孤高のCEOと子作りすることになりました!

吉桜美貴

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1巻

1-1

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「うっわー。オシャレすぎぃ……」

 地上から高層ビルを見上げ、桐ケ崎茜音きりがさきあかね感嘆かんたんの声を上げた。
 てっぺんにある〝Souffyスフィー〟のカラフルなロゴが、春の日差しを受けてきらめく。Souffyは多方面にビジネスを展開する、巨大企業グループだ。元々はECサイトを中心とするインターネットサービス会社だったが、今や日本でこの名を知らない人はいないだろう。
 世田谷せたがや豪徳寺ごうとくじにほど近い一等地。ずどんと一棟まるまる自社オフィス。ため息が出るほど洒落しゃれたビルの中、全面ガラス張りのエントランスをさっそうと歩く若手社員の姿が見えた。
 緊張が高まり、茜音は首に巻いたワインレッドのスカーフを直す。プライベートな用件だからこそ、女性らしいタイトスカートに上品なニットを選び、ロングヘアをふんわり巻いて、抜け感が出るよう意識した。
 フラットパンプスのかかとを鳴らし、エントランスをくぐり抜ける。まっすぐレセプションに向かい、名刺を渡して来訪を告げると、奥にあるVIP専用らしきエレベーターに案内された。
 書類にはつぶさに目をとおしたし、準備は万全だ。なにが大変って書類をそろえるのが大変だった。履歴書や職務経歴書のみならず、住民票や健康診断書、さらに大学の卒業証明書や資格認定証などの添付書類を含めると膨大な数だ。先方とそれだけの量を交換し、偽りがないか一項目ずつチェックし、すべて裏を取った。
 あのことは大丈夫かな? もしバレたら、問題になりそうだけど……
 しかし、計画を実行するにあたり、重要ではないはずだ。露見ろけんすれば先方は眉をひそめるだろうけど、聞かれなければ答える必要はない。誰にだって人に言えない秘密の一つや二つ、あるだろうし。うしろめたさがまったくないと言えば、嘘になるけど。
 エレベーターは最上階に到着し、秘書と名乗る男性に案内され、通路の奥にある応接室に足を踏み入れる。
 その瞬間、鼻孔びこうかすめる、かすかなフレグランス。先に入った男性がつけたものらしい。エネルギッシュな大都会をほうふつさせる、男らしくて清潔感のある香りだ。
 いい香りだな、と称賛するとともに、密かに胸がじりっとうずく心地がした。
 そこで茜音は、初めて先方と対面することになる。
 菱橋龍之介ひしはしりゅうのすけの第一印象は、すごく頭のキレそうな美貌の紳士、というものだった。
 茜音より五歳年上の三十四歳。薄いフレームのメガネが無機質な印象だけど、かなり整った顔立ちをしている。男性にしては肌のキメが細かく、痩せているせいか頬骨からあごのラインがシャープだ。長めの黒髪をうしろへきっちり撫でつけ、ひたいに二、三本落ちた毛束の筋が、絶妙な色気をかもし出していた。

「はじめまして、桐ケ崎さん。本日はようこそお越しくださいました」

 龍之介の声は低く、聞き惚れてしまう。

「お会いできて光栄です、菱橋社長。こちらこそ、お時間を頂きましてありがとうございます」

 茜音はさっと営業スマイルを顔に貼りつけた。
 すすめられたソファに座り、まずは雑談から入る。大分暖かくなりましたねとか、仕事はお忙しいですかとか、豪徳寺界隈かいわいはいいところですねとか、そういう話。
 それから、本格的な質疑応答タイムになった。事前に目をとおした書類について、気になった点をお互い確認していく。
 それにしても、あまりに見事すぎる経歴だよね、これは……。まさに、エリート中のエリートってやつか。
 改めて履歴書を眺め、茜音はしみじみと感心する。親友の安藤朝美あんどうあさみの紹介とはいえ、これほどの好条件は他になく、土下座してお願いしたいレベルだった。
 履歴書にはこうある。法徳ほうとく大学の商学部を卒業後、MS銀行に就職。法徳大学といえば、トップクラスの名門私立大学で、MS銀行は日本最大の総資産を誇るメガバンクだ。
 退行後にSouffyジャパンを起業し、爆発的にユーザー数を伸ばして急成長。さらに戦略的なM&Aを次々に展開し、今や誰もが知る大企業となった。日本のIT長者の中でも、龍之介は長期的に業績を伸ばした経営者として、トップ3には入るだろう。
 非の打ちどころがない、学歴と経歴。若くして日本屈指のIT企業のCEO。すらりとした長身で、目を奪われるような美貌の持ち主。
 すべてを兼ね備えたパーフェクトな男性が、いったいどうして……?

