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1巻
1-3
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――なぜ、僕はこんなにはしゃいだ気分になるんだろう? ディーターは話しながら冷静に考察した。美紅が魅力的だから? それだけじゃない。美女は飽きるほど見てきた。誘惑したり誘惑されたり、場数もかなり踏んでいる。
きっと自分には美紅のようなポジションの女性がいないからだ。利害関係が一切なく、色恋沙汰ともほど遠く、仕事にも関係なく、気を遣ったり遣われたりすることのない関係。友人でも恋人でもセフレでもない。普通に生きていたら目を合わせることもない女性。遠い異国の地で現実を忘れ、たまたま同じ列車に乗り合わせたような。きっと彼女にとってのディーターも同じなんだろう。
「で、どうするんだ? 僕らの出会いは」
「はあーあ。ほんとに難しいなぁ」
美紅が頭を悩ませる様子は可愛らしい。
美紅はさんざん首を捻ってから、こう言った。
「じゃあ、あなたの会社の採用面接を受けたのが出会いのきっかけ、とかは?」
「それなら嘘は吐いてないな。まさに現況どおりだ。が、悪いが僕は入社希望者を口説く人間じゃない」
「例外を作ってください。じゃないと、私とあなたは永遠に出会えません」
「……いいだろう。では、君が我が社の求人に応募してきて、面接で僕は君の魅力にノックアウトされたと」
「うーん。ちょっと無理があるかなぁ? 私なんかじゃ明らかに力不足な気が」
ディーターは美紅のくっきりした胸の谷間を一瞥した。まったく、なんでそんなに肌触りがよさそうなんだ。……そんな風に考えてしまうのは、この忌々しい不眠症のせいか。
「問題ない。充分魅力的だ」
言ってから自分の言葉に驚く。――魅力的だって? あの完全に圏外だった純情玉ねぎが? まったく、今夜の僕はどうかしてるな。だが、嘘は吐いていない。確かに彼女は魅力的に変身した。とても劇的に。その努力は認めてやるべきだ。
ディーターは小さく咳払いしてから、こう釘を刺した。
「ところで、ときどき敬語になるのをやめてくれないか。フィアンセ同士、敬語はなしだ」
「わ、わかった」
「君に関する情報はひととおり頭に入っている。他に質問はあるか?」
「ちょっと気になってたんだけど、私以外にも応募者がいたわけよね?」
「ああ。表向きは秘書の募集だったからな」
「なぜ、私が選ばれたのかしら? 自分で言うのもあれだけど、大した学歴もないし、自慢できるキャリアもなにもないと思うんだけど」
「君を強く推薦したのはアーロンなんだ。この件はアーロンに一任している。だから、僕と面接した時点でほぼ君に決まっていたんだよ。最終面接は僕との顔合わせ、いわばオマケみたいなものだ。よほどのことがない限り、君を落とすつもりはなかったよ」
「ふーん。じゃあ、あなたに採用されたというより、アーロンが私を採用したってことね」
「ま、そういうことだ。奴は僕よりも人を見る目があるからね。常に僕の会社とグループ全体のことを考えてくれている」
だが、アーロンはどういうつもりで彼女を採用したんだ? ディーターはちらりと思う。ぶかぶかスーツに玉ねぎヘアーがダイヤの原石と見抜いたからか? だが、今回のミッションに美人でセクシーである必要はあるか? どうも腑に落ちないな。
「なんだか腑に落ちない。アーロンがなぜ、私を選んだのか」
美紅は考えながら言った。
「君はなかなか鋭いな」
「あなたって恋人はいないの?」
「いるっちゃいるし、いないっちゃいないな」
「じゃあ、その人に頼めばよかったんじゃない?」
「婚約者の芝居を? 勘弁してくれ。そんなこと頼んだら、勘違いして芝居を真実にしようするだろう。僕は結婚する気はさらさらないからね」
面倒な話題だ、とディーターは眉をひそめた。これだから女は厄介だ。口を開けると二言目には愛だの結婚だのと騒ぎ出す。
ディーターはワイングラスに唇をつけた。ほのかにスパイスの効いたバランスよい果実味。薔薇やスミレの得も言われぬ芳香が口いっぱいに広がる。ブルゴーニュの特級畑で栽培し醸造された赤ワインだ。これ以上の代物はニューヨーク中探してもないだろう。
「結婚しないって、一生?」
ワイングラスを傾けるディーターをじっと見つめ、美紅が言った。美紅の皿はすでに空になっている。給仕長がやってきて恭しく皿を下げた。
「そう。生涯独身だ。家庭を持つ気は一切ない」
ディーターは断言し、芸術的に盛られた牛肉のローストにナイフを入れた。マンハッタンで最も寝かせたエイジングビーフはとろけるほど柔らかく、刃先が抵抗なく埋まってゆく。
「今はそんなこと言ってても、愛する人が見つかれば気が変わるんじゃない」
「無理だろうな。愛する人なんて現れないから」
「……人を愛したことがないの?」
君には関係ない、と突っぱねようとして思い直す。美紅もプライベートを捧げてこの茶番に協力してくれている。自分自身のことをなにも話さないのはフェアじゃない。それに別に隠すことでもない。
「もちろん、愛したことはあるよ。僕が命を捧げ、生涯をともにするならこの人しかいないと思ってた人がいる」
「ごめんなさい。もしかしてその人、亡くなったの?」
「いや。生きてるよ。ピンピンしてる。親父の今の奥さんだよ。実の父に寝取られた」
美紅がはっと息を呑んだ。ディーターは冷静にそれを受け止めた。そりゃ誰でも引くだろうな。
「勘違いしないでくれ。僕は父も彼女も恨んでいない。今はなんとも思っていないし、家族としてうまくやっている。もちろん、当時は親父を憎んだよ。彼女も殺してやろうかと思った。でも、本当に仕方ないんだ。親父はそういう性格なんだよ。他人が持っているものを、どうしても欲しくなる。自分で止められないんだ。彼女も同じだ。金がどうしても欲しくなる。自分でコントロールできない。それが二人のありのままの姿なんだ。彼女の本性を見抜けなかった僕が悪い」
