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1巻
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しおりを挟む序章
「女優志望?」
「なにか問題でも?」
成瀬美紅は精一杯の愛想笑いをした。
さすがに秘書面接で女優志望はまずかった?
「いや、問題ない。むしろ好都合だ」
重厚なプレジデントデスクについた紳士は、美紅の履歴書を見ながら質問を続ける。
「二十二歳、現在無職か。秘書の業務経験は?」
「三年です。スケジュール管理や文書作成といった基本的なことはマスターしています」
「十歳のとき母親がアメリカ人と再婚。それで渡米してきたと」
いかにも高級そうなダークスーツに身を包んだ紳士は、黒い革張りの椅子にもたれ、長い指で履歴書をめくった。紳士のブロンズ色の髪は櫛で丁寧に梳かされ艶めいており、鼻梁はギリシャ彫刻のように高い。エキゾチックな美形だが、日本人に見えなくもない。その声は低く、事務的で、感情らしきものは読み取れない。
彼の質問は淡々と続く。
「女優を目指したきっかけは?」
「はい。初めてブロードウェイミュージカルを観たとき、すっごいドキドキワクワクしたんです。本当に夢のようで、素晴らしくて」
美紅は当時の感動を思い出し、目を輝かせた。思わず声が大きくなってしまう。
「私にはもうこれしかないって思ったんです。どんな方法を使ってでも、この舞台に立ってみせるって!」
「それでニューヨークに?」
なんの感動も示さないまま、紳士は言った。長い睫毛に囲まれたグレーの瞳は、無機質で冷たい。
それでも美紅は怯まず元気よく質問に答える。
「はい! パートタイムで働きながらアクターズスクールの講座を受けています」
「特技は、ショーギシアツ……?」
「将棋と指圧です。日本で習いました」
「ふむ。家族は?」
「実父は私が七歳のときに、母は三年前に亡くなりました。二歳年上の姉がいますが、日本の祖母のところで暮らしています」
「再婚したお父さんは?」
「アメリカに移住してすぐ離婚したので、今はどこでなにをしてるか。継父とは、もともとそんなに仲良くなかったですし」
「……なるほどね」
紳士は涼しげな目をすっとこちらに向けた。
そのクールな視線に美紅はドキリとする。
うわっ……。すごっ。雑誌で見るより断然イケメン。しかも超セクシー!
眼前の美麗な紳士は、日系ドイツ人のディーター・アウグスト・キタヤマ、二十八歳。ソフトウェア会社のCEO――最高経営責任者でIT業界の革命児と呼ばれている。父親は世界的自動車メーカー・キタヤマグループの創業者だ。ディーターは十代で起業したこの会社を、切れ過ぎる頭脳と強引な買収で世界規模に拡大させた。利益のためには手段を選ばない、冷酷非道な野心家として知られている。ゴシップ誌によると女優やセレブと浮き名を流すも、特定の恋人は作らない独身プレイボーイらしい。
「国籍は? パスポートは持ってるね?」
言いながらディーターは氷のような視線を履歴書に戻した。
美紅は改めてディーターを観察した。抜群に洗練された、他を圧するオーラ。精神と肉体が成熟した男だけがまとう静謐な色気。これは只者じゃないぞ、と美紅は評する。
