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60.大きなうねりは心地よかった
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ひたひたと自分に沁み入る海に、徐々に自分が消えていきそうな感じになる。このまま、海に溶けて何もかも忘れてしまってもいいかもしれない、と思うほど、大きなうねりは心地よかった。アーヘルゼッヘは、水晶の中で眠る人々はこんな気持ちかもしれない、と思いながら、自分もあの中の一人になりたいのかもしれない、と思った時だった、
「岩棚です! 上がれます」
という声が上がった。
ソンの興奮した声だ。彼は、ずっと怖かったらしい。アーヘルゼッヘが海に溶け込む夢を見ている真っ最中に、固いふちだらけの岩がぱっとはじけたような気配を感じた。ソンがほっとした瞬間だった。おかげで、アーヘルゼッヘは幻の和やかさから、重い水のうねりへと意識を戻した。あのまま溶けていたら、この見えない両手をはずし人間を水の底に沈めてしまうところだった。アーヘルゼッヘは、ひやりとした。心地よい気持ちの向こうに、彼らの死があったのかもしれないと思うと、自分の心が怖かった。
アーヘルゼッヘは海と自分の間に線を引きながら、しっかりと押し返し、同時に、心の迷いも押し返しながら、彼らと一緒に船を下りた。そして、船を見て、立ち止まった。みな同じことを考えたらしい。岩棚に上がった人々は、それぞれ手分けして船を両手で引き上げて、そこから上へ紐をかけてひっぱりだした。
「待ってください。時間がかかる上に、無駄です!」
「三艘もの船を無駄にはできない」
「それでも。そんな時間はないんじゃないんですかい?!」
「おまえの生活がかかっているだろう」
「後で買えばいいんです」
「そんな余裕があるのか!」
「どっちにしろ、ここから戻れないなら、このまま置いて行くしかないじゃないですか」
「陸に運んでいけばいい」
「いつです? どうやってです!」
アーヘルゼッヘは、彼らに向かって手を挙げた。岩棚は避け目になっていて、上へ上へと続いている。自然の作った坂道だった。
「あそこまで。そこまで運べば、後でここに戻りましょう」
全員が視線を上げた。人の背の二倍ほどの場所だった。しかし、それなら今すぐにでもできる。衛兵はそれならたやすい、というように、船にひもを掛けなおし、船の下には布を敷いて引っ張り出した。家人も同じようにした。旅の供は力仕事が得意らしく、船を漕ぐのと同じくらいやすやすと運びはじめた。
「その代り、帰りも船を漕がなければなりませんが」
とアーヘルゼッヘは言った。この洞窟を抜けるのは、漁師でも気が張っていたようだ。うっすらと額に汗が滲んでいた。気配にすら見せなかったのがすごい、と思っていたら、漁師は、
「そんなこたぁたやすいです。漁師に船をこぐなという方が難しいですから」
と答え、静かに、穏やかな声で、
「ありがてぇ」
と言って、頭を下げた。
アーヘルゼッヘは首を左右に振った。漁師は急いで船を運ぶのを手伝いだして、パソンはくたびれきっているゼ大臣補佐を抱えるようにして、船の後を追った。アーヘルゼッヘは水をそっとひとつかみ手放した。すると大きな水音を立てて水嵩が上がった。彼らの後を追いながら、二つかみの水を手放した。すると波が足元までどっと上がって、跳ねかえる。少しずつ、水を手放すように放していく。水は天井に上がっていたものが、徐々に下へ降り出して、床や自然の坂を埋め尽くし始める。
気がつくと、船の脇でつま先まで来る水を見下ろしていた。
「すごいですわ」
とパソンがつぶやき、誰かが神への感謝を呟いた。すると素早く、パソンが、