「そのせいで愛を信じられなくなったの?」
「いや、そんな悲愴なもんじゃない。どう言えばいいのかな……愛も信じてるけど、愛だけじゃないんだ。愛こそすべて、というのは極端すぎる。愛がすべてという考えと、金がすべてという考えの二つがあるとする。僕はどちらも真実だと思う。僕が否定したいのは愛や金じゃなくて、その極端さだ。百かゼロかの偏った発想、というのかな」
「わかる。要するに愛も金もどちらも大切ってことね」
「そのとおり。どちらも追いかけてしまうのが人間の性であり、飾らない姿なんじゃないかな。汚い部分も綺麗な部分も、どちらもあって当然。二人はそういう大切なことに気づかせてくれた。金目当ての女も愛だけだという女も、偏っているという点では同じなんだよ。どちらかを隠そうとする人間は、僕にはわかる」
ディーターはふと口を噤んだ。今夜は呑みすぎたかもしれない。いつの間にか店内の照明が少し落ち、静かなピアノの演奏がはじまっている。今までこんなことを誰にも話したことはなかった。ましてや知り合って間もない女になんて。美紅は不思議だ。こちらのペースを乱し、リラックスさせ、たちまち無防備にしてしまう。それは他ならぬ、彼女自身が無防備だからだろう。
「そっかあ。あなたの言うこと、わかる気がするなぁ」
美紅は両手を組んで肘をテーブルに載せた。揃えられたネイルはドレスと同じ深い青に塗られ、ラインストーンが光っている。文字通り爪の先までドレスアップしてきたらしい。
青がよく似合う、とディーターは思った。
「なら、君はなにを一番信じてる? 夢とか愛とかそういうもの?」
「夢だけじゃ、お腹はいっぱいにならない。愛とエゴを見極めるのは難しいわ」
「リアリストだな。悪くないね。ならば、金か?」
「お金は必要ね。けど、お金だけでも幸せになれない。私の中の一番はお金じゃない」
「ならば、なんだ?」
「たぶん、笑われるかも」
「他人の真剣な話を嘲笑するほど落ちぶれてはいないが」
「……私が信じているのは、予感、かなぁ」
「予感?」
「うん。言葉にするのは難しいんだけど、そこになにかがあるかもしれない、っていう予感」
美紅の瞳は光を反射してきらめく。ディーターは不思議と彼女の声に聞き入っていた。
「マンハッタンの夜景を見たときにね、このたくさんの輝きの中にとてつもなくすごいものがあって、それを私が探し出すのをずっと待ってるんだっていう予感がしたの。ワイキキの青い風を感じたり、素敵な音楽を聞いたりしたときの、なにかが起こりそうなワクワクする気持ちも、私が言う予感に含まれるわ。お金とか夢とか愛より、そういう予感を信じてるの」
◆ ◆ ◆
「直感、ですかね」
ハンドルを握るアーロンはいたって真面目で、からかっている様子は微塵もない。
直感てどういうことよ、と助手席に座った美紅は呆れた。そんな理由で自分がフィアンセに選ばれたなんて。
「お宅の会社はいつも直感で人を採用するわけ?」
美紅は、不満に思いながら言った。
いよいよ明日は出国日。フィアンセとしてエーゲ海の島に二週間滞在し、そこでディーターの一族に正式に紹介される。今日もその打ち合わせと準備に追われた。と言っても、美紅はアーロンの言いなりになって必要書類にサインし、右へ左へ移動しているだけだったが。
今は手続きがすべて終わり、アーロンが車で美紅のフラットまで送っていく途中である。その車中で美紅は「なぜ自分をディーターのフィアンセ役に選んだのか」と、アーロンに尋ねたのだ。
もう夜だというのに相変わらずパーク・アベニューは渋滞し、テールランプがずらりと並んでいる。
「採用担当者は別にいます。今回は特別に私が担当しましたが。私に限って言えば概ね直感に従いますね。一〇〇%ではないですが」
アーロンはハンドルを操りながら答え、さらにつけ加えた。
「もちろん、必要な情報をすべて頭に入れておくのが前提です」
「じゃー、私もあなたの直感に引っ掛かったわけだ」
「そういうことです」
ようやく渋滞を抜け、車はスピードを上げはじめた。この分なら、美紅のフラットまであと十分ほどで着くだろう。
「じゃあ理由なんて聞いてもしょうがないのね。直感にあれこれ理屈を求めたって無駄でしょうから」
「あなた以外に適任者はいません」
アーロンは自信たっぷりに断言した。
「随分自信があるのね」
「自信がなければ、そもそも採用担当になりません」
そんな話をしているうちに車は静かに美紅のフラットの前に停車した。美紅は車の知識がないから、この車がとてもいい車だってことしかわからない。夜も更け、辺りは人気がない。足を引きずった野良犬がゴミ箱をあさっている。遠くでパトカーの音が微かに聞こえた。
「あなたはなぜディーターの秘書をやってるの? どうしてこの会社に入ろうと思ったの?」
美紅はふと興味を覚え、聞いてみた。
「ボスとは古いつき合いです。私の両親がボスの実家に住み込みで働いていました。それで歳が近いため兄弟のように育てられました。もちろん、使用人としての分はわきまえるよう教育されましたが」
「そんなに長いつき合いなんだ」
――てっきり、私と同じように採用面接を受けて入社したんだと思っていた。ディーターとアーロンは上司と部下以上に強い絆があるのね。
「ええ。ボスは昔から、なににおいても優秀でした。私はボスとなんでも張り合ってましたよ。学業もスポーツも恋人さえも」
「へええ。じゃあ今も恋人を取り合ったりするの? 女優のメリンダとか?」
美紅はゴシップ誌の表紙を思い浮かべた。あのグラマラスな美人女優をアーロンと取り合っているのかしら?
