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1巻
1-2
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美紅はブツブツ言った。
「さっきのは冗談として、あんた綺麗になったよ。その髪型、似合ってる。あのひっつめオニオンヘアーより断然いいわ」
ステファニーは美紅の緩い巻き髪を褒めた。長年手入れもせずにボサボサだった髪が、今やしっとり艶やかになっている。
「これね、ミッドタウンにあるヘアサロンのトップスタイリストにやってもらったの」
「報酬は破格。タダでサロン行きまくり。毎日、金髪美青年にハイヤーで送迎されて、至れりつくせりじゃん」
「ほんとだね。後がないから気合い入れてやるわ。それに、楽しいこともあるし。今日なんて五番街のブティックに行ったの!」
「わお! 五番街! うちらには一生縁がない場所ね。並んでるお店は、一流どころばっかりじゃん!」
「そうなの! そしたらね、なんとブティックが貸し切りで私専用のビューティーアドバイザーまでいたのよ! すごいでしょ?」
「出た! 貸し切り。さすがIT業界の帝王は、やることが違うわ」
「もう袖を通すのも勿体ないドレスを山ほど買ったの! いつもの古着屋で買うワンピースと桁が違ったわよ! 全部ディーター持ちで。ステフにも見せたかったなぁ」
「いいなぁ。あたしも見たかったわ。夢があるぅ。あんた、ダンスやっててめっちゃスタイルいいから似合うと思うわ」
「面接んときにスリーサイズ聞かれてさ、そんときはハアアア? って思ったんだけど、このためだったのよね」
「ただのセクハラじゃなかったわけだ」
「そうなの。しかもビューティーアドバイザーってすごいの。髪とか瞳の色を見て、あっという間に似合うドレスをチョイスしてくれるんだもん」
「けどさーあんた、フィアンセを演じるってどこまでやるの? まさか夜のお勤めもあるの?」
「大丈夫大丈夫! そこはキッチリ確認したから」
美紅は言いながらバッグから封筒を取り出す。契約書を抜き出すとペラペラめくり、該当箇所を指差してみせた。
「ほら、ここ。セックスはしないって、ちゃんと書いてあんの」
「とかなんとか言っちゃってぇ! リゾートへフィアンセとして行くんでしょ?」
ステファニーは美紅の肩に腕を回して言う。
「これはビッグチャンスよ! 美紅!」
「チャンスって? な、なにが?」
ステファニーは美紅の耳元に口を寄せて、こうささやいた。
「ロ・ス・ト・バー・ジ・ン」
美紅は、ばったりとクッションの上に倒れ込んだ。
「いいじゃない、いいじゃない! プレイボーイの誉れ高い、イケメンエリート大富豪! 相手にとって不足なし! 一流テクニックも期待できそうよ。こうなりゃ強引にでも一戦交えなさいよ!」
「ないないない! セックスは契約違反だもの。違約金十万ドルも払えないし」
「馬鹿ねぇ。契約なんて双方の合意があれば、なんとでもなんのよ。男と女を前に契約なんて無意味」
ディーターを相手にロストバージン! 想像しただけで美紅は目が眩んだ。あのたくましい体に包まれたら、どんな感じがするんだろう? ディーターの舌や指が敏感なところに触れるかと思うと、美紅の体は火照った。
「ダメダメダメ。やばいやばい。無理無理」
「社長がダメなら、アーロンって男に頼んだら? 最初は、ああいう人に手ほどきしてもらうといいわよ。あちらさんも相当なもんでしょ」
確かにアーロンは物腰柔らかで優しい。女性の扱いにも慣れているし、こちらも気後れしない。ディーターを前にしたときのような緊張感はない。
けど、アーロンは男性として見れないな。
瞬時にそう思ってしまったことが不思議だった。アーロンもイケメンなのに、ときめかない。ディーターに対する、あの一気に体温が上昇する感じは一切ない。
「いやいやいや。ないから。絶対ないから。私みたいな女は、ああいうエリート達には相手にされないって」
「妄想するだけならタダじゃん。で、どうなの? あんた、どっちがいいの?」
「私は……やっぱ、するならディーターのほうがいいかな」
「ちょっと、なにあんた赤くなってんのー? やだー! 聞いてるこっちが恥ずかしー」
「やめてよ! 仮定の話でしょ? それにディーターからは好きになるなって釘を刺されてんだから」
「くだらない。そんなの無視無視。あんたもう二十二でしょ?」
「う。私だって別に好きでバージンなわけじゃないわよ」
「いい? チャンスは体で感じるのよ。理性や論理ではなく、本能を信じるの。時がきたら第六感が教えてくれるから」
ステファニーは、ぐっと顔を寄せてこう言った。
「そして、今だ! と思ったら、冷静かつ大胆に行動すること」
◆ ◆ ◆
この場所には明らかに場違いな黒塗りのリムジンが目に入った瞬間、美紅は思わず背筋を伸ばした。
ここは、マンハッタン橋にほど近い、美紅のフラットがある少々治安の悪い地域。立ち並ぶ老朽化したビルのシャッターは下り、人気はなく静まりかえっている。街路灯に照らされた美紅の影だけが、ひび割れたアスファルトに伸びていた。六月も終わりだというのに珍しく涼しい夜で、美紅は微かに身震いした。今夜はディーターと会食をする約束で、美紅は迎えを待っている。
滑るようにリムジンがやってきて目の前で停車した。ピカピカに磨かれた車体にドレスアップした美紅が映る。制服を着たドライバーが降りてきて、恭しくドアが開けられた。
車内にタキシード姿のディーターが見え、それがあまりにスタイリッシュで、美紅は一瞬ひるむ。
「手を……」
言いながら目線を上げたディーターは、美紅の姿を見てしばし沈黙した。
今夜の美紅はパーフェクトにドレスアップしていた。眼鏡を外し、髪をアップにし、腿までスリットの入った紺青のドレスをまとっている。鎖骨は完全に露出し、そこに手入れした巻き髪がふわりとかかっていた。ドレスがタイトで胸の谷間までくっきり出ているのが、美紅は気恥ずかしかった。ウェストをぎちぎちに締められているおかげで、きゅっとしたくびれができている。元々色白なほうだけど、ドレスの深い青がいつもより肌の白さを引き立てている気がした。
どう? だぶだぶの野暮ったいスーツを着た玉ねぎは大変身したでしょ? と美紅は自信満々である。
ディーターは言葉を失ったまま、熱っぽい眼差しでこちらを見つめている。
このとき、美紅はディーターの磁場に引きずり込まれるような、強い引力を感じた。その刹那、自分がなにをしにここへ来て、相手が何者かさえ忘れていた。
しばらく、美紅は不思議な磁力を感じながら、ディーターをぼんやり見つめていた。
