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64.ここに神がおいでです!
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アーヘルゼッヘは呆然としていた。怒りに爆発していたはずの自分の気持ちがどこに行ったのか全く分からなくなっていた。それどころか、落ちたはずなのに、欄干の上に戻っていた二人が、柱の脇にしゃがみこんで猛烈な勢いで話し始めていた。
「ここに神がおいでです! 私は見ました!」
と言う声だった。また、宙を動いた彼らを見ていた人々も、同じように感じたらしい。
「神が我らを助けてくださる。これでもう大丈夫だ」
その声に、アーヘルゼッヘは、我に返った。アーヘルゼッヘは声を上げた。
「ここに人を落としてはダメだ! 生贄なんか神にはいらない。土がさらに固くなる」
と訳が分からない言葉だった。なのに、パソンが振り返り、
「それでは何が必要ですか?」
と聞いたのだ。アーヘルゼッヘは言葉を飲んだ。
「何が必要かおっしゃってください」
「水を引くことです。と言うよりも、水脈を脈打たせて、水を送ることです」
と言うと、パソンは深くうなずいた。そして、言った。
「みなさん。聞かれましたか? 我らが神は、帝都に水を引けと仰せです。贄はいらぬと仰せです。みなさん、聞こえていますか!」
ざわめきに向かって、パソンがさらに声を上げた。
「ここにおわす我らが神が、仰せです! 水を帝都に引くように、王宮へ使者をお出しなさい。水脈を波打たせよと仰せです」
いや、それはできないのではないか、とアーヘルゼッヘは思った。もちろん、見降ろしていた人々も同じように思ったのでないだろうか。しかし、パソンが、きっぱりとした声で、
「神の声です。贄ではなく、知恵を出せと仰せです!」
と言うと、人々は欄干からはっと顔をあげた。何かが彼らの心に触れたらしい。彼らは、周囲を見回した。あのテンネと言う男を探していたらしい。しかし、テンネはいつの間にか消えていた。パソンが、上へ向かって、
「上へ上がります。階段をおろしてください」
と言うと、それが合図であったかのように、全ての人々が動き始めた。アーヘルゼッヘの目の前で落ちた若者は、まっさきに大事に抱えられて引き揚げられていった。白いローブに華麗な組みひもを巻いた若者や女性が、桶を持って次々に洞窟へ降りて行く。アーヘルゼッヘ達の来た水際へ行き清める水を汲んでくる。
アーヘルゼッヘは、パソン達と共に、つり下ろされた立派な木の階段を昇った。ドームは盛り上がった岩の上にあった。ドームを支える柱は一本一本が、人が一人横になれそうなほど太かった。アーヘルゼッヘは柱の脇に立って眼下の街を見下ろした。
朝日が遠い水平線を割り、まっ白い光を放って昇ろうとしていた。白く靄がかった街では、建物が光を受けて、だんだんと白く輝き始める。目を凝らすと、靄の下に人影が見えた。
よく見ると人々が建物の間を埋めている。真っ黒い影のような群衆になって、こちらへ押し寄せていた。目を見張って遠くを見た。水平線に白い帆が見えた。ぽつんぽつんと連なっている。一筋の線を作って、陸地に向かって進んでいる。中央と東の街との城門で騒ぎが上がった。人々の怒りと恐怖と焦燥が、棒を振り上げ、荷車をぶつけ、次から次へと門の上へと人を上らせて行った。
歓声が上がった。と思ったら、悲鳴と怒声があがり、ついで、門が揺れた。遠目には砦のように見える、テラスと弩弓の歩哨の窓がある大きな石の建物が、本当に揺れたように見えた。そして、一筋の煙が昇り、門から火の手が上がりはじめた。
「門が破られました。東の民がなだれ込んでまいります! 中へ。今ならまだ宮殿へ逃げ込めます」