「いったいどうして、こんな奇妙な契約に乗ったのか……疑問に思ってらっしゃいますか?」

 龍之介は刺すような一瞥いちべつをくれ、先制してきた。
 キツネっぽい吊り目……という表現は妥当なのか、目元は冷たくて凛々りりしい印象だ。一重まぶたの目は細く、目尻は切れ込みが長い。時折見せる眼光の鋭さに、ひやっとさせられた。

「そうですね。菱橋さんほどのかたが……不自由しているとは思えないので、どうしてなのかなって理由が気になりますね」

 龍之介は答えず、「実は私も理由がずっと気になっているんです」と同じ質問を返してきた。
 ……ん? あれ? なんか今、はぐらかされた……?
 少し不審に思う。理由を聞いたとたん、あからさまに答えを避けた。
 龍之介は気をそらせるように言う。

「桐ケ崎さんはまだお若いですし、とても美しいかたなので、わざわざ契約する必要があるのかなと。ボニーズスタイルの経営も順調じゃないですか」

 とても美しいかた。
 不覚にも、ドキッとした。お世辞で質問をうやむやにされたと、わかっているのに……
 ボニーズスタイルとは、せんえつながら茜音が代表を務める下着通販会社だ。社員は五十名ほどと規模は小さく、おもに女性向けのランジェリーをネットで販売している。フォトスタシア、略してフォトスタという写真投稿SNSを駆使した宣伝と、一般女性をモデルとして起用した戦略が当たり、売り上げはそこそこ順調だ。

「会社のことはさておき、他は全然ダメですよ。社長と聞くだけで大概の男性は引きますし、ランジェリーという女性向けの商売ゆえ、出会いも皆無かいむですから」

 そう言うと、龍之介は薄く笑った。

「そうですか? 私は引きませんけどね。むしろ会社経営ができるぐらい、パワーのある女性は魅力的ですが」

 そりゃ引かないでしょうね、と苦笑するしかない。龍之介からすれば、中小企業の経営者なんて歯牙しがにも掛けない存在だろうし。

「菱橋さんのような男性ばかりならいいんですけどね。出会いも時間もなくて……。三十を前に、急がなくちゃって焦っていたんです。安藤朝美とは幼なじみだったんで、よく相談に乗ってもらっていました」
「なるほどね。それで私に打診がきたというわけか。安藤夫妻と私は大学の同期で、私の人生観を熟知しているし、後継者問題をこぼしたら、あなたの話をしてくれて」
「私も菱橋さんの噂だけはうかがっておりました。ですが、そんな紹介に頼る必要、本当にあったんですか?」
「女性にはまったく不自由していません。それなりの地位と資産がありますので、向こうから寄ってくる状況です。自分で言うのもなんですが」

 龍之介はきっぱり断言した。
 うはー、自信満々に言い放つなぁ……。他の男性なら失笑ものだけど、この人なら説得力がありすぎるんですが……
 あきれるをとおり越し、感心してしまう。自惚うぬぼれも傲慢ごうまんさもすべて、彼の堅固な魅力を引き立てていた。

「会社が大きくなるにつれ、後継者について考えるようになりました。経営は実力のある役員に譲るつもりですが、私個人が所有する資産は血を分けた人間に譲りたい。つまり、子供が欲しい。二十代の頃は考えもしませんでしたが」
「そのお気持ち、よくわかります。心血しんけつそそいで築いたものだからこそ、肉親に譲りたいというか……」

 龍之介は「そのとおりです」とうなずき、さらに言った。

「実は私、そもそも結婚するつもりがないんです。とてもじゃないが、赤の他人と生活をともにしたり、扶養ふようする義務を負ったり、財産分与したりなんて不可能ですから。端的に言って、嫌なので」