先に立ち直ったのはディーターだった。即座にビジネスモードの仮面を被り、さっと手を出し美紅をエスコートする。
「お嬢さん、お手を」
言われるがままに手を取り、美紅はリムジンに乗り込む。そこには目を見張るほどセレブな空間が広がっていた。
うわぁ~すっごい! 美紅は思わず両手で口を押さえた。お洒落なバーみたい! こんなの映画の中だけだと思ってたけど、現実にあるのね……
車内はゆったりしたスペースで、ベージュを基調としている。革張りのロングシートは優美な曲線を描き、バーカウンターにはシャンパンやカクテルも用意されていた。
美紅が車内を見回しているうちにリムジンは音もなくアレン・ストリートを北へ走りはじめる。
「おひさしぶりです。ディーター」
「やあ、美紅」
ディーターはどこかぼんやり美紅の唇の辺りを見つめたまま答えた。
今夜の彼は気品あるディナージャケットを羽織り、シャープなナロータイを結んでいる。鍛えられた足はスーツに包まれ、黒い革靴は光沢を放っていた。重々しくなりがちなフォーマルスーツも、タイとシャツの組み合わせで軽やかに着こなしている。まさにニューヨークのトップに君臨するビジネスマンといったコーディネートだ。
美紅が足を組むと、ディーターの視線は深いスリットからのぞく白い太腿の辺りをさまよった。
「これ、どう? あちこち引きずり回されて、改造させられたんだけど」
ディーターの不躾な視線に少し照れながら、美紅は言った。
「いや……綺麗だ。むしゃぶりつきたくなるというのは、このことだな」
彼が本気で言ったように思え、美紅は恥ずかしくなって顔を伏せた。
ちょっとちょっと。これぐらいでうろたえてちゃダメだって! こんなの、プレイボーイの常套句なんだから。
「君がこの仕事を引き受けてくれて感謝しているよ」
ディーターが微かに笑いながら言った。彼の低音は腹が立つほど耳に心地よい。
「感謝するのはこっちよ。一銭も払わず体中ピカピカにしてもらった上に、こんなすごい車に乗れるなんて。もっとも、この後なにが起こるかわかんないけど」
「なにが起こるかわからない……いいね。僕を誘惑するとか?」
美紅は目を見開いて唖然とした。これだからモテる男は!
「あっきれた。どんだけ自信家なの? 自分を誘惑しない女は、この世に存在しないとか思ってそう」
「これまでの経験を踏まえて言っているだけだ」
「そういうのをイタイ奴って言うのよ。ああ、あなたみたいな自意識過剰な人の婚約者を演じなきゃいけないなんて気が滅入るわ」
「珍しいな。大抵の女性は尻尾を振って引き受けてくれるが」
「でしょうね。あなたの富と名声にたかってくるんでしょ。蛍光灯に群がる蛾みたいに」
ディーターは心外だと言わんばかりに片眉を吊り上げた。
「どうやら僕は知らない間に随分と嫌われたらしいね。君に失礼なことをしたのなら謝罪するよ、美紅。しかし、そんなに嫌な相手のフィアンセ役を、なぜ君は引き受けたんだろうか」
「ふん。引き受けた理由なんて一つに決まってるでしょ!」
美紅は彼を睨みつけ、人差し指と親指を擦り合わせるジェスチャーをした。
「お金よ!」
「明快だな」
「当たり前でしょ。それ以外に理由があるとでも思ったの? 自惚れんのもいい加減にして」
「それでいい。前も言ったが、変な下心を持たれたら困るからな」
「悪いけど、それはこちらの台詞よ。リッチだからって下心がないとは限らない。むしろ、歪んだ欲望を抱えてそうだもの」
ディーターはフッと鼻で笑うと、シートに深くもたれ、長い足を組んだ。
「笑わせてくれるな。女には不自由していない。僕は『マンハッタンで結婚したい独身男性ナンバー1』に選ばれたんだぞ」
笑わせてくれるのはどっちよ! と美紅は内心ツッコんだ。得意気に胸を張る彼は、まるで駆けっこで一等賞を取った子供のようで、ついニヤけてしまう。
どこが冷酷非道な野心家なのよ。可愛いところあるじゃない。
「不安な気持ちはわかる。僕も偽装婚約なんて初めての経験だ。だが、お互い協力すればきっとトラブルなく終わると信じている」
美紅の様子にまったく気づかずディーターは言った。美紅は込み上げる笑いをなんとか呑み込み、こう返す。
「私だってトラブルなく終わらせたい。任務を遂行して、綺麗な体でアパートに帰りたい」
「ならば僕らは同じ思いだ。僕だって綺麗な体のままマンハッタンのオフィスに帰りたい。そのために最大の努力はするよ。だから毛を逆立てた子猫みたいに威嚇しないでくれ」
「別に威嚇なんてしてないし。……それにしても無駄に広い車ね。いつもこんな車で移動してるの?」
「いや、今夜は特別だ。少し呑むつもりだから。普段の移動は自分で運転している」
「へえ。車の免許なんて持ってるんだ?」
「当たり前だろう? 僕をなんだと思ってるんだ」
「ごめんなさい。部下に運転させて後部座席でふんぞり返っているお坊ちゃまかと思ってたの」
ディーターの片眉がぴくりと動く。どうやら今の言葉は、彼のプライドに障ったらしい。
「基本的に自分のことは自分でやる。もっとも、忙しいときは他人の手を借りることもあるが」
ディーターは横目でジロリと美紅を睨んだ。その刺すような視線は面接のときと同じだ。
「そもそも僕が運転手を雇おうが後部座席でふんぞり返ろうが、君には関係ない。給料は払っているし、法律違反もしていないんだから」
なによムキになっちゃって、と美紅は思う。少しでも見下されたら猛反撃してくるなんて、よっぽどプライドが高いのね。でも、少し子供っぽいけれど、それが彼の魅力の一つなのかも、と美紅は分析した。
ディーターは軽くため息を吐き、ドアに肘をかけて頬杖をついた。窓の外には、きらびやかなビルの灯りが近づいては去ってゆく。十九時過ぎのアレン・ストリートは仕事を終えた人々が行き交い、少し渋滞していた。
美紅がシートに座り直すと、左手が彼の右手に触れた。またしても体の芯にわずかな電流が走る。小さく息を吸い込むと、どくりと心臓が跳ね上がる。触れ合った部分がやけに熱く感じ、体は硬直した。そのまま固まっていると、ディーターがそっと手を握ってきた。
一瞬で、車内の空気が熱を帯びてきらめいた。感覚が手だけに集中し、耳の奥で心音がうるさく鳴る。二人とも手を握っているなんておくびにも出さず、無言でそれぞれの方向を見ていた。美紅は座席の正面にあるモニターを、ディーターは窓の外の夜景を。モニターは無音の古い映画を流し続けている。
静まれ、静まれ、私の心臓! 美紅は懸命に祈った。こんなんでグラついてちゃダメ! 相手はプレイボーイなんだから。こんなの、ただの挨拶よ。ドキドキするほどのもんじゃないって!
