって、ああダメよこんなところでみたいなことを……」
「うっ、うっ、うっ。うぅ~……っ」
「彩花、だから泣かすなよ」
「どこに泣く要素があったのさっ!?」
「いや、今のは泣くだろ……」
芽依自身もビックリした。彼が誰かと付き合っている、それを考えただけで自然と涙が出てきた。今の気持ちを何て表現すればいいのかは芽依には分からないが、知っている言葉で簡単に表現するのであれば、やっぱり嫌なのだろう。
「でもさ、めいめい。それはどっちかだよ?」
彩花がハンカチで芽依の涙を拭ってあげながら、
「めいめいが何もしなくても好きになってもらえる絶世の美女だって言うなら話は別かもしれないけど、大抵の人は好きになってもらうために努力するし、その努力の結果として好きな人と付き合えたりするわけで」
一通り芽依の涙を拭き終わった後、彩花は落ち着かせるように芽依の背中をそっと撫でる。
「もちろん、努力は絶対叶うなんて無責任なことは言わないし、実らない恋なんていくらでもあるだろうし、それこそ変な話、努力した分、努力しなかった時よりも傷つくかもしれないけど。それでもやっぱり、努力しないことには好きになってもらえない……、と、私なんかは思ったり思わなかったり致しますが?」
「すげぇ良いこと言ってたのに何で最後失速した?」
「恥ずかしさに負けたのでござる……。あやちゃんそんなキャラじゃないの……」
「ギャルっぽい見た目してるのに根は真面目ってのがよく分かる発言じゃねぇか」
「不良っぽい言葉遣いしてるくせに意外と中身はしっかり乙女の京子に言われたく、」
「あっ?」
「何でもございませんわっ! だからその物騒な拳を引っ込めてくださいましっ!!」
京子は遺恨がありそうな顔はしつつ、とりあえず拳を引っ込めると、その拳でポンッ! と芽依の胸を優しく叩いた。
「泣くほど嫌だっていうのなら、それがお前の答えだろ」
芽依は京子に叩かれた胸を撫でると、何かを決意するかのように、そっと握りしめた。
「………………うん」
好きでいるだけで十分だと思っていた。いや、言い聞かせていた。
けどやっぱり、彼が他の誰かと付き合ってしまうのは嫌だった。
もちろん、そうなるかもしれない。頑張ったところで、実らない恋なのかもしれない。
だけど、もしそうなってしまったとしても、芽依は自分に言ってあげたい。
よく頑張ったね、と。やれるだけやったよね、と。じゃあ、仕方ないよ、と。
多分そうなった場合、相当の期間引きずることにはなるだろうが、でもきっと、その方が後悔はしない。
「まぁ、もし断られたら、そのまま真っ直ぐアタシたちのとこに来なよ。気が済むまで付き合ってあげるからさ。ね?」
「その日だけな」
「……ありがとう」
何だかんだ言って、やっぱりこの二人は優しいな、と芽依は思った。
芽依が本気で彼を好きでいるだけで十分で、特に付き合う気が無かったのであれば、二人は何もしなかっただろう。二人は、芽依が勇気が無くて言葉にできなかった部分まで察してくれたからこそ、ずっと背中を押してくれていたのだろう。
「……頑張ってみる」
4
放課後、自分のクラスのHRが終わった瞬間、芽依は急いで廊下を走っていた。芽依と彼は今はクラスが違う。こっちのHRが終わったということは向こうのHRも終わっているハズ。急がないと彼は部活とかに入っていないから、放課後はすぐに帰ってしまう。
教室の扉の前で一回止まると、走ったことによって乱れた息と髪を申し訳程度に整える。それからそっと、顔だけ出して教室の中を覗いてみるが、その席に彼は居なかった。
帰っちゃったかな……、と。芽依がしょんぼりして踵を返そうとすると、
「おい、そこのストーカー」
背後から目当ての人物の声が聞こえてきて、芽依はその場でビクゥッ!? と大きく跳ねた。それから恐る恐る背後を振り返ると、
「す、ストーカーじゃないもん……」
「ここ二週間、ず~~っと俺をつけ回しておいてよく言うぜ……」
「うっ……」
薄々芽依も感づいてはいたが、彩花も言っていたように気付かれていたらしい。その思うと妙に気恥ずかしくなって、芽依はそのまま黙りこくる。それを見て彼は後頭部をかくと、
「何か用があるんじゃないの?」
