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しおりを挟むアパートの少し手前で楽が立ち止まるまで、二人の間に会話はなかった。砂利の擦れる音がして、壱月は伏せがちだった顔を上げて楽の背中を見つめた。
「楽? どうかした?」
「……多分、壱月に用あるんじゃない?」
楽が体を斜めに開いた。その先に見えるアパートのエントランス前の低い階段に腰掛けているのは、亮平だった。
久しぶりに見るその顔は、どこか疲れているように見える。もしかしてまだ上手くいかない事があるのかと不安になって、壱月が口を開く。
「亮平……」
「別れたんじゃなかったの?」
驚く壱月に、楽がぶっきらぼうに聞いた。壱月が頷く。
「別れたよ。ふられたんだ」
どうして、と口の中で呟きながら亮平に近づくと、その顔が上がり壱月の姿を捉える。
亮平はバネのように立ち上がると、すぐに壱月の傍へと駆け寄った。心配そうな表情で亮平が壱月を見つめる。
「壱月、昨日どこに居た?」
「え? 昨日?」
一日ホテルに閉じこもっていた……それを思い出した後、そういえば亮平にはこのアパートを出たことなど伝えていなかったと思い出す。もう別れたのだから、その必要もないと思っていたのだ。こんなふうにまた会いに来るなんて、予想していなかった。
「夕方からずっと待ってて……帰らなかったから、心配してた」
「何か用なら電話くれればいいのに。別に電話くらい、避けたりしないよ」
別れた元カレとは一切連絡を取らないという友人もいるが、壱月はそのつもりはなかった。何かあったなら、話くらいは聞くし、友人として関係を続けたいならそれでもいいと思っていた。特に亮平には、辛い時に傍に居てくれた恩もある。
「スマホから、壱月の番号消したんだ。未練、残らないように」
壱月は、そうなんだ、とだけ答えた。そこまでしなくてはいけないほどの存在でもないだろうに、と心の中では思っていた。周りに言われたからといって切るような関係だったのだから未練など残らないだろう。
「壱月、おれ、就職決まったよ。卒論も完成した」
「そうなんだ。良かった……おめでとう」
壱月が言うと、その視界の端で黒のコートが通り過ぎていった。アパートの壁にもたれ、煙草に火をつけるのは、楽だった。じっとこちらのやりとりを見ているが口を出すつもりはないらしい。
そんな楽を見ていると、壱月、と亮平に呼ばれ、壱月が亮平に向き直る。
「おれ、ホントに頑張ったと思うんだ。世の中でこういう状態のことを順風満帆っていうんだと思う……でも、足りないんだ」
「足りないって……きっと、今まで忙しかったのが終わって力が抜けただけだよ」
「それもあるのかもしれない。でも、全部上手くいった時に一緒に笑ってくれる人がいないんだ」
亮平が壱月をまっすぐ見つめる。何を言いたいのか分かって、目を逸らしたかったけれど、その目に捕らえられたように視線を動かすことが出来なかった。
「やり直そう、壱月」
壱月が予想していた通りの言葉が亮平から発せられる。落ち着いてほっとした時に、ふと壱月のことを思いだしたのだろう。最後まで好きだと言ってくれていたから、亮平が言うように未練はあったのかもしれない。それか、執着なのか。
「おれには壱月が必要なんだ。離れるなんて、やっぱり無理なんだよ」
「何……言ってんの……」
亮平の告白に壱月はその顔を見つめた。苦しそうな切なそうな表情から嘘は見えない。
けれど壱月は、できない、と首を振った。
「壱月。勝手なのはわかってるよ」
「違う、そうじゃなくて」
この人のところへ戻るなど出来ない。誰より優しくしてくれた人だから、これ以上傍にはいられない。迷惑は掛けられない。なにより、自分の気持ちに嘘を吐きながら亮平と過ごすなど、もう出来そうにない。
これから楽にフラれて一人になるのだとしても、これ以上亮平には頼れない。
また不運なことが起きたら、壱月には何もしてあげられないのだ。この誘いに頷くわけにはいかない。
「僕と居たらダメだ。亮平はもっと違う人を探すべきだよ。せっかく取った内定だって取り消されるかもしれない。卒論だってまたデータ消えるかもしれない。やめときなよ、僕なんか」
精一杯の笑顔で壱月が言うと亮平は、そんなの、と首を振る。
「なんとかする。今回だってなんとかなった。なあ、壱月……」
亮平が壱月に手を伸ばす。抱きしめられると思って壱月は拒絶するように腕を伸ばした次の瞬間、その腕は真横から伸びた手に取られ、傾いだ体は黒いコートにすっぽりと収まってしまった。
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