いっぽう、本日の美紅は完全に面接仕様だ。栗色のロングヘアをひっつめ、丸めてお団子にしている。髪の量が多いせいか大きな玉ねぎが脳天に載っているみたいに見える。親友のステファニーから借りたブカブカのねずみ色スーツを着込み、近眼のため大きな眼鏡を掛けている。肌は白く、ぱっちり二重の瞳は琥珀色だ。日本人にしては色素が薄いほうだろう。そばかすの散った鼻の下にある、厚めの唇が色っぽいと褒めてくれる人もいるが、美紅自身は気に入っていない。
ここはニューヨークのウォール街にあるIT会社『グレイルソフト』のオフィスビル最上階。秘書の求人に応募した美紅は最終面接を受けている真っ最中だ。プレジデントデスクの正面に置かれたスツールに美紅は腰掛けている。ディーターの背後は全面ガラス張りで、眼前にマンハッタンの迫力ある摩天楼が広がっている。
この部屋の内装は一流企業の役員室にふさわしくシックだ。デスクやソファは流線型、照明とコーヒーテーブルは惑星や宇宙船を模した形で、まさにニューヨーク最先端のデザインという感じ。壁には大きく引き伸ばされた深海の写真が飾られている。
もしかして海が好きなのかしら? と美紅は想像する。
「ミス成瀬? 国籍とパスポートは?」
「はっ! すみませんっ!」
美紅は我に返った。やばいやばい。面接中だった! ボーっとしている場合じゃない。
「国籍はアメリカです。パスポートの有効期限はあと五年ぐらいあります」
「独身か?」
「はい」
「恋人は?」
「……失礼?」
まさかビジネスの場でプライベートな質問をされると思わなかった美紅は聞き返す。
「恋人はいるのかと聞いているんだ」
「プライベートに関して答える必要はないと思いますが?」
「必要があるから聞いているんだ、ミス成瀬」
ディーターは答えを促すように大きな手を美紅のほうへ差し出した。上流階級の紳士らしく、手入れが行き届いておりつるりとしている。ディーターは苛立ったように声を大きくした。
「時間が惜しい。答えてくれないか」
「いません、が」
「好きな人は?」
「いません!」
「身長は?」
「一六〇センチです」
「スリーサイズは?」
「は?」
「ミス成瀬。何度も同じことを言わせないでくれ」
ディーターは指先でデスクをトントン叩く。しかも早く答えろと美紅を睨んでいる。
美紅は唖然とした。なんなの? セクハラ? 面接でスリーサイズを聞くとか有り得ないんですけど。
「質問に答えたまえ」
ディーターは眉一つ動かさず、冷淡に命令した。答えないなら、とっとと帰れと言わんばかりだ。
美紅はなかばヤケクソでスリーサイズを申告し、嫌味をつけ加えた。
「スリーサイズで合否を決めるなんて素晴らしい会社ですね」
「合否には関係ない。準備に必要な情報だから聞いたまでだ」
「準備ですって?」
「今、質問しているのは僕だ。まずは僕の質問にすべて答えてくれないか」
ディーターはあくまで冷徹だ。失礼な質問の連続に、美紅はだんだん不満が募ってくる。
「君はコンピューターソフトの研究開発の経験はあるか?」
「いいえ。ひとっつも」
「では、興味は?」
「ぜんっぜん興味もありません。これっぽっちも!」
美紅はつい声を荒らげてしまう。ディーターは少し呆気にとられながら美紅を見た。美紅は威嚇して睨み返す。
「最後に。ミス成瀬、君はすべての質問に正直に答えただろうか?」
「ええ、もちろんです。ミスターキタヤマ」
美紅は鼻息荒く返事をする。なんだか無性に腹が立ってきた。
「……いいだろう。君は合格だ」
「は?」
いったい今のやりとりのどこがお眼鏡にかなったの?
