インテリ副社長から熱烈に追いかけられています

吉桜美貴

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19. 今夜

 今夜、自分がここに留まった理由を怜一郎はわかった気がした。
 ここが温かいからだ。
 ぬくもりにほっとするから。
 手作りのシチューも、ホームセンターのグラスも、ハリネズミのエプロンも、雑然とした郵便物も、蔓の垂れた鉢植えも、彼女の柔和な笑顔も、ことごとく暖色に染まって見える。
 自分は随分冷たいところにいるんだな、と痛感した。
 仕事はそれなりに楽しい。やり甲斐も充実感もある。自分の手で生み出した飲料が大ヒットしたのは誇らしいし、街でペットボトルを手にする人を見るたびにうれしくなる。
 右肩上がりの売上高と営業利益。そこに役員たちからの羨望と社員たちからの尊敬の眼差しが重なる。
 自分の手がけたジャスミンティーが『世界でもっとも飲まれた』と各種メディアに取り上げられ、優越感に浸れたのも一度や二度ではない。
 だが、心のどこかでわかっていた。
 これは一過性のものに過ぎないと。
 その時代には流行がある。人生にもスポットライトが当たるピークがある。
 やがて流行は去り、ピークは終わり、スポットライトも消える。
 なにもかも流動的で不確かな世の中で大切なのは、自分が幸せかどうか、自分がどう感じるかだ。
 どれだけ売りを上げてもどれだけ資産を増やしても、真に満たされることはなかった。
 むしろ孤独感が無視できないほど膨らんだように思う。
 愛する母はとっくに他界し、父とはそりが合わず険悪だ。いい友人はいるし、知人も多いが、いずれも付き合いは浅い。勝手気ままに生きている弟と今後深く関わることはないだろう。
 幼少の頃から自分をよく知る結衣は死に、唯一心を許していた尊も死んだ。
 置き去りにされた気分だった。
 だが、気持ちがすれ違った人と一緒に暮らすのは一人でいるよりずっと孤独だった。そのことを結衣との生活で学んだ。
 僕は知らないうちにぬくもりに飢えていたんだな……
 自嘲の笑みがこぼれる。今更自覚するとは。
 清良はあったかい。
 華やかさも派手さも刺激もないが、しっかり地に根を下ろしたような安定した温かみがある。
 チューハイを呑みながら彼女の立ち姿から目が離せなかった。
 前から思っていたのだが、彼女の後頭部はとても愛らしい。栗かドングリみたいに丸く膨らんでツヤツヤしている。森のリスなら、本気で追いかけるに違いない。
 かくいう自分も撫で回したい衝動に駆られる。
 下へ行くほど凹んで襟足はギザギザしている。ほっそりして繊細な首に触れてみたくなる。
 こうしていると新婚夫婦みたいだな。
 ふと、そんな発想が脳裏をよぎる。一般的な家庭の場合、妻が料理を作っている間、夫はこんなふうに待つんだろう。
 結衣は料理を一切しなかった。ほとんど外食かケータリングで、家での料理は家政婦に任せていた。別に不満はない。それはそれで楽しかった。
 だが、こんなふうにエプロンをつけて張り切っている奥さんを眺めるのもいいもんだな……
 おのずと笑みがこぼれてしまう。巷でよく聞くあのフレーズ。「ささやかながらも温かい家庭」
 まったく。それがどれだけ難しいことか。簡単に言うな。
 今、目の前に広がる温かい光景は手の届かない幻想だ。
 僕には決して手に入らない。
 無縁のものだとあきらめるしかないんだろうか?
 雪が降りしきる夜、誰もいない家へ帰る途中、ふと目にしてしまう……遠くの一軒家の窓から溢れる団らんの光みたいに。
「はーい、できましたよー」
 明るい声が響き、清良がくるりと振り返る。
 そこで怜一郎は我に返った。
 いや、僕はなにを考えてる? 人様の家でなにを勝手に妄想してるんだ?
「頂き物のチーズを切っただけですけど。あと、スモークサーモンもよかったら」
 清良はにこにこしてテーブルに皿を並べる。
 見ると、チーズの盛り合わせとサーモンのサラダが載っていた。
「あぁ……ありがとうございます。頂きます」
 怜一郎は居ずまいを正して言った。
 ふたたび和やかな雰囲気で会話が始まる。温かさに満ちて心安らぐひとときが。
 ダメだとわかっているのに妄想はとまらない。もしこれが夫婦だったら……と、どうしても想像してしまう。清良の醸し出すぬくもりが決して成し得なかった生活を思い出させる。絵に描いたように円満な夫婦生活を。
 愛のある結婚と家庭円満。
 その言葉は呪いのように影のようについて回って離れなかった。そのことについて考えるたび、結婚に失敗した、人生の選択を誤った、結衣を不幸にした、結衣を殺した、自分はダメな人間だ……と、自責と後悔の念が湧き上がる。みぞおちが重たい暗闇に覆われる。
 清良がうらやましかった。
 彼女はこの先誰かと愛のある結婚をし、温かい家庭を築くのだろう。先祖から受け継ぐ社会的責任も、家柄に縛られた後継者としての使命もない。家の格だの、政略結婚だの、そんなものとは無縁に違いない。
 彼女のように健康で純粋で気立てのいい子なら円満家庭を築くのも容易いだろう。きっと神にも仏にも祝福されるだろうから。
 夫になる男は毎日彼女の手料理を食べ、おかえりなさいと迎え入れられる。夜になればベッドで彼女を抱くんだろう。そこには結衣のときとは違う、温かな営みがある。
 このとき、あの記憶が蘇った。
 先週、工場で彼女がつなぎを脱いだ、あの瞬間が。
 汗で蒸れて光る肌と艶かしいボディライン。一瞬見ただけなのに、細部までくっきりと網膜に焼き付いている。
 健康的で美しく、まぶしいぐらいだった。
 あれほどまでに惹きつけられ、本能を煽られた経験はない。
 息苦しくなり、少し鼓動が速まる。
 そうか。彼女の夫になる男は……
 なぜか無性に腹が立ってきた。
 まだ顔も名前も知らない、未来の清良の夫に猛烈に嫉妬した。むしゃくしゃして誰彼構わず罵りたくなった。
 そして、そんな自分の異常さに気づき、案外酔いが回っているのだと悟った。
 心底そいつがうらやましい。
 毎晩清良と愛し合えるそいつが。
 そいつは彼女の手を引いてベッドに入るんだろう。丸みのある後頭部を撫でながら薔薇色の唇にキスを落とす。甘い香りのする柔肌に包まれ、彼女を十分に濡らしてから、ゆっくりと彼女の中に挿入はいっていく……
 ゾクリ、と尾てい骨に震えが走った。
 それはあまりにも甘美すぎるイメージで。
「日向野さん、どうかしました? お口に合わないですか?」
 キラキラした飴色の瞳がこちらを覗き込んでいる。
 落ち着け。なにをやってるんだ! こんなところでぼんやりしてる場合じゃない。しっかりしろ!
 怜一郎は咳払いを一つし、コップの水を一気に飲む。そして、なるべく感じよく微笑んだ。
「いえ、美味しいですよ。今夜は楽しくてつい飲みすぎてしまいそうです」
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