ディーターはさらに図々しく指を絡めてくる。美紅はウブなティーンエイジャーに逆戻りした気分で、自分でも戸惑うほどうろたえていた。横目でチラリとディーターを見ると、抑えめなブルーの照明に眉目秀麗な顔が照らされている。
骨格も肌も瞳も、本当に美しい。そのどこか物憂げな表情がひどく色っぽくて、美紅の鼓動は乱れた。
気づくとイースト・ビレッジに着いていた。ディーターは何事もなかったように車を降り、美紅の手を取ってエスコートする。美紅はアスファルトに着地すると、ふらふらとよろめいた。
「おい。歩き方がペンギンみたいだぞ」
ディーターが意地悪くからかう。それを見て、美紅はやっといつもの調子を取り戻した。
「うるさいわね! こんなに高いヒールなんて履いたことないのよっ」
「本番までにはどうにかしてくれよ。それ」
ディーターは偉そうに言ってナロータイを直し、髪を撫で上げた。
「わ、わかってるってば!」
目の前には見上げるほど高い大聖堂のような建物がそびえ立っている。支柱から壁まで、すべてが黒い大理石造り。ガラス張りの入り口のドアからは店内の温かい光が漏れている。
『Reflections Of Living』――ニューヨーカーなら誰もが知る、フレンチをベースとした多国籍料理が楽しめるハイクラス・ダイニングだ。世界中のアーティストやセレブたちが集まる社交の場でもある。
ドラマや映画でしか見たことのない世界に、美紅はすっかり怖気づいてしまった。
「……どうした?」
呆然としている美紅を見かねて、ディーターが言う。美紅は気合いを入れ直し、ポーカーフェイスを作った。
「な、なんでもないわ。さあ、行きましょう」
美紅はディーターの腕にぶら下がるようにして数歩歩く。ヒールが高過ぎてサーカスの曲芸レベルだ。あの、高い靴を履いて歩くピエロみたいな……
「……ちょっと。なにニヤニヤしてるのよ」
美紅が睨み上げると、ディーターはクスクス笑いながらこう言った。
「いや。楽しい夜になりそうだと思ってね」
◆ ◆ ◆
ディーター・アウグスト・キタヤマは目の前の光景に驚愕した。
恐るべきスピードと一分の無駄もない動きで、次々と皿の上の料理が平らげられていく。まるで完璧に計算しつくされた工場の生産ラインのようだ。下品ではない。テーブルマナーは完璧だ。目の前の女は料理を味わうことだけに、とんでもなく集中している。帆立貝だのテリーヌだのが音も立てずに桃色の唇の間に吸い込まれていく。時折のぞく小さな歯が妙に色っぽい。
「おいしーい!」
美紅が満足げに喉を鳴らす。彼女が心から幸福感に包まれているのが伝わってくる。自然と、ディーターの口の中に唾が溜まる。そんなに美味いのか?
