北大陸のアーヘルゼッヘ

ふみはなえ

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59.洞窟があります

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「チウ閣下はご無事だという話です。姫巫女はこのまま船着き場へお向かいください。この老人はこのまま洞窟へ参りたいと思います。ひと眼でも早くご無事の姿を拝見したい」

「だめです。ご覧になって! そんな船に顔を伏せているから、あれが見えないのですわ。あれのどこが洞窟ですの! 波しぶきしか見えません」
アーヘルゼッヘはその声を聞き、じっと波を睨んで、低く言う。
「洞窟があります。海中に没しているだけの話です。もっと水位が低く、波が穏やかなら、相当奥まで行けるでしょう」
と言ってから、さらに目を閉じ、心の目を見開いた。漁師がうなずいていたのだが、心の目が見えるものに夢中になって、周囲は見えない。

 細く蛇行する洞穴は、穴と言うより割れ目に近い。岬の岩と大陸の岩との間に裂け目ができて、水が中まで浸食している。ところによっては頭上高くまで割れていて、波が当たる気配もない。
「行けます。これなら十分に空気がある」
とアーヘルゼッヘはつぶやいて、さらに先に目を進めていく。行く先が分かれば、何も船で行く必要もない。神殿が見えれば、そこに直接船を運んでしまえばいい。もし、ちゃんと力が戻っているなら、それだってできるだろう。とアーヘルゼッヘは蛇行する洞窟の中から、一気に大陸の奥へと視線を向けた。とその時、
「灯りだ! ランプじゃないか?」
と声がした。目を開けると、漁師は腰を落として大きな布を船底から引っ張り出しているところだった。

「これをかぶってください。遠目には暗くて見えないはずでさぁ」
言われてアーヘルゼッヘはマントを深くかぶりなおした。夜目に銀の髪は、見てくれと言っているようなものだ。また、パソンも慌てて暗い色の布をかぶった。ひどいにおいがしたようだ。一瞬、躊躇し、それを恥ずかしがっているのが見えた。

パソンの白い顔も布の下に隠れ、竿を抱えた漁師がしゃがみこみながら船に波が当たる音を消そうとでも言うように、ゆっくりと船の向きを変えた。アーヘルゼッヘは低く漁師へ行った。

「行ってください。洞窟へ。波を抑えます。入ってしまえばわからないはずです」
そう言いながら、意識を崖の上へ向ける。ランプを持ってぶらぶらしているのは、町の男のようだった。腰には布を下げているだけで、剣はない。緩めた上着の下から生成りのシャツが見え、ランプをかざして歩いているだけだ。

「探しものらしい」
とアーヘルゼッヘはつぶやいた。つぶやいたところで、はっと意識を上へ向けた。男は、船を探している。海の上を眺めながらランプを振っている。
「男は船を呼んでいるのか」
と考え込んでつぶやくと、ゼ大臣補佐が、
「何ですと!」
と息を吸いながらしわがれた声をあげた。
「どんな男か見えますか?」
「年のころは二十四、五歳。色白の町の男のようです。あまり用心しているように見えないので、危険はないのではありませんか」

「帝都の東部は、テンネに抑えられているのです。彼らの手の者なら、用心する必要もない。用心してくれていたら盗賊であり、密輸船であって、帝都が自分で対処できる。あの男を足止めできないでしょうか? せめてランプをつぶすとか」
とゼ大臣補佐が言った。アーヘルゼッヘは反射的に風を起こして、ランプを飛ばした。が、できたのはそこまでだった。
「北の方!」
と言う漁師の声に、アーヘルゼッヘは意識を船に戻して目を見開いた。絶壁を上に、砕ける波が目の前にあって、渦巻く水が吸い込まれていく穴が見える。こんなになるまで声を上げずに待っていられたなんて、漁師と言い、パソン達と言い度胸がよすぎる。

もっと危機感を持ってくれなければ、と勝手なことを考えた。自分だったら、こんなに自分を信じたりはできない、と心の中で叫びながら、軽く息を吸った。荒れ狂う海は、アーヘルゼッヘの中でうねる波に代わって、うねる波の間に自分をそっとすべり込ませて両腕を開いた。ぐっと手のひらで周囲を押す。すると、
「穴が! 洞窟が見えるぞぉ!」
押し殺したようなソンの声だった。櫂のきしみ音がした。

「海原で、船で下って行くことがあるたぁ思いませんでしたよ」
漁師がそんなことを呟きながら、櫂を漕いだ。アーヘルゼッヘは音を聞くだけで、何もできなかった。目は、重さとしか言いようのない水の塊を見据え、自分が入り込んだ空間に三艘が入るのをひたすら待った。心の中の見えない両手を広げるだけ広げて、手のひらを周囲に向けて押し当てる。
「まるで水の球に入ったようだわ」
パソンの静かな声が聞こえた。
「暗いな」
というソンの言葉を受けて、アーヘルゼッヘは、
「明るい」
とつぶやき返した。

 あたりはぽぉっと明かりがともったように明るくなった。アーヘルゼッヘは、水の中に光を見つけて、これは月の明かだろうか、と思っていたのだが、それが水球に映し出されたようだった。
「不思議だわ。音がしない。海なのに」
パソンの言葉に、
「こんな静かで安全な海はありません」
と漁師が答える。

 のけぞるように崖を見上げる。壁と壁の間でぴちゃぴちゃと水が船にあたっている。斜めの岩壁は、水の中で船底へと消えていく。漁師はまるで毎日通っているかのように漕いで行く。他の二艘もうまいもので遅れがない。
「あれは、何を呼んでいたのだでしょう」
とゼ大臣補佐が考え込むようにつぶやいた。波が消えて顔色が蒼白から青ざめた色へと少しはましに戻ってきている。安心したのだろう。アーヘルゼッヘに言わせると、今、この時ほど危険な瞬間はないのに、と言いたいのだが、水に溶けて水を背中で押すような気持になっているアーヘルゼッヘに人間と会話するような余裕はなかった。

ゼ大臣補佐は続けた。
「私兵か、剣や大砲か。どこかに潜ませた兵士たちの為の兵糧か」
「ゼ大臣補佐。チウ従兄上がいらっしゃりさえすれば、従兄上が自由に動けさえすれば、全てが上手くいきますわ」
とパソンが言った。ゼ大臣補佐は顔をあげて難しい顔をするだけだった。パソンはさらに、
「従兄上は何かを発見なさったのですわ。でなければ、わざわざアーヘルゼッヘ殿を呼んで、指示したりはなさいませんわ」
「何を指示しておられたのだろう」
「ですから、そこに水が湧いていたのかもしれませんわ」
パソンは言いきった。しかし、心なしか言葉が浮いている。
「なぜ、北の方に夢を見せることができたのでしょう」
とゼ大臣補佐が言うと、パソンはさらに、
「それが、バチレスト家の力ですわ」
と言う。ゼ大臣補佐は、
「バチレスト家の力ですか」
と問い返すように言うと、今度はパソンが黙ってしまった。

そんな力があるはずがない。あるとすれば、死の間際の強い思いが北の方の力に触れただけではないか、という無言の問いだった。アーヘルゼッヘは悲しみとともに、ゼ大臣補佐の心の声を聞いた。あれが、人の見る夢だったのか、それとも、最後の叫びだったのか、アーヘルゼッヘにも分からない。わかれるほど人間のことを知らない。もし分かっていたら、このつぶされそうな悲しみに目をつぶろうとしている少女に何かいってあげられたのに、と思いながら目をつぶった。
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