北大陸のアーヘルゼッヘ

ふみはなえ

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58.平底の船にパソンが乗って

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馬は全部が残された。漁師に売り払ったらいいと言ったのだが、こんな立派な馬を売りに行ったら泥棒と間違われて捕まってしまいます。と断られ、事が終わったら取りに来る、と言う話になった。

平底の船にパソンが乗って、勧められるままに、続いてアーヘルゼッヘがゼ大臣補佐と乗ると、男達は無言でぐっと海に押しだした。船はゆらっと揺れて海に浮かび、男達が海から次々に乗り込むと、漁師が艫に立ってこぎ出した。

別の船も、船が得意の者がいるのだろう。一人が艫に立ったまま海に出ると、あちらは、海に入ると乗り込むのを待たないで、飛び乗らせながらこぎ出した。

魚の磯臭い匂いがした。小舟のせいか波が大きく、上下に揺れる。アーヘルゼッヘは船べりを掴み正面を見た。すぐ目の前では、同じようにパソンやソンが船べりに掴まっている。船底に渡した板に腰かけて。すぐ脇のゼ大臣補佐が蒼白な顔で目をつぶっている。波に酔い始めているようだった。

黙って腰かけている彼らの顔はみな厳しくて、行く先を深く案じているようだ。視線をあげると、湾の影の向こうに明るい夜空が見えた。群青色の空に星が瞬いていた。銀の月が海原を明るく照らしている。凪いだ美しい海だ。なのに、アーヘルゼッヘのすぐ脇で、波が岩に砕けて轟音が上げる。岩に砕けた波は、山のように膨らんで、風に運ばれ小船の上へ降り注ぐ。船は大洋へこぎ出して、崖下からうねりのある海原へと波間にもまれて進んでいく。

船が小さすぎるような気がした。波が高く先が見えなくなると不安になって、波に乗ってせり上がると落ちる恐怖に体が縮んだ。後ろで力強く竿を漕ぐ漁師がいなければ、アーヘルゼッヘは船べりにつかまり続けていなかったかも知れない。方法はいくらでもあったのだ。先が分からなければ、見える岩へ次々と飛び移って行けばいいだけのことだった。一人で行って、場所を見つけて戻ってくれば、一人づつでも連れて飛べばよかったのだ。先が分からないなら、漁師と一緒に飛んでもよかった。

力が戻って来たのなら、何だってできたのだ。そう思いながら、船の下を力強く押し上げる水の力に不安を感じた。大地よりもなお厚く、岩よりも重く、山よりも大きな力がここにある。小さな船に乗っているせいかもしれなかったが、恐ろしいほど大きな力が船底にあるような気がしたのだ。

これを押し下げる力が本当ん自分にあるだろうか、と思うと不安はさらに大きくなった。空間を作ってそこへ水を押し上げれば、と思ったけれど、下の水は広大な大洋の一部であって、池の水とはわけが違う。広大な水面を下げられるほど、大量に水をひきあげられるだろうか。そんなことをして、この海は傷つかないだろうか、と思ったところで、アーヘルゼッヘは総身に鳥肌が立った。大地をねじれば大地の報いを受ける。と言う言葉は北では当たり前の言葉だ。海をねじれば海の報いを受ける。と言うのだって、同じことだ。

北から来た者が、こんな子供のころから叩き込まれている、単純な法則を忘れてどうするのだろう、と言うような事を忘れていた。

吸い上げた水を戻せば、海はそのまま元に戻る、と言う単純なものではない。水は戻る時にパワーを使う。上から岩を落とせば、水しぶきが上がって周囲を水浸しにする。それと同じで、水を落とせば、しぶきの水が岩をのみこみ岸辺を襲う、かもしれない。

アーヘルゼッヘは必至になって、頭の中で計算しだした。小さな洞窟の水位を一時的に下げるだけでも、膨大な水を動かさなければならない。でも、人のいる場所に水がなければいいだけなら、洞窟の中で移動しながら、一部の水位だけ下げ続ければ良いはずだ。船の下の水をどかすだけなら、動く水の力も小さくなるはずだから、と思ったところで、呼吸をどうするか、と考え始めた。

水をどければ空気が流れ込んでくるはずだ。しかし、この三艘分の人間の呼吸分があるだろうか? 流れ込むのは、自分達が吸った空気しかない。水を押し下げ通った後に水が再び背後で膜になってしまうから、新しい空気の入る隙間がない。それとも、その隙間だけを作りながら水を押し下げていけばいいのだろうか。そんな微調整を海相手にできるのだろうか? どうやったらいいだろう、と思いながら、アーヘルゼッヘは顔をあげた。

いつの間にか、船は大海原から、突き出た岬の下に向かって進路を変えていた。湾と潮の関係か、波は低く船べりを打つ程度になっていた。岬の下に崖が見える。岩に打ちつける波の様子は、先ほど見ていた岩と全く違いがない。ように、アーヘルゼッヘは感じた。しかし、漁師は違っていた。

「崖の下に、中腹に木があります。あの下の大岩の横に穴があるんです」

確かに、奇跡のように、崖に張り付くように突き出た木があった。よじれた、風を右から受けていたのか左にのたうったような木で、その下に子供がよじ登りたがりそうな大岩があった。もちろん、そこに降りれる方法があれば、の話だが。近づいて行くと、岩を打つ波が一部で渦を作っている。渦の向こうに時折暗い穴が見えるのだが、すぐに波に飲みこまれて消えていく。

「あそこです」
と言われた時には、アーヘルゼッヘは唸り声を抑えるのがやっとだった。あそこに洞穴があると言われて、はいそうですか、と思える人間はこの男ぐらいだ。と思った。単に底なしの穴があいているんです、と言われた方がよほどらしく見える。

「では、トレト家の下の船着き場へ参りましょう。あれでは、とても無理ですわ」
と涼やかな声を上げたのはパソンだった。ソンが、長い旅のおかげで慣れてきたせいか、気軽に反対の声を上げた。
「しかし、姫巫女。目の前のそこからは入れれば、地下神殿へ一気に行けます」
「無理ですわ。わたくし、行けといわれても嫌です」
と言ったのは、自分の命の危機を感じてと言うより、ここにいる人間達の命の重さを考えて、と言うような雰囲気だった。このパソンに、か細い声で答えたのは、波によって打ちのめされている船酔い中のゼ大臣補佐だった。
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