「……そんなにじーっと凝視されると食べづらいんだけど? 私のこと監視してるの?」
「ああ、すまない。悪気はない」
つい芸術的な食べっぷりに目が離せなくて、という台詞は呑み込んだ。これでも紳士としての礼儀は心得ている。
店内は天井まで吹き抜けで、空間を贅沢に使っている。内装はマンハッタンにふさわしくアール・デコ調だ。フロア中央には、天井まで届く楡の木の枝に、薄紫の芍薬と純白の蘭を散らした巨大なフラワーオブジェがあり、いいアクセントになっていた。
ここはそんな店内を一望できる、中層階のVIPルームである。当然、特別な人間しか入ることを許されない。下層フロアとは特殊なガラスで仕切られ、個室内は華美な装飾はなく、より落ち着いた雰囲気。壁には、かの有名な後期印象派の絵画が掛かっている。ドアの傍に支配人が控えており、プライベートでくつろげる空間だ。
二人は真っ白なクロスの掛けられたテーブルに向かい合って座っていた。突き出しのアミューズグールが運ばれてきて以来、美紅は一度もディーターと目を合わせていない。
「食べないの?」
美紅は、初めてディーターの存在に気づいたかのように言う。
「いや……」
言われて初めてディーターはフォークとナイフを動かした。冷前菜はブルターニュ産オマール海老だ。オマール・ブルーと呼ばれる青みがかったもので最高峰のブランドである。それにスライスしたキュウリとキャビアが添えられ、海老味噌ソースと絡めて食べる。……うん。食べ慣れた、いつもの味だ。
「こんなに美味しいもの食べたの、初めてー!」
美紅はご機嫌で今にも踊りだしそうだ。美味しそうに咀嚼して呑み込んでから、こう打ち明けた。
「実はいっつもベイクドビーンズとトーストばっかりなの」
「それはよかった」
「あなたは、あんまり美味しくなさそうね?」
「ここの料理は食べ慣れているから、感動がないだけだ」
「ええっ! 嘘」
美紅は気の毒そうに眉尻を下げた。
「こんなに美味しいのに感動できないなんて、なんか可哀想」
「まったくだな」
ここの料理を食べ慣れたせいで感動できないディーターと、食べたことがない故に感動できる彼女。真に可哀想なのはどちらか。一つ言えることは、彼女のほうが自分より数倍幸せそうだってことだ。少なくとも、今この瞬間は。
「ああ、ほんとに美味しい! きっと今夜のことは一生忘れない」
花が咲いたような彼女の笑顔に、ディーターも釣られて微笑む。彼女はキラキラしている。彼女より美人でスタイルのいい女はたくさん見てきた。だが、こんな風に弾けるほど輝いている女は見たことがない。
「ステフにも食べさせてあげたかったなぁ。これってテイクアウトできないのかしら」
「ステフ?」
「あ、ハイスクール時代からの親友なの。不動産会社で事務をやりながら、ロマンス小説家を目指しているのよ」
表情がころころ変わるのを見ているのは楽しい。彼女はとても幸せそうで、その幸せを誰かに分けたくてしょうがないという顔をしている。今の彼女にその幸福を自分が与えたのだと思うと、ディーターは誇らしい気持ちになった。
「なんでも好きなものを頼むといい。ワインでもデザートでもなんでも」
「もちろん、そうさせてもらいます。これも報酬の一部だもんね」
美紅は楽しそうにペロリと舌を出した。ディーターは自然と顔がほころぶのを止められない。まったく、まるで子供だな。不思議とリラックスしている自分に気づく。
これまでの女たちはどうだった? 皆、体型を気にして小鳥みたいに皿をつつくだけ。視線でディーターの体を舐めまわし、ベッドに行くことしか考えないハイエナだ。こちらの関心を引こうと大して興味もない話題を浅い知識で振ってきた。繰り返される退屈な笑顔と退屈な会話。
――僕を喜ばせる方法は実にシンプルなのに。心からこの場を楽しんでくれさえすればいい。美紅みたいに。そうすれば、その感情が僕に伝染し、こんなに楽しい気分になれるのに。
「あの、現地に飛ぶ前にいろいろ打ち合わせしておいたほうがよくない? これから私たちはフィアンセを演じるわけだから」
食事が一段落した美紅はアイスティーのような瞳でじっと見つめてくる。
「やる気になってくれてうれしいね」
「私は最初からやる気満々よ。ベストを尽くすつもり。充分な報酬も頂いてるし、愛する人との仲を引き裂かれそうなあなたの従妹のアレクシアを救うためですもの。同じ女性として不憫に思うし」
そうだった。本来の目的をすっかり忘れていた。
「ああ、そうだな。僕の家族にいろいろ質問されるかもしれないからな」
「そうよね。二人の出会いはどういうことにする?」
「どこかのパーティーで出会ったってことでいいんじゃないか?」
「もしもし? 私みたいな職なし家なしの貧乏女優がどんなパーティーに出席するって? 世の中の女性が皆パーティーに出ていると思ったら大間違いよ。私なんてハイスクールの卒業パーティーが最初で最後だし」
「ふむ。それもそうか。君にいい考えはある?」
「私の日常生活で、あなたみたいな億万長者と出会うチャンスってあるかなぁ?」
美紅はしばし真剣に考えてから、こう提案した。
「車の事故ってのはどう? 私の運転が下手であなたの車にぶつかったのが出会いのきっかけ」
「三流恋愛小説の筋書きだな。しかもリアルにやられたことがあるよ。金目当ての女にね」
ディーターは当時を思い出し、少々うんざりした気分になる。
「それに君、車の免許は持ってるの?」
「……持ってません」
「すぐバレる嘘はダメだな」
「じゃ、私が講師を務めるダンススクールにあなたが通っている、ってのはどう?」
「悪いがダンスは幼少の頃から英才教育を受けている。スクールに通っているなんて言ったら、僕の親族は変に思うだろうな」
「うーん、そうかぁ。私がバイトしてたコーヒーショップにあなたがお客として来た、とかは?」
「いや、僕はめったにコーヒーを外で飲まない。オフィスにはコーヒーメーカーがあるからな。いい豆を使ってるよ」
「これもダメかぁ。なら、親友の元恋人だったっていう設定は?」
「なるほど。親友から君を寝取ったと。しかし、親友は誰だと突っ込まれたらどうする? その親友と君はどうやって出会ったんだろう?」
「うーん、細かい裏設定が必要だし、すぐにバレるか」
「プロットを練るのもひと苦労だな」
「実は私は記憶喪失で、あなたは過去に私に騙されて心に深い傷を負った……」
美紅は声を落とし、深刻な表情をした。
「――あれから二年、時はきた。今こそあのアバズレに目にモノみせてやる! 記憶を失った私に忍び寄る、暗い影。あなたは私に復讐しようと企む億万長者ってのは?」
ディーターは声を上げて笑った。ひさしぶりに聞いた自分の笑い声に、自分で驚く。いつの間にか僕はこの会話を楽しんでいる、とディーターは思った。