彼の方から話を振ってくれた。たったそれだけのことが嬉しくて、芽依は相変わらずニヤニヤしながらチラチラと彼の方を見る。
だが、エスパーではない彼に、それだけで芽依の心情を理解しろなど無理な話である。彼は芽依のほっぺを両手で優しく摘まむと、上下左右に引っ張りながら、
「よーうーけーんーはー?」
「わっ! わっ! わっ! い、言いまひゅ! 言いまひゅからはなひて!」
「……本当だろうな?」
若干怪訝な顔はしつつも、彼は芽依の頬から手を放す。芽依はどことなく残念そうな顔はしつつも、嬉しそうに触られたばかりの自分の頬を触る。そこが熱を持ち、赤くなっているのは、別に引っ張られたことだけが原因ではないだろう。
「おーい」
未だに何も言おうとしない芽依に痺れを切らし、再び芽依のほっぺを掴もうと手を伸ばしてくる。摘ままれてみたい、という欲求もあったため、反応が少し遅れたが、芽依は要件を思い出し、手に持ってた物を盾のように突き出した。
「うん?」
「その……、良ければ……、これを……」
彼は芽依が突き出している盾をじっと見る。芽依はもうまともに彼の顔を見れないので、盾を突き出した姿勢のままじーっと床と睨めっこしていたのが、
(あ、しまった……)
今更になって芽依は気付いた。肝心な『一緒に行こう』を言えていない。何も言わずにチケットを二枚差し出しているこの状況。友達と行ってきて、という風に受け取られても文句は言えない。
自分のミスに気付き、芽依は慌ててその旨を伝えようとするが、
「いつ行く?」
彼が先にそんなことを言ってきたものだから、芽依は勢いよく頭を上げた。タイミング同じく、芽依の顔を覗き込もうとした彼は危うく頭突きを食らうところだったが、間一髪避けることに成功した。
「え? あ? う?」
「何? その反応……。一緒に行こうって話じゃないの? 違うの?」
芽依は一生懸命首を横に振る。
「ど、どっちへの否定か分かりにくいが……、一緒に行く、ってことでいいんだよな?」
芽依は今度は全力で首を縦に振る。
「喋れや」
ポンッ! と彼は芽依の頭を軽くチョップする。芽依は嬉しそうにチョップされた場所を撫でながら、
「あ、あの……、その、」
映画の事情を説明しようとした芽依だったが、その前に彼も気付いたらしい。
「ああ、これ上映してから大分経ってるな……」
事情を知らない彼からすれば、何故そんなチケットでいきなり誘ってきたのか、色々くみ取れない部分もあっただろうに、彼はそこに関しては何も言わずに、
「そうしたら先に上映してる映画館と時間調べておくか。その辺後でまとめて送るから、都合がいい日を返してくれ」
意外に思われるかもしれないが、実は芽依はちゃっかりと、彼との連絡先は結構早い段階で交換していたりする。まぁ、彼から言ってくれた、というだけの話でもあるのだが。
『私はいつでも大丈夫だから、貴方の都合の良い日でいいよ』というのが芽依の本音だったりするのだが、芽依はここでは何も言わずにただただ頷いた。そんなロマンティックなセリフ、とてもではないが言えない、というのもあるが、それ以上に、迂闊なことを言ってこの後連絡を取り合える機会を失いたくない、という本音があった。
後で連絡が貰える。たったそれだけのことで、芽依の今日の楽しみが一つ増えた。
5
約束の日、当日。休日にしては、というか、平日学校に行く時間帯と比べても大分早い時間に芽依は待ち合わせ場所に立っていた。待ち合わせ場所近くにある映画館はまだ開館していない。
結局芽依たちは映画館開館直後にやっている、一番早い時間帯の回を観に行くことになった。理由は簡単で、その時間帯しかもう上映していなかったのである。というか、実はこの一本が最後の放映。これを逃すともう地元の映画館では上映していないという危機的状況だった。
そんな事情もあり、ただでさえ早い時間帯の待ち合わせなのだが、芽依は何とその待ち合わせ時間の一時間前に既に到着していた。家に居てもソワソワしてしまって落ち着かないという理由もあったし、万が一にも彼の方を待たせたくないという理由もあった。
しかし、後者はともかく、前者の方はあまり意味をなしていない。何せ、現在進行形で芽依は傍目から見ても分かるほどにソワソワしている。その原因は別に待ち人を待つ不安だけではなく、普段自分が着慣れない服とし慣れないメイクをしている、というのもあるのだろう。