丘をぐるりと囲んでいる長い石段を、白いローブの若者が息せき切って駆けあがってくる。手には剣を、肩には弓を、手には矢づつを握りしめ、神殿の戦闘員か、はたまた戦士が信者になったのか分からなかったのだが、慣れた様子で矢づつを背中にひっかけて、パソンを見ると、
「姫巫女様、あちらへ! どうぞ、あちらからお抜けください」
パソンが首を横に振る。
「今は、いつもの聞き分けの良い、東の民ではありません。違うんです。誰の言葉も聞こえない。外から来る敵におびえて誰の言葉も耳に入ってこないんです!」
ゼ大臣補佐がついと前で出て、若者の前に立つ。低く平板な声で、
「あの水平線の船が敵だとなぜ分かる? どうして分かった?」
「それは、警邏達が東部から引き上げて行ったからです。東の民は、上層部が逃げだした、と叫んでいます」
「警邏達を捕まえろ。なぜ引き揚げたのか確認しなさい」
「しかし、まずはここから引き上げなければ」
「大丈夫です。わたくしが彼らを説き伏せます」
「しかし、姫巫女様!」
「わたくしが彼らをおいてどこへ参ると思っているのですか! あなたも神殿に住まう一人でありましょう。わたくしをなんて御思いか!」
若者は唇を噛んだ。後ろをさっと振り返り、遠く見える城門の火の手をにらんだ。そして声を上げて訴える。
「あの東部の混乱のせいで、敵は悠々と人々の後を追って攻めてきます。彼らが先陣のようなものです。我らが民を説き伏せている間に、敵の民がのうのうとすぐ隣まで来ることでしょう」
「ならば、敵の民も説き伏せるまで」
「何を夢のような事をおっしゃっているのですか! 帝都の要は宮殿と役所と姫巫女ではあられませぬか。あなたに代えはいないのです」
ゼ大臣補佐が手をあげて、若者に向かって再び言った。
「敵が何者か、警邏を捕まえて聞き出して来なさい。大丈夫。ここから外へ逃げる方法はいくらでもある」
若者の不安そうな顔に、
「我らがどうやってここへ来たのか分からぬか? 誰も知らぬ道を通って来たから、ここにいるのだ。心配はいらぬ。敵が何か分からなければ、どこへ行っても逃げ道はないやもしれぬ。さあ、行け!」
若者は「はっ」と声を出す気持ちをさっと切り換えた。と、パソンへ深く視線を落として礼を見せ、背をひるがえして二飛びほどで、文字通り飛ぶように石段を降りて行った。
「ここに神がおいでです! 私は見ました!」
と言う声だった。また、宙を動いた彼らを見ていた人々も、同じように感じたらしい。
「神が我らを助けてくださる。これでもう大丈夫だ」
その声に、アーヘルゼッヘは、我に返った。アーヘルゼッヘは声を上げた。
「ここに人を落としてはダメだ! 生贄なんか神にはいらない。土がさらに固くなる」
と訳が分からない言葉だった。なのに、パソンが振り返り、
「それでは何が必要ですか?」
と聞いたのだ。アーヘルゼッヘは言葉を飲んだ。
「何が必要かおっしゃってください」
「水を引くことです。と言うよりも、水脈を脈打たせて、水を送ることです」
と言うと、パソンは深くうなずいた。そして、言った。
「みなさん。聞かれましたか? 我らが神は、帝都に水を引けと仰せです。贄はいらぬと仰せです。みなさん、聞こえていますか!」
ざわめきに向かって、パソンがさらに声を上げた。
「ここにおわす我らが神が、仰せです! 水を帝都に引くように、王宮へ使者をお出しなさい。水脈を波打たせよと仰せです」
いや、それはできないのではないか、とアーヘルゼッヘは思った。もちろん、見降ろしていた人々も同じように思ったのでないだろうか。しかし、パソンが、きっぱりとした声で、
「神の声です。贄ではなく、知恵を出せと仰せです!」
と言うと、人々は欄干からはっと顔をあげた。何かが彼らの心に触れたらしい。彼らは、周囲を見回した。あのテンネと言う男を探していたらしい。しかし、テンネはいつの間にか消えていた。パソンが、上へ向かって、
「上へ上がります。階段をおろしてください」