 しかめられた美貌には、ありありと嫌悪感があらわれている。過度の人間不信か、極度の人間嫌いか……この完全無欠な紳士の持つ、潔癖な一面が見て取れた。

「なら、婚前契約はどうですか? あらかじめ財産分与や子供の養育費について、取り決めをしておくっていう」

 そんなのとっくに検討済みですよとばかりに、龍之介はふっと鼻で笑う。

「もちろん知っていますが、一つとても重要なポイントがあります」

 龍之介は背もたれに寄りかかり、サッと長い足を組んだ。大きな革靴はシンプルなレースアップ・シューズで、イギリスの老舗しにせブランドのものだ。滑らかな質感の黒革が、鈍い光沢こうたくを放っている。
 ワイシャツの上に上品なシングルベストを着て、ソリッドなグレーのネクタイがよく似合っていた。肩幅は広く、ワイシャツの上からでも引き締まった体つきなのがわかる。
 龍之介は、すっと人差し指を立てた。

「私がパートナーに求めるものはただ一つ。ピュアさです。しかも、完璧な」
「ピュアさ……?」
「少しでも下心のある女性はNGです。この下心というのがなかなか難しい。出会った瞬間は純粋でも、私の素性すじょうを知るにつれ、どうしても下心が湧いてしまう。ああ、この人と結婚すれば贅沢ぜいたくし放題で地位も名声も思いのままだと。そうなると、汚く見えてしまってどうしても無理なんです……ハイエナのようで」
「は、はあ……」

 すごいことを言っている気がする。要するにお金持ちすぎてモテすぎて、ステータス狙いの女性ばっかりなんだぜっていう自慢……?
 リアクションに困ってしまう。たぶん、これが彼の本心なんだろう。そもそもこんな契約をする時点で、少々変人であろうことは覚悟の上だし。
 純粋さかぁ……
 内心ヒヤヒヤする。あのことを秘密にする自分は、きっと純粋さからは遠い。だますつもりはないし、だましたくもないけど、あのことはたやすく口にできなかった。
 勘の鋭い龍之介が、隠し事に気づきそうで……怖い。

「仕事も充実して地位もあり、資産が潤沢じゅんたくにある女性なら、少なくともステータス狙いではない。心理的なゆとりも期待できるでしょう?」
「それはそうですが……。けど、私だって菱橋さんのステータスに惹かれましたよ? 素性すじょうを知らない男性より、菱橋さんのような優秀な男性がいいって思いましたし」
「当たり前の話です。我々は恋愛をしているわけじゃない、優秀なDNAを探しているんですから。私も桐ケ崎さんのことは徹底的にチェックさせて頂きました」
「結果、合格ってことですか?」
「ええ。桐ケ崎さんとなら良好なパートナーシップを築き、目的を果たせると思いました。私のほうもお眼鏡にかなった、ということでよろしいんですか?」
「はい。元々私は一人で成し遂げるつもりだったので、思わぬ協力者を得られて幸運でした。菱橋さんに助けて頂けるなら、子供に充分な教育環境を与えてやれますし……。この点、私も財産狙いみたいなものですけど」
「別に構いません。あなたのためじゃない、子供のためですから。お互いの考えが一致して、よかった」

 その場に、ホッとした空気が流れる。
 警戒心は少し解け、この人とならうまくいくかもしれない、という気持ちが生まれた。
 それから、いくつか法律的なことを話し合った。もう一度、お互いの意志を確認し、当初の予定どおり進めようと合意に至る。
 龍之介はクリニックのパンフレットを取り出して言った。

「こちらが知り合いのクリニックで、我々のような事実婚カップルにも対応してくれます。この世界ではかなり名の知れた、優秀な医師ですよ。話はとおしてありますので、遠慮なくアポを取ってください。懇切こんせつ丁寧にカウンセリングもしてくれますから」
「はい。提供のほう、よろしくお願いします」

 二人は立ち上がり、にこやかに握手を交わす。
 龍之介の大きな手を握りながら、茜音は不意に直感した。
 ……この人、なにか隠し事をしてる?
 なんの根拠も理由もない、本当にただの直感だ。たまにこういうことがある。相手が心の奥底に秘めている、微細びさいな恐怖や不安のようなものを感じ取ってしまうのだ。
 たしかに「後継者が欲しい」だけでは、理由として弱い気がした。後継者が欲しい人が皆、こういう契約を結んでいるわけじゃない。潔癖症もしかり。
 彼をこの奇妙な契約へと向かわせた、なにか大きな動機があるはず。
 隠し事はお互いさま、ってわけか……
 去り際にお辞儀しながら思う。
 ならば、彼のことをとやかく言える立場じゃない。深掘りしないほうがいい。
 きびすを返す瞬間、龍之介の美しくも冷ややかな瞳が視界をよぎった。