普段、動きやすさ重視のラフな格好をすることが多い芽依だが、今日は珍しく女性的な格好をしている。メイクに関してはやったことなど一度もないくらいなのだが、服装に合わせ、誇張しすぎない程度の少し大人っぽく見えるメイクをしている。
どちらも、『気合入ってるって思われそうで嫌や~』とごねるめいめいを『可愛いって言われたいでしょ?』と宥めたあやちゃんの賜物である。
が、実はこれがソワソワの原因。何せ芽依は普段こういう服装もメイクもしたことがないから、自分に似合っているのかどうかもよく分からないのである。本人の主観だけであれば、何だったら違和感があるくらいである。彩花に必死に『可愛い可愛い』と宥められ(言いくるめられ)結果この格好のまま来たのだが、どうにもやっぱり自信が無い。今からでも着替えてメイクを落としてこようかと半ば本気で考えていたりもする。
「………………」
考え事ばかりしていても落ち着かない芽依は別のことをすることにした。芽依はスマホを取り出すと、昨日彼とやり取りしたメッセージを眺める。
観れる映画館と時間帯の選択肢が無かったため、結果やり取りは5分程度で終わってしまったが、そのたった5分のやり取りを昨日何度も見返し、今もそうだが、とても幸せそうな顔をしていた。
一方、ただでさえ朝早い時間帯だというのに、めいめいのバカのせいで一時間余計に早く待ち合わせ場所に来させられたコンビはというと、
「……何でこんな朝早くに起こされなきゃいけないんだ、チクショーめ」
「京子なんてまだいいじゃん。アタシなんて朝まで付き合わされて一睡もしてな、ふぁ~あ、あ~、眠い……」
「朝まで?」
「急に夜に不安になったとかで電話掛けてきて、それからず~~っと」
「よく出たな……」
「最初の電話はそんなに遅くなかったからね。そしたら切る度に電話掛かってきて……」
「出なきゃいいじゃん」
「ストーカーのごとく掛けてくるからもう諦めた……。おまけに何となく、緊張で涙目になってスマホ持ってる姿が容易に浮かんだし……」
「ほー、そりゃ大変だ」
「………………」
「な、何だよ、その恨めしそうな眼は」
「いや、ことごとくシカトした人間がよく言うな、と」
「だからって電源切ってるって分かってる人間に100回近く着信するか? 朝電源入れた時恐怖だったんだが」
「半分くらいは出ない腹いせに掛けさせたからね」
「芽依にしちゃ随分しつこくかけてきたなと思ったが、元凶はお前か」
「それぐらい許してほしいね。アタシなんて電話で朝までひたすら不安を聞かされた後に、その足でめいめいのコーディネートとメイクしに行って、さらにその足で京子迎えに行って今に至るんだから」
「その最後のアタシを迎えに来る工程が要らねぇじゃねぇか」
「まさか普通に来る気だったなんて思わないじゃん。来るって分かってたらアタシだって現地に直行したよ」
「来るだろ、そりゃ」
「まぁね」
クラスメイトだし、何だったら生まれた日の早さで言えばめいめいが一番年上だったりするのだが、二人は娘の初デートを見守るお母さんか何かのように、物陰からコソコソ芽依の様子を眺めていた。
待ち合わせ時間の一時間前に来たので、一時間待たせられても文句は言えないわけだが、実際に芽依が待ったのは5分程度済んだ。彼がなんとそれくらいの時間帯にやってきたのである。
まさかそんな時間に彼がやってくるなんて思っていなかった芽依は驚きのあまり目を真ん丸にしているが、それは彼も同じこと。まさかこの時間帯に来て待たせることになるなんて思っていない彼は、途中小走りになって芽依の方へ向かってきた。
「あれ? ごめん、待った?」
「う、ううん……。い、今来たとこ……」
実は一回言ってみたかったセリフを言えて嬉しそうな芽依。一方、
「いや、今来たもおかしいんだけどな……」
そりゃそうである。待ち合わせ時間の一時間前に来てこのセリフを言われるのは明らかにおかしい。が、今彼がこれを言うとややこしくなる。実際、お互い様では? という顔で芽依が首を傾げているので、彼はさっさと話題を変えることにした。