「あはは。ゴシップ誌はデタラメだらけです。メリンダは一時的に関係を持っただけで、ボスは本気じゃないですよ。取り合いにもならない。どちらも本気にならないと、取り合いできませんからね」
「なぜ、ディーターと張り合うの?」
「私はボスが欲しがるものを欲しくなるんです。無性に」
「それってディーターのお父さんみたいね。実の息子の恋人を寝取った」
アーロンは驚いたように目を見開いた。
「誰からそんな話を聞いたんですか?」
「ディーターご本人から聞いたのよ」
「ボスがそんな話をあなたにしたんですか」
「そうよ。この間のディナーでプライベートな話をたくさんしたの。仮にもフィアンセを演じなきゃいけないんだもん。必要だから話したんじゃない?」
「あなたを信用して話したんでしょう」
「もしくは信用するフリをしているのかもしれないけど」
「そんなことはありません」
「息子の恋人を寝取るなんて……私だったら実の親とはいえ許せないな。死ぬまで顔を合わせたくない」
「ボスのお父上には……キタヤマ・グループの現総帥に当たる方ですが……深い考えがおありなんですよ」
アーロンは子供をあやすように微笑み、言葉を続ける。
「私は総帥には並々ならぬ恩があります。総帥のおかげで体の弱い母は生きながらえましたし、冤罪で刑務所に入れられた父も助け出されました。私に教育を施し、衣食住を与えてくれたのも総帥です」
「ずいぶん人格者みたいな言い方ね」
「実際、人格者ですから。私はこれまで与えられてきたものを返すつもりです。総帥とグループのためにね。総帥の子であるボスに対しても同じ気持ちです。親子関係は悪くとも、私自身はどちらも同じだけ大切です。ボスは信頼できる人ですよ。想像を絶する苦労をして、のし上がった人です。総帥がとても厳しい方だったから」
「想像を絶する苦労、ね。なにもかも恵まれている人にはふさわしくない言葉ね」
美紅は鼻で笑った。――イケメンで御曹司でCEOが苦労ですって? 底辺を這いずり回って生きている私からしたら、ちゃんちゃらおかしいわ。
「裕福でしたが、厳しかったですよ。生まれて間もなく母親が亡くなり、総帥もほとんど家に寄りつかなかったので、ボスはたった一人で幼少期を過ごされました。しかも十三歳になったら身一つでグループのアジア工場へ下働きに出されたんです。大の大人でも音を上げる過酷な労働環境です」
「キタヤマの令息がアジアの自動車工場? ほんとに?」
「ええ。工場の狭い寮に労働者たちと寝泊まりして、朝から晩までラインに立つんです。身分は明かされずにね。将来、グループを背負って立つ者は現場をよく知っておくべきというのが総帥のお考えです。子供は邪魔者扱いされてこき使われたでしょうし、当然、合間を縫って勉強もしなければならない。十六歳になって家に戻られたときには、すっかり人相が変わっていましたよ」
信じられない言葉に、美紅はしばし絶句した。十三歳ですって!?
「可哀想に。十三歳と言えばまだまだ子供じゃない」
美紅は胸が痛くなった。あんなに自信に満ちた姿の裏側に、そんな壮絶な過去があるなんて。勝手に甘ちゃんのお坊ちゃま扱いしちゃった。なのに、ディーターはなにも言わなかった。傲慢だったのは自分のほうだ。
「その後、奨学金をもらって大学に進学し、情報科学の優等学位とコンピューター解析の博士号を取得されました。在学中ご自身で会社を立ち上げて、血のにじむ努力をされて今のボスがあるわけです」
「苦労なんか知らないお坊ちゃまだと思ってた」
「私はボスを尊敬していますよ。ちょっとワガママで傲慢なところもありますが」
「ちょっとどころじゃないでしょ。自信家で自意識過剰で上から目線だわ」
「それはボスがまとっている鎧です。人間は誰しも弱い内面を守るために鎧をまとうでしょう? ボスは繊細で感受性が鋭い。独占欲も強いが、それは寂しさの裏返しです。とても孤独な人なんですよ」
「繊細ねぇ……。けど、孤独というのはわかる気がするな」
――ディーターは私のことを「毛を逆立てた子猫」なんて言ったけど、警戒しているのは彼なのかも。ディーターのような人種は簡単に人を信じない。常に相手の腹を探り、真意を読み取ろうとし、利用されないように目を光らせている。そんなのって疲れるわ。
「……ボスのことを愛しはじめているんですね?」
「えっ?」
美紅はギクリとした。とっさに手と首をぶんぶん振る。
「まさかっ! ないないない。私はお金のために今回の話を引き受けたのよ! それに、まだ二回しか会ってないのに」
「顔に『気になる』って書いてありますよ?」
「なんなの? あなた、占い師でもやってるの?」
「いいえ。他人の感情の動きに敏感なだけです。言葉よりもその口振りが真実を語るんですよ」
「だからなに? 目の前にイケメンでセクシーな男がいたら、誰だってときめくでしょ? ちょっとぐらい」
「特別な感情を抱いてはいけないという条項は、契約書にありませんよ」
「契約書になくても釘を刺されたの。僕のことを好きになるなって」
「ふーん。ボスがそんなことを」
アーロンは考え込むようにハンドルを長い指でトントン、と叩く。
「楽しいバカンスになりそうですね」
「私はあなたみたいに楽しみじゃないし、なんだか怖いの。逃げ出したい。なにかが起こりそうで……」
美紅は不安が膨らみ、無意識に爪を噛む。
「……あ。ごめんなさい。弱気なこと言って。ちゃんと仕事はするつもりだし、契約は守るから」
「いいんですよ。思ったことはなんでも話してください。私が必ずサポートしますから」
つ、とアーロンの親指が美紅の頬を撫で、唇の上で止まった。近くで見るとアーロンの肌は女性のようにきめ細やかで綺麗だ。薄闇の中、至近距離で彼と見つめ合う。アーロンの唇がゆっくり近づいてくる。
「悪いけど」
美紅は右手をすっと伸ばし、四本指で彼の唇を押さえる。そしてひどく冷えた気持ちで、きっぱり告げた。
「あなたとは、そういう気持ちになれないの。全然」
アーロンは小さく笑うと、大人しく体を離した。
「まったく、つれないなぁ。ヒロインは本命以外には目をくれちゃいけない、なんてルールでもあるんですか?」
「私は誰とでもホイホイキスするような女じゃないの! それに、ヒロインじゃないし、本命って誰のことよ?」
アーロンは肩をすくめ、おもむろに車から降り、ぐるりと助手席側に回った。助手席のドアを開け、紳士的に手を差し出す。
「どうぞ、お嬢様。仰せの通り、紳士的にお送り致しましたよ」
「……送ってくれてありがとう」
美紅は素直に手を取って車から降りた。そしてアーロンを見上げ、念を押した。
「あなた、勘違いしてるみたいだけど、ディーターのことは本当になんでもないのよ。あんな超セレブCEOが私なんて相手にするわけないんだから」
「わかってますよ」
そう言ってアーロンはスマートに微笑む。本当にわかってんのかしら? と美紅は怪しむ。
「おやすみなさい、美紅。明日は遅れないようにモーニングコールします。きっと、なにもかもうまくいきますよ。よい夢を」
「おやすみなさい。あなたも、よい夢を」
美紅は上り慣れた古い階段を三階まで上がり、自宅に入り鍵を締め、慎重にチェーンを掛けた。室内はむっとして外より蒸し暑い。しばらく電気もつけずに、ぼんやり立ちすくむ。
明日からいよいよ本番だ。今夜眠ったら明日の朝にはもうエーゲ海に向けて旅立つことになる。そう思ってもなんだか、現実感がない。
……うまくやれるかしら?
