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76.私は人間ではない
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「私は人間ではない」
アーヘルゼッヘが固い声で言うと、
「ならば、北の方は何の許可もなく宮殿の奥庭に参られたと言うことですかな」
とトローネは皮肉に言った。北の方だとは信じていない口ぶりだった。老人は、喉の奥で苦しそうに笑っている。こぼれる声が歪んだ呼吸音にしか聞こえない。アーヘルゼッヘは、
「東部の縁に敵陣が来ている。なのに、皇帝が動こうとしないので話に来ただけだ」
と言うと、トローネは、
「ちょうど良かった。バテレスト家は将軍をも動かす軍属の家だ。下へ行って、軍議に混じっていただこうか」
と言って、苦い笑い顔をした。アーヘルゼッヘは首を左右に振った。
「人間の戦いに参加することはできない」
「人間が何をばかなことを言っているんだ! ここで権力をもらったら、あとは一緒に湯船につかっていれば良いとでも思っているのか?! 何もできないならつっ立っていろ。皇帝の権威がそこにあるのだとみなに知らしめるには絶好の機会だ」
そう言って、今度は深々と皇帝に頭を下げて、後ろに下がりながら立ちあがった。アーヘルゼッヘが動こうとしないのを見て取ると、そばの兵士に声をかけた。兵士は駆け寄ってきてアーヘルゼッヘへ会釈する。手をのばして腕をつかもうとしないのは、地位を与えられたからか、それとも、先ほど宙へ現れたのを見ていたからか分からかなった。ただ、おびえていたことだけは確かだった。
「どうぞ。これ以上、陛下の傍にいらっしゃるのはどうかと存じます」
つまり、トローネが心配したのは、素性のわからない人間が、皇帝の傍にいる、と言うことらしかった。アーヘルゼッヘは歩き出した。庭園の奥へ。彼の言う軍議に行く気は全くなかった。
バテレスト家と言うのが、チウの家だったと言うのも嫌だった。テンネの後釜になったような気しかしない。だいたい、北の者が人間の臣下になると言うことがあり得なかった。植えこみの陰に隠れ、そこから、町のパソン達の方へ飛ぼうとした。そんなアーヘルゼッヘへ、老人がしわがれ声を張り上げた。
「北の者がわが宮殿へ侵入したやもしれぬ。北の大地へ使者を出せ。約定を反古にした者がいるとな。反古の代償は、北の大地であったはずじゃ。どこがいただけるのか問いただせ!」
アーヘルゼッヘは振り返った。
「たわごとだ!」
老人はアーヘルゼッヘを無視し、
「トローネ。この場に人間しかおらぬ、と言うのは錯覚であるぞ。わしに従わぬものがこの場所にいられるはずがない」
「しかし、いくら北の方の容姿をマネしているからと言って」
「おまえは先ほどの光を見ていなかったのか? あの恐怖の光を! あの者が出した光ぞ!」
トローネは黙ったまま、アーヘルゼッヘを見た。先ほどの侮蔑や嫌悪と違った意味に怒りが湧き上がっていた。
「陛下。あの者を臣下とし、バテレスト家の主とするのですか?」
声には今までになかった感情があった。怒りや憎悪と言った激情だった。老人は、湯の中で両手を漕いで立ち上がった。胸の下あたりの深さだった。老人は、うなずいて、
「すべてが見える北の者達に知らしめるのじゃ。約定は守られている。わしらは、これを反古とは思うておらぬ。その証拠に、大事な家名を一つ奴らにくれてやった。人間としか思うておらぬと伝えるのじゃ。その力を得て、東部の敵を蹴散らすがよい」
トローネはかっと眼を見開くと、老人にぐっと力をこめて頭を下げた。
アーヘルゼッヘには、トローネの心の動きが伝わってきた。今、この混乱に乗じて、皇帝をすげ換えようとする動きが出ていたようだ。トローネはそれを阻む側にいた。しかし、はばみたいと思っていたかは分からなかった。トローネは、今、この瞬間、北の者を取り込むことで、自分の地位を守りぬこうとしている老人に、敬意にも似た憎悪を向けた。
