85 / 89
85.曲がりくねった町の通り
しおりを挟む
馬は東部の町中をゆっくりと移動していた。道の煉瓦ははがれ、歩道はところどころで崩れている。押し寄せるような切り立った建物の間を、上からゴミや水が降ってこないか警戒しながら、進んでいく。東部には大通りがない。
あるのは外壁沿いの広い通りか、曲がりくねった町の通りかどちらかだった。方々に小さな丸い広場があって、その中央に井戸があった。しかし、水が出なくなって久しいらしく、井戸の手ポンプの上に、馬草が積まれていたり、壊れた樽が投げ捨てられていたりしていた。
水は、中央区の近くで売っているのが日常になっていたらしい。その日常を彩る人々も、今は姿が見えない。中央区へ逃げた人や、勢いで出かけた人は戻っていなかった上、外壁の外の兵を見て、地階のかつての水路の中に逃げ込んでしまっていた。
「そうですね。私が呼んだようなものかもしれない」
汚れた煉瓦の壁を見上げながら、アーヘルゼッヘはつぶやいた。
自分が北の館を飛び出さなければ、きっとこんなことにはならなかった。と思ったのだ。テンネは、こんなことは考えなかったはずなのだ。たぶん、大祭で水の種の根っこをのばして水を引き、チウとして戻ってきて穏やかに、あの厳しい皇帝のもとで、帝都を見守っていたはずだ。
「つまり、おまえが呼んだわけではないのだな」
とトローネは言った。言ったとたん馬が止まった。
アーヘルゼッヘが顔を上げると、目の前に厚い石の建物があった。見上げると、鐘楼が見え、その脇に物見の窓がついている。帝都最東端にある、街壁を守る巨大な門の塔だった。塔の中の脇に門があり、脇は兵たちが固めていた。周辺は、思った以上に大勢の兵がいた。伝令以外の騎馬兵が来て驚いたらしい。塔の中から、隊長が飛び出してきて、騎乗のトローネを見ると驚いたように敬礼をした。
トローネは胸に手をあてて棒を飲んだように立つ隊長に、額に手を当てることで答えて、
「楽にしろ」
と命じることで、呪縛を解いた。
アーヘルゼッヘはその隙に、トローネの後ろから滑り降りた。そして、振り返る騎乗のトローネを見上げると、
「ここまでです。付いてこないでください。すぐ終わりますから」
と言って、きょろきょろと周囲を見回した。塔へ昇る入口へ走りだした。別に出ていく必要はなかった。すぐそこで、全てが終わる。
アーヘルゼッヘは、追いかけてきたトローネの腕をすり抜け、塔の脇から門の中へ入り込み、石で組まれた簡素な階段を駆け上がった。暗い壁の間から駆けあがると、空に出た。手すりもない、街壁の上だ。鐘楼が脇にそびえ、見張りの兵士が真剣な顔で海の方を見つめている。アーヘルゼッヘが、登りきって街壁を歩きながら振り返ると、東部の建物が見えた。
その向こうに、遠く、朝霞の中にぽっかりと宮殿の丘が浮いている。宮殿の緑の美しさは、これほど離れていてもよく見えた。なのに、ここには水がない。人々が何を思ってあの緑を見つづけただろうと思うと、胸のあたりが痛くなった。草原の水を止め、穀倉地帯を後退させた人がいた。帝都への水がないからだと言って。そうして、帝都への穀物価格を上昇させた。
この東部で、麦を買う資金も、麦を育てる畑もない人々が、その話を聞きいったい何を思っただろう、そう思うと、アーヘルゼッヘはさらに胸が苦しくなった。アーヘルゼッヘは、帝都を見続けていた。
背後には海辺へ続く道があり、ぎっしりと兵士が隙間なく押し寄せている。崖の淵では、空を背にして白いテントの屋根が見え、トップのポールに華やかな布が翻っていた。その前で、遠く壁を見上げる兵士は、こわばった顔でアーヘルゼッヘを見上げていた。その前に立つ弓兵が、かまえたままで動かない。
「何をやっているんですか!」
後から駆けあがってきたトローネが、アーヘルゼッヘの腕をつかんだ。が、その腕をするりとかわした。アーヘルゼッヘは、トローネへ、
「下がっていてください。ここは危険です」
「何を言っているんです。危険なのはあなたでしょう! いくら北の方の姿をしているとは言え、ここは彼らにとっては敵の地です。いつ敵が、あなたに弓を引くか分からない!」
トローネはアーヘルゼッヘの腕をつかんだ。アーヘルゼッヘは振り払おうとして失敗した。
「いいんです。ここにはそのために来たのですから」
そう言うと、トローネは顔色を変えて、今度は何も言わずアーヘルゼッヘを引きずりだした。駆け昇ってきた剣士たちが、盾を掲げて二人を囲んだ。アーヘルゼッヘは足を張って動きを止めた。
