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22.水がたゆたっている
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「チウ殿は?」
と喉がからからになりながら、アーヘルゼッヘはソンに聞いた。
「お屋敷では?」
と言う当然の答えに、
「そう。そうですよね」
と答えて、アーヘルゼッヘは駈け出した。
森と果樹園の間には溝があって、水がたゆたっている。チウの怒りは、どうしようもない現実への怒りだ。この水が都にあれば、従妹の命は救えるはずだ。なのに、水を運ぶ手段がない。
アーヘルゼッヘは、遠い都を思い浮かべる。もしも、北の者達だったら、都をさっさと替えただろう。必要な機能がそろえば、別にどこでもいいではないかと思うはずだ。
もしも、北の館に水がなくなり住めなくなったら、井戸を深く掘りなおすだろう。それでも水が見つからなければ、別に館を探すはずだ。住めない場所に住む必要はさらさならい。その場が恋しいならば、時々、やってくればいい。移動はそれほど苦ではない。
しかし、人間はそうはいかない。人の足か、馬車か、馬で動くことしかできない。大きな荷物は移動できない。それこそ、しばしの滞在用に水を湖ごと運んでしまえばいいではないか、と言う考え方は、人にはできない。
館は静まり返っていた。二本の柱の門柱に、ランプがぶら下がる。階段を駆け上がるといつもなら慌てて足の裏を拭いに来る家人の姿が見当たらない。柱しかない、森の中にあるようながらんとした広間。中央の木のソファーも、長庇の下のテーブルも、花や果物が添えられているだけで人気がない。
アーヘルゼッヘは中へ走る。奥へ続く回廊は、森の中を縦横に巡っている。東屋や、入口のような壁のない広間や、風をしのげる寝室替わりの葉の壁のある家が、回廊でつながっている。中には、レンガ造りの土台のある厨房もあれば、石造りの倉庫もある。
森の中に差し込む星明かりに照らされて、アーヘルゼッヘは部屋を探した。
初日に、アーヘルゼッヘがどうしても入れなかった、負の感情の回線がつながっているあの部屋を。避けていたから忘れたのか、負の感情を感じられないから気がつけないのか、アーヘルゼッヘには、見つけられない。部屋がない。そんなはずはないのだが、あの、居心地よさそうなクッションとはね上げた板窓の部屋を見つけられない。
「どうしたんです?」
慌ててついてきたソンが、立ち止まったアーヘルゼッヘに、やっと捕まえたというような顔で聞いた。アーヘルゼッヘは、ソンの声を聞きながら、首を振った。どうもしない。何も起きない。起こらない。チウの従妹を助けるために誰も動けない。アーヘルゼッヘは、回廊の手すりに手をおいた。
緑の香りが鼻を覆う。胸一杯に吸い込むと、どこからか水のせせらぎが聞こえてくる。さらに大きく息を吸う。横に立つソンの呼吸音が大きく聞こえ、早い鼓動が耳を打つ。アーヘルゼッヘの目に見える、森を照らす銀の光をじっと見た。うっすらとアーヘルゼッヘの瞳の色が銀色へと輝き始める。ソンが驚いたように、半歩下がった。
しかし、アーヘルゼッヘは気付かなかった。やけに鼓動が速くなった、と思った程度だ。さらに、静かに息を吸い、そこで止めた。すると、森の虫の羽の音から、降り注ぐ星の光の音色まで、アーヘルゼッヘの全身に降り注ぎだし、獣の鼓動や葉擦れの音まで耳元で轟音のように湧き上がった。
アーヘルゼッヘの全身は銀色に輝きだしていた。銀色の美しい彫り物が、森を背にして回廊にたたずんでいるように見えた。美しい、とソンが恐ろしさを超えた美しさに目を奪われた瞬間、あたりは真昼様に輝いた。あまりの明るさに、痛さを感じ、目を閉じた。
