北大陸のアーヘルゼッヘ

ふみはなえ

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29.一杯の酒で水に流す

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本当に、一杯の酒で水に流してしまったらしい。先ほどまであった怒りもなければ、侮蔑もない。そうだった、おまえは女か、とでも言いたげに、立ち上がるアーヘルゼッヘに今更ながらと言う感じで、立ち上がるために手を差し出した。女性をエスコートする人間の所作があることは、アーヘルゼッヘも知っていた。しかし、見たのは初めてだった。

そのアーヘルゼッヘでも、これほど神経のこまやかさが全くない、いたわりもなければ、やさしさもない、うっかり手をつかむとそのまま引きずり立たされるか投げ飛ばされそうな、力強さしかない手の差し出し方が、女性用だとは、どうしたって思えなかった。

 アーヘルゼッヘは冷めた目で見ながら、手を片手でたたくと、さっさと一人で立ち上がった。そして、
「大祭を放っておいていいのですか?」
とかなり真剣に気になっていることを聞いた。
「もちろん良くない。私は巫女姫を迎えに来た」
文句はついでだ、と言うことらしい。と、
「なら、わたくしへのあいさつが先ではなくて?」
と言う声が、回廊の対岸から聞こえてくるのだった。

すっかり身支度を整えた、帝国の巫女姫がいた。内庭の向こうに立ち、差し込む木漏れ日の下に立つ。朱色の着物に、銀糸と金糸で鳳凰が羽ばたいている。長い袖は膨らむ着物の裾の下まで広がり、光沢のある白く柔らかな布地の帯が、腰から胸まで覆う。

袖から覗くほっそりした手首には細い透明な輪がいくつも重なり、足もとから覗く布靴は銀の布に朱色の鳥が羽ばたいている。髪は膨らませながら頭上で結いあげ、いくつもの編みこみと光沢のある透明な布とが絡み合い、帽子のように、着物以上に大きく膨らませている。

白い頬には小さい薄い桃色の蝶が飛び、唇は着物に合わせた朱色で、目もとにはどきりとするほど濃い青色を刷いている。その目で、二人を見ると、
「さあ、何をしているのです! 祭りは待ってはくれません。今日の正午には、水の神へ祈を捧げなければならないのではありませんか! 神々はもちろん、祭り自身も、参加しに集まった人々をも、侮辱したことになるのではありませんか?!」
と厳しい声を上げた。

 アゼルがゆったりとした動きで腰を落として胸に手を当てた。後ろに控えていた兵士達はさらに下がって、アゼル以上に腰を落として身をかがめた。アーヘルゼッヘは彼らを眺めて、真似をしようと腰を落とした。が、胸を手に当てる前に、
「ご尊顔を拝し奉り、恐悦至極に存じます」
と言う、固い声に出くわした。

アゼルの、低い感情の消しさった声だった。先ほどまでの、表情があからさまに出る男の声ではなかった。アーヘルゼッヘは驚いて、姿勢を戻してしまった。アゼルを見下ろす形になる。アゼルは、腰を落としたまま、内庭の向こう、離れた場所にたたずむ少女に、床を見ながら、
「このような拙宅にご来場いただくことになり恐れ多くももったいなく存じます」
と平坦な固い声で言った。言われたパソンも黙ったままだ。

アーヘルゼッヘに見せた、つんとした子供っぽい表情もなければ、大人びた慈愛に満ちた巫女姫の顔もない。こちらも、驚くほど表情を消していた。違いと言えば、顔色がやや青ざめているくらいだ。アーヘルゼッヘは床を見る男に、
「巫女姫が助かって嬉しかったのではないのですか?」
「うるさい」
と小声の即答が返ってきた。

「巫女姫を助けたことが、世界にどれほど感謝されるか、つい先ほど言っていたのではありませんか」
「黙りたまえ」
「助かって嬉しいと言うと、喜ぶのではりませんか?」
と言ったところで、アゼルは床に吐き捨てるように、
「身分の違いがある」
とつぶやいた。

「喜びに身分もなにもないでしょう」
「声をかけてよい身分と、声をかけるのも僭越になる身分がある」
「しかし、チウ殿の従妹でしょう?」
「巫女姫である」
と言ったまま、床をにらむようにし、腰をかがめたまま後ずさり始めた。
「アゼル殿!」
「北の方なら治外法権。もとい、それ相応の身分の方とみなすことができる。姫巫女をお連れしてくれ」
と言って、さらに下がっていく。彼の部下はもっと腰を下げながら、もっと素早く下がっていく。アーヘルゼッヘは腹が立ってきた。
「身分が違うかどか知らないが、自分には挨拶に来ないのかと、あの少女は怒っているんですよ。自分で挨拶に、つまりは、文句を言いに出てきたんだ。しゃべっても良いと言うより、しゃべりたいと言う合図じゃないですか!」
アゼルは止まらなかった。アーヘルゼッヘは三歩歩いて、かがんだままのアゼルの前に立つ。

「突然、自分の屋敷から連れ出された十四歳の少女が、従兄の知り合いの顔を見たくて出てきたんですよ。なぜ無視をするのです」
アゼルはそこで動きを止めた。しかし、顔は挙げなかった。アゼルはただ、
「北の者にはわかるまい」
と言っただけだった。アーヘルゼッヘが振り返ると、朝の光の真ん中で、ぽつんと少女がたたずんでいた。きりりとした青い目元は、見開かれている。しかし、中の瞳はガラス玉のようで、何もかも映っているのに、心の動きは全く見えない。
「アゼル殿、巫女姫が泣いている」
とアーヘルゼッヘはつぶやいた。アゼルがはっと顔をあげる。パソンの目に生気が戻る。が、
「アーヘルゼッヘ殿。からかってくれるな」
と苦い声で言うと、顔をあげたついでとばかり身をひるがえして、回廊を後に、広間へ戻ってしまった。と、今度は、本当にパソンの目から一筋の涙がこぼれた。アーヘルゼッヘは、震えるような悲しみの波を感じた。ついさっき、パソンからはじき出たのは喜びだった。朝日の光の下で、アゼルを見つけて、声が弾み、心が温かさと嬉しさではじけ飛んだ。アーヘルゼッヘが思わず見とれるほど、その心のひだは明るく美しかったのだ。

なのに、次に告げた言葉は固く、心の波は潮が引くように引いていき、最後は震えだけが残った。
「アーヘルゼッヘ殿。参りましょう」
アゼルの背を見ながら、ゆっくりとした歩みでアーヘルゼッヘの傍にパソンは近づいてきた。そして、アーヘルゼッヘの横をすり抜けると、顔をそむけて、まるで見られまいとでもするかのように、前に立って、はっきりした声で言ったのだった。
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