「見ていてください。大丈夫ですから。お願いです。必要なことなんです」
とアーヘルゼッヘが口早に言うと、トローネは真剣な顔で、
「あなたは自分がだれか分かっていない。誰であろうが、人間があなたを殺めたとたん、人間は、北の方に滅ぼされるんです」
「そうしたいと思っている者がいることを知っています。しかし、決してそうはならない。大丈夫なんです。ですから」
「つまり、私に、あなたがここで射殺されるのを傍観しろと言うのですか!」
「だから、大丈夫なのです。私は決して死んだりしない」
トローネはアーヘルゼッヘの腕を離した。そうして言った。
「あの大戦で、どれほど多くの若者が、そう言って飛び出して言ったか。私は、将を辞める時に誓ったのです。二度と、ああ云った若者が出ない世界にしようと。あなたが、北の者であろうが、南の人間であろうが、私の目の前で死ぬとわかって飛び出させるわけにはいかない」
「私は若くはありません。わかっているはずです。私は北の者なのです。あなたがたが滅ぼしたくて憎悪をたぎらせていた者なんです!」
トローネは口の中で何かを汚く罵った。自分に罵ったのか、アーヘルゼッヘに罵ったのか分からなかった。しかし、言ったことは簡潔だった。
「ばかも休み休み言え」
と思うと、
「持ち上げろ。運びおろすぞ」
とトローネが言った。すると、兵たちが、盾を捨て、アーヘルゼッヘを体で隠して、手を掴み胴を掴んで持ち上げた。が、中の一人が、アーヘルゼッヘの腰を掴んで顔色を変え、脇から抱き上げようとした兵士が、思わず手を放す。
「何をしているんだ!」
と言うトローネの叱責に、兵士が思わず見返して、
「も、申し訳ありません。女性だとは気が付かなくて」
と慌てて手を差し出そうとした。と言うと、他の兵士が固まった。トローネも、えっと言うようにアーヘルゼッヘの顔を見た。
あるのは外壁沿いの広い通りか、曲がりくねった町の通りかどちらかだった。方々に小さな丸い広場があって、その中央に井戸があった。しかし、水が出なくなって久しいらしく、井戸の手ポンプの上に、馬草が積まれていたり、壊れた樽が投げ捨てられていたりしていた。
水は、中央区の近くで売っているのが日常になっていたらしい。その日常を彩る人々も、今は姿が見えない。中央区へ逃げた人や、勢いで出かけた人は戻っていなかった上、外壁の外の兵を見て、地階のかつての水路の中に逃げ込んでしまっていた。
「そうですね。私が呼んだようなものかもしれない」
汚れた煉瓦の壁を見上げながら、アーヘルゼッヘはつぶやいた。
自分が北の館を飛び出さなければ、きっとこんなことにはならなかった。と思ったのだ。テンネは、こんなことは考えなかったはずなのだ。たぶん、大祭で水の種の根っこをのばして水を引き、チウとして戻ってきて穏やかに、あの厳しい皇帝のもとで、帝都を見守っていたはずだ。
「つまり、おまえが呼んだわけではないのだな」
とトローネは言った。言ったとたん馬が止まった。
アーヘルゼッヘが顔を上げると、目の前に厚い石の建物があった。見上げると、鐘楼が見え、その脇に物見の窓がついている。帝都最東端にある、街壁を守る巨大な門の塔だった。塔の中の脇に門があり、脇は兵たちが固めていた。周辺は、思った以上に大勢の兵がいた。伝令以外の騎馬兵が来て驚いたらしい。塔の中から、隊長が飛び出してきて、騎乗のトローネを見ると驚いたように敬礼をした。
トローネは胸に手をあてて棒を飲んだように立つ隊長に、額に手を当てることで答えて、
「楽にしろ」
と命じることで、呪縛を解いた。
アーヘルゼッヘはその隙に、トローネの後ろから滑り降りた。そして、振り返る騎乗のトローネを見上げると、
「ここまでです。付いてこないでください。すぐ終わりますから」
と言って、きょろきょろと周囲を見回した。塔へ昇る入口へ走りだした。別に出ていく必要はなかった。すぐそこで、全てが終わる。
アーヘルゼッヘは、追いかけてきたトローネの腕をすり抜け、塔の脇から門の中へ入り込み、石で組まれた簡素な階段を駆け上がった。暗い壁の間から駆けあがると、空に出た。手すりもない、街壁の上だ。鐘楼が脇にそびえ、見張りの兵士が真剣な顔で海の方を見つめている。アーヘルゼッヘが、登りきって街壁を歩きながら振り返ると、東部の建物が見えた。