美紅は小さく首を横に振った。ううん、考えたって、仕方ない。もう賽は投げられたのだ。成功しようが、失敗しようが、やってみるしかない。もう後戻りはできない。進むしかないのだ。
よし、と美紅は気合いを入れた。
下手くそでもなんでも、とにかくベストを尽くすのよ!
◆ ◆ ◆
かくして、プライベートジェットはジョン・F・ケネディ国際空港から離陸した。
フライトは十数時間。夏季のニューヨークとアテネの時差は七時間だ。プライベートジェットの機内はモノトーンで統一された上品な内装。コックピットから後方まで広々と見渡せる。キッチンやベッドルーム、シャワールームや洒落たバーまであり、快適なフライトが楽しめそうだ。
リムジンといいジェット機といい、お金持ちって高級ホテルのスイートをポケットに入れて持ち歩けるのね、と美紅は感心した。
ざっくりしたベージュのニットワンピースに身を包んだ美紅は、興味津々で歩き回っていた。機内は適度な温度と湿度に保たれ、一般旅客機より清涼な空気に満ちている。大きな冷蔵庫を開けると、豊富な種類のチーズやキャビア、見るからに美味しそうなロティサリーチキンや魚料理などが二人分用意されていた。バーカウンターには色とりどりのボトルがずらりと並び、ワインセラーには世界各国のワイン、シャンパンがぎっしり詰まっている。機内で豪華なパーティーができそうだ。
めちゃくちゃ美味しそう~! ご馳走に目がない美紅は目を輝かせた。
ディーターはリビングエリアにあるソファに腰掛けている。真っ白なシャツに鮮やかなマリンブルーのジャケットを羽織り、カジュアルな白のチノパンというスタイルだ。長い足を組んで悠然と業界紙を広げる様は、まさに一流ビジネスマンの休日といった風情である。
こんなときまでお仕事なんて……美紅はディーターを横目で見て呆れる。あれじゃ、すごい設備も豪華な料理も宝の持ち腐れだわ。
美紅は高いヒールで慎重に歩きながらダイニングを通り抜けてバスルームを覗き、歓声を上げた。
綺麗! 広い! ほとんどホテルのバスルームと同じじゃない!!
壁はピカピカに輝き、カラフルなディスペンサーはどれもお洒落だ。バスタオルもバスローブもあり、有名ブランドのアメニティが揃っている。これだけあれば手ぶらでも大丈夫だったな。スーツケースにシャンプーやリンスの試供品をぎゅうぎゅう詰めてきた美紅は「無駄だったわ」と歯噛みした。どう見てもこっちを使ったほうがよさそうだし。
さらに奥にあるのはベッドルームらしい。立派な木の扉を開け、目に入った光景に美紅はぎょっとした。
ダブルベッド!?
いや、正確にはダブルじゃない。キングサイズだ。いずれにせよ、どう見ても二人で一緒に寝る用である。美紅は動揺を抑えつつ、部屋の端まで歩いてもう一つのベッドを探した。
……ない! ベッドが一つしかないじゃないっ! どういうこと!?
いやいやいや、落ち着け。一つしかないからって一緒に寝るとは限らないから! そうよね? フライトは十数時間だもの、それぐらい起きてられるし。ベッドなんて絶対使わないから大丈夫。
けど、ベッドが一つしかないってことは、あれよね? ディーターがガールフレンドと旅行するときはやっぱり……当然ながら……美紅は一人想像して頬を染めた。
「美紅、おいで」
突然声を掛けられ、美紅は飛び上がった。振り返ると、ディーターがドアの枠に寄り掛かって立っている。
「せっかくだから、あっちで一杯やらないか?」
ディーターは腕を組んだまま、顎でリビングエリアを指した。
「そ、そうね。頂くわ」
美紅は動揺を隠そうと顔を伏せながら彼の前を横切ろうとした。
そのとき。
「待てよ」
低い声と同時に、長い腕が伸びてきて美紅の行く手を塞いだ。
美紅は首だけ横に向け、ディーターを見上げる。彼は美紅を見下ろしながら、傲慢に唇の端を上げた。
「なに、見てた?」
「えっ? えっ? なにって、なにも……。お部屋を見てたんだけど?」
「……嘘が下手だな」
気づくとディーターの両腕に囲われ、逃げ場がなくなっていた。
整った唇が近づいてきて、耳元で低くささやく。
「着くまでこの部屋で過ごさないか? 二人で」
微かな息が耳たぶをくすぐり、首のうしろがゾクリとした。
そのとき、ぐにゃりと右足の踵がヒールから滑り落ち、美紅は真横によろめいた。
「きゃっ!」
そのままディーターのがっしりした左腕に倒れ掛かり、彼に抱きとめられた。
たくましい腕が腰に回り、彼の尖った喉仏と首筋がアップになる。微かに上品なムスクの香りがした。
ドクン、と鼓動が胸を打つ。
血液がすごい勢いで全身を巡り、頬が紅潮してくるのがわかった。
……まずいわ。
不覚にも美紅はときめいてしまった。なんて頼もしいんだろうと。
しかし、実際は下手クソなタンゴでも踊っている体勢だった。
「……まったく。君はいつだってムードもヘッタクレもないな」
ディーターが忌々しそうに舌打ちした。それでもしっかり支えてくれている。
「わ、ご、ごめんなさい。ありがとう」
きっと自分には美紅のようなポジションの女性がいないからだ。利害関係が一切なく、色恋沙汰ともほど遠く、仕事にも関係なく、気を遣ったり遣われたりすることのない関係。友人でも恋人でもセフレでもない。普通に生きていたら目を合わせることもない女性。遠い異国の地で現実を忘れ、たまたま同じ列車に乗り合わせたような。きっと彼女にとってのディーターも同じなんだろう。
