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しおりを挟む今匠が担当している現場は、アパートのリフォームだ。そろそろ外装が終わり、内装の工事が始まるため、工期と資材の確認のため、今日は朝からこちらでの仕事になっていた。
最寄りの駅から歩き、現場へと向かっていると、上の方から、おーい、と声がして匠は周りを見回した。
「こっち、こっち!」
どうやら今向かっている現場からのようで、匠が建物に近づくと、足場の上から手を振る人の姿が見えて、匠は驚いて口を開いた。
「ちょっ、危ないので集中してください!」
「平気、平気。今そっち降りるね」
そう言ってこちらに向かって来るのは、この現場に入っている大工の一人、伊賀だ。匠よりもふたつ年上だが、大工になって九年目で、仕事も丁寧で早い。大工という仕事柄、体は締まっているし、金に近い茶に染めた髪は海外のモデルのような華やかな顔によく似合っている。性格も明るくて優しいので、きっと女の子なら放っておかないだろう。
「いらっしゃい、子猫ちゃん」
「……辻本です。いい加減覚えてください」
匠もこの人が自分のことを『子猫ちゃん』だなんて呼ばなければ、頼りになる兄のような気持ちで付き合えるのだが、こんなふうに呼ばれるとやっぱり嫌だし、バカにされているようで腹も立つ。
「子猫ちゃんは子猫ちゃんでしょ。ちっちゃくて細くて、茶トラみたいな髪と目で」
匠の傍まで来た伊賀が、言いながら匠の頭を撫でる。匠はその手から逃れるように距離を取った。
「あら、ご機嫌ななめ。まあ、そんなツンなところも可愛いけどね」
そう言ってにっこりと微笑む伊賀に、匠はため息を吐いてから、伊賀さん、と改めて彼を見やった。
「棟梁はどちらに居ますか? 何点か相談があるんですが」
「えー、オレに会いに来たんじゃないの?」
「ですから、仕事に来てるんですってば」
匠が不機嫌に伊賀を見上げると、その顔はとても嬉しそうで、匠は訳が分からなくなる。匠が本気で言っていることをちゃんと理解して貰えていないのだろう。
「……もういいです。自分で探します」
匠はそう言うとトートバッグの中からヘルメットを取り出し、被ってから中へと入った。そんな匠の手を引き、伊賀が止める。
「待った! 中まだ廃棄の資材とか転がってて危ないから、オレが呼んでくる。子猫ちゃんは外で待ってな」
そう言うと、伊賀はそのまま中へと入っていった。匠が足元を見ると、確かに資材や工具があちこちにあって、慣れない自分が行き来するのは大変そうだった。
「基本は優しいんだよな……」
ひとのことさえバカにしなければいい人なのに、とため息を吐きながら外へ出ると、後ろから、ご苦労様、と聞こえ、匠が振り返った。
「棟梁、お疲れ様です。いい感じに進んでますね」
「当たり前だろうが。誰に言ってやがる」
工務店の社長でもある棟梁は、五十代半ばで口は悪いが腕はいい大工だ。匠も何度となくこの人に怒鳴られているが、間違ったことは言わないので、匠も随分学ばせて貰っている。
「ですよね。それで、そんな棟梁にお願いが……」
「断る」
「まだ言ってないんですけど……」
「どうせ、何かの変更だろう? お前はあちこちでいい顔しすぎなんだよ」
「そんなことないです! でも、工期をちょっとだけ短くして欲しくて……あと、内装の変更も……」
匠が苦く笑って言うと、棟梁の鋭い視線が向けられた。匠はそれに怯えながらも、持っていた変更書類をそっと差し出した。
「無理。話にならねえ。こっちだって、現場が途切れないように予定組んで動いてるんだ。客のワガママに付き合う気はねえよ」
書類を受け取ることもなく、棟梁が中へ戻ろうとする。それを止めようとしたところに、伊賀が顔を出した。
「親方、そんな怖い顔してたら、お孫さんに泣かれちゃうよ。子猫ちゃんだって誰かから押し付けられてここに来てるんだから、当たってもしょうがないよ。工期短くなっても残業オッケーになってるんだから、残業してやろうよー」
伊賀はそう言うと、匠から書類を受け取り目を通した。それから、どう? と棟梁に手渡す。
「……段取りは伊賀が組み直せ」
「はーい。やるやる。オレ、そういうの得意だし」
伊賀がそう言ってにこにこ笑うと、棟梁は何も言わずに仕事へと戻っていった。それを見ていた匠がほっと息を吐く。
「ありがとうございます、伊賀さん」
「まあ、子猫ちゃんの為ならね。オレ、子猫ちゃんのこと好きだし」
伊賀がそう言って微笑む。匠がそれに驚いて答えられずにいると、伊賀が再び口を開いた。
「子猫ちゃん可愛いから。オレ、可愛い子はみんな好き」
伊賀のその言葉を聞いて、匠は、そういうことか、とほっとした。なんとなくこれまで自分は男から性の対象として見られがちだったせいか、伊賀のその言葉も重く受け止めてしまっていた。よく考えたら、自分たちはマイノリティなのだ。誰もが自分をそういう対象としているわけではない。
「もう、そんなに子ども扱いしないでください。でも、今回はありがとうございました。よろしくお願いします」
匠が伊賀に笑みを返し頭を下げる。伊賀はそれに、任せて、と笑い返した。
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