   ◇ ◇ ◇


 茜音はタクシーで帰ることにした。
 普段は地下鉄やバスを使う。茜音は庶民派なのだ。年収がどれだけ上がっても、ライフスタイルはそれほど変わらないし、むだ遣いもしたくない。雨の日や疲れたときに、バスを待たずに少し楽をしたいぐらいで。
 茜音のマンションはJR中野駅前なかのえきまえにある。分譲ではなく賃貸だ。通常なら豪徳寺から三十分とかからない。しかし、環七通かんななどおりはいつものように渋滞し、のろのろ運転だった。
 雨が降り出してきたらしい。灰色の雲が垂れ込み、ほこりっぽい街はけぶっていた。
 車窓の景色を目に映していると、さまざまな思いがやってきては去っていく。
 契約出産かぁ……。まさか私がそんなことをするはめになるとはなぁ……
 子供の頃は、いつか大人になって当たり前のようにママになるんだと信じていた。電車がレールの上を走るように、特に努力しなくても誰もがそうなるものだと。
 しかし、いざフタを開けてみたらどうだろう? 妊娠出産はおろか結婚も、恋人を作ることもままならず、出会いさえ皆無かいむとは。
 理由はいくらでも思いつく。けど、ランジェリー業界にいようが肩書きが社長だろうが、結婚して幸せな家庭を築いている人は山ほどいる。
 神様がたまたまミスして、茜音一人だけ伴侶はんりょと出会える確率をゼロパーセントに設定したみたいだ。これまでの人生、不思議なくらい出会いがなさすぎた。
 仕事ばっかりしすぎたかなぁ……。起業したての頃は忙しくて、合コンだの飲み会だの、かたっぱしから断ってたしなぁ……
 どうやら『仕事さえ真面目にしてりゃ、自然と幸せになれる』というのは、ただの迷信らしい。人生そんなに甘くなかった。やはり幸せは自分で探し、掴みにいかないとダメなんだ。
 そう気づいたときにはもう、三十歳は目前だった。
 婚活アプリに登録し、婚活イベントに参加もした。けど、「社長」と名乗っただけで引かれたり目の色が変わったり、よい結果にはならなかった。富裕層向けにシフトしたら年齢層が急に上がり、結果はさんざん。
 誰でもいいわけじゃない、年の離れたおじさんは遠慮したいし、ガツガツした男性は生理的に無理。なら、契約と割り切った相手のほうがマシとさえ思えた。
 そうこうするうちに気づく。自分は結婚がしたいわけじゃない。子供が欲しいだけだと。
 ボニーズスタイルに心血しんけつそそぎ、築き上げたものを未来のために使いたい。二十代前半はやみくもに仕事だけしてきたけど、三十歳を前にふとむなしさにとらわれた。
 ひたすら業績を上げ続け、どれだけ稼いだって、それがなんなんだろう? 心の奥に巣食う、むなしい空洞はますます広がるばかり。ただ働くだけの生きかたを見つめ直し、真に大切なものを見極めなければ。自分自身のためだけに生きるには限界がある。
 そんな折、安藤朝美に龍之介を紹介された。婚姻関係は結ばず、精子の提供だけ受けて茜音が出産し、養育費は二人で負担する、少しめずらしい取り決めがなされた。
 だんだん、そういう時代になっていくのかなぁ? きっと、私だけが特別じゃないよね。皆、恋愛しなくなっていって、その傾向はどんどん加速するのかも……
 かつて恋愛問題といえば、性格が合わない、浮気をされた、といったものが主流だった。けど、現代では恋ができない、恋する気持ちがわからない、恋なんて重要じゃない……という価値観が世をおおっているのが問題だと思う。
 結果、多くの人が閉塞感へいそくかんを抱えて独身のまま、いたずらに年齢だけを重ねていく。
 今回交わした契約の形は、今後増えていくかもしれない。下手したら、そういう形が主流になる日が訪れるかも。ある意味、茜音と龍之介は時代の先駆者せんくしゃかもしれないのだ。
 と、自分に言い聞かせたところで、不安や迷いや罪悪感は消えない。
 本当にこれでいいの? 人として間違ったことをしていない? なにかとんでもないあやまちを犯していたらどうしよう……