「で、どうするんだ? 僕らの出会いは」
「はあーあ。ほんとに難しいなぁ」
美紅が頭を悩ませる様子は可愛らしい。
美紅はさんざん首を捻ってから、こう言った。
「じゃあ、あなたの会社の採用面接を受けたのが出会いのきっかけ、とかは?」
「それなら嘘は吐いてないな。まさに現況どおりだ。が、悪いが僕は入社希望者を口説く人間じゃない」
「例外を作ってください。じゃないと、私とあなたは永遠に出会えません」
「……いいだろう。では、君が我が社の求人に応募してきて、面接で僕は君の魅力にノックアウトされたと」
「うーん。ちょっと無理があるかなぁ? 私なんかじゃ明らかに力不足な気が」
ディーターは美紅のくっきりした胸の谷間を一瞥した。まったく、なんでそんなに肌触りがよさそうなんだ。……そんな風に考えてしまうのは、この忌々しい不眠症のせいか。
「問題ない。充分魅力的だ」
言ってから自分の言葉に驚く。――魅力的だって? あの完全に圏外だった純情玉ねぎが? まったく、今夜の僕はどうかしてるな。だが、嘘は吐いていない。確かに彼女は魅力的に変身した。とても劇的に。その努力は認めてやるべきだ。
ディーターは小さく咳払いしてから、こう釘を刺した。
「ところで、ときどき敬語になるのをやめてくれないか。フィアンセ同士、敬語はなしだ」
「わ、わかった」
「君に関する情報はひととおり頭に入っている。他に質問はあるか?」
「ちょっと気になってたんだけど、私以外にも応募者がいたわけよね?」
「ああ。表向きは秘書の募集だったからな」
「なぜ、私が選ばれたのかしら? 自分で言うのもあれだけど、大した学歴もないし、自慢できるキャリアもなにもないと思うんだけど」
「君を強く推薦したのはアーロンなんだ。この件はアーロンに一任している。だから、僕と面接した時点でほぼ君に決まっていたんだよ。最終面接は僕との顔合わせ、いわばオマケみたいなものだ。よほどのことがない限り、君を落とすつもりはなかったよ」
「ふーん。じゃあ、あなたに採用されたというより、アーロンが私を採用したってことね」
「ま、そういうことだ。奴は僕よりも人を見る目があるからね。常に僕の会社とグループ全体のことを考えてくれている」
だが、アーロンはどういうつもりで彼女を採用したんだ? ディーターはちらりと思う。ぶかぶかスーツに玉ねぎヘアーがダイヤの原石と見抜いたからか? だが、今回のミッションに美人でセクシーである必要はあるか? どうも腑に落ちないな。
「なんだか腑に落ちない。アーロンがなぜ、私を選んだのか」
美紅は考えながら言った。
「君はなかなか鋭いな」
「あなたって恋人はいないの?」
「いるっちゃいるし、いないっちゃいないな」
「じゃあ、その人に頼めばよかったんじゃない?」
「婚約者の芝居を? 勘弁してくれ。そんなこと頼んだら、勘違いして芝居を真実にしようするだろう。僕は結婚する気はさらさらないからね」
面倒な話題だ、とディーターは眉をひそめた。これだから女は厄介だ。口を開けると二言目には愛だの結婚だのと騒ぎ出す。
ディーターはワイングラスに唇をつけた。ほのかにスパイスの効いたバランスよい果実味。薔薇やスミレの得も言われぬ芳香が口いっぱいに広がる。ブルゴーニュの特級畑で栽培し醸造された赤ワインだ。これ以上の代物はニューヨーク中探してもないだろう。
「結婚しないって、一生?」
ワイングラスを傾けるディーターをじっと見つめ、美紅が言った。美紅の皿はすでに空になっている。給仕長がやってきて恭しく皿を下げた。
「そう。生涯独身だ。家庭を持つ気は一切ない」
ディーターは断言し、芸術的に盛られた牛肉のローストにナイフを入れた。マンハッタンで最も寝かせたエイジングビーフはとろけるほど柔らかく、刃先が抵抗なく埋まってゆく。
「今はそんなこと言ってても、愛する人が見つかれば気が変わるんじゃない」
「無理だろうな。愛する人なんて現れないから」
「……人を愛したことがないの?」
君には関係ない、と突っぱねようとして思い直す。美紅もプライベートを捧げてこの茶番に協力してくれている。自分自身のことをなにも話さないのはフェアじゃない。それに別に隠すことでもない。
「もちろん、愛したことはあるよ。僕が命を捧げ、生涯をともにするならこの人しかいないと思ってた人がいる」
「ごめんなさい。もしかしてその人、亡くなったの?」
「いや。生きてるよ。ピンピンしてる。親父の今の奥さんだよ。実の父に寝取られた」
美紅がはっと息を呑んだ。ディーターは冷静にそれを受け止めた。そりゃ誰でも引くだろうな。
「勘違いしないでくれ。僕は父も彼女も恨んでいない。今はなんとも思っていないし、家族としてうまくやっている。もちろん、当時は親父を憎んだよ。彼女も殺してやろうかと思った。でも、本当に仕方ないんだ。親父はそういう性格なんだよ。他人が持っているものを、どうしても欲しくなる。自分で止められないんだ。彼女も同じだ。金がどうしても欲しくなる。自分でコントロールできない。それが二人のありのままの姿なんだ。彼女の本性を見抜けなかった僕が悪い」
「そのせいで愛を信じられなくなったの?」
