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18. 絶対
絶対、断ろうと思っていたんだが……
なんてことを怜一郎は思う。
夕食の誘いはありがたいが、現在進行形で忙しい。仕事は溜まっているし、すべきことは山ほどある。単なる受遺者と馴れ合うつもりはない。利害のない他人と必要以上に親密になっても面倒なだけだ。
それなのに。
なにをやってるんだ、僕は……
怜一郎は自分で自分がわからなくなる。すぐに帰ると決めていたのになぜか留まってしまった。
時刻は二十時過ぎ。
サラダもパンもビーフシチューも平らげ、初めて飲んだチューハイでいい気分になっている。
ビーフシチューは美味しかった。市販のルーの味らしいが、清良が一人でせっせと作っている姿を想像すると、可愛くてありがたくて美味しく感じられた。
仕事の話をしているうちに人付き合いの大変さに話が及ぶ。
清良は明るく語った。
「うちの工場、人間関係はすっごく良好なんです。ベッタリ仲良しじゃないですけど、お互い協力してそれぞれが腕を磨いている感じで。元々スタッフが少ないんですけど」
清良はチューハイを一口呑み、続けた。
「ほら、点検とか修理って競争したり手柄立てたりってのとは無縁じゃないですか。一人一人が黙々と集中する世界なんで。協力し合うことはありますけど、足を引っ張り合う必要がないんですよね。皆マイペースで集中して作業してます。……あ。ノルマのためにわざとお客様の車を傷つけて、修理代を巻き上げる犯罪ありましたけど。あんなのは論外ですから」
清良は嫌そうに顔をしかめる。少し酔って饒舌になっているらしい。
「私が『直す』っていう行為が個人的に好きなのは……そういうことなんです。車を直してると、車だけじゃなくて自分自身も整って、生活も整って、心も整っていく感じがして。修理が終わると小さな達成感があってそれを少しずつ積み重ねるのが素敵な感覚なんです。無理もしないし背伸びもしない。いつも等身大の自分と向き合ってる感じで。少しずつ車のことも自分のこともより深くわかるような気がして。いい仕事だと思います」
清良は柔らかく微笑む。
「いいですね、そういうの。うらやましいです」
怜一郎は心から言った。いいな。自分もそうありたい。
飲料業界は数字がすべての苛烈な市場だ。何万ケース売るかに全員が躍起になり、他社商品を模倣したり、競合をけん制する行為も横行している。社内でも功績争いは絶えず、派閥を作り、昇進をめぐる駆け引きは常態化していた。
そんな業界にもう慣れたが、たまにふと虚しくなる。なにか人として大事なものを見失ってはいないかと。
大量生産大量消費の世界で、『直す』という営みは特別な領域にあるのかもしれない。
「あ。美味しいチーズがあるんだった。ちょっと切ってきますね」
清良はそう言ってキッチンに立ち、エプロンを着けた。
ゆったりしたスウェットに黄色いエプロンが似合っている。胸のところに例の謎ハリネズミがでかでかとプリントされていた。
よっぽど好きなんだな……
珍妙なハリネズミを熱心に愛でている彼女がおかしくて、吹き出しそうになる。
そうだ。彼女は面白い。最初はクールな印象だったが、意外と親しみやすい。少し変わり者でどこまでもマイペースだ。
そんなところが可愛らしい。
繊細で神経質な結衣とは大違いだ。結衣は常に周りの目を気にして不安で張り詰めていた。
結衣は美人でミステリアスで放っておけない危うさが男女を問わず惹きつけた。結衣と一緒にいるのは刺激的だったが、こちらも常に背伸びをしているような緊張感があった。
今思うと、結衣との結婚生活は冷たい薄氷の上を裸足で渡るようなものだった。どうせいつか砕け散ると知っているのに、幸せになることをあきらめ、すべての感情に蓋をし、ただ結婚という契約に縛られ、壊れるまでの時間を黙々とやり過ごしていた。
それでも結衣を守らなければ、といつも気負っていたっけ。
……もう昔の話だが。
清良と一緒にいると素直に楽しい。肩の力が抜けるし、笑顔になれる。
この、楽しいという感情……シンプルだし、ありふれているが、実は手に入れがたい。今の自分にはその価値がよくわかる。
清良のうしろ姿を見つめながら、そんなことをつらつら考えていた。
室内は清潔に保たれている。脱ぎ捨てたTシャツが落ちていたり、郵便物が手つかずのまま散らかっていたりするが、生活感が息づいている。あちこちに鉢植えが置かれ、植物たちはみずみずしい生気を放ち、部屋の空気を爽やかに満たしていた。きっと丁寧に手入れされているんだろう。
かすかに甘い柑橘系の香りがする。いつまでも嗅いでいたくなるような癖になる香りだ。
彼女は香水をつけるタイプではない。恐らくシャンプーか石けんの香りだろう。
それなのにひどく心惹かれた。清潔さの奥に淡い色香が隠れていて理性をやわく刺激する。
おのずと嗅覚が匂いを追いかけてしまう。
体温が少し上がる心地がした。
清良の日々の生活を想像する。
朝起きて植物に水をやり、工場に下りる。日中は機械オイルに塗れながら、黙々と車を修理する。少しずつ世界を直すみたいに。やり甲斐と満足を見出しながら。
日が落ちたら自宅に戻り、きちんと料理を作る。それを一人で食べ、夜が更けたら眠るんだろう。
静かに繰り返される、穏やかな日々。まるで惑星の周りを音もなく回り続ける衛星みたいに。そこに傷つけ合いも競争もない。偽りも不安も焦りもない。