「仕事内容はアーロン・スミスから聞いてるね?」
アーロン・スミスとはディーターの秘書のことだ。一次面接の面接官はアーロンだった。ディーターと同年代の美形な男。彼が推してくれたおかげで、この最終面接まで辿り着いた。
「はい、少しだけ。なにか特殊な任務があると聞きました」
「実は秘書というのは名目上のものでね。実際の任務は別にあるんだ」
「名目上?」
「結論から言おう。君には期間限定で僕のフィアンセになってもらう」
「へ?」
「エーゲ海の島で二週間、僕の一族に会ってフィアンセ役を演じて欲しい」
なになになに? なんだって? 今、なんて言った? 展開についていけず、美紅はポカンと口を開けた。
そんな美紅には構わず、ディーターはビジネスライクに説明を続けていく。
「と言っても、別に特別なことをしてほしいわけじゃない。君は自由に休暇を楽しんでくれればいい。必要なものはこちらですべて用意する。それから、なんでも好きなものを買ってくれて構わない。もちろん、すべての費用は僕が持つ」
ディーターは顔色一つ変えずそう言った。
美紅は馬鹿みたいに口を開けたまま、ディーターの唇を見つめた。
「実は従妹のアレクシアと結婚させられそうになっている」
ディーターは芝居がかった様子で悲愴な表情を作ると、ピアニストのように長く繊細そうな指を組んだ。
「アレクシアの父親がヨーロッパの小国の王族でね。ちょっとした利権がらみだ。従妹とは子供の頃からのつき合いで妹みたいなものだし、彼女には愛する恋人がいる。それに僕は誰とも家庭を持つ気はない。だが、両家の両親はもちろんのこと一族全員が僕たちを結婚させようと画策している。そこで僕がフィアンセを紹介すれば彼らも諦めるだろうという計画だ。フィアンセを演じるだけで君の経歴に傷はつけない。安心してくれ」
「ちょっちょっちょっと、ちょっと待ったあああーーー!」
美紅は腕をまっすぐ伸ばし、手のひらを広げてSTOPと叫ぶ。
「なに勝手に話を進めてんですか? 私、このお仕事を引き受けるなんて、ひとっことも言ってないんですけど?」
「報酬は最初に提示した額の十倍払う」
ディーターは切れ長の目を細め、すっと人差し指を一本立てた。微かに口角を上げ、さらりと報酬を上げてくる。
「それに加えて、ミッションクリア後にさらに同額。ついでに、君が住まいを探していると聞いてマンションも買い上げた。契約終了時までに住めるよう準備を整えておく」
なんですって? 報酬二十倍な上、さらにマンションまで!
美紅の目は一瞬でドルマークになる。実は今、美紅は人生のどん底にいる。勤めていた会社を解雇され職もない。家賃滞納で家も失う寸前。恋人もいない。そんな明日をも知れぬ身だ。女優になる夢はあるけど、夢だけじゃ生きていけない。この面接に落ちたらホームレス支援センター行き。
正直、この報酬は破格だ。
ディーターは値踏みするようにこちらを見ている。指先から髪の毛一本一本まで、視線がじわじわ這ってゆく。まるで裸にされているよう、と美紅は思う。
「女優になりたいなら、レッスン料や衣装代など、いろいろ物入りだろうね。これはあくまで契約だ。たった二週間、形ばかりの婚約をするだけで僕は面倒な政略結婚を免れる。君は住まいと小切手を手に入れる。すべてが終われば元通り。悪い条件じゃないと思うが?」
確かに悪い話じゃなさそうだ。美紅は懸命に頭を働かせる。婚約者を演じるのは、演技の勉強にもなるわよね? 現金は喉から手が出るほど欲しい。でも……
「なぜ私なんですか? ふさわしい人が他にいっぱいいるんじゃ?」
「女性に不自由はしていないが、適任者は君しかいないんだよ。あくまでビジネスライクに契約を履行し、後腐れなく関係を終わらせることが肝要だ。勘違いして期待されても困るし、どこかのあばずれを雇って脅迫まがいのことをされても面倒なんでね」