「いや、そんな悲愴なもんじゃない。どう言えばいいのかな……愛も信じてるけど、愛だけじゃないんだ。愛こそすべて、というのは極端すぎる。愛がすべてという考えと、金がすべてという考えの二つがあるとする。僕はどちらも真実だと思う。僕が否定したいのは愛や金じゃなくて、その極端さだ。百かゼロかの偏った発想、というのかな」
「わかる。要するに愛も金もどちらも大切ってことね」
「そのとおり。どちらも追いかけてしまうのが人間の性であり、飾らない姿なんじゃないかな。汚い部分も綺麗な部分も、どちらもあって当然。二人はそういう大切なことに気づかせてくれた。金目当ての女も愛だけだという女も、偏っているという点では同じなんだよ。どちらかを隠そうとする人間は、僕にはわかる」
ディーターはふと口を噤んだ。今夜は呑みすぎたかもしれない。いつの間にか店内の照明が少し落ち、静かなピアノの演奏がはじまっている。今までこんなことを誰にも話したことはなかった。ましてや知り合って間もない女になんて。美紅は不思議だ。こちらのペースを乱し、リラックスさせ、たちまち無防備にしてしまう。それは他ならぬ、彼女自身が無防備だからだろう。
「そっかあ。あなたの言うこと、わかる気がするなぁ」
美紅は両手を組んで肘をテーブルに載せた。揃えられたネイルはドレスと同じ深い青に塗られ、ラインストーンが光っている。文字通り爪の先までドレスアップしてきたらしい。
青がよく似合う、とディーターは思った。
「なら、君はなにを一番信じてる? 夢とか愛とかそういうもの?」
「夢だけじゃ、お腹はいっぱいにならない。愛とエゴを見極めるのは難しいわ」
「リアリストだな。悪くないね。ならば、金か?」
「お金は必要ね。けど、お金だけでも幸せになれない。私の中の一番はお金じゃない」
「ならば、なんだ?」
「たぶん、笑われるかも」
「他人の真剣な話を嘲笑するほど落ちぶれてはいないが」
「……私が信じているのは、予感、かなぁ」
「予感?」
「うん。言葉にするのは難しいんだけど、そこになにかがあるかもしれない、っていう予感」
美紅の瞳は光を反射してきらめく。ディーターは不思議と彼女の声に聞き入っていた。
「マンハッタンの夜景を見たときにね、このたくさんの輝きの中にとてつもなくすごいものがあって、それを私が探し出すのをずっと待ってるんだっていう予感がしたの。ワイキキの青い風を感じたり、素敵な音楽を聞いたりしたときの、なにかが起こりそうなワクワクする気持ちも、私が言う予感に含まれるわ。お金とか夢とか愛より、そういう予感を信じてるの」
◆ ◆ ◆
「直感、ですかね」
ハンドルを握るアーロンはいたって真面目で、からかっている様子は微塵もない。
直感てどういうことよ、と助手席に座った美紅は呆れた。そんな理由で自分がフィアンセに選ばれたなんて。
「お宅の会社はいつも直感で人を採用するわけ?」
美紅は、不満に思いながら言った。
いよいよ明日は出国日。フィアンセとしてエーゲ海の島に二週間滞在し、そこでディーターの一族に正式に紹介される。今日もその打ち合わせと準備に追われた。と言っても、美紅はアーロンの言いなりになって必要書類にサインし、右へ左へ移動しているだけだったが。
今は手続きがすべて終わり、アーロンが車で美紅のフラットまで送っていく途中である。その車中で美紅は「なぜ自分をディーターのフィアンセ役に選んだのか」と、アーロンに尋ねたのだ。
もう夜だというのに相変わらずパーク・アベニューは渋滞し、テールランプがずらりと並んでいる。
「採用担当者は別にいます。今回は特別に私が担当しましたが。私に限って言えば概ね直感に従いますね。一〇〇%ではないですが」
アーロンはハンドルを操りながら答え、さらにつけ加えた。
「もちろん、必要な情報をすべて頭に入れておくのが前提です」
「じゃー、私もあなたの直感に引っ掛かったわけだ」
「そういうことです」
ようやく渋滞を抜け、車はスピードを上げはじめた。この分なら、美紅のフラットまであと十分ほどで着くだろう。
「じゃあ理由なんて聞いてもしょうがないのね。直感にあれこれ理屈を求めたって無駄でしょうから」
「あなた以外に適任者はいません」
アーロンは自信たっぷりに断言した。
「随分自信があるのね」
「自信がなければ、そもそも採用担当になりません」
そんな話をしているうちに車は静かに美紅のフラットの前に停車した。美紅は車の知識がないから、この車がとてもいい車だってことしかわからない。夜も更け、辺りは人気がない。足を引きずった野良犬がゴミ箱をあさっている。遠くでパトカーの音が微かに聞こえた。
「あなたはなぜディーターの秘書をやってるの? どうしてこの会社に入ろうと思ったの?」
美紅はふと興味を覚え、聞いてみた。
「ボスとは古いつき合いです。私の両親がボスの実家に住み込みで働いていました。それで歳が近いため兄弟のように育てられました。もちろん、使用人としての分はわきまえるよう教育されましたが」
「そんなに長いつき合いなんだ」
――てっきり、私と同じように採用面接を受けて入社したんだと思っていた。ディーターとアーロンは上司と部下以上に強い絆があるのね。
「ええ。ボスは昔から、なににおいても優秀でした。私はボスとなんでも張り合ってましたよ。学業もスポーツも恋人さえも」
「へええ。じゃあ今も恋人を取り合ったりするの? 女優のメリンダとか?」
美紅はゴシップ誌の表紙を思い浮かべた。あのグラマラスな美人女優をアーロンと取り合っているのかしら?
