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77.トローネ
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老人にはその憎悪が見えていたかもしれない。しかし、水を掻いて岸に歩み寄る姿には、そんな気配はまるでなかった。それどころか、水から出した体の重さに足がふらつき、慌てて手を差し伸べる美女達の腕の中に落ちた顔は、どろんとして濁っていた。
トローネは、そんな老人へ再び会釈をすると、アーヘルゼッヘへ視線を向けた。
「バテレスト殿。帝都の民を守るために、そのお力をお分けください」
何の感情もこもらない声で、アーヘルゼッヘへ言った。アーヘルゼッヘは首を左右に振った。
「私は家臣ではありません。ましてや、バテレストでもありません。北の者としてここに居ても、なんら人を害すわけではありません。約定を気にする北の者はいないでしょう」
もしかしたら、チウのように何人も人間の様子を見に、ここに来た者がいたかもしれない。しかし、約定は守られている。人間を傷つける者がいないからだ。チウのように死を迎えるような目にあったとしても、約定は守られているのである。
「見える目がある者で、それを疑うものはいません」
「しかし、人間は見えないのですよ。あなたが北の方であり、その力を存分に見せつけたとなれば、ここに北の方がいるのは世界中で知られることになるでしょう」
「もともと、ここでは北の力が染み出していたのではありませんか? ここを見れないようにブロックをしていた者がいたほどです」
「なれば、今、ここでブロックする者がいて、あなたが何をしているのか見えていなかったらどうでしょう」
そう言って、トローネは口を閉じた。そして、口を閉じたまま、アーヘルゼッヘへ問いかけた。「もし、この瞬間、皇帝が殺されたとして、誰があなたのせいじゃないと思うでしょうか? 人間はあなたのせいだと思うかもしれません。そう思うなら、うれしいと思う者がいるかもしれない」
アーヘルゼッヘは動揺した。老人の周りに立つ女性をじっくりと見つめた。花びらが肌に絡まっているだけで何一つ身に付けてはいない姿だ。武器はない。周囲で水際で片膝をつく少年達も、昼食のテーブルで給仕の支度をするために立ちつくし待ち続けている若者達も、殺気はない。しかし、今この瞬間気が変わったら、素手で首を絞めたってあっという間に折れてしまう。老人はそのくらい細く弱い。トローネは声を出して言った。
「あなたは、陛下の寵愛を受けておられる。疑う者はだれもいまい」
だからこそ、老人は無事でいられるのだ。老人の寵愛を一身に受けている者が北の者だとわかっているから、誰も怖くて手が出せないのだ。その北の者が、ただちに消えたら。その瞬間に誰かが本当に、老人に手をかけるかも知れない。
アーヘルゼッヘがそう思うほど、中二階から若者を突き落とさせた出来事は強烈だった。アーヘルゼッヘへささやく人は、ほとんどが老人を殺したくて仕方がないと言うようだった。ここにはおかしな空気で満ちていた。老人は着物を肩にかけながら水気を拭わせていた。トローネは、東屋から離れ、アーヘルゼッヘへ向かって歩きながら、
「来ていただけますかな?」
と聞いた。今度は感情がこもっていた。怒りでも憎悪でもない、どう動くのだろうと言う好奇心に満ちていたのだ。
「私は力が使えません。人間との戦いなら余計に無理です」
「なら、兵士としてご参加ください。あなたが軍馬にまたがるだけで、周囲に指揮は上がるでしょう」
「私に剣で持って人を殺せとおっしゃるのですか」
「北との戦は避けなければなりません。命を賭してでもあなたの命は守りましょう」
トローネはそう言ってから、
「来ていただけますかな?」
と再び聞いた。アーヘルゼッヘは、
「向こうにはテンネがいます。こちらを知り尽くした男です」
「存じています。我らが帝都の大神官であった男ですから」
トローネはなつかしそうな瞳をしていた。そして、
「チウ閣下が生きておられれば、きっとテンネを止めたでしょう」
と言う。二人は同一人物だった。なのに、別人だと信じている。それが不思議だった。アーヘルゼッヘはさらに言った。
「人間を知り尽くしているかもしれません」
それほど長く生きているから。
「ええ。あの方ほど人間を知り、人間を信じていた人はおられません」
「信じている?」
「ええ。神殿での胸の悪くなるような犠牲を見て、きっと人々は立ち上がるはずだと信じていたはずです。東部での暴動を聞いて、喝采を送っていたかもしれない」
「しかし動乱が起これば、人々が傷つくだけです」
「傷つかずに、じわじわと命がなくなるのを待つよりは、ましだと思う者達がいるのですよ」
「なら! あなたがた、帝都の中枢にいる人間がなんとかすべきではありませんか! まるで、自分が何もできない人間であるかのよういいうのは卑怯だ!」
「できることはやりましょう。できる限りの力で。しかし、できないこともある」
「帝都の水は潤っています。ふいごで水をくみ上げなくても、徐々に、徐々に水量が増えるでしょう」