アーヘルゼッヘは、音の渦の中にいた。土を潜るミミズの音を聞き、モグラの鼓動を聞いて、濁流のように流れる地底の水音を聞いた。そして、ソンの声を聞いた。
「私が王を説得しよう。貴殿にも、姫巫女が燃え尽きるより、貴殿にとって都合の悪い大陸の英雄が燃え尽きる方がよほどいいはずだ」
答える声は大きすぎ、アーヘルゼッヘは聞き取れなかった。チウはささやくような声で話しているようだった。
「なら、私がここから言うべきか? 水の種は盗まれた。その証拠に、都の日照りが続いている。そう、公言してまわろうか?」
「そうだろう。大祭には、水の種が必要だ。都の使者が待っている水の種があるはずだ、とだれもが思う。だから、都はちょっと日照りが続いている。そう思わせることができる。しかし、大祭が終わったら? そんな立派なことがいえるのか? こうやって話ている間にも、水は離れていくのだろう? なら、姫巫女を放せ。そうだ、ここへ飛ばしてくれ。私が説得してみせよう。おまえにとっても大事な姫だ。義理とはいえ、おまえの愛娘なのだからな」
アーヘルゼッヘは、手を差し出した。轟音のような声は否定しているように響いた。しかし、チウは根気よく相手を説得し続けている。
「できない? そんなはずはあるまい。人一人、砂漠の先へ送るくらい、簡単だろう。声を届けるのとさして差はない。私が逃げる? その力からいったいどうやって逃げ切れると言うのだ? え?!」
と言う声を聞いた。アーヘルゼッヘは、チウの声を聞きながら、鼓動を探した。
チウによく似た鼓動がどこかにあるはずだった。アーヘルゼッヘは伸ばした手で、似た心臓に触れた。が轟音が甲高い悲鳴に変わった。何か間違えたらしい。大きすぎる音は、アーヘルゼッヘの感覚を消してしまった。恐れとも恐怖とも言えない波が押し寄せたのだが、気づかなかった。アーヘルゼッヘはしびれる指先をさらに先へ延ばした。と、今度は暖かいものに触れた。触れたとたん、そっと掴んで抱き寄せた。
と喉がからからになりながら、アーヘルゼッヘはソンに聞いた。
「お屋敷では?」
と言う当然の答えに、
「そう。そうですよね」
と答えて、アーヘルゼッヘは駈け出した。
森と果樹園の間には溝があって、水がたゆたっている。チウの怒りは、どうしようもない現実への怒りだ。この水が都にあれば、従妹の命は救えるはずだ。なのに、水を運ぶ手段がない。
アーヘルゼッヘは、遠い都を思い浮かべる。もしも、北の者達だったら、都をさっさと替えただろう。必要な機能がそろえば、別にどこでもいいではないかと思うはずだ。
もしも、北の館に水がなくなり住めなくなったら、井戸を深く掘りなおすだろう。それでも水が見つからなければ、別に館を探すはずだ。住めない場所に住む必要はさらさならい。その場が恋しいならば、時々、やってくればいい。移動はそれほど苦ではない。
しかし、人間はそうはいかない。人の足か、馬車か、馬で動くことしかできない。大きな荷物は移動できない。それこそ、しばしの滞在用に水を湖ごと運んでしまえばいいではないか、と言う考え方は、人にはできない。
館は静まり返っていた。二本の柱の門柱に、ランプがぶら下がる。階段を駆け上がるといつもなら慌てて足の裏を拭いに来る家人の姿が見当たらない。柱しかない、森の中にあるようながらんとした広間。中央の木のソファーも、長庇の下のテーブルも、花や果物が添えられているだけで人気がない。
アーヘルゼッヘは中へ走る。奥へ続く回廊は、森の中を縦横に巡っている。東屋や、入口のような壁のない広間や、風をしのげる寝室替わりの葉の壁のある家が、回廊でつながっている。中には、レンガ造りの土台のある厨房もあれば、石造りの倉庫もある。
森の中に差し込む星明かりに照らされて、アーヘルゼッヘは部屋を探した。