その向こうに、遠く、朝霞の中にぽっかりと宮殿の丘が浮いている。宮殿の緑の美しさは、これほど離れていてもよく見えた。なのに、ここには水がない。人々が何を思ってあの緑を見つづけただろうと思うと、胸のあたりが痛くなった。草原の水を止め、穀倉地帯を後退させた人がいた。帝都への水がないからだと言って。そうして、帝都への穀物価格を上昇させた。
この東部で、麦を買う資金も、麦を育てる畑もない人々が、その話を聞きいったい何を思っただろう、そう思うと、アーヘルゼッヘはさらに胸が苦しくなった。アーヘルゼッヘは、帝都を見続けていた。
背後には海辺へ続く道があり、ぎっしりと兵士が隙間なく押し寄せている。崖の淵では、空を背にして白いテントの屋根が見え、トップのポールに華やかな布が翻っていた。その前で、遠く壁を見上げる兵士は、こわばった顔でアーヘルゼッヘを見上げていた。その前に立つ弓兵が、かまえたままで動かない。
「何をやっているんですか!」
後から駆けあがってきたトローネが、アーヘルゼッヘの腕をつかんだ。が、その腕をするりとかわした。アーヘルゼッヘは、トローネへ、
「下がっていてください。ここは危険です」
「何を言っているんです。危険なのはあなたでしょう! いくら北の方の姿をしているとは言え、ここは彼らにとっては敵の地です。いつ敵が、あなたに弓を引くか分からない!」
トローネはアーヘルゼッヘの腕をつかんだ。アーヘルゼッヘは振り払おうとして失敗した。
「いいんです。ここにはそのために来たのですから」
そう言うと、トローネは顔色を変えて、今度は何も言わずアーヘルゼッヘを引きずりだした。駆け昇ってきた剣士たちが、盾を掲げて二人を囲んだ。アーヘルゼッヘは足を張って動きを止めた。
「見ていてください。大丈夫ですから。お願いです。必要なことなんです」
とアーヘルゼッヘが口早に言うと、トローネは真剣な顔で、
「あなたは自分がだれか分かっていない。誰であろうが、人間があなたを殺めたとたん、人間は、北の方に滅ぼされるんです」
「そうしたいと思っている者がいることを知っています。しかし、決してそうはならない。大丈夫なんです。ですから」
「つまり、私に、あなたがここで射殺されるのを傍観しろと言うのですか!」
「だから、大丈夫なのです。私は決して死んだりしない」
トローネはアーヘルゼッヘの腕を離した。そうして言った。
「あの大戦で、どれほど多くの若者が、そう言って飛び出して言ったか。私は、将を辞める時に誓ったのです。二度と、ああ云った若者が出ない世界にしようと。あなたが、北の者であろうが、南の人間であろうが、私の目の前で死ぬとわかって飛び出させるわけにはいかない」
「私は若くはありません。わかっているはずです。私は北の者なのです。あなたがたが滅ぼしたくて憎悪をたぎらせていた者なんです!」
トローネは口の中で何かを汚く罵った。自分に罵ったのか、アーヘルゼッヘに罵ったのか分からなかった。しかし、言ったことは簡潔だった。
「ばかも休み休み言え」
と思うと、
「持ち上げろ。運びおろすぞ」
とトローネが言った。すると、兵たちが、盾を捨て、アーヘルゼッヘを体で隠して、手を掴み胴を掴んで持ち上げた。が、中の一人が、アーヘルゼッヘの腰を掴んで顔色を変え、脇から抱き上げようとした兵士が、思わず手を放す。
「何をしているんだ!」
と言うトローネの叱責に、兵士が思わず見返して、
「も、申し訳ありません。女性だとは気が付かなくて」
と慌てて手を差し出そうとした。と言うと、他の兵士が固まった。トローネも、えっと言うようにアーヘルゼッヘの顔を見た。
0
あなたにおすすめの小説
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
道化たちの末路
希臘楽園
ファンタジー
母亡き後、継承権もない父と愛人母娘が公爵家を狙い始めた。でも私には王太子という切り札がいる。半年間、道化たちが踊るのを、私たちは静かに楽しんで見ていた。AIに書かせてみた第3弾。今回も3000文字程度のお気楽な作品です。
ここは少女マンガの世界みたいだけど、そんなこと知ったこっちゃない
ゆーぞー
ファンタジー
気がつけば昔読んだ少女マンガの世界だった。マンガの通りなら決して幸せにはなれない。そんなわけにはいかない。自分が幸せになるためにやれることをやっていこう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる