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しおりを挟むその日、澤下壱月は王子様に恋をした。
高校三年の春、始業式の日だというのに、その日の壱月は朝からついてなかった。スマホのアラームのセットを忘れて寝坊したせいでコンタクトを入れる暇もなく、飛び乗ったバスは環状逆周り。なんとか学校まで着いたはいいけれど、遅刻寸前。しかも家にあった度の合わない眼鏡では視界はぼやけていて、走っていた廊下で同級生の背中に追突して転倒――かっこ悪いにも程がある。
「いってぇ……」
勢いよく走っていたせいで多分今、自分は確実に一回転はした、と思いながら壁にぶつけた頭を抱える。子どもみたいに激しく転んだ壱月の姿に、周りからは嘲笑が聞こえていた。何あれ、すごい音したけど、と笑われているのが分かり、壱月は恥ずかしさで起き上がることが出来なかった。
壱月は普段こんなふうに誰かから注目を浴びるような生徒ではない。誰かに見られているというだけでも緊張するのに、それがこんな失態のせいだなんて、余計に動くことができなかった。
このまま死にたい、と思っていると、頭上から、ねえ、と声が聞こえた。
「だいじょぶ? お前。怪我ない?」
優しい声に誘われ、倒れこんだ廊下から見上げると窓からの光のせいか、とても眩しくて、壱月は思わず目を細めた。
けれど眩しいのは太陽なんかではなくて、王子様だった。長身で、間近で見る顔はぼやける視界でも整っていると分かる。彼の周りからは、目を眇めたくなるほどの光が溢れているように見えた。
キラキラのその光に惹かれるように、壱月は廊下についていた手を差し出した。力強い手に引き起こされ壱月は立ち上がる。そこで初めて、彼は王子様ではなくて、今背中に思い切りぶつかってしまった同級生だと気づいた。
「しっかし派手にこけたな。眼鏡、あっち飛んでった」
彼は笑って遠くを指差す。確かに遠くに自分のダサい黒ぶち眼鏡が転がっている。
「ごめん……君は、怪我してない?」
「俺は別に。それより自分の心配しろよ」
「あ、うん……ホント、平気だから……」
ありがとう、と壱月が眼鏡を拾うと彼は、そう? と歩き出した。そして立ち止まって振り返り、笑顔を向ける。
「お前、眼鏡ない方が可愛いと思うよ」
――落ちた、と思った。
心臓がばくばくと激しく音を立てて、視線は彼の背中から離れようとしない。壱月は、この時初めて一目惚れというものに遭遇したのだった。
その恋が、地獄の入り口だとは、この時の壱月は知りもしなかった。
「ただいま……って、今日もか……」
壱月が恋に落ちたあの日から四年の月日が経っていた。
大学、自宅、バイトの往復にも大分慣れた、大学三年の秋のある日、壱月はいつものように自宅アパートの鍵を開けた。
開いたドアの向こうのタタキに、脱ぎ散らかされたブーツと、揃えられたパンプスが見える。壱月はそれにため息を吐きながらブーツを揃え、自分も靴を脱いだ。
今、壱月はあの日恋をした王子――宮村楽とルームシェアをしている。
あえてもう一度言うが、これはルームシェアであり、同棲ではない。つまり、壱月の恋は、一方通行、それも限りなく報われないもののままだ。
玄関からは短い廊下が続いている。その突き当たりにあるリビングに向かいながら、廊下にあるひとつのドアを三回ノックした。反応がないのは分かっている。
その部屋は楽の自室で、今は彼女と甘い時間を過ごしているのだろう。楽が、恋人なのか遊びなのかわからないが、こうして女の子を連れ込むのは日常だった。
こうやって「ただいま」の合図をするのも、数え切れない。その度に鈍い痛みが壱月を襲うのも数える気にもならなかった。
自分でもバカだと思う。こんなに長い間彼を想い続けるなんて、どこか頭のネジが飛んでいるのかもしれない。
壱月は持ち帰った弁当をレンジで温めながらスマホを操作し、音楽を再生する。ヘッドフォンから流れ出す音楽が、静寂の向こうから聞こえる楽しそうな声から壱月を庇ってくれるように耳元で鳴り響きだした。どんなに回数を重ねたって、楽が誰かと特別な時間を過ごしているという音だけは聞きたくなくて、壱月はいつもこうしていた。
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