初日に、アーヘルゼッヘがどうしても入れなかった、負の感情の回線がつながっているあの部屋を。避けていたから忘れたのか、負の感情を感じられないから気がつけないのか、アーヘルゼッヘには、見つけられない。部屋がない。そんなはずはないのだが、あの、居心地よさそうなクッションとはね上げた板窓の部屋を見つけられない。
「どうしたんです?」
慌ててついてきたソンが、立ち止まったアーヘルゼッヘに、やっと捕まえたというような顔で聞いた。アーヘルゼッヘは、ソンの声を聞きながら、首を振った。どうもしない。何も起きない。起こらない。チウの従妹を助けるために誰も動けない。アーヘルゼッヘは、回廊の手すりに手をおいた。
緑の香りが鼻を覆う。胸一杯に吸い込むと、どこからか水のせせらぎが聞こえてくる。さらに大きく息を吸う。横に立つソンの呼吸音が大きく聞こえ、早い鼓動が耳を打つ。アーヘルゼッヘの目に見える、森を照らす銀の光をじっと見た。うっすらとアーヘルゼッヘの瞳の色が銀色へと輝き始める。ソンが驚いたように、半歩下がった。
しかし、アーヘルゼッヘは気付かなかった。やけに鼓動が速くなった、と思った程度だ。さらに、静かに息を吸い、そこで止めた。すると、森の虫の羽の音から、降り注ぐ星の光の音色まで、アーヘルゼッヘの全身に降り注ぎだし、獣の鼓動や葉擦れの音まで耳元で轟音のように湧き上がった。
アーヘルゼッヘの全身は銀色に輝きだしていた。銀色の美しい彫り物が、森を背にして回廊にたたずんでいるように見えた。美しい、とソンが恐ろしさを超えた美しさに目を奪われた瞬間、あたりは真昼様に輝いた。あまりの明るさに、痛さを感じ、目を閉じた。
アーヘルゼッヘは、音の渦の中にいた。土を潜るミミズの音を聞き、モグラの鼓動を聞いて、濁流のように流れる地底の水音を聞いた。そして、ソンの声を聞いた。
「私が王を説得しよう。貴殿にも、姫巫女が燃え尽きるより、貴殿にとって都合の悪い大陸の英雄が燃え尽きる方がよほどいいはずだ」
答える声は大きすぎ、アーヘルゼッヘは聞き取れなかった。チウはささやくような声で話しているようだった。
「なら、私がここから言うべきか? 水の種は盗まれた。その証拠に、都の日照りが続いている。そう、公言してまわろうか?」
「そうだろう。大祭には、水の種が必要だ。都の使者が待っている水の種があるはずだ、とだれもが思う。だから、都はちょっと日照りが続いている。そう思わせることができる。しかし、大祭が終わったら? そんな立派なことがいえるのか? こうやって話ている間にも、水は離れていくのだろう? なら、姫巫女を放せ。そうだ、ここへ飛ばしてくれ。私が説得してみせよう。おまえにとっても大事な姫だ。義理とはいえ、おまえの愛娘なのだからな」
アーヘルゼッヘは、手を差し出した。轟音のような声は否定しているように響いた。しかし、チウは根気よく相手を説得し続けている。
「できない? そんなはずはあるまい。人一人、砂漠の先へ送るくらい、簡単だろう。声を届けるのとさして差はない。私が逃げる? その力からいったいどうやって逃げ切れると言うのだ? え?!」
と言う声を聞いた。アーヘルゼッヘは、チウの声を聞きながら、鼓動を探した。
チウによく似た鼓動がどこかにあるはずだった。アーヘルゼッヘは伸ばした手で、似た心臓に触れた。が轟音が甲高い悲鳴に変わった。何か間違えたらしい。大きすぎる音は、アーヘルゼッヘの感覚を消してしまった。恐れとも恐怖とも言えない波が押し寄せたのだが、気づかなかった。アーヘルゼッヘはしびれる指先をさらに先へ延ばした。と、今度は暖かいものに触れた。触れたとたん、そっと掴んで抱き寄せた。
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