「悪くないね。じゃあ僕は拳銃と毒薬を常に持っておかないとな」
「そうね。せっかくだから口髭の生えた名探偵でも雇っておいてよ」
「いいだろう。盗まれた宝石と犯人の執事も用意しないとな」
「ちょっと、真面目にやってよ!」
言いながら美紅も笑いを堪えている。
「君が先に言い出したんだろう?」
「さっきのは冗談として、あんた綺麗になったよ。その髪型、似合ってる。あのひっつめオニオンヘアーより断然いいわ」
ステファニーは美紅の緩い巻き髪を褒めた。長年手入れもせずにボサボサだった髪が、今やしっとり艶やかになっている。
「これね、ミッドタウンにあるヘアサロンのトップスタイリストにやってもらったの」
「報酬は破格。タダでサロン行きまくり。毎日、金髪美青年にハイヤーで送迎されて、至れりつくせりじゃん」
「ほんとだね。後がないから気合い入れてやるわ。それに、楽しいこともあるし。今日なんて五番街のブティックに行ったの!」
「わお! 五番街! うちらには一生縁がない場所ね。並んでるお店は、一流どころばっかりじゃん!」
「そうなの! そしたらね、なんとブティックが貸し切りで私専用のビューティーアドバイザーまでいたのよ! すごいでしょ?」
「出た! 貸し切り。さすがIT業界の帝王は、やることが違うわ」
「もう袖を通すのも勿体ないドレスを山ほど買ったの! いつもの古着屋で買うワンピースと桁が違ったわよ! 全部ディーター持ちで。ステフにも見せたかったなぁ」
「いいなぁ。あたしも見たかったわ。夢があるぅ。あんた、ダンスやっててめっちゃスタイルいいから似合うと思うわ」
「面接んときにスリーサイズ聞かれてさ、そんときはハアアア? って思ったんだけど、このためだったのよね」
「ただのセクハラじゃなかったわけだ」
「そうなの。しかもビューティーアドバイザーってすごいの。髪とか瞳の色を見て、あっという間に似合うドレスをチョイスしてくれるんだもん」
「けどさーあんた、フィアンセを演じるってどこまでやるの? まさか夜のお勤めもあるの?」
「大丈夫大丈夫! そこはキッチリ確認したから」
美紅は言いながらバッグから封筒を取り出す。契約書を抜き出すとペラペラめくり、該当箇所を指差してみせた。
「ほら、ここ。セックスはしないって、ちゃんと書いてあんの」
「とかなんとか言っちゃってぇ! リゾートへフィアンセとして行くんでしょ?」
ステファニーは美紅の肩に腕を回して言う。
「これはビッグチャンスよ! 美紅!」
「チャンスって? な、なにが?」
ステファニーは美紅の耳元に口を寄せて、こうささやいた。
「ロ・ス・ト・バー・ジ・ン」
美紅は、ばったりとクッションの上に倒れ込んだ。
「いいじゃない、いいじゃない! プレイボーイの誉れ高い、イケメンエリート大富豪! 相手にとって不足なし! 一流テクニックも期待できそうよ。こうなりゃ強引にでも一戦交えなさいよ!」
「ないないない! セックスは契約違反だもの。違約金十万ドルも払えないし」
「馬鹿ねぇ。契約なんて双方の合意があれば、なんとでもなんのよ。男と女を前に契約なんて無意味」
ディーターを相手にロストバージン! 想像しただけで美紅は目が眩んだ。あのたくましい体に包まれたら、どんな感じがするんだろう? ディーターの舌や指が敏感なところに触れるかと思うと、美紅の体は火照った。
「ダメダメダメ。やばいやばい。無理無理」
「社長がダメなら、アーロンって男に頼んだら? 最初は、ああいう人に手ほどきしてもらうといいわよ。あちらさんも相当なもんでしょ」
確かにアーロンは物腰柔らかで優しい。女性の扱いにも慣れているし、こちらも気後れしない。ディーターを前にしたときのような緊張感はない。
けど、アーロンは男性として見れないな。
瞬時にそう思ってしまったことが不思議だった。アーロンもイケメンなのに、ときめかない。ディーターに対する、あの一気に体温が上昇する感じは一切ない。
「いやいやいや。ないから。絶対ないから。私みたいな女は、ああいうエリート達には相手にされないって」
「妄想するだけならタダじゃん。で、どうなの? あんた、どっちがいいの?」
「私は……やっぱ、するならディーターのほうがいいかな」
「ちょっと、なにあんた赤くなってんのー? やだー! 聞いてるこっちが恥ずかしー」
「やめてよ! 仮定の話でしょ? それにディーターからは好きになるなって釘を刺されてんだから」
「くだらない。そんなの無視無視。あんたもう二十二でしょ?」
「う。私だって別に好きでバージンなわけじゃないわよ」
「いい? チャンスは体で感じるのよ。理性や論理ではなく、本能を信じるの。時がきたら第六感が教えてくれるから」
ステファニーは、ぐっと顔を寄せてこう言った。
「そして、今だ! と思ったら、冷静かつ大胆に行動すること」
◆ ◆ ◆
この場所には明らかに場違いな黒塗りのリムジンが目に入った瞬間、美紅は思わず背筋を伸ばした。
ここは、マンハッタン橋にほど近い、美紅のフラットがある少々治安の悪い地域。立ち並ぶ老朽化したビルのシャッターは下り、人気はなく静まりかえっている。街路灯に照らされた美紅の影だけが、ひび割れたアスファルトに伸びていた。六月も終わりだというのに珍しく涼しい夜で、美紅は微かに身震いした。今夜はディーターと会食をする約束で、美紅は迎えを待っている。
滑るようにリムジンがやってきて目の前で停車した。ピカピカに磨かれた車体にドレスアップした美紅が映る。制服を着たドライバーが降りてきて、恭しくドアが開けられた。
車内にタキシード姿のディーターが見え、それがあまりにスタイリッシュで、美紅は一瞬ひるむ。
「手を……」
言いながら目線を上げたディーターは、美紅の姿を見てしばし沈黙した。
今夜の美紅はパーフェクトにドレスアップしていた。眼鏡を外し、髪をアップにし、腿までスリットの入った紺青のドレスをまとっている。鎖骨は完全に露出し、そこに手入れした巻き髪がふわりとかかっていた。ドレスがタイトで胸の谷間までくっきり出ているのが、美紅は気恥ずかしかった。ウェストをぎちぎちに締められているおかげで、きゅっとしたくびれができている。元々色白なほうだけど、ドレスの深い青がいつもより肌の白さを引き立てている気がした。
どう? だぶだぶの野暮ったいスーツを着た玉ねぎは大変身したでしょ? と美紅は自信満々である。
ディーターは言葉を失ったまま、熱っぽい眼差しでこちらを見つめている。
このとき、美紅はディーターの磁場に引きずり込まれるような、強い引力を感じた。その刹那、自分がなにをしにここへ来て、相手が何者かさえ忘れていた。