なるほど。あなたと寝た女は、皆、あなたに結婚を迫るというわけね。で、あなたにはその気がないと。
「要は、愛人になれってことなんですか?」
「勘違いしないでくれ。僕が買うのはあくまで君の時間であって、体じゃない。セックスは一切なし。君のタスクは二週間着飾って僕の隣でニコニコしていることだ。後でアーロンと契約書類を確認してくれ。そう明記しておいた」
「報酬は必ず頂けるんですね?」
「無論だ。額が不足なら言ってくれ。君の働きによっては特別ボーナスも出そう。それから今日、契約書類と一緒に前金を支払う」
「……わかりました。この話、お受けします」
美紅は札束の前にひれ伏した。それはもうパーフェクトで完膚なきまでに深々と頭を垂れた。嗚呼、札束様。
――これも生活のためよ。かなり怪しい契約だけど、背に腹はかえられない。ご飯を食べて眠らなきゃ生きていけないんだから。よくよく考えたらこんな上流階級のイケメンが、私みたいな貧乏小娘をどうこうするわけないし。となれば、これはかなり美味しい。美味しすぎる!! 報酬を全部もらえば向こう十年はトレーニングに集中できる。それに、今とくに力を入れているダンスレッスンだって受け放題だ。夢みた~い♪
「結構。では、よろしく。ミス成瀬」
ディーターは立ち上がり、こちらへ歩いてきて手を差し出した。身長は一八〇センチ以上あるだろうか。がっしりした広い肩幅に頑強な体。かなり本格的に鍛えてそう。
美紅も握手に応えるべく、すっくと立ち上がる。そしてディーターを見上げ、営業スマイルで手を差し出した。
「こちらこそ、よろしくお願いします。ミスターキタヤマ」
ディーターの手を握った瞬間、指先から全身にピリッと刺激が走った。
あっ……なに、これ。
ディーターの手は冷たく滑らかだった。手を離すのが名残惜しいくらい。微かに美紅の体は疼いた。
ディーターも少し驚いたように自分の右手を見ている。
もっとあの手に触れて欲しい……
そう思いながら美紅が見ていると、ディーターはふいと横を向いた。美紅はハッと我に返る。
やばっ。なに考えてるの? やばすぎ。欲求不満すぎ。ここはオフィスだって!
「どうした?」
「いえ、なんでもありません」
美紅は慌てて汗ばんだ手のひらをジャケットの裾で拭った。――ちょっと私、なんか変かも。もっと触れて欲しいと思うなんて。
「出発は一か月後だ。これから向こう半年間は僕以外の男との関係は控えてくれ。申し訳ないがこれも契約の一つだ。僕も君以外の女性との関係は一切断つ。お互いクリーンな状態で計画を進めたい」
「了解しました。ミスターキタヤマ」
「フィアンセはファーストネームで呼び合うのが普通だ。僕のことはディーターと呼んでくれ」
ディーターは自らの顎に手を当て、ゾッとする目をした。
「契約違反には重大なペナルティを科す。もし僕に嘘を吐いたり、裏切ったりしたらどうなるか、わかるね?」
社会から追放され、地獄の果てまで追い回され、骨の髄までしゃぶられるんですね。まさに蛇に睨まれた蛙とはこのことだ。ディーターがちらりと視線を動かしただけで、空気が凍結する。
「わかっているつもりです」
言いながら美紅は、少しずつ不安になってきた。私がこんなにすごい人の婚約者役? 本当に?
「私で大丈夫かしら。フィアンセを演じるって、他にどんなことをすればいいんでしょう?」
「細かい内容はアーロンに確認してくれ。契約書類にもやるべきことがすべて書いてある。君はそれに従って行動するだけでいい。心配ない。僕とアーロンが全力でサポートする」
「ご期待に添えるよう努力します。ディーター」
「最後に一つ重要なルールを言っておく」
「なんでしょう?」
ディーターは少しまぶたを伏せ、怖いほど冷たくこう言った。
「絶対、僕を好きになるな」
第一章 まさか私が契約婚約!?