「それは、アーヘルゼッヘ殿への感謝ですわ。もちろん、神が引き合わせてくださったのですけれど」
と言った。神への感謝を呟いた男は顔を赤らめながら、アーヘルゼッヘへ向かってもごもごと感謝の言葉をつぶやいた。すると、そばにいた男達が同じように、つぶやいて、パソンが腰をかがめて、
「神とアーヘルゼッヘ殿への感謝を」
と言って、額に手を添えて小声で謝辞を呟いた。男たちはもちろん、ゼ大臣補佐までさらに深く腰をかがめて感謝のしるしに額に手の項を押しあてた。
アーヘルゼッヘは初めて海を手放した。そこで、やっとここに戻って彼らを見た。どどーんという音とともに世界が戻る。ひんやりとした洞窟の冷気が頬を撫でる。頭上から滴る水滴に、ぬめりのある両側の壁。先細く上へあがる石段がみえる。自然が造った緩やかな段が、狭間の中へ消えていく。アーヘルゼッヘはそこでやっと彼らを見た。
人がいる、と言うことにほっとして緊張が溶けていく。人の気配が心地よい。そう感じて、アーヘルゼッヘは苦笑した。心を閉じなければと思うほど恐怖を感じた人間達が、今はとても頼もしい。自分の心の変化に戸惑いながら、引き揚げた船の周りに立つ彼らを見た。
彼らも同じように海の音を聞いて、目を見張っていた。彼らの視線は足もとの水にあった。凪いでいた洞窟の中の水たまりが、唐突に堰を切ったかのように動き出していた。アーヘルゼッヘの意識が海から人へ戻ったとたんに、自然の力が動き出す。海の水は、渦を巻いて引いては上げての繰り返しを始めていた。大きな波がうねりとなって足もとへ来る。どどーんとどこか岩の間でぶつかった音が響いてくると、穴から水が噴き出した。
見る間に強い力で水が引く。大きな渦が暗い穴に消えていく。水たまりではなく、そこには海があった。水際に立てば足をすくわれ引き込まれそうな波がある。水に入れば、吹き上がる波に、岩にたたきつけられ、あっという間に命を落としてしまうだろう。自分達は、ここを通って来たのだ、と思ったとたん、彼らは本当に畏怖を感じた。しぶきを浴びて微笑んでいるアーヘルゼッヘに言い知れないような恐怖とともに敬意と、怖いような力を感じた。
「岩棚です! 上がれます」
という声が上がった。
ソンの興奮した声だ。彼は、ずっと怖かったらしい。アーヘルゼッヘが海に溶け込む夢を見ている真っ最中に、固いふちだらけの岩がぱっとはじけたような気配を感じた。ソンがほっとした瞬間だった。おかげで、アーヘルゼッヘは幻の和やかさから、重い水のうねりへと意識を戻した。あのまま溶けていたら、この見えない両手をはずし人間を水の底に沈めてしまうところだった。アーヘルゼッヘは、ひやりとした。心地よい気持ちの向こうに、彼らの死があったのかもしれないと思うと、自分の心が怖かった。
アーヘルゼッヘは海と自分の間に線を引きながら、しっかりと押し返し、同時に、心の迷いも押し返しながら、彼らと一緒に船を下りた。そして、船を見て、立ち止まった。みな同じことを考えたらしい。岩棚に上がった人々は、それぞれ手分けして船を両手で引き上げて、そこから上へ紐をかけてひっぱりだした。
「待ってください。時間がかかる上に、無駄です!」
「三艘もの船を無駄にはできない」
「それでも。そんな時間はないんじゃないんですかい?!」
「おまえの生活がかかっているだろう」
「後で買えばいいんです」
「そんな余裕があるのか!」
「どっちにしろ、ここから戻れないなら、このまま置いて行くしかないじゃないですか」
「陸に運んでいけばいい」
「いつです? どうやってです!」
アーヘルゼッヘは、彼らに向かって手を挙げた。岩棚は避け目になっていて、上へ上へと続いている。自然の作った坂道だった。
「あそこまで。そこまで運べば、後でここに戻りましょう」
