北大陸のアーヘルゼッヘ

ふみはなえ

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85.曲がりくねった町の通り

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馬は東部の町中をゆっくりと移動していた。道の煉瓦ははがれ、歩道はところどころで崩れている。押し寄せるような切り立った建物の間を、上からゴミや水が降ってこないか警戒しながら、進んでいく。東部には大通りがない。

あるのは外壁沿いの広い通りか、曲がりくねった町の通りかどちらかだった。方々に小さな丸い広場があって、その中央に井戸があった。しかし、水が出なくなって久しいらしく、井戸の手ポンプの上に、馬草が積まれていたり、壊れた樽が投げ捨てられていたりしていた。

水は、中央区の近くで売っているのが日常になっていたらしい。その日常を彩る人々も、今は姿が見えない。中央区へ逃げた人や、勢いで出かけた人は戻っていなかった上、外壁の外の兵を見て、地階のかつての水路の中に逃げ込んでしまっていた。

「そうですね。私が呼んだようなものかもしれない」

汚れた煉瓦の壁を見上げながら、アーヘルゼッヘはつぶやいた。

自分が北の館を飛び出さなければ、きっとこんなことにはならなかった。と思ったのだ。テンネは、こんなことは考えなかったはずなのだ。たぶん、大祭で水の種の根っこをのばして水を引き、チウとして戻ってきて穏やかに、あの厳しい皇帝のもとで、帝都を見守っていたはずだ。
「つまり、おまえが呼んだわけではないのだな」
とトローネは言った。言ったとたん馬が止まった。

アーヘルゼッヘが顔を上げると、目の前に厚い石の建物があった。見上げると、鐘楼が見え、その脇に物見の窓がついている。帝都最東端にある、街壁を守る巨大な門の塔だった。塔の中の脇に門があり、脇は兵たちが固めていた。周辺は、思った以上に大勢の兵がいた。伝令以外の騎馬兵が来て驚いたらしい。塔の中から、隊長が飛び出してきて、騎乗のトローネを見ると驚いたように敬礼をした。

トローネは胸に手をあてて棒を飲んだように立つ隊長に、額に手を当てることで答えて、
「楽にしろ」
と命じることで、呪縛を解いた。

 アーヘルゼッヘはその隙に、トローネの後ろから滑り降りた。そして、振り返る騎乗のトローネを見上げると、
「ここまでです。付いてこないでください。すぐ終わりますから」
と言って、きょろきょろと周囲を見回した。塔へ昇る入口へ走りだした。別に出ていく必要はなかった。すぐそこで、全てが終わる。

アーヘルゼッヘは、追いかけてきたトローネの腕をすり抜け、塔の脇から門の中へ入り込み、石で組まれた簡素な階段を駆け上がった。暗い壁の間から駆けあがると、空に出た。手すりもない、街壁の上だ。鐘楼が脇にそびえ、見張りの兵士が真剣な顔で海の方を見つめている。アーヘルゼッヘが、登りきって街壁を歩きながら振り返ると、東部の建物が見えた。

その向こうに、遠く、朝霞の中にぽっかりと宮殿の丘が浮いている。宮殿の緑の美しさは、これほど離れていてもよく見えた。なのに、ここには水がない。人々が何を思ってあの緑を見つづけただろうと思うと、胸のあたりが痛くなった。草原の水を止め、穀倉地帯を後退させた人がいた。帝都への水がないからだと言って。そうして、帝都への穀物価格を上昇させた。

この東部で、麦を買う資金も、麦を育てる畑もない人々が、その話を聞きいったい何を思っただろう、そう思うと、アーヘルゼッヘはさらに胸が苦しくなった。アーヘルゼッヘは、帝都を見続けていた。

背後には海辺へ続く道があり、ぎっしりと兵士が隙間なく押し寄せている。崖の淵では、空を背にして白いテントの屋根が見え、トップのポールに華やかな布が翻っていた。その前で、遠く壁を見上げる兵士は、こわばった顔でアーヘルゼッヘを見上げていた。その前に立つ弓兵が、かまえたままで動かない。

「何をやっているんですか!」
後から駆けあがってきたトローネが、アーヘルゼッヘの腕をつかんだ。が、その腕をするりとかわした。アーヘルゼッヘは、トローネへ、
「下がっていてください。ここは危険です」
「何を言っているんです。危険なのはあなたでしょう! いくら北の方の姿をしているとは言え、ここは彼らにとっては敵の地です。いつ敵が、あなたに弓を引くか分からない!」
トローネはアーヘルゼッヘの腕をつかんだ。アーヘルゼッヘは振り払おうとして失敗した。
「いいんです。ここにはそのために来たのですから」
そう言うと、トローネは顔色を変えて、今度は何も言わずアーヘルゼッヘを引きずりだした。駆け昇ってきた剣士たちが、盾を掲げて二人を囲んだ。アーヘルゼッヘは足を張って動きを止めた。
「見ていてください。大丈夫ですから。お願いです。必要なことなんです」
とアーヘルゼッヘが口早に言うと、トローネは真剣な顔で、
「あなたは自分がだれか分かっていない。誰であろうが、人間があなたを殺めたとたん、人間は、北の方に滅ぼされるんです」
「そうしたいと思っている者がいることを知っています。しかし、決してそうはならない。大丈夫なんです。ですから」
「つまり、私に、あなたがここで射殺されるのを傍観しろと言うのですか!」
「だから、大丈夫なのです。私は決して死んだりしない」
トローネはアーヘルゼッヘの腕を離した。そうして言った。
「あの大戦で、どれほど多くの若者が、そう言って飛び出して言ったか。私は、将を辞める時に誓ったのです。二度と、ああ云った若者が出ない世界にしようと。あなたが、北の者であろうが、南の人間であろうが、私の目の前で死ぬとわかって飛び出させるわけにはいかない」
「私は若くはありません。わかっているはずです。私は北の者なのです。あなたがたが滅ぼしたくて憎悪をたぎらせていた者なんです!」
トローネは口の中で何かを汚く罵った。自分に罵ったのか、アーヘルゼッヘに罵ったのか分からなかった。しかし、言ったことは簡潔だった。
「ばかも休み休み言え」
と思うと、
「持ち上げろ。運びおろすぞ」
とトローネが言った。すると、兵たちが、盾を捨て、アーヘルゼッヘを体で隠して、手を掴み胴を掴んで持ち上げた。が、中の一人が、アーヘルゼッヘの腰を掴んで顔色を変え、脇から抱き上げようとした兵士が、思わず手を放す。
「何をしているんだ!」
と言うトローネの叱責に、兵士が思わず見返して、
「も、申し訳ありません。女性だとは気が付かなくて」
と慌てて手を差し出そうとした。と言うと、他の兵士が固まった。トローネも、えっと言うようにアーヘルゼッヘの顔を見た。
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