「……ほほう?」
「な、何……?」
「いや、私服だとそんな感じなんだと思って」
言われてみれば、彼に私服姿を見られるのはこれが初めてのことだった。その事実を改めて知った芽依は顔を赤くしながら俯きがちに、
「…………へ、変?」
決して『似合う?』とは聞けない芽依は、恐る恐るそう聞いた。
「いや、似合ってるよ? あんまり俺のイメージになかっただけ」
「え、えへへ……」
露骨に嬉しそうな顔をする芽依に、彼は照れて顔を逸らす。が、しばらく経っても芽依がずっとニヤけていたため、
「……何ニヤニヤしてんだよ?」
彼がそう聞くと、芽依は彼を指さして、
「……私服、初めて見た」
「えっ? あ、ああ、そう言えばそうか。ん? 何だ? ダサいってか?」
「ううん」
そこだけはハッキリと否定した後、芽依は口の中だけでゴニョゴニョと、
(……めっちゃカッコイイ……)
と呟いた。
一方、物陰に隠れる、京子・彩花のコソコソストーカーコンビはというと、
「『やだぁ、めっちゃカッコイイ! 好き! 愛してる! 抱きしめてぇっ!』……とか思ってそうな顔してんな。カッコイイか? あれ」
「いやー、ダサくはないけど、オシャレかと言うと……。フツーじゃない?」
「だよな?」
「まぁ、好みがあるっていうのと、めいめいの場合は好き好きフィルターが掛かってるからね。好きな人が着てれば何だってカッコイイ説あるし」
「そういうもんかねぇ……」
納得できなそうながらも、別に京子が文句を言うことでもないので、黙って二人の様子を眺めていると、
「あ、お店に入るみたいだね」
「映画まで一時間以上時間あるからな。まぁ当然だろ」
「……どうする?」
「……どうしような?」
流石に同じお店に入っていくなんて無粋な真似をする気は無いが、かと言ってこの時間帯、やっているお店は限られている。二人の様子を確認できるお店がこの周囲には無い。となると、
「……待機?」
「……だな」
二人としては美しき友情のために選んだ選択だったのだが、どうも近隣の人の理解は得られなかったらしい。まぁ、5分・10分ならいざ知らず、30分も物陰でジーっとしていれば不審にも思うだろう。恐らく正義感溢れる近隣のどなたかが市民の義務を果たし警察に通報したらしく、近くの交番から警察官が二,三人飛んできて、騒ぎにされては困るので二人は必死に事情を説明して……、という誰にも語られることが無い一幕があったことは、ここだけの話である。
そんな尊い犠牲のもとに成り立っていると言っても過言ではないかもしれないがやっぱり過言かもしれないが、二人は特に目立った問題も無く楽しい時間を過ごせていた。
映画までの時間、二人でまったりとカフェで時間を過ごした。傍目から見て二人の会話が盛り上がっているように見えたか、と聞かれると比較的静かに話していたためそこは意見が分かれるところだろうが、少なくとも芽依はとても楽しいひと時を過ごせた。過ごせるとは思っていなかった時間をサプライズで貰ったから、余計にそう感じたのかもしれない。
映画も上映してから時間が大分経っているというだけで、内容的にはとても良いものだった。誘った側の立場として、つまらなかったらどうしよう? と少し不安だったのだが、それは杞憂で済んだ。何だったら、彼と初めて一緒に観た映画、という付加価値も加わって、一番好きな映画となったかもしれない。
比較的順調に過ごせているかのように思えたが、映画館への外へと向かう芽依の足取りはどことなく重たかった。
芽依が彼とした約束は『一緒に映画を観に行こう』というところまで。映画を観終わった後まで一緒に居る必要はその約束上は無い。だから映画館を出てしまうのが嫌だった芽依はトイレに行ったり、映画のグッズコーナーを見たりと、地味に時間を稼いだのだが、それでもそんなに長く稼げるハズもなかった。
芽依の足取りが重くなった関係もあって、自然と彼の方が芽依の前を歩くような形になる。そして、その彼の足が、一歩一歩確実に出口へと近付いていく。その度に、芽依の顔は少しずつ曇り、鼓動が嫌に早くなっていった。あの入り口を超えたら、この時間が終わる。それが何となく芽依にも分かっていた。