しばらく、美紅は不思議な磁力を感じながら、ディーターをぼんやり見つめていた。
先に立ち直ったのはディーターだった。即座にビジネスモードの仮面を被り、さっと手を出し美紅をエスコートする。
「お嬢さん、お手を」
言われるがままに手を取り、美紅はリムジンに乗り込む。そこには目を見張るほどセレブな空間が広がっていた。
うわぁ~すっごい! 美紅は思わず両手で口を押さえた。お洒落なバーみたい! こんなの映画の中だけだと思ってたけど、現実にあるのね……
車内はゆったりしたスペースで、ベージュを基調としている。革張りのロングシートは優美な曲線を描き、バーカウンターにはシャンパンやカクテルも用意されていた。
美紅が車内を見回しているうちにリムジンは音もなくアレン・ストリートを北へ走りはじめる。
「おひさしぶりです。ディーター」
「やあ、美紅」
ディーターはどこかぼんやり美紅の唇の辺りを見つめたまま答えた。
今夜の彼は気品あるディナージャケットを羽織り、シャープなナロータイを結んでいる。鍛えられた足はスーツに包まれ、黒い革靴は光沢を放っていた。重々しくなりがちなフォーマルスーツも、タイとシャツの組み合わせで軽やかに着こなしている。まさにニューヨークのトップに君臨するビジネスマンといったコーディネートだ。
美紅が足を組むと、ディーターの視線は深いスリットからのぞく白い太腿の辺りをさまよった。
「これ、どう? あちこち引きずり回されて、改造させられたんだけど」
ディーターの不躾な視線に少し照れながら、美紅は言った。
「いや……綺麗だ。むしゃぶりつきたくなるというのは、このことだな」
彼が本気で言ったように思え、美紅は恥ずかしくなって顔を伏せた。
ちょっとちょっと。これぐらいでうろたえてちゃダメだって! こんなの、プレイボーイの常套句なんだから。
「君がこの仕事を引き受けてくれて感謝しているよ」
ディーターが微かに笑いながら言った。彼の低音は腹が立つほど耳に心地よい。
「感謝するのはこっちよ。一銭も払わず体中ピカピカにしてもらった上に、こんなすごい車に乗れるなんて。もっとも、この後なにが起こるかわかんないけど」
「なにが起こるかわからない……いいね。僕を誘惑するとか?」
美紅は目を見開いて唖然とした。これだからモテる男は!
「あっきれた。どんだけ自信家なの? 自分を誘惑しない女は、この世に存在しないとか思ってそう」
「これまでの経験を踏まえて言っているだけだ」
「そういうのをイタイ奴って言うのよ。ああ、あなたみたいな自意識過剰な人の婚約者を演じなきゃいけないなんて気が滅入るわ」
「珍しいな。大抵の女性は尻尾を振って引き受けてくれるが」
「でしょうね。あなたの富と名声にたかってくるんでしょ。蛍光灯に群がる蛾みたいに」
ディーターは心外だと言わんばかりに片眉を吊り上げた。
「どうやら僕は知らない間に随分と嫌われたらしいね。君に失礼なことをしたのなら謝罪するよ、美紅。しかし、そんなに嫌な相手のフィアンセ役を、なぜ君は引き受けたんだろうか」
「ふん。引き受けた理由なんて一つに決まってるでしょ!」
美紅は彼を睨みつけ、人差し指と親指を擦り合わせるジェスチャーをした。
「お金よ!」
「明快だな」
「当たり前でしょ。それ以外に理由があるとでも思ったの? 自惚れんのもいい加減にして」
「それでいい。前も言ったが、変な下心を持たれたら困るからな」
「悪いけど、それはこちらの台詞よ。リッチだからって下心がないとは限らない。むしろ、歪んだ欲望を抱えてそうだもの」
ディーターはフッと鼻で笑うと、シートに深くもたれ、長い足を組んだ。
「笑わせてくれるな。女には不自由していない。僕は『マンハッタンで結婚したい独身男性ナンバー1』に選ばれたんだぞ」
笑わせてくれるのはどっちよ! と美紅は内心ツッコんだ。得意気に胸を張る彼は、まるで駆けっこで一等賞を取った子供のようで、ついニヤけてしまう。
どこが冷酷非道な野心家なのよ。可愛いところあるじゃない。
「不安な気持ちはわかる。僕も偽装婚約なんて初めての経験だ。だが、お互い協力すればきっとトラブルなく終わると信じている」
美紅の様子にまったく気づかずディーターは言った。美紅は込み上げる笑いをなんとか呑み込み、こう返す。
「私だってトラブルなく終わらせたい。任務を遂行して、綺麗な体でアパートに帰りたい」
「ならば僕らは同じ思いだ。僕だって綺麗な体のままマンハッタンのオフィスに帰りたい。そのために最大の努力はするよ。だから毛を逆立てた子猫みたいに威嚇しないでくれ」
「別に威嚇なんてしてないし。……それにしても無駄に広い車ね。いつもこんな車で移動してるの?」
「いや、今夜は特別だ。少し呑むつもりだから。普段の移動は自分で運転している」
「へえ。車の免許なんて持ってるんだ?」
「当たり前だろう? 僕をなんだと思ってるんだ」
「ごめんなさい。部下に運転させて後部座席でふんぞり返っているお坊ちゃまかと思ってたの」
ディーターの片眉がぴくりと動く。どうやら今の言葉は、彼のプライドに障ったらしい。
「基本的に自分のことは自分でやる。もっとも、忙しいときは他人の手を借りることもあるが」
ディーターは横目でジロリと美紅を睨んだ。その刺すような視線は面接のときと同じだ。
「そもそも僕が運転手を雇おうが後部座席でふんぞり返ろうが、君には関係ない。給料は払っているし、法律違反もしていないんだから」
なによムキになっちゃって、と美紅は思う。少しでも見下されたら猛反撃してくるなんて、よっぽどプライドが高いのね。でも、少し子供っぽいけれど、それが彼の魅力の一つなのかも、と美紅は分析した。
ディーターは軽くため息を吐き、ドアに肘をかけて頬杖をついた。窓の外には、きらびやかなビルの灯りが近づいては去ってゆく。十九時過ぎのアレン・ストリートは仕事を終えた人々が行き交い、少し渋滞していた。
美紅がシートに座り直すと、左手が彼の右手に触れた。またしても体の芯にわずかな電流が走る。小さく息を吸い込むと、どくりと心臓が跳ね上がる。触れ合った部分がやけに熱く感じ、体は硬直した。そのまま固まっていると、ディーターがそっと手を握ってきた。
一瞬で、車内の空気が熱を帯びてきらめいた。感覚が手だけに集中し、耳の奥で心音がうるさく鳴る。二人とも手を握っているなんておくびにも出さず、無言でそれぞれの方向を見ていた。美紅は座席の正面にあるモニターを、ディーターは窓の外の夜景を。モニターは無音の古い映画を流し続けている。
静まれ、静まれ、私の心臓! 美紅は懸命に祈った。こんなんでグラついてちゃダメ! 相手はプレイボーイなんだから。こんなの、ただの挨拶よ。ドキドキするほどのもんじゃないって!