「絶対、僕を好きになるな」
美紅は半眼になりながら、ディーターの声を真似して言った。
「ですって! 信じられる? どんだけ上から目線なの!?」
自室のベッドに座った美紅はクッションを力任せに投げた。それは壁に貼られたミュージカルのポスターに当たって落ちる。
「信じられないところは、もっと他にあるでしょ」
ステファニーはフォークでトマト味のヌードルをつつきながら、笑ってツッコむ。
「秘書面接からの偽装婚約にリゾート、さらに好きなもの買い放題……ロマンス小説のテンプレを全部ぶっ込んだみたいな展開ね」
ステファニーは仕事帰りにファストフードを買ってきては、美紅の家で食べるのが常だ。ちぢれウェーブのかかったボリュームある赤毛を束ね、赤いフレームのメガネをかけている。男物のよれよれシャツに擦り切れたダメージジーンズという姿は、さながらストリートアーティストといった出で立ちだ。実際は不動産会社の事務をやっている。美紅とはハイスクール時代の同級生だ。卒業して一旦離ればなれになったが、マンハッタンでばったり再会した。以来、ステファニーの職場から近いという理由で週に三日はこの部屋に入り浸っている。
「こんだけテンプレが広く知られてたら一回ぐらい現実に起こってもおかしくないでしょ」
と美紅は言う。
今日の美紅は髪を下ろし、メイクもしていない。デカデカとロゴの入った白いパーカーを着て、下はスウェットのズボンを穿いている。そうしてひさしぶりにやってきたステファニーに先週の面接の顛末を報告していたのである。
「ま、そうよね。これは現実だもんね」
ステファニーは眼鏡のフレームをぐいっと押し上げ、感心したように言葉を続ける。
「それにしても、僕を好きになるな……ってすごい台詞ね。その一言が森羅万象を表現してるわ。一周回って笑えてくる。ただしイケメンに限る、みたいな」
「けっ。イケメンだからなによ。何様だっつーの」
「事実じゃん。かたや、モテモテイケメンスーパーエリート大富豪。かたや、職なし彼なしの冴えない貧乏女優。上下で言えば、あんたが下でしょうが」
そこまではっきり言われたら言い返せないんですけど、と美紅は恨みがましくステファニーを睨んだ。
「けどさ、あんたは秘書の採用に応募したんでしょ? 実は偽装婚約の片棒を担ぐ仕事でしたって詐欺みたいな話ね」
そう言うとステファニーはヌードルを一気に啜り上げ、スープと一緒に呑み込んだ。
「報酬が破格なのよ! 私も最初はその場を去ろうと思ったけどさ、金額が私の年収を余裕で超えてたわけ」
「ふーん。そんで動けなかったんだ。金に釣られて?」
「そうよ。だって金が必要なんだもん」
ここはダウンタウンにある美紅の狭いフラット。ダウンタウンと言えば聞こえはいいが、その実チャイナタウンの外れにある低所得者用の集合住宅だ。美紅の部屋は1Kでたった六畳しかなく、シングルベッドと小さなチェスト、さらにデスクを置いたらもう足の踏み場がない。部屋は「日本式」を採用し、入室の際は靴を脱ぐことにしている。ステファニーは靴を脱ぐたびに「めんどくさいな」とブツブツ文句を言う。それでも裸足で過ごすのはお気に入りらしく、ベッドとデスクの間に長い足を折って座り込んでいる。築三十年以上経つ建物は老朽化が進み、あちこちタイルは剥がれ、換気扇にはカビが生え、排水は最悪だ。しかも月末までに家賃を払わなければ出ていかざるをえない。
「嘘だね。金だけじゃないでしょ。気に入ったんでしょ? その男のこと。もしかして惚れちゃった?」
ステファニーは目をゼリービーンズみたいな形にしてニヤニヤした。
「バッ……馬鹿言わないでよっ! お金よお金。それ以外なにもない。雇い主相手に恋愛とか、絶対ないない」
「あーら。男女が恋に落ちるのに理由はいらないって。運命のお相手なんてひと目見りゃわかるんだから」
ステファニーは自信たっぷりに言う。そうして美紅の目をじっと覗き込むと、さらにこう言い聞かせた。
「けど、相手を選びなね。あんたが傷ついてる姿を見たくないし」
「やっぱ断ったほうがいいかな? この仕事」
「あたしゃオイシイ仕事だと思うけど? あんた、貯金が一ドルもないんでしょ? 後がないんでしょ?」