『じゃあね』と切り出されるのが怖かった。だからと言って、『もう少し一緒に居て』と甘える勇気も無かった。
今がお昼時の時間であることを考えれば、そんな甘えた言葉を発する必要も無い。『お昼でも一緒にどう?』と言えばいいだけ。それだけでもう少し、彼と居る時間を増やせるかもしれない。けどその一言が、何かが引っかかってでもいるかのように、喉から出すことができなかった。断られたら、その一言が頭の隅について回った。
大体、約束は午前中だったから、午後には予定を入れている可能性も、
『それは聞いてみないと分かんないでしょ』
芽依の思考を遮るように、そんな声が聞こえた気がした。
(そう……だね……)
芽依は何かを思い出すように、自分の胸をギュッと握りしめた。
誘っても行けないかもしれない。けど、誘えば行けるかもしれない。そして、誘わなければ絶対に行けない。だったら、
「あ、あの……っ!」
彼の足が映画館を出る一歩手前くらいで、芽依が彼の背に声を掛けた。その声に反応するように、彼はゆっくりと振り返る。目と目が合い、一瞬怯みそうになった心を必死に立て直して、一生懸命声を発しようと口を開いた。
瞬間、
くぅ……っ、と。芽依のお腹が可愛く鳴った。
「「………………」」
両者、しばしの沈黙。そして、
「ぷっ、くくくっ、あははっ、あはははは!」
こんな大声で笑っているのは見たことがない、というくらい、彼はお腹を抱えて笑い始めた。二人での会話ではもちろん、芽依が見ていた範囲では学校生活においてもこんな楽しそうに笑っている姿は見たことがない。
そこに関しては若干の嬉しさを覚えないではないが、人前で、それも好きな人に自分のお腹が鳴る音を聞かれるのは年頃の乙女としては中々耐え難い恥ずかしさである。彼とは違う理由だが、芽依も同じくお腹を押さえ、羞恥で赤くなって熱を持ち始めた自分の頬を片方の手で冷ますように必死に扇いでいる。
が、あんまりにも彼が笑い続けるので、芽依は若干唇を突き出し、むくれ始めた。もちろん、この件に関しては彼は微塵たりとて悪くないのだが、そんな笑わなくていいのに、と芽依はほぼ八つ当たり気味に頬を膨らませて不安を露わにしていると、
「お昼でも食べてくか?」
その一言を聞いて、芽依は頬を膨らませた状態のまま、だけどしっかりと頷いた。
さっきのお腹の音は、神様がくれたプレゼント、とでも思うことにした。
「……幸せそうな顔しちゃってまぁ」
危うく、友人のデートを見守っていて前科持ちになるところだった物陰ストーカーコンビの片割れである京子がそう呟く。
「……じゃあ、アタシらは帰るか」
「そうね。あの調子なら大丈夫そうでしょ」
実は芽依以上に芽依が緊張でフリーズしたらどうしよう、と。気が気でないコンビだったのだが、何だかんだ芽依も自分から頑張って話し掛けているし、彼の方もそれに応えてくれている。で、あれば、もう二人が気にすることは何も無いだろう。
「お腹減ったぁ……。京子、何か食べてかない?」
「いいけど、とりあえずこのエリアを抜けてからだ。バッタリ遭遇なんてなったら笑えもしねぇ」
「この辺、美味しいラーメン屋さんあるけど?」
「………………そこにはまた今度行こう」
「迷ったな?」
ラーメンより芽依を優先した京子を見て、彩花は楽しそうに笑った。
ちなみにだが、ラーメン屋には行かなくて正解だっただろう。
「へぇ、こんなところにラーメン屋が」
お昼を食べるお店を探している時、彼は件のラーメン屋さんの前で興味深そうにその足を止めた。
「入る?」
芽依が聞くと、彼はチラっと芽依を見て、
「いや、混んでるし、あっちの方がいいんじゃない?」
彼が指差したのはパスタのお店。確かにあっちのお店であれば並ばずにすぐ入れそうではある。だが、芽依は何となく察した。恐らく芽依の服装を気にしてくれたのだろう。
「……ありがとう」
「何がだよ」
急にお礼を言われた彼はおかしそうに笑った。そして芽依自身も自分の口からすんなりお礼の言葉が出てきたことにビックリした。
(……あの時は、言えなかったのにな)
6
好きになったきっかけは? と聞かれた時、芽依はハッキリとそのきっかけを答えることはできない。気付いたら好きになっていた、そうとしか言えない。
けど、初めて話した日のことは、今でもハッキリと覚えている。