恐らく彼女の人生はここで完結している。
なんてことを怜一郎は思う。
夕食の誘いはありがたいが、現在進行形で忙しい。仕事は溜まっているし、すべきことは山ほどある。単なる受遺者と馴れ合うつもりはない。利害のない他人と必要以上に親密になっても面倒なだけだ。
それなのに。
なにをやってるんだ、僕は……
怜一郎は自分で自分がわからなくなる。すぐに帰ると決めていたのになぜか留まってしまった。
時刻は二十時過ぎ。
サラダもパンもビーフシチューも平らげ、初めて飲んだチューハイでいい気分になっている。
ビーフシチューは美味しかった。市販のルーの味らしいが、清良が一人でせっせと作っている姿を想像すると、可愛くてありがたくて美味しく感じられた。
仕事の話をしているうちに人付き合いの大変さに話が及ぶ。
清良は明るく語った。
「うちの工場、人間関係はすっごく良好なんです。ベッタリ仲良しじゃないですけど、お互い協力してそれぞれが腕を磨いている感じで。元々スタッフが少ないんですけど」
清良はチューハイを一口呑み、続けた。
「ほら、点検とか修理って競争したり手柄立てたりってのとは無縁じゃないですか。一人一人が黙々と集中する世界なんで。協力し合うことはありますけど、足を引っ張り合う必要がないんですよね。皆マイペースで集中して作業してます。……あ。ノルマのためにわざとお客様の車を傷つけて、修理代を巻き上げる犯罪ありましたけど。あんなのは論外ですから」
清良は嫌そうに顔をしかめる。少し酔って饒舌になっているらしい。
「私が『直す』っていう行為が個人的に好きなのは……そういうことなんです。車を直してると、車だけじゃなくて自分自身も整って、生活も整って、心も整っていく感じがして。修理が終わると小さな達成感があってそれを少しずつ積み重ねるのが素敵な感覚なんです。無理もしないし背伸びもしない。いつも等身大の自分と向き合ってる感じで。少しずつ車のことも自分のこともより深くわかるような気がして。いい仕事だと思います」
清良は柔らかく微笑む。
「いいですね、そういうの。うらやましいです」
怜一郎は心から言った。いいな。自分もそうありたい。
飲料業界は数字がすべての苛烈な市場だ。何万ケース売るかに全員が躍起になり、他社商品を模倣したり、競合をけん制する行為も横行している。社内でも功績争いは絶えず、派閥を作り、昇進をめぐる駆け引きは常態化していた。
そんな業界にもう慣れたが、たまにふと虚しくなる。なにか人として大事なものを見失ってはいないかと。
大量生産大量消費の世界で、『直す』という営みは特別な領域にあるのかもしれない。
「あ。美味しいチーズがあるんだった。ちょっと切ってきますね」
清良はそう言ってキッチンに立ち、エプロンを着けた。
ゆったりしたスウェットに黄色いエプロンが似合っている。胸のところに例の謎ハリネズミがでかでかとプリントされていた。
よっぽど好きなんだな……
珍妙なハリネズミを熱心に愛でている彼女がおかしくて、吹き出しそうになる。
そうだ。彼女は面白い。最初はクールな印象だったが、意外と親しみやすい。少し変わり者でどこまでもマイペースだ。
そんなところが可愛らしい。
繊細で神経質な結衣とは大違いだ。結衣は常に周りの目を気にして不安で張り詰めていた。
結衣は美人でミステリアスで放っておけない危うさが男女を問わず惹きつけた。結衣と一緒にいるのは刺激的だったが、こちらも常に背伸びをしているような緊張感があった。
今思うと、結衣との結婚生活は冷たい薄氷の上を裸足で渡るようなものだった。どうせいつか砕け散ると知っているのに、幸せになることをあきらめ、すべての感情に蓋をし、ただ結婚という契約に縛られ、壊れるまでの時間を黙々とやり過ごしていた。
それでも結衣を守らなければ、といつも気負っていたっけ。
……もう昔の話だが。
清良と一緒にいると素直に楽しい。肩の力が抜けるし、笑顔になれる。
この、楽しいという感情……シンプルだし、ありふれているが、実は手に入れがたい。今の自分にはその価値がよくわかる。
清良のうしろ姿を見つめながら、そんなことをつらつら考えていた。
室内は清潔に保たれている。脱ぎ捨てたTシャツが落ちていたり、郵便物が手つかずのまま散らかっていたりするが、生活感が息づいている。あちこちに鉢植えが置かれ、植物たちはみずみずしい生気を放ち、部屋の空気を爽やかに満たしていた。きっと丁寧に手入れされているんだろう。
かすかに甘い柑橘系の香りがする。いつまでも嗅いでいたくなるような癖になる香りだ。
彼女は香水をつけるタイプではない。恐らくシャンプーか石けんの香りだろう。
それなのにひどく心惹かれた。清潔さの奥に淡い色香が隠れていて理性をやわく刺激する。
おのずと嗅覚が匂いを追いかけてしまう。
体温が少し上がる心地がした。
清良の日々の生活を想像する。
朝起きて植物に水をやり、工場に下りる。日中は機械オイルに塗れながら、黙々と車を修理する。少しずつ世界を直すみたいに。やり甲斐と満足を見出しながら。
日が落ちたら自宅に戻り、きちんと料理を作る。それを一人で食べ、夜が更けたら眠るんだろう。
静かに繰り返される、穏やかな日々。まるで惑星の周りを音もなく回り続ける衛星みたいに。そこに傷つけ合いも競争もない。偽りも不安も焦りもない。
恐らく彼女の人生はここで完結している。
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