ディーターはさらに図々しく指を絡めてくる。美紅はウブなティーンエイジャーに逆戻りした気分で、自分でも戸惑うほどうろたえていた。横目でチラリとディーターを見ると、抑えめなブルーの照明に眉目秀麗な顔が照らされている。
骨格も肌も瞳も、本当に美しい。そのどこか物憂げな表情がひどく色っぽくて、美紅の鼓動は乱れた。
気づくとイースト・ビレッジに着いていた。ディーターは何事もなかったように車を降り、美紅の手を取ってエスコートする。美紅はアスファルトに着地すると、ふらふらとよろめいた。
「おい。歩き方がペンギンみたいだぞ」
ディーターが意地悪くからかう。それを見て、美紅はやっといつもの調子を取り戻した。
「うるさいわね! こんなに高いヒールなんて履いたことないのよっ」
「本番までにはどうにかしてくれよ。それ」
ディーターは偉そうに言ってナロータイを直し、髪を撫で上げた。
「わ、わかってるってば!」
目の前には見上げるほど高い大聖堂のような建物がそびえ立っている。支柱から壁まで、すべてが黒い大理石造り。ガラス張りの入り口のドアからは店内の温かい光が漏れている。
『Reflections Of Living』――ニューヨーカーなら誰もが知る、フレンチをベースとした多国籍料理が楽しめるハイクラス・ダイニングだ。世界中のアーティストやセレブたちが集まる社交の場でもある。
ドラマや映画でしか見たことのない世界に、美紅はすっかり怖気づいてしまった。
「……どうした?」
呆然としている美紅を見かねて、ディーターが言う。美紅は気合いを入れ直し、ポーカーフェイスを作った。
「な、なんでもないわ。さあ、行きましょう」
美紅はディーターの腕にぶら下がるようにして数歩歩く。ヒールが高過ぎてサーカスの曲芸レベルだ。あの、高い靴を履いて歩くピエロみたいな……
「……ちょっと。なにニヤニヤしてるのよ」
美紅が睨み上げると、ディーターはクスクス笑いながらこう言った。
「いや。楽しい夜になりそうだと思ってね」
◆ ◆ ◆
ディーター・アウグスト・キタヤマは目の前の光景に驚愕した。
恐るべきスピードと一分の無駄もない動きで、次々と皿の上の料理が平らげられていく。まるで完璧に計算しつくされた工場の生産ラインのようだ。下品ではない。テーブルマナーは完璧だ。目の前の女は料理を味わうことだけに、とんでもなく集中している。帆立貝だのテリーヌだのが音も立てずに桃色の唇の間に吸い込まれていく。時折のぞく小さな歯が妙に色っぽい。
「おいしーい!」
美紅が満足げに喉を鳴らす。彼女が心から幸福感に包まれているのが伝わってくる。自然と、ディーターの口の中に唾が溜まる。そんなに美味いのか?