学校のテストがあった日、芽依は筆箱を忘れたことがある。前日家で勉強して、そのまま机の上に置きっぱなしにしてしまっていた。
誰かに『貸して』と話し掛ければいいのだろうが、人見知りの芽依にそれは難しかった。仲の良い京子と彩花はこの時別のクラスだったし、出席番号順で座っている関係で、芽依の席の近くに女子も居なかった。
隣の席とかに女子が居てくれれば、頑張って話し掛けることもできたかもしれないが、席を立ち上がって話し掛けに行くことは難しかった。立ち上がらずに話し掛けられる範囲には男子しか居ない。女子にだって人見知りして中々話し掛けられない芽依が、男子にいきなり話し掛けられるハズもなかった。
どうしよう……、と。テストの時間は一刻と近付いてくるのに、誰にも話し掛けることができず、自分の席でただただ泣きそうになっていると、
「ほい」
隣の席の男子に声を掛けられた。
「え……っ?」
驚いてそちらを見ると、彼はシャーペンと消しゴムを芽依の方に差し出してくれていた。
「無いんだろ? さっきからモジモジしてるけど」
そんなにモジモジしている自覚は芽依には無かったのだが、どうやら隣の席に伝わる程度には挙動不審だったらしい。恥ずかしいやら、何やらで、芽依が何も言えずにいると、
「おーい」
『早く受け取れ』と言わんばかりに、彼が差し出している手を芽依の顔の前でグルグル回す。芽依は慌ててそれを受け取った。この時、『ありがとう』も言えずに受け取ってしまったのが、実は今でも心残りだが、彼は何も言わず、満足したように視線を前へと戻した。
受け取ってみて、芽依は気付いた。シャーペンの方は恐らく余分に持っていた分を貸してくれたのだろうが、消しゴムを余分に持っていることは中々無い。それを表すかのように、芽依に渡してくれた消しゴムには半分に切ってくれた形跡があった。
「こ、これ……」
芽依が彼の方を見て言うが、聞こえなかったのか、聞こえないフリをしたのか、彼は振り返ってくれなかった。
芽依は宝物か何かのように、その半分の消しゴムを大切そうに握りしめた。
シャーペンはテスト後にすぐに返したが、消しゴムに関してはあげるよ、と言われてしまった。まぁ、半分に切った消しゴムを返されても困るのだろう。
しかし、流石にそのまま、というのも気が引けた芽依はその日すぐに消しゴムを買いに行った。消しゴム一個をお店の人にラッピングしてもらうのも変な気がしたので、家に帰って包装紙を使って自分でラッピングした。
そして次の日、芽依は普段よりかなり早い時間帯に起き、学校へと向かった。直接渡す勇気も無かった芽依は朝、誰も居ないうちにコッソリ来て、彼の机の中にでもしまっておくつもりだったのだが、
「え……?」
予定の狂った芽依は思わず教室に入るなりそんな言葉を漏らした。始業30分前に来たにも関わらず、彼が既にもう自席に座っていたからだ。
彼も芽依に気付くと、驚いたように顔を上げる。
「ん? おお。早いな」
動揺のあまり声も発せられない芽依はとりあえず会釈だけして返事を済ますと、自分の席へと座る。と言っても、芽依の席は彼の隣なので、緊張の原因とも言える相手に自分から近付いていかなくてはいけないというのが、何ともアイロニーな話であった。
席に座った芽依の頭にある言葉は『どうしよう』だけである。この言葉だけがずーっと頭の中をグルグルと回っている。中身は消しゴム。それも昨日のお礼として渡すだけ。だがそれでも、男子に何かをあげる、という行為が芽依にとっては初めての経験で、変な話、机の中にコッソリしまうだけでも結構勇気が要る。
明日に伸ばす、という発想は無い。伸ばせば伸ばすだけ渡しにくくなることは目に見えている。では放課後コッソリ入れるか? いや、これも誰かに見られたらと思うととてもではないができない。渡すのであれば絶対に今このタイミング。芽依と彼以外が居ないこのタイミングしかない。
芽依がどうやって渡そう、何て言って渡そう、というのをひたすら考えていると、間を嫌ったのか、彼の方から芽依に話し掛けてきてくれる。
「テストの出来はどうだった?」
