北大陸のアーヘルゼッヘ

ふみはなえ

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75.侍従は老人の声に耳を傾け

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 老人はまだ何かを叫び続け、東屋の周囲にいた侍従達があわただしく出入りしだす。こっけいな姿だった。侍従は老人の声に耳を傾け、そばの近習に小声で命じる。すると、近習の一人が庭から建物へ駈け出して行く。老人は、やっとのことで浮き上がり、四肢を広げてバランスをとり一息ついた。そして言った。

「銀の髪の若者よ。恨みとねたみを買うがよい。北の者であろうが、人間であろうが、さしてかわるまい。バテレスト家は代々の名家じゃ。その主にどこの馬の骨が分からぬ者が立つのじゃ。みなが、バテレスト家を軽く見るようになろう。わしの寵愛のなさを知って、みなが手のひらを返すであろう。おかげで、おまえはバテレスト家の者はもちろん、関係者中から嫌われる」

ひっひっひと老人は笑いつづける。アーヘルゼッヘは後ろへ下がった。湯の上から、湯船の淵へと足を置き、湯の上の老人へ言う。

「私はあなたの臣下じゃない。何を言っても戯言でしかないのだよ」

哀れな老人を見つめ、老人が空気を吐くようにして笑うのを見た。その間に、建物の影から息せき切ってここまで上がって来たのか、厚く重厚なローブをまとった、厚みのある思考が流れ落ちる男が姿を現した。

皇帝と言う地位の飾りを置くために、こんな男がこんな場所まで駆けてくるのか、と男を眺めた。男は、アーヘルゼッヘには一顧だにせず、息を整えながら歩み寄ると、濡れるのもかまわずに片膝をついた。老人は、視線を向けるために手足で湯をかいてみせる。その間、あたりはしんと静まりかえる。

アーヘルゼッヘは、東部区域の外にいる兵士たちのことを考えた。帝都を知り尽くしているはずのテンネが助言する兵が、今すぐにもなだれ込んでくる。東部は大混乱になり、東部の民で破られている門扉は直されていたとしてもすぐに崩される事だろう。

帝都中が混乱の渦になる。中から呼応する者も出てくるだろう。この宮殿からも出るかもしれない。この老人の帝位は短い。しかし、その皇帝を中心にして大臣達が仕えている。ここはそう言う場所なのだ。そう思って、踵を返した。町に下って、パソンを探し、人々を避難させる場所を探さなければならない。

テンネが、帝都を押さえたら、本当に弟を起こそうとするかもしれない。人間が戦で壊した街ならば、壊してもいいと思うようになるかもしれない。そうすれば、逃げ伸びた人々がさらに大きな被害にあう。テンネを止めるべきなのだろうか、と一瞬思った。しかし、戦っているのはテンネではない。彼がささやき野望を育てたセノ卿であり、彼らが組んだのは、諸島の者だ。人との戦に北の者が出てくることはできないはずだ。アーヘルゼッヘが出れないように。

アーヘルゼッヘが歩き出すと、背後で、老人がやっと声を出した。思った方へ頭が向いたらしい。アーヘルゼッヘは振り向かなかった。
「トローネか」
と言った老人の声は、思ったよりもはっきりしていた。
「はっ。ただ今ここへ」
「今は、総務大臣であったかな」
「いえ。昨年からは領主の長を頂戴いたしております」
「そうか、それならばちょうど良い。それ、そこの若者を、バテレスト家の主にすえよ」
と言った。

トローネと呼ばれた男は沈黙した。アーヘルゼッヘは好奇心が湧き上がる。いったいどうやって、この老人のたわごとを、聞いたふりをしながら聞けないと言う風にごまかすのだろうと思ったのだ。老人は言葉をつづけた。

「北の者が宮殿に出入りし、皇帝を脅かすなどと言うことがあるわけがない。この者は、ここまで来て、北の者のふりをしながら、わしに地位をねだってまいった。かわいいではないか。この必死さは、わしへの忠誠心のなせる業じゃ。この者は、ここまでくるほどの知恵がある。また、わしがこれほど無防備でいる場所をわざわざ探せる賢さがある。バテレスト家にはこれほどの知恵者はおるまいよ。主が死んで何かと揺れているであろう。この賢い者を主として、立て直すがよい」
「しかし。これは、バテレスト家の血筋を引いているわけではなく」
「なれば、わしの書庫の家名録からバテレスト家を消しておこう。古い家とは申せ、動乱のもとになっては困る。戻って二十線を引いておこう。別に誰が困ると言うわけでもあるまい。おまえ達は、これまでと同じようにバテレスト家を盛り立てていくのだろうからのう」
そう言って水音がした。アーヘルゼッヘが振り返ると、老人は水を叩いて笑っていた。トローネは、顔をしかめ、そして、驚いたことに、
「わかりました。あの者が、今後、バテレスト家の主にでございます」
と言ったのだった。
 アーヘルゼッヘは動きを止めた。トローネはさらに言う。
「後日、早々に家名目録への追加をいたし、領主議会にはもちろん、帝国議会や帝都広報への手配もいたします」
「そうか。それはよかった。あれはわしの大事な家臣じゃ。かわいくてかわいくてしかたがない。わが寵愛を一身に受けて地位をやったほどの者じゃ。大事にいたせよ」
と言った。トローネの中に黒い物が湧き上がった。老人に向けて下げた顔もまなざしも全く変わらなかったのだが、黒い物は噴き出して、アーヘルゼッヘへ直撃した。

ぶつかった時に、不正への憎悪や、風呂場にまでとり入りに来る者への嫌悪が、アーヘルゼッヘ容赦なく叩きつけられていた。そして、アーヘルゼッヘをちらりと見た。その銀の髪に整った顔を見て、嫌悪はむき出しになった。見ると、湯舟の周りにひざをついて使える若者たちはどれもが美しく整った容姿をしていた。顔だけで来た者か、と言うさげすみに、銀の髪を見た瞬間は、こっけいな姿をしていると言った思いまで加わった。
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