と言うと、それが合図であったかのように、全ての人々が動き始めた。アーヘルゼッヘの目の前で落ちた若者は、まっさきに大事に抱えられて引き揚げられていった。白いローブに華麗な組みひもを巻いた若者や女性が、桶を持って次々に洞窟へ降りて行く。アーヘルゼッヘ達の来た水際へ行き清める水を汲んでくる。
アーヘルゼッヘは、パソン達と共に、つり下ろされた立派な木の階段を昇った。ドームは盛り上がった岩の上にあった。ドームを支える柱は一本一本が、人が一人横になれそうなほど太かった。アーヘルゼッヘは柱の脇に立って眼下の街を見下ろした。
朝日が遠い水平線を割り、まっ白い光を放って昇ろうとしていた。白く靄がかった街では、建物が光を受けて、だんだんと白く輝き始める。目を凝らすと、靄の下に人影が見えた。
よく見ると人々が建物の間を埋めている。真っ黒い影のような群衆になって、こちらへ押し寄せていた。目を見張って遠くを見た。水平線に白い帆が見えた。ぽつんぽつんと連なっている。一筋の線を作って、陸地に向かって進んでいる。中央と東の街との城門で騒ぎが上がった。人々の怒りと恐怖と焦燥が、棒を振り上げ、荷車をぶつけ、次から次へと門の上へと人を上らせて行った。
歓声が上がった。と思ったら、悲鳴と怒声があがり、ついで、門が揺れた。遠目には砦のように見える、テラスと弩弓の歩哨の窓がある大きな石の建物が、本当に揺れたように見えた。そして、一筋の煙が昇り、門から火の手が上がりはじめた。
「門が破られました。東の民がなだれ込んでまいります! 中へ。今ならまだ宮殿へ逃げ込めます」
丘をぐるりと囲んでいる長い石段を、白いローブの若者が息せき切って駆けあがってくる。手には剣を、肩には弓を、手には矢づつを握りしめ、神殿の戦闘員か、はたまた戦士が信者になったのか分からなかったのだが、慣れた様子で矢づつを背中にひっかけて、パソンを見ると、
「姫巫女様、あちらへ! どうぞ、あちらからお抜けください」
パソンが首を横に振る。
「今は、いつもの聞き分けの良い、東の民ではありません。違うんです。誰の言葉も聞こえない。外から来る敵におびえて誰の言葉も耳に入ってこないんです!」
ゼ大臣補佐がついと前で出て、若者の前に立つ。低く平板な声で、
「あの水平線の船が敵だとなぜ分かる? どうして分かった?」
「それは、警邏達が東部から引き上げて行ったからです。東の民は、上層部が逃げだした、と叫んでいます」
「警邏達を捕まえろ。なぜ引き揚げたのか確認しなさい」
「しかし、まずはここから引き上げなければ」
「大丈夫です。わたくしが彼らを説き伏せます」
「しかし、姫巫女様!」
「わたくしが彼らをおいてどこへ参ると思っているのですか! あなたも神殿に住まう一人でありましょう。わたくしをなんて御思いか!」
若者は唇を噛んだ。後ろをさっと振り返り、遠く見える城門の火の手をにらんだ。そして声を上げて訴える。
「あの東部の混乱のせいで、敵は悠々と人々の後を追って攻めてきます。彼らが先陣のようなものです。我らが民を説き伏せている間に、敵の民がのうのうとすぐ隣まで来ることでしょう」
「ならば、敵の民も説き伏せるまで」
「何を夢のような事をおっしゃっているのですか! 帝都の要は宮殿と役所と姫巫女ではあられませぬか。あなたに代えはいないのです」
ゼ大臣補佐が手をあげて、若者に向かって再び言った。
「敵が何者か、警邏を捕まえて聞き出して来なさい。大丈夫。ここから外へ逃げる方法はいくらでもある」
若者の不安そうな顔に、
「我らがどうやってここへ来たのか分からぬか? 誰も知らぬ道を通って来たから、ここにいるのだ。心配はいらぬ。敵が何か分からなければ、どこへ行っても逃げ道はないやもしれぬ。さあ、行け!」
若者は「はっ」と声を出す気持ちをさっと切り換えた。と、パソンへ深く視線を落として礼を見せ、背をひるがえして二飛びほどで、文字通り飛ぶように石段を降りて行った。
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