昨日の貸し借りの話を蒸し返そうと思ったわけではないだろう。二人の共通の話題がそれぐらいしかなかったのに加え、何よりテスト後だ。自然とそういう話題になる。そしてその話題はとても芽依からすればありがたかった。
芽依の本題に入りやすい話題だったから。
誰かの目があれば、とてもではないができなかっただろうが、教室に二人しか居ないというこの状況が芽依を少しだけ大胆にさせてくれた。
芽依はすぐ出せるように少しだけ開けていたバッグに手を入れ、袋を取り出すと、
「こ、これ……っ!!」
彼に向かって差し出した。
急な大声と急な展開に彼はついていけてないようだったが、それでもとりあえずといった具合にその袋を受け取ってくれた。そして、中身を見て納得がいったらしい。
「気なんか遣わなくても良かったのに……。でも、ありがとう」
本来、お礼を言わなければいけないハズの立場の芽依が彼に先にお礼を言われてしまった。気恥ずかし気に目を逸らしながら、それでも彼の反応が気になって、芽依が頑張って視線を彼の方へと向けると、彼は何故かニヤニヤしていた。
「……『ありがとう』だって」
「あ、え、わぁっ!?」
そうだった。コッソリ机の中にしまっておくつもりだったから、お礼のメッセージを書いた紙を入れっぱなしにしていたのだった。
「『どういたしまして』って手紙に書いて渡せばいいか?」
「うぅ……、いじわる……」
芽依が拗ねたように言うと、彼は楽しそうに笑った。
初めて見た彼の笑顔に、こんな風に笑うんだ、と芽依は思ったのを覚えている。
それから少しの間、二人は他愛のない話を続けた。
芽依もたどたどしいながらも、一生懸命言葉を紡いだ。
やがて、時間が経ち、教室に生徒が増えてくると自然と会話も無くなった。
その日から芽依は始業30分前に登校するようになった。
元々、そんなに朝に強い方ではない。何だったら始業開始ギリギリまで眠っていたいタイプの人間だが、不思議とちっとも苦じゃなかった。
朝、ほんの10分間くらいだけど、二人きりで話す時間が芽依は好きだった。
その10分を積み重ねていったどこかのタイミングで、芽依は彼のことが好きなのだと気付いた。
7
ホームは同じでも、乗る電車は別。電車が来るまでの時間が、二人で過ごすことのできる最後の時間だった。話したのは何でもない会話だったが、その一分一秒が芽依にとってはとても大切な時間だった。
やがて、間もなく電車が到着するというアナウンスが構内に流れる。それを聞いて彼はベンチから立ち上がると、電車が止まる位置へと移動する。芽依もその後ろをついていく。電車に乗るギリギリまで一緒に居たいという思いがあった。
アナウンス通り、そう時間を置かずに電車がやってくる。芽依はその電車には乗らないため、乗る人の邪魔にならないよう、背後を確認したが、特に乗る人は居ないようだったので、その位置のまま彼を見送ることにした。
「じゃあ、また。学校で」
「う、うん……」
その後に伝えたい言葉があったのだが、芽依はそれを口から出そうとはしなかった。本当は電車を待っている間に伝えるつもりだったのだが、結局言えなかった。そしてもう、彼は電車に乗ってしまった。もうすぐ扉も閉まるだろう。伝えるタイミングを逸してしまったと、芽依はもう諦めようとしていた。
その時、誰かにそっと、優しく背中を押された。
芽依は後ろを振り返ったが、そこには誰も居なかった。けど背中に残る確かな暖かさ。それにはどことなく覚えがあった。そしてまるで、芽依が言うのを待ってくれているかのように、電車の扉は未だ閉まらなかった。
それらに勇気を貰った芽依は、急いで彼に声を掛ける。
「あ、あのっ!」
「うん?」
彼がさり気なく手を扉のところに置く。芽依が話し終わるまで閉まらないようにしてくれたのだろう。そんな彼の優しさに応えるように、芽依は勇気を振り絞って、
「ま、また、一緒に遊んで、ほしい……」
それは人から見れば本当に些細な一歩。
だけど間違いなく、芽依が勇気を持って踏み出した、大切な一歩。
彼は少し驚いたように、だけどハッキリとこう言った。
「もちろん」
彼女が踏み出したその些細な一歩は、やがて想いを伝える大切な一歩になる。
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