アーヘルゼッヘが固い声で言うと、
「ならば、北の方は何の許可もなく宮殿の奥庭に参られたと言うことですかな」
とトローネは皮肉に言った。北の方だとは信じていない口ぶりだった。老人は、喉の奥で苦しそうに笑っている。こぼれる声が歪んだ呼吸音にしか聞こえない。アーヘルゼッヘは、
「東部の縁に敵陣が来ている。なのに、皇帝が動こうとしないので話に来ただけだ」
と言うと、トローネは、
「ちょうど良かった。バテレスト家は将軍をも動かす軍属の家だ。下へ行って、軍議に混じっていただこうか」
と言って、苦い笑い顔をした。アーヘルゼッヘは首を左右に振った。
「人間の戦いに参加することはできない」
「人間が何をばかなことを言っているんだ! ここで権力をもらったら、あとは一緒に湯船につかっていれば良いとでも思っているのか?! 何もできないならつっ立っていろ。皇帝の権威がそこにあるのだとみなに知らしめるには絶好の機会だ」
そう言って、今度は深々と皇帝に頭を下げて、後ろに下がりながら立ちあがった。アーヘルゼッヘが動こうとしないのを見て取ると、そばの兵士に声をかけた。兵士は駆け寄ってきてアーヘルゼッヘへ会釈する。手をのばして腕をつかもうとしないのは、地位を与えられたからか、それとも、先ほど宙へ現れたのを見ていたからか分からかなった。ただ、おびえていたことだけは確かだった。
「どうぞ。これ以上、陛下の傍にいらっしゃるのはどうかと存じます」
つまり、トローネが心配したのは、素性のわからない人間が、皇帝の傍にいる、と言うことらしかった。アーヘルゼッヘは歩き出した。庭園の奥へ。彼の言う軍議に行く気は全くなかった。
バテレスト家と言うのが、チウの家だったと言うのも嫌だった。テンネの後釜になったような気しかしない。だいたい、北の者が人間の臣下になると言うことがあり得なかった。植えこみの陰に隠れ、そこから、町のパソン達の方へ飛ぼうとした。そんなアーヘルゼッヘへ、老人がしわがれ声を張り上げた。
「北の者がわが宮殿へ侵入したやもしれぬ。北の大地へ使者を出せ。約定を反古にした者がいるとな。反古の代償は、北の大地であったはずじゃ。どこがいただけるのか問いただせ!」
アーヘルゼッヘは振り返った。
「たわごとだ!」
老人はアーヘルゼッヘを無視し、
「トローネ。この場に人間しかおらぬ、と言うのは錯覚であるぞ。わしに従わぬものがこの場所にいられるはずがない」
「しかし、いくら北の方の容姿をマネしているからと言って」
「おまえは先ほどの光を見ていなかったのか? あの恐怖の光を! あの者が出した光ぞ!」
トローネは黙ったまま、アーヘルゼッヘを見た。先ほどの侮蔑や嫌悪と違った意味に怒りが湧き上がっていた。
「陛下。あの者を臣下とし、バテレスト家の主とするのですか?」
声には今までになかった感情があった。怒りや憎悪と言った激情だった。老人は、湯の中で両手を漕いで立ち上がった。胸の下あたりの深さだった。老人は、うなずいて、
「すべてが見える北の者達に知らしめるのじゃ。約定は守られている。わしらは、これを反古とは思うておらぬ。その証拠に、大事な家名を一つ奴らにくれてやった。人間としか思うておらぬと伝えるのじゃ。その力を得て、東部の敵を蹴散らすがよい」
トローネはかっと眼を見開くと、老人にぐっと力をこめて頭を下げた。
アーヘルゼッヘには、トローネの心の動きが伝わってきた。今、この混乱に乗じて、皇帝をすげ換えようとする動きが出ていたようだ。トローネはそれを阻む側にいた。しかし、はばみたいと思っていたかは分からなかった。トローネは、今、この瞬間、北の者を取り込むことで、自分の地位を守りぬこうとしている老人に、敬意にも似た憎悪を向けた。
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