怖がりSubにやさしい命令(コマンド)を

藤吉めぐみ

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 一日働いても体のどこも不調を訴えないのは央樹にとって奇跡みたいなものだった。そんな日は、退社してそのまま家に帰るのが惜しくなる。
 央樹は自宅最寄り駅から三つ前の駅で電車を降りると、慣れた道を歩き出した。この駅の先にある飲食店街の一角に、友人が経営するバーがある。いわゆるゲイバーなのだが、央樹は昔から友人枠で出入りしていて、居心地のいい店だった。
あおい、久しぶりー」
 店のドアを開け、カウンターの中に居た友人の葵に声を掛けると、葵は嬉しそうな顔で、いらっしゃい、とカウンターの席を勧めた。
「ひさびさだね、央樹。生きてた?」
「半分死んでた」
 央樹は勧められた椅子に落ち着いてから答える。葵はそれに笑ってから、央樹がいつも注文するビールをカウンターに置いた。バーテンダーに向かってビールを注文するなんて非常識、という人もいるが、これは央樹なりの気遣いだ。自分に構う時間が減る分、他の客の酒を作ることが出来ると思えば、変える気はなかった。葵もそれを理解しているのだろう。央樹の前には栓抜きとグラスも置くだけだ。央樹は自分で瓶の蓋を開け、ビールをグラスに注ぐ。
「そういう割に、今日は顔色いいね」
「だろ? 昨日のプレイが良くて」
「え? 新しいパートナー出来た?」
 央樹の言葉を聞いた葵が嬉しそうに聞き返す。央樹はそれに、まあ一応、と答える。
「良かった。ちょっと心配してたんだよね。前のパートナーといい別れ方してないし……」
 葵の言う通り、前のパートナーとはいい別れ方をしていない。思い出すのも嫌だが、それを表に出すと葵が心配してしまうので、央樹は、そうだな、と何でもないように言った。
「あの時はホント、本気で警察に相談しようと思ったからね。ちゃんと治ってよかったね」
 葵がそっと央樹の腕に触れ、心底安心したように言う。確かに央樹の左腕は一年前は折れていたのだ。パートナーとのプレイが過激になり、嫌だと訴えたし、何度もセーフワードを口にしたのだが、聞いて貰えず、最後はサブドロップした上に、暴行された。強く戒められたまま激しい行為をされたせいで腕の骨が折れ、肋骨にもヒビが入った。当然下半身は大怪我になっていたし、顔面も殴られていたので腫れあがってしまい、央樹は会社に『事故に遭った』と言って二週間仕事を休んだのだ。
 心も体もボロボロになったあれから一年、ようやく央樹は穏やかな日常を取り戻していた。
「ずっとパートナーなんて要らないって言ってたから……一晩限りの相手の方が怖いってずっと言ってるのに全然聞いてくれないし」
「一晩限りの方が、みんなずっと優しいんだよ。ノーマルの葵は分かんないかもしれないけど、Domは本性見せるまでは、みんな優しいし、こっちの要望を聞いてくれる人が多いんだ」
 どこまでなら大丈夫か、どうされるのがいいか、体に触れるのは平気か、どこまで受け入れてくれるか――大抵はそんなことを確認して、浅く優しいプレイになる。お互い満足なプレイではないが、リスクも低く、体調の維持としてするのなら、十分なのだ。
「まあ、央樹がそう言うなら……でも、今の人は良さそうで嬉しい」
「嬉しい?」
 央樹が聞き返すと葵が微笑む。
「だってやっぱり友達には元気でいて欲しいし、幸せになって欲しい。パートナーが出来たんなら、次は恋人だね」
 葵が嬉しそうにくすくすと笑う。その通りではあるのだが、今はまだ恋愛に関しては怯えたままだ。きっと一年前のあの事件は、パートナーだけでなく、恋人だったから、余計な感情も入ったのだろう。未だにあのプレイに至るまでの相手の感情は央樹には分からないままなのだが、何かの引き金があったのだろうということは想像できる。
「まあ、そのうちな」
 不意に央樹の中に暁翔が浮かぶ。暁翔と恋人に、なんて考えてはいないはずなのに、一番に彼の存在を浮かべるなんて、よほど自分は昨日のプレイで満たされたらしい。現金だな、と小さく笑っていると、後ろから店のドアが開く音が聞こえた。葵がそれに反応して顔を上げる。けれど、その表情はいつも客を迎える笑顔ではなかった。
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