「あはは。ゴシップ誌はデタラメだらけです。メリンダは一時的に関係を持っただけで、ボスは本気じゃないですよ。取り合いにもならない。どちらも本気にならないと、取り合いできませんからね」
「なぜ、ディーターと張り合うの?」
「私はボスが欲しがるものを欲しくなるんです。無性に」
「それってディーターのお父さんみたいね。実の息子の恋人を寝取った」
アーロンは驚いたように目を見開いた。
「誰からそんな話を聞いたんですか?」
「ディーターご本人から聞いたのよ」
「ボスがそんな話をあなたにしたんですか」
「そうよ。この間のディナーでプライベートな話をたくさんしたの。仮にもフィアンセを演じなきゃいけないんだもん。必要だから話したんじゃない?」
「あなたを信用して話したんでしょう」
「もしくは信用するフリをしているのかもしれないけど」
「そんなことはありません」
「息子の恋人を寝取るなんて……私だったら実の親とはいえ許せないな。死ぬまで顔を合わせたくない」
「ボスのお父上には……キタヤマ・グループの現総帥に当たる方ですが……深い考えがおありなんですよ」
アーロンは子供をあやすように微笑み、言葉を続ける。
「私は総帥には並々ならぬ恩があります。総帥のおかげで体の弱い母は生きながらえましたし、冤罪で刑務所に入れられた父も助け出されました。私に教育を施し、衣食住を与えてくれたのも総帥です」
「ずいぶん人格者みたいな言い方ね」
「実際、人格者ですから。私はこれまで与えられてきたものを返すつもりです。総帥とグループのためにね。総帥の子であるボスに対しても同じ気持ちです。親子関係は悪くとも、私自身はどちらも同じだけ大切です。ボスは信頼できる人ですよ。想像を絶する苦労をして、のし上がった人です。総帥がとても厳しい方だったから」
「想像を絶する苦労、ね。なにもかも恵まれている人にはふさわしくない言葉ね」
美紅は鼻で笑った。――イケメンで御曹司でCEOが苦労ですって? 底辺を這いずり回って生きている私からしたら、ちゃんちゃらおかしいわ。
「裕福でしたが、厳しかったですよ。生まれて間もなく母親が亡くなり、総帥もほとんど家に寄りつかなかったので、ボスはたった一人で幼少期を過ごされました。しかも十三歳になったら身一つでグループのアジア工場へ下働きに出されたんです。大の大人でも音を上げる過酷な労働環境です」
「キタヤマの令息がアジアの自動車工場? ほんとに?」
「ええ。工場の狭い寮に労働者たちと寝泊まりして、朝から晩までラインに立つんです。身分は明かされずにね。将来、グループを背負って立つ者は現場をよく知っておくべきというのが総帥のお考えです。子供は邪魔者扱いされてこき使われたでしょうし、当然、合間を縫って勉強もしなければならない。十六歳になって家に戻られたときには、すっかり人相が変わっていましたよ」
信じられない言葉に、美紅はしばし絶句した。十三歳ですって!?
「可哀想に。十三歳と言えばまだまだ子供じゃない」
美紅は胸が痛くなった。あんなに自信に満ちた姿の裏側に、そんな壮絶な過去があるなんて。勝手に甘ちゃんのお坊ちゃま扱いしちゃった。なのに、ディーターはなにも言わなかった。傲慢だったのは自分のほうだ。
「その後、奨学金をもらって大学に進学し、情報科学の優等学位とコンピューター解析の博士号を取得されました。在学中ご自身で会社を立ち上げて、血のにじむ努力をされて今のボスがあるわけです」
「苦労なんか知らないお坊ちゃまだと思ってた」
「私はボスを尊敬していますよ。ちょっとワガママで傲慢なところもありますが」
「ちょっとどころじゃないでしょ。自信家で自意識過剰で上から目線だわ」
「それはボスがまとっている鎧です。人間は誰しも弱い内面を守るために鎧をまとうでしょう? ボスは繊細で感受性が鋭い。独占欲も強いが、それは寂しさの裏返しです。とても孤独な人なんですよ」
「繊細ねぇ……。けど、孤独というのはわかる気がするな」
――ディーターは私のことを「毛を逆立てた子猫」なんて言ったけど、警戒しているのは彼なのかも。ディーターのような人種は簡単に人を信じない。常に相手の腹を探り、真意を読み取ろうとし、利用されないように目を光らせている。そんなのって疲れるわ。
「……ボスのことを愛しはじめているんですね?」
「えっ?」
美紅はギクリとした。とっさに手と首をぶんぶん振る。
「まさかっ! ないないない。私はお金のために今回の話を引き受けたのよ! それに、まだ二回しか会ってないのに」
「顔に『気になる』って書いてありますよ?」
「なんなの? あなた、占い師でもやってるの?」
「いいえ。他人の感情の動きに敏感なだけです。言葉よりもその口振りが真実を語るんですよ」
「だからなに? 目の前にイケメンでセクシーな男がいたら、誰だってときめくでしょ? ちょっとぐらい」
「特別な感情を抱いてはいけないという条項は、契約書にありませんよ」
「契約書になくても釘を刺されたの。僕のことを好きになるなって」
「ふーん。ボスがそんなことを」
アーロンは考え込むようにハンドルを長い指でトントン、と叩く。
「楽しいバカンスになりそうですね」
「私はあなたみたいに楽しみじゃないし、なんだか怖いの。逃げ出したい。なにかが起こりそうで……」
美紅は不安が膨らみ、無意識に爪を噛む。
「……あ。ごめんなさい。弱気なこと言って。ちゃんと仕事はするつもりだし、契約は守るから」
「いいんですよ。思ったことはなんでも話してください。私が必ずサポートしますから」
つ、とアーロンの親指が美紅の頬を撫で、唇の上で止まった。近くで見るとアーロンの肌は女性のようにきめ細やかで綺麗だ。薄闇の中、至近距離で彼と見つめ合う。アーロンの唇がゆっくり近づいてくる。
「悪いけど」
美紅は右手をすっと伸ばし、四本指で彼の唇を押さえる。そしてひどく冷えた気持ちで、きっぱり告げた。
「あなたとは、そういう気持ちになれないの。全然」
アーロンは小さく笑うと、大人しく体を離した。
「まったく、つれないなぁ。ヒロインは本命以外には目をくれちゃいけない、なんてルールでもあるんですか?」
「私は誰とでもホイホイキスするような女じゃないの! それに、ヒロインじゃないし、本命って誰のことよ?」
アーロンは肩をすくめ、おもむろに車から降り、ぐるりと助手席側に回った。助手席のドアを開け、紳士的に手を差し出す。
「どうぞ、お嬢様。仰せの通り、紳士的にお送り致しましたよ」
「……送ってくれてありがとう」
美紅は素直に手を取って車から降りた。そしてアーロンを見上げ、念を押した。
「あなた、勘違いしてるみたいだけど、ディーターのことは本当になんでもないのよ。あんな超セレブCEOが私なんて相手にするわけないんだから」
「わかってますよ」
そう言ってアーロンはスマートに微笑む。本当にわかってんのかしら? と美紅は怪しむ。
「おやすみなさい、美紅。明日は遅れないようにモーニングコールします。きっと、なにもかもうまくいきますよ。よい夢を」
「おやすみなさい。あなたも、よい夢を」
美紅は上り慣れた古い階段を三階まで上がり、自宅に入り鍵を締め、慎重にチェーンを掛けた。室内はむっとして外より蒸し暑い。しばらく電気もつけずに、ぼんやり立ちすくむ。
明日からいよいよ本番だ。今夜眠ったら明日の朝にはもうエーゲ海に向けて旅立つことになる。そう思ってもなんだか、現実感がない。
……うまくやれるかしら?