「ないわよ。だから引き受けたんだもの。こうなりゃ婚約者でもママでもスーパーヒーローでも演じてやるわ」
「その意気よ! しかも成功報酬でマンションつきでしょ? 乗らない手はない! この狭いフラットで晩御飯食べんの、いい加減うんざりなんだから」
「私だって、ステフが座るだけで足の踏み場もなくなるフラットはもう勘弁。ビシッとミッションクリアして、広いお部屋に住むんだから」
「いーい? 美紅。ここはマンハッタンなの。アメリカンドリームのメッカなのよ? こんなチャンス二度とないよ!」
「そう言うと思ったわ、ステフ。よーし、いっちょう気合い入れて頑張るか!」
「けどさ、その雇い主ってかなりいい男なんでしょ?」
言いながらステファニーはキャンバス地のバッグから雑誌を取り出してみせた。『Celeb☆Star』と奇抜なロゴが入ったニューヨーカー御用達のゴシップ誌だ。最速でスクープをものにすることで有名である。
「ほらほら見てよ。今週号。あんたの雇い主が載ってたから買ってきちゃった」
よく見ると、有名女優の腰に腕を回したディーターの姿が表紙を飾っていた。相変わらず感情の薄いクールな顔。エレガントなディナージャケットを着て、気取った様子でエスコートしている。
写真じゃ全然伝わってこないわね、あの超強烈なオーラが。周囲を圧倒する存在感が。実物のほうが、もっとずっとすごいんだから。
「美紅、あんたデレデレしてるよ」
ステファニーが肘で美紅の脇腹をつついた。
「ちょっと、やめてよ。そりゃあ確かに頭がよくて金も持ってるかもしんないけどさ。背も高くて顔も整っててイイ体してるけどさ。声も甘くて唇もセクシーで、目ヂカラがはんぱないって言うか」
「ほーほーほー」
ステファニーは、したり顔でニヤニヤする。ディーターのグラビアをうっとり眺めていた美紅は、はっと我に返った。
「とにかく性格が最悪なんだって! 傲慢で自信家で上から目線。私なんて完全に見下されてるもん」
「またまたぁ! そいつのこと意識してんのがバレバレですよ?」
「別に。単に契約したってだけよ。面接の日以来、会ってないし」
ディーターに会ったのはあの面接が最初で最後だ。あれ以来、すべて秘書のアーロン経由でやり取りしている。VIPには、そうそう簡単に会えないらしい。
「そうなんだ。エーゲ海に行くまでフィアンセ殿に一度も会わないの?」
「ううん。一回会う予定。明後日の夜に打ち合わせを兼ねてディナーに行くの」
「ディナー? どこどこ?」
「知らない。イースト・ビレッジにあるカジュアルなお店って言ってたけど……」
「しかし、あんたに務まんのかね? あんなゴージャスな男のフィアンセ役なんてさ」
「それは大丈夫。ディーターの第一秘書のアーロンって人が全部サポートしてくれるから」
「あ! さっき玄関で会った優男か! とびきりハイスペックじゃん。ブロンドの長髪で、いかにもプレイボーイって感じ」
「確かに格好いいけど誠実な人よ。ディーターとは正反対のタイプ。ディーターが陰ならアーロンは陽で、ディーターが剛ならアーロンは柔みたいな」
「へー。あんなセクシーな男と四六時中一緒にいられるなんて羨ましいわ」
「四六時中っつーか、朝九時に迎えに来られて、ブティック回って服買いまくって、遅くまであちこちのサロンに連れ回されるだけよ」
美紅は思い出してうんざりした。面接の翌日はエステサロンに強制連行。ヘッドスパにフェイシャルケアにボディケア。全身脱毛してマッサージ。おかげで肌は生まれたての赤ん坊みたいにつるつるだ。それから眼鏡もコンタクトに変えさせられ、ヘアサロンにネイルサロンにメイクスタジオと引っ張り回された。体中いじくられ、ほうほうのていで帰宅。これが毎日出国の日まで続く。
「これぞロマンスの王道。『マイ・フェア・レディ』ね。ただし、主演女優は売れない冴えない貧乏小娘だけど」
三度の飯よりロマンス小説を愛するステファニーは夢見るように言った。学生の頃からロマンス小説ばかり読み、ロマンス小説家を目指して暇さえあれば原稿を書いている。そんなステファニーを美紅は「ロマンス脳」と呼んでいた。
「貧乏小娘とは失礼な」
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