「……そんなにじーっと凝視されると食べづらいんだけど? 私のこと監視してるの?」
「ああ、すまない。悪気はない」
つい芸術的な食べっぷりに目が離せなくて、という台詞は呑み込んだ。これでも紳士としての礼儀は心得ている。
店内は天井まで吹き抜けで、空間を贅沢に使っている。内装はマンハッタンにふさわしくアール・デコ調だ。フロア中央には、天井まで届く楡の木の枝に、薄紫の芍薬と純白の蘭を散らした巨大なフラワーオブジェがあり、いいアクセントになっていた。
ここはそんな店内を一望できる、中層階のVIPルームである。当然、特別な人間しか入ることを許されない。下層フロアとは特殊なガラスで仕切られ、個室内は華美な装飾はなく、より落ち着いた雰囲気。壁には、かの有名な後期印象派の絵画が掛かっている。ドアの傍に支配人が控えており、プライベートでくつろげる空間だ。
二人は真っ白なクロスの掛けられたテーブルに向かい合って座っていた。突き出しのアミューズグールが運ばれてきて以来、美紅は一度もディーターと目を合わせていない。
「食べないの?」
美紅は、初めてディーターの存在に気づいたかのように言う。
「いや……」
言われて初めてディーターはフォークとナイフを動かした。冷前菜はブルターニュ産オマール海老だ。オマール・ブルーと呼ばれる青みがかったもので最高峰のブランドである。それにスライスしたキュウリとキャビアが添えられ、海老味噌ソースと絡めて食べる。……うん。食べ慣れた、いつもの味だ。
「こんなに美味しいもの食べたの、初めてー!」
美紅はご機嫌で今にも踊りだしそうだ。美味しそうに咀嚼して呑み込んでから、こう打ち明けた。
「実はいっつもベイクドビーンズとトーストばっかりなの」
「それはよかった」
「あなたは、あんまり美味しくなさそうね?」
「ここの料理は食べ慣れているから、感動がないだけだ」
「ええっ! 嘘」
美紅は気の毒そうに眉尻を下げた。
「こんなに美味しいのに感動できないなんて、なんか可哀想」
「まったくだな」
ここの料理を食べ慣れたせいで感動できないディーターと、食べたことがない故に感動できる彼女。真に可哀想なのはどちらか。一つ言えることは、彼女のほうが自分より数倍幸せそうだってことだ。少なくとも、今この瞬間は。
「ああ、ほんとに美味しい! きっと今夜のことは一生忘れない」
花が咲いたような彼女の笑顔に、ディーターも釣られて微笑む。彼女はキラキラしている。彼女より美人でスタイルのいい女はたくさん見てきた。だが、こんな風に弾けるほど輝いている女は見たことがない。
「ステフにも食べさせてあげたかったなぁ。これってテイクアウトできないのかしら」
「ステフ?」
「あ、ハイスクール時代からの親友なの。不動産会社で事務をやりながら、ロマンス小説家を目指しているのよ」
表情がころころ変わるのを見ているのは楽しい。彼女はとても幸せそうで、その幸せを誰かに分けたくてしょうがないという顔をしている。今の彼女にその幸福を自分が与えたのだと思うと、ディーターは誇らしい気持ちになった。
「なんでも好きなものを頼むといい。ワインでもデザートでもなんでも」
「もちろん、そうさせてもらいます。これも報酬の一部だもんね」
美紅は楽しそうにペロリと舌を出した。ディーターは自然と顔がほころぶのを止められない。まったく、まるで子供だな。不思議とリラックスしている自分に気づく。
これまでの女たちはどうだった? 皆、体型を気にして小鳥みたいに皿をつつくだけ。視線でディーターの体を舐めまわし、ベッドに行くことしか考えないハイエナだ。こちらの関心を引こうと大して興味もない話題を浅い知識で振ってきた。繰り返される退屈な笑顔と退屈な会話。
――僕を喜ばせる方法は実にシンプルなのに。心からこの場を楽しんでくれさえすればいい。美紅みたいに。そうすれば、その感情が僕に伝染し、こんなに楽しい気分になれるのに。
「あの、現地に飛ぶ前にいろいろ打ち合わせしておいたほうがよくない? これから私たちはフィアンセを演じるわけだから」
食事が一段落した美紅はアイスティーのような瞳でじっと見つめてくる。
「やる気になってくれてうれしいね」
「私は最初からやる気満々よ。ベストを尽くすつもり。充分な報酬も頂いてるし、愛する人との仲を引き裂かれそうなあなたの従妹のアレクシアを救うためですもの。同じ女性として不憫に思うし」
そうだった。本来の目的をすっかり忘れていた。
「ああ、そうだな。僕の家族にいろいろ質問されるかもしれないからな」
「そうよね。二人の出会いはどういうことにする?」
「どこかのパーティーで出会ったってことでいいんじゃないか?」
「もしもし? 私みたいな職なし家なしの貧乏女優がどんなパーティーに出席するって? 世の中の女性が皆パーティーに出ていると思ったら大間違いよ。私なんてハイスクールの卒業パーティーが最初で最後だし」
「ふむ。それもそうか。君にいい考えはある?」
「私の日常生活で、あなたみたいな億万長者と出会うチャンスってあるかなぁ?」
美紅はしばし真剣に考えてから、こう提案した。
「車の事故ってのはどう? 私の運転が下手であなたの車にぶつかったのが出会いのきっかけ」
「三流恋愛小説の筋書きだな。しかもリアルにやられたことがあるよ。金目当ての女にね」
ディーターは当時を思い出し、少々うんざりした気分になる。
「それに君、車の免許は持ってるの?」
「……持ってません」
「すぐバレる嘘はダメだな」
「じゃ、私が講師を務めるダンススクールにあなたが通っている、ってのはどう?」
「悪いがダンスは幼少の頃から英才教育を受けている。スクールに通っているなんて言ったら、僕の親族は変に思うだろうな」
「うーん、そうかぁ。私がバイトしてたコーヒーショップにあなたがお客として来た、とかは?」
「いや、僕はめったにコーヒーを外で飲まない。オフィスにはコーヒーメーカーがあるからな。いい豆を使ってるよ」
「これもダメかぁ。なら、親友の元恋人だったっていう設定は?」
「なるほど。親友から君を寝取ったと。しかし、親友は誰だと突っ込まれたらどうする? その親友と君はどうやって出会ったんだろう?」
「うーん、細かい裏設定が必要だし、すぐにバレるか」
「プロットを練るのもひと苦労だな」
「実は私は記憶喪失で、あなたは過去に私に騙されて心に深い傷を負った……」
美紅は声を落とし、深刻な表情をした。
「――あれから二年、時はきた。今こそあのアバズレに目にモノみせてやる! 記憶を失った私に忍び寄る、暗い影。あなたは私に復讐しようと企む億万長者ってのは?」
ディーターは声を上げて笑った。ひさしぶりに聞いた自分の笑い声に、自分で驚く。いつの間にか僕はこの会話を楽しんでいる、とディーターは思った。
「悪くないね。じゃあ僕は拳銃と毒薬を常に持っておかないとな」
「そうね。せっかくだから口髭の生えた名探偵でも雇っておいてよ」
「いいだろう。盗まれた宝石と犯人の執事も用意しないとな」
「ちょっと、真面目にやってよ!」
言いながら美紅も笑いを堪えている。
「君が先に言い出したんだろう?」
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