全員が視線を上げた。人の背の二倍ほどの場所だった。しかし、それなら今すぐにでもできる。衛兵はそれならたやすい、というように、船にひもを掛けなおし、船の下には布を敷いて引っ張り出した。家人も同じようにした。旅の供は力仕事が得意らしく、船を漕ぐのと同じくらいやすやすと運びはじめた。
「その代り、帰りも船を漕がなければなりませんが」
とアーヘルゼッヘは言った。この洞窟を抜けるのは、漁師でも気が張っていたようだ。うっすらと額に汗が滲んでいた。気配にすら見せなかったのがすごい、と思っていたら、漁師は、
「そんなこたぁたやすいです。漁師に船をこぐなという方が難しいですから」
と答え、静かに、穏やかな声で、
「ありがてぇ」
と言って、頭を下げた。
アーヘルゼッヘは首を左右に振った。漁師は急いで船を運ぶのを手伝いだして、パソンはくたびれきっているゼ大臣補佐を抱えるようにして、船の後を追った。アーヘルゼッヘは水をそっとひとつかみ手放した。すると大きな水音を立てて水嵩が上がった。彼らの後を追いながら、二つかみの水を手放した。すると波が足元までどっと上がって、跳ねかえる。少しずつ、水を手放すように放していく。水は天井に上がっていたものが、徐々に下へ降り出して、床や自然の坂を埋め尽くし始める。
気がつくと、船の脇でつま先まで来る水を見下ろしていた。
「すごいですわ」
とパソンがつぶやき、誰かが神への感謝を呟いた。すると素早く、パソンが、
「それは、アーヘルゼッヘ殿への感謝ですわ。もちろん、神が引き合わせてくださったのですけれど」
と言った。神への感謝を呟いた男は顔を赤らめながら、アーヘルゼッヘへ向かってもごもごと感謝の言葉をつぶやいた。すると、そばにいた男達が同じように、つぶやいて、パソンが腰をかがめて、
「神とアーヘルゼッヘ殿への感謝を」
と言って、額に手を添えて小声で謝辞を呟いた。男たちはもちろん、ゼ大臣補佐までさらに深く腰をかがめて感謝のしるしに額に手の項を押しあてた。
アーヘルゼッヘは初めて海を手放した。そこで、やっとここに戻って彼らを見た。どどーんという音とともに世界が戻る。ひんやりとした洞窟の冷気が頬を撫でる。頭上から滴る水滴に、ぬめりのある両側の壁。先細く上へあがる石段がみえる。自然が造った緩やかな段が、狭間の中へ消えていく。アーヘルゼッヘはそこでやっと彼らを見た。
人がいる、と言うことにほっとして緊張が溶けていく。人の気配が心地よい。そう感じて、アーヘルゼッヘは苦笑した。心を閉じなければと思うほど恐怖を感じた人間達が、今はとても頼もしい。自分の心の変化に戸惑いながら、引き揚げた船の周りに立つ彼らを見た。
彼らも同じように海の音を聞いて、目を見張っていた。彼らの視線は足もとの水にあった。凪いでいた洞窟の中の水たまりが、唐突に堰を切ったかのように動き出していた。アーヘルゼッヘの意識が海から人へ戻ったとたんに、自然の力が動き出す。海の水は、渦を巻いて引いては上げての繰り返しを始めていた。大きな波がうねりとなって足もとへ来る。どどーんとどこか岩の間でぶつかった音が響いてくると、穴から水が噴き出した。
見る間に強い力で水が引く。大きな渦が暗い穴に消えていく。水たまりではなく、そこには海があった。水際に立てば足をすくわれ引き込まれそうな波がある。水に入れば、吹き上がる波に、岩にたたきつけられ、あっという間に命を落としてしまうだろう。自分達は、ここを通って来たのだ、と思ったとたん、彼らは本当に畏怖を感じた。しぶきを浴びて微笑んでいるアーヘルゼッヘに言い知れないような恐怖とともに敬意と、怖いような力を感じた。
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