 子供の視点に立ったときはどうだろう? 相思相愛じゃないカップルの間に生まれる子供は、不幸だろうか?
 気分は沈み、人知れずため息が出る。季節は三月の上旬。まだ春は遠く、肌寒い日が続いている。ちょうど黄昏たそがれどきで、対向車線はヘッドランプで埋め尽くされていた。
 愛があればすべて許されるのか。逆に、愛がなければすべて許されないのか……?
 はっきりした答えは、どこにもなさそうだ。
 子供を愛せる自信はあった。茜音自身、愛情いっぱいに育てられてきたし、家族の愛しかたを知っている。龍之介の財力に頼らずとも、充分な養育環境を与えてやれる。子供が望めば惜しみなく教育投資もできる。
 龍之介に子への愛情は期待していない。約束を守り、〝提供者〟となり、認知してもらえれば充分。充実した環境の下、茜音が愛情いっぱいに育てれば、それでいいと思っているけど……
 もちろん、愛し合う両親がいるに越したことはない。けど、そんな贅沢ぜいたくはできないのだ。愛と結婚とお金と健康、すべてのカードをそろえてから産んでくださいと言われても、できないことはできない。
 はあああ……。愛があってもお金がなかったり、お金があっても愛がなかったり、そういうことかなぁ? お父さんが言ってたことは、正しかったのかも。
 父は白血病はっけつびょうで亡くなった。先日、三回忌を終えたばかりだ。生来しょうらい病弱だった父は生前、指を折りながらよくこう言った。
 ――人生ってやつはな、お金と健康と子供、この三つは同時に手に入らないんだ。そんな風にできているんだよ。
 なかなか当たっていると思う。現に茜音はうなるほど資産があり、体もかなり丈夫なのに、恋愛運だけはさっぱりだ。金運と健康運にすべて使いきったらしい。
 ……贅沢ぜいたくなのかなぁ、私。与えられたものだけで満足して生きていくべき?
 弱気になる瞬間はある。しかし、子供はどうしても欲しい! これは、社長になるずっと前から望んできた。
 そもそも、お金持ちになろうとして起業したわけじゃない。ちょっとしたアイデアを形にしようとしたら、あれよあれよという間に人気が出て、報酬はあとからついてきただけだ。
 世の中、DVや虐待やネグレクトなど、悲惨なニュースはあとを絶たない。多くが精神面か金銭面のトラブルのように見える。ならば、片親だけど愛情と資産を充分に与えてやれる自分にも、子供は育てられるかもしれない。それほどひどいことにはならないはずだ。
 あれこれ悩みながらも、必要なアクションは起こしてきた。トントン拍子びょうしに話は進み、引き返せないポイントまできている。
 あとは龍之介の提供を受け、クリニックで処置してもらうだけ。
 流れゆくビルの灯りを目で追いながら、龍之介の端整な面差おもざしを思い浮かべた。
 隠し事のある、ミステリアスなCEOかぁ……。敵に回したくはないタイプかな。いろいろと裏がありそうな人だけど……
 どこかのパーティーで彼と出会っていたら、と妄想する。
 きっと、儀礼的な挨拶を交わすだけだ。どれぐらい利益はあるかな? とお互い値踏みしながら。上っ面だけの場で心を通わせるのは難しい。茜音が見えいたお世辞を言い、龍之介が冷ややかに返す光景が目に浮かぶ。
 そうして、空虚な疲労を抱えて家路につくのだ。いつものように。
 龍之介は特にガードが堅そうだし、名の知れた経営者はスキャンダルを警戒しなければならない。気に入ったから二人で会おうよ、なんて軽い世界ではなかった。
 あの人の子供を産むのかぁ……。私が……
 胸中は複雑だった。そんなこと、初めからわかっていたはず。あえてこの道を選んだのだから、今さら迷ってもしょうがない。
 もう、やるしかない。さいは投げられたのだ。臆病風おくびょうかぜに吹かれてご破算にすれば、あらゆる努力が水の泡になる。
 思わず武者震むしゃぶるいし、ぐっと拳を握った。