美紅は小さく首を横に振った。ううん、考えたって、仕方ない。もう賽は投げられたのだ。成功しようが、失敗しようが、やってみるしかない。もう後戻りはできない。進むしかないのだ。
よし、と美紅は気合いを入れた。
下手くそでもなんでも、とにかくベストを尽くすのよ!
◆ ◆ ◆
かくして、プライベートジェットはジョン・F・ケネディ国際空港から離陸した。
フライトは十数時間。夏季のニューヨークとアテネの時差は七時間だ。プライベートジェットの機内はモノトーンで統一された上品な内装。コックピットから後方まで広々と見渡せる。キッチンやベッドルーム、シャワールームや洒落たバーまであり、快適なフライトが楽しめそうだ。
リムジンといいジェット機といい、お金持ちって高級ホテルのスイートをポケットに入れて持ち歩けるのね、と美紅は感心した。
ざっくりしたベージュのニットワンピースに身を包んだ美紅は、興味津々で歩き回っていた。機内は適度な温度と湿度に保たれ、一般旅客機より清涼な空気に満ちている。大きな冷蔵庫を開けると、豊富な種類のチーズやキャビア、見るからに美味しそうなロティサリーチキンや魚料理などが二人分用意されていた。バーカウンターには色とりどりのボトルがずらりと並び、ワインセラーには世界各国のワイン、シャンパンがぎっしり詰まっている。機内で豪華なパーティーができそうだ。
めちゃくちゃ美味しそう~! ご馳走に目がない美紅は目を輝かせた。
ディーターはリビングエリアにあるソファに腰掛けている。真っ白なシャツに鮮やかなマリンブルーのジャケットを羽織り、カジュアルな白のチノパンというスタイルだ。長い足を組んで悠然と業界紙を広げる様は、まさに一流ビジネスマンの休日といった風情である。
こんなときまでお仕事なんて……美紅はディーターを横目で見て呆れる。あれじゃ、すごい設備も豪華な料理も宝の持ち腐れだわ。
美紅は高いヒールで慎重に歩きながらダイニングを通り抜けてバスルームを覗き、歓声を上げた。
綺麗! 広い! ほとんどホテルのバスルームと同じじゃない!!
壁はピカピカに輝き、カラフルなディスペンサーはどれもお洒落だ。バスタオルもバスローブもあり、有名ブランドのアメニティが揃っている。これだけあれば手ぶらでも大丈夫だったな。スーツケースにシャンプーやリンスの試供品をぎゅうぎゅう詰めてきた美紅は「無駄だったわ」と歯噛みした。どう見てもこっちを使ったほうがよさそうだし。
さらに奥にあるのはベッドルームらしい。立派な木の扉を開け、目に入った光景に美紅はぎょっとした。
ダブルベッド!?
いや、正確にはダブルじゃない。キングサイズだ。いずれにせよ、どう見ても二人で一緒に寝る用である。美紅は動揺を抑えつつ、部屋の端まで歩いてもう一つのベッドを探した。
……ない! ベッドが一つしかないじゃないっ! どういうこと!?
いやいやいや、落ち着け。一つしかないからって一緒に寝るとは限らないから! そうよね? フライトは十数時間だもの、それぐらい起きてられるし。ベッドなんて絶対使わないから大丈夫。
けど、ベッドが一つしかないってことは、あれよね? ディーターがガールフレンドと旅行するときはやっぱり……当然ながら……美紅は一人想像して頬を染めた。
「美紅、おいで」
突然声を掛けられ、美紅は飛び上がった。振り返ると、ディーターがドアの枠に寄り掛かって立っている。
「せっかくだから、あっちで一杯やらないか?」
ディーターは腕を組んだまま、顎でリビングエリアを指した。
「そ、そうね。頂くわ」
美紅は動揺を隠そうと顔を伏せながら彼の前を横切ろうとした。
そのとき。
「待てよ」
低い声と同時に、長い腕が伸びてきて美紅の行く手を塞いだ。
美紅は首だけ横に向け、ディーターを見上げる。彼は美紅を見下ろしながら、傲慢に唇の端を上げた。
「なに、見てた?」
「えっ? えっ? なにって、なにも……。お部屋を見てたんだけど?」
「……嘘が下手だな」
気づくとディーターの両腕に囲われ、逃げ場がなくなっていた。
整った唇が近づいてきて、耳元で低くささやく。
「着くまでこの部屋で過ごさないか? 二人で」
微かな息が耳たぶをくすぐり、首のうしろがゾクリとした。
そのとき、ぐにゃりと右足の踵がヒールから滑り落ち、美紅は真横によろめいた。
「きゃっ!」
そのままディーターのがっしりした左腕に倒れ掛かり、彼に抱きとめられた。
たくましい腕が腰に回り、彼の尖った喉仏と首筋がアップになる。微かに上品なムスクの香りがした。
ドクン、と鼓動が胸を打つ。
血液がすごい勢いで全身を巡り、頬が紅潮してくるのがわかった。
……まずいわ。
不覚にも美紅はときめいてしまった。なんて頼もしいんだろうと。
しかし、実際は下手クソなタンゴでも踊っている体勢だった。
「……まったく。君はいつだってムードもヘッタクレもないな」
ディーターが忌々しそうに舌打ちした。それでもしっかり支えてくれている。
「わ、ご、ごめんなさい。ありがとう」
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