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しおりを挟む由梨乃と別れ、少し早い時間にバイト先のコンビニに着くと、ちょうど休みの人がいて、と言われ、すぐに働くことが出来た。働いている間は楽のことも忘れられる。忙しければなおさらだ。この日は有難いことに忙しいまま、上りの時間を迎えられた。
お疲れ様です、と売り場から更衣室まで戻り、ロッカーの中に入れていたスマホを覗くと、着信のランプが付いていた。画面に表示されているのは、メッセージの受信だった。相手は及川だ。
今は会う気分じゃないな、と思いながらメッセージを開くと、その内容は不思議なものだった。
『今日、バイト上りに自宅アパートに寄って』
そんな文面に壱月は首を傾げる。何か渡すものでもあるのなら、他の場所でもいい。今壱月がホテル暮らしをしていると及川だって知っているはずだ。
壱月はよく分からないまま、どうして? と返信した。それから着替えて店を出たが返信はない。今はあまり楽を思い出したくないから近づきたくなかったのだが、行くしかないのだろう。
壱月は仕方なくアパートを目指して歩いていった。
いつもの慣れた道は、余計に色々な事を思い出させた。
雨の日にバイト先まで楽が迎えに来てくれたこと、夜中にお腹が空いて二人で肉まん求めてこの道を子どもみたいに競争しながら走ったこと、今日の晩御飯のメニューを相談しながら帰ったこと――そのどれもが幸せで、未だに鮮やかな思い出だ。
今の壱月にとってどれも胸をえぐる様に痛いけれど、忘れたくなくて、でも切なくて涙が出そうになる。
そうしているうちに足取りは重くても、アパートの前まで着いてしまっていた。仕方なくエントランスに向かった、その時だった。
奥の階段から人の声が聞こえ、壱月は顔を上げた。
「なんで、こんなとこまで送らなきゃなんねえんだよ」
「いいだろー、久しぶりなんだから」
階段を降りてきたのは、妙に楽しそうな及川と、不機嫌でだるそうな楽の二人だった。
「で、考えてよ、同居の話。壱月、出てくんだろ?」
まだ壱月の存在に気付いていないらしい及川が後ろを振り返り、そう言う。
「……壱月が出てくなら、な」
楽が小さくそう答え、視線をこちらに向けた。その瞬間、楽の目が驚きで見開く。
その表情を見た及川もこちらに気付いて、壱月、と微笑んだ。
壱月は立ち尽くしたまま、何も答えられなかった。驚きで唇すら動かない。
「壱月、もしかして聞いてた? 今の話」
及川がこちらに近づき、そう聞く。壱月はそんな及川に応えることが出来ず、震えだす手をぎゅっと握りしめた。
あの部屋で及川と楽が会っていた。しかも自分が出ていく設定で同居の話をしていた。
それだけで、壱月の頭も心もキャパシティーオーバーだ。
「ごめ……聞く、つもり、は、なく……て……僕……」
震える唇をなんとか動かして小さく答える。及川はそんな壱月を見て、余裕のある笑みを見せた。それからとても近くで唇を開く。
「聞いてほしくて呼んだんだよ。もう、壱月は楽の特別じゃない」
ひやりと冷たい何かが背中を降りていった気がした。及川の笑顔が怖いと感じた。
及川の考えていることがひとつも分からなかった。ただ、特別じゃない、という言葉だけが胸に重く落ちてきて、痛かった。
及川とのやり取りを呆然と見ていた楽が、壱月、と呼び、こちらに近づく。
「楽……ごめ、んね……」
そう言いながら壱月が後退る。すぐに出ていくから、新しい同居人決まってよかったね、及川なら大丈夫だよ――言えることはたくさんあるのに、そのどれもが言葉にならなかった。
楽と居たい。傍に居たい。また笑いあいたい。まだ特別で居たい。そう願う自分が邪魔をしている。
壱月の頬を雫が転がり落ちて、それを見た楽が今まで見たどんな表情よりも苦しそうな顔をする。困らせている、と感じた壱月は涙で濡れた頬を乱暴に擦りながら後退りを続けた。
「壱月」
「ごめんね」
近づく楽から逃げるように壱月はエントランスを出て走り出した。
後ろから、壱月、と楽が叫ぶ声が聞こえる。振り返るとこちらを見つめ自分を呼ぶ楽と、それを引き止める及川が見えた。
もう一度、壱月、と叫ぶ楽の声が聞こえたが、壱月は両手で耳を塞いでアパートから走り去った。
「これで、いい……」
もう自分の気持ちに蓋をしておけない。
楽が好き。好き。大好き。
そんな気持ちを抱えながら、決して受け入れてもらえない楽の傍にいるなんてできない。
壱月は必死で涙を堪えながらただ走り続けた。
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