帝都の地中深くに眠る方が、人々のために水を呼んでいる。眠りながら、いまだに水を呼び続けている。砂漠で流れ始めた水は、自然の力以上に大きな力で東に向かって流れだしていた。
トローネは、そんな老人へ再び会釈をすると、アーヘルゼッヘへ視線を向けた。
「バテレスト殿。帝都の民を守るために、そのお力をお分けください」
何の感情もこもらない声で、アーヘルゼッヘへ言った。アーヘルゼッヘは首を左右に振った。
「私は家臣ではありません。ましてや、バテレストでもありません。北の者としてここに居ても、なんら人を害すわけではありません。約定を気にする北の者はいないでしょう」
もしかしたら、チウのように何人も人間の様子を見に、ここに来た者がいたかもしれない。しかし、約定は守られている。人間を傷つける者がいないからだ。チウのように死を迎えるような目にあったとしても、約定は守られているのである。
「見える目がある者で、それを疑うものはいません」
「しかし、人間は見えないのですよ。あなたが北の方であり、その力を存分に見せつけたとなれば、ここに北の方がいるのは世界中で知られることになるでしょう」
「もともと、ここでは北の力が染み出していたのではありませんか? ここを見れないようにブロックをしていた者がいたほどです」
「なれば、今、ここでブロックする者がいて、あなたが何をしているのか見えていなかったらどうでしょう」
そう言って、トローネは口を閉じた。そして、口を閉じたまま、アーヘルゼッヘへ問いかけた。「もし、この瞬間、皇帝が殺されたとして、誰があなたのせいじゃないと思うでしょうか? 人間はあなたのせいだと思うかもしれません。そう思うなら、うれしいと思う者がいるかもしれない」
アーヘルゼッヘは動揺した。老人の周りに立つ女性をじっくりと見つめた。花びらが肌に絡まっているだけで何一つ身に付けてはいない姿だ。武器はない。周囲で水際で片膝をつく少年達も、昼食のテーブルで給仕の支度をするために立ちつくし待ち続けている若者達も、殺気はない。しかし、今この瞬間気が変わったら、素手で首を絞めたってあっという間に折れてしまう。老人はそのくらい細く弱い。トローネは声を出して言った。
「あなたは、陛下の寵愛を受けておられる。疑う者はだれもいまい」
だからこそ、老人は無事でいられるのだ。老人の寵愛を一身に受けている者が北の者だとわかっているから、誰も怖くて手が出せないのだ。その北の者が、ただちに消えたら。その瞬間に誰かが本当に、老人に手をかけるかも知れない。
アーヘルゼッヘがそう思うほど、中二階から若者を突き落とさせた出来事は強烈だった。アーヘルゼッヘへささやく人は、ほとんどが老人を殺したくて仕方がないと言うようだった。ここにはおかしな空気で満ちていた。老人は着物を肩にかけながら水気を拭わせていた。トローネは、東屋から離れ、アーヘルゼッヘへ向かって歩きながら、
「来ていただけますかな?」
と聞いた。今度は感情がこもっていた。怒りでも憎悪でもない、どう動くのだろうと言う好奇心に満ちていたのだ。
「私は力が使えません。人間との戦いなら余計に無理です」
「なら、兵士としてご参加ください。あなたが軍馬にまたがるだけで、周囲に指揮は上がるでしょう」
「私に剣で持って人を殺せとおっしゃるのですか」
「北との戦は避けなければなりません。命を賭してでもあなたの命は守りましょう」
トローネはそう言ってから、
「来ていただけますかな?」
と再び聞いた。アーヘルゼッヘは、
「向こうにはテンネがいます。こちらを知り尽くした男です」
「存じています。我らが帝都の大神官であった男ですから」
トローネはなつかしそうな瞳をしていた。そして、
「チウ閣下が生きておられれば、きっとテンネを止めたでしょう」
と言う。二人は同一人物だった。なのに、別人だと信じている。それが不思議だった。アーヘルゼッヘはさらに言った。
「人間を知り尽くしているかもしれません」
それほど長く生きているから。
「ええ。あの方ほど人間を知り、人間を信じていた人はおられません」
「信じている?」
「ええ。神殿での胸の悪くなるような犠牲を見て、きっと人々は立ち上がるはずだと信じていたはずです。東部での暴動を聞いて、喝采を送っていたかもしれない」
「しかし動乱が起これば、人々が傷つくだけです」
「傷つかずに、じわじわと命がなくなるのを待つよりは、ましだと思う者達がいるのですよ」
「なら! あなたがた、帝都の中枢にいる人間がなんとかすべきではありませんか! まるで、自分が何もできない人間であるかのよういいうのは卑怯だ!」
「できることはやりましょう。できる限りの力で。しかし、できないこともある」
「帝都の水は潤っています。ふいごで水をくみ上げなくても、徐々に、徐々に水量が増えるでしょう」
帝都の地中深くに眠る方が、人々のために水を呼んでいる。眠りながら、いまだに水を呼び続けている。砂漠で流れ始めた水は、自然の力以上に大きな力で東に向かって流れだしていた。
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