   ◇ ◇ ◇


 それから茜音は、龍之介の指示どおりクリニックに足を運び、カウンセリングを受けた。
 そこで、大きな問題が発生する。
 処置の詳細について説明され、これから我が身になにが起きるか知り、急に怖くなったのだ。
 ある程度の痛みやリスクは想定していた。しかし、あのことを抱えているからこそ怖い。だって妊娠とは、人体という複雑に組み上げられたプログラムに、想定外のデータを投げ込むようなものだ。充分に検証されていれば問題ないけど、茜音のケースはなにが起きるかわからない。茜音が傷つくだけならまだしも、子供になにかあれば取り返しがつかない。
 元々茜音は、極度の怖がりなのだ。
 茜音は自分の不安を医師にも話せなかったし、聞かれもしなかった。クリニックの人たちは事実婚とはいえ、龍之介と茜音をカップルだと思っているから、当然といえば当然だろう。
 誰にも言えないままクリニックから足が遠のき、ダラダラと二か月が過ぎる。
 そんなある夜、茜音はリビングのソファに座り、通話を終えたスマートフォンをじっと見つめていた。
 画面に映っているのは、世界最高のセキュリティを誇る、〝カーヌン〟。
 二者間のチャット、音声通話、ビデオ通話機能などを提供している、知る人ぞ知るアプリだ。やり取りは高度に暗号化され、その履歴も完全に消去されて復元不可能という、絶対に知られたくないやり取りに最適である。イスラエルのソフトウェア会社が開発したものだそうで、各国首脳や情報機関の職員がこのアプリを使っているらしい。
 龍之介の指示でインストールし、彼とのやり取りはこのアプリだけでおこなっている。龍之介クラスになると、気軽に電話やSNSはできないらしい。
 スキャンダルを警戒する、セキュリティ意識の高さかぁ……。けど、ちょっと過剰な感じするよねぇ……
 たしかに著名人は基本、セキュリティ意識が高いのは間違いない。著名人の知り合いは多くいるけど、龍之介のそれは顕著けんちょだった。
 契約出産という、スキャンダルになりかねないネタを扱っているとはいえ、超高価な国家レベルのセキュリティアプリを入れろなんて、大げさと言わざるを得ない。
 これってさ、秘密組織のエージェントみたいじゃない? これはもう、菱橋さんの正体は某国のスパイ説、急浮上してきたぞ……
 そう思ってしまうのは、スパイアクション映画の観すぎかもしれない。
 というのは冗談として、なにかにすごくおびえてる? スキャンダルがそんなに怖いのかな?
 どうも彼の人となりにそぐわない。仮に騒がれたとしても、真実ならありのままを告白すればいいだけだ。その辺の肝っ玉は据わっているタイプに思えたけど……
 恐れてるのは、スキャンダルではない? ……なにか別のもの?
 正直、わからない。彼と直接話したのはSouffyのオフィスで面談した一回だけで、お互いのことをあまりよく知らないから。
 先ほど、スケジュールの遅延に気づいた龍之介からビデオ通話があり、こんなやり取りをした。

『は? 方法を変えて欲しい? どういうことですか?』

 案の定、龍之介は画面の向こうで不満の声を上げていた。

「えーと、あの……カーヌンのメールでご説明したとおりなのですが……」

 茜音がマイクに向けて言うと、龍之介は被せ気味に切り返す。

『要求と謝罪は把握はあくしました。ですが、方法を変えろという理由はなんでしょう? なぜ、方法を変えたいんですか?』
「すみません、ちょっと、どう言えばいいんだろ。いろいろプライバシーに関わる部分で……」

 我ながら、しどろもどろだった。普段はもっとテキパキしているのに。
 龍之介を前にするとへびににらまれたカエルみたいになってしまう。

『まさか、ここまできてやっぱりやめますと、遠回しにそうおっしゃってるんですか?』
「いやいやいや、とんでもないです! 計画自体をやめようという意味じゃないです」
『どうやら、嘘を吐いているわけではなさそうですね。なぜ、理由を口にできないんですか? 誰かをかばっているとか?』


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