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「おふぁよ、岩城さん」
「おはよ、寝起きかい?」
「うん…こんな時間に起きるの…めっちゃ、ひさしぶり」
杏子は言い終えると、大きなあくびをひとつした。俺はトイレの床にへたり込み、ドアに背を預けた。
「てか、連絡してって言ったじゃん」
「ちょうどしようと思ってたとこだよ」
「嘘つけ」
「…ああ、すっかり忘れてたよ」
今度は大きなため息が返ってきた。
「で?大丈夫なの?」
「ああ」
「また嘘ついた」
「そんなにわかりやすいかい?」
「声震えてんじゃん」
「…はは、そうか、そうか、震えてるか」
また大きなため息をつかれた。俺は彼女を呆れさせてばかりだ。
見上げれば、トイレのオレンジ色の電球が、涙でぼやけた視界に浮かんだ。
暖かな光が、目に刺さる。左頬が小指で撫でられるような感触がした。目端からこぼれた雫を、拭う気力さえもう無かった。
「ねえ、きのうの質問、ちゃんと答えてもらってないよね?」
「なんのことだい?」
「なんで辞めないの?そんなんになるまでさ」
そうだ。確かにそうだった。あのとき俺は彼女の質問を無意識にズラしたのだ。
なぜ辞めないのか?
辞めたい気持ちはあった。辞めた方がいいのもわかってた。でも辞めなかった。
その理由を、今度こそ正直に、彼女に告げた。
「カッコ悪い大人に、なりたくなかったから…」
学生時代は普通の大人を見下していた。
でも気がつけば、自分も似たような大人になっていた。
だから、別のなにかを、見下すようにしたんだ。
しんどい仕事を、しんどいからと辞める大人を俺は見下すようになった。
いまの会社は基本的にブラックだ。俺の配属されたエリアは群を抜いているが、他のエリアだって褒められた労働環境じゃない。
同期と呼べる人間は、もうほとんど残っていない。
かつての上司や先輩も、後輩や部下も、次々に去っていった。
そんな彼ら彼女らに、俺は慰めや労りの言葉をかけつつも
「こうはなるまい」
と心中で吐き捨てていた。
つまるところ、俺はまるで成長していないのだ。見下す対象が、横にズレただけで。
「それで、そのザマなの?」
杏子は意味不明だったろう俺の返答に、しかし深くは追求してこなかった。
「ああ」
残っていた自尊心が、杏子に一蹴され、粉々に砕けていく感覚がした。
「それで昨日は死のうとしたし、今日はメソメソと泣いてるの?」
「ああ」
「ダッサ」
「ほんとうにね」
「カッコ悪いね、岩城さん」
「まったくだ」
杏子は砕けた残骸をさらに踏みにじる。不思議とそれが心地よかった。
ここでようやく、本当の意味で、俺は折れたのだと思う。
本当に情けない。誰かに蹴られでもしないと、きちんと折れることさえできないなんて。
でも、もういい。素直に認めよう。俺は世界で一番カッコ悪い大人なんだ。
「ありがとう…ありがとう…」
ぐずぐずと泣きながら、ひたすらに、お礼を言った。心の底から、杏子に感謝していた。
おっさんの泣きごと同然な惨めな謝礼を、彼女は黙って受け止めてくれた。
どうにか落ち着き、電話を繋いだまま俺はトイレからリビングに移動し、ソファに腰をおろした。
「で?これからどうすんの?」
「退職代行に連絡しようかな」
「そーしなよ」
「ああ、そうするよ」
「手続きとか終わったら、昨日のサイゼに来て」
「どうして?」
「いいから来る」
「はい」
「じゃ、9時ぐらいに集合ってことで」
彼女はそれだけ告げ、電話を切った。
俺はそのまま、前に調べたことのある退職代行サイトにアクセスした。
電話をする必要もなく、メッセージアプリでやり取りするだけでいいらしい。
そんなんで本当にいいのか?、と半信半疑でメッセージを送ると、返事はすぐに来た。
担当者の事務的な質問に答え、クレカで料金を支払った。
「お支払いありがとうございます。このあとすぐに岩城様の勤める会社に連絡いたします」
「僕の方で何かしておくことはありますか?」
「後に退職届や備品の返却を郵送でしていただく必要はあるかと存じますが、すべて退職が決まったあとの話なので、いまはごゆっくりお過ごしください」
「わかりました。ありがとうございます」
「私共から岩城様に連絡しないようお伝えはしますが、ただ強制はできないため、連絡がくる可能性はございます」
「仮に会社から連絡が来ても対応する必要はないので、お出にならなくても結構でございます」
このようなメッセージのやりとりを終え、俺の一大決心による退職は完遂した。
時間にして、20分足らず。なんだよ、こんなことで済む話なのか。
ふと時計を見れば、朝の8時半に差し掛かろうとしていた。
いつものミーティングが始まる時間だ。
収まっていたはずの動悸が再び鳴り始めた。
俺が店にいないことは、あと数分もすれば気づかれる。そうなれば、近藤さんはどうするか?
答えは火を見るより明らかだ。鬼のように電話がかかってくるに決まっている。
動悸に呼応するように、ズキンズキンと頭が痛みだした。
呼吸も浅く細かく、そして荒くなる。
いまの状態で、あの怒声を聞かせられたら、正気を保っていられる気がしなかった。
スマホの時計は29分を示している。持つ手が震える。
あれ?電源ってどうやって落とすんだ?
えっと、えっと、サイドのホームボタンと、それと…
頭を掻きむしりながら必死に記憶を呼び起こし、ホームボタンと音量調整ボタンの長押しであることを思い出した。
ホッと息をつき、電源を落とそうとしたのもつかの間
「プルルルル!」
ソファの隣にある鞄の中から、けたたましい発信音が響いた。
俺はバカだ。プライベートのスマホじゃなく、まず会社支給のスマホにかかるに決まっているじゃないか。
甲高い機械音に、脳がズタズタに引き裂かれるようだった。絶対に、そんなわけがないのに、どんどん音が大きくなっている気がした。
俺は寝室に逃げ、ベッドに入り布団を覆い被さり、耳を塞いだ。
数分間か、十数分間、その状態でやり過ごした。おそるおそる手を離すと、鳥の鳴き声しか聞こえなかった。
怖い、怖い、怖い、怖い。
頭のなかは恐怖でいっぱいだった。
さらに間抜けにも、プライベート用のスマホの電源をまだ落としていないことに気づく。
だが、俺は電源を落とさず、メッセージアプリを開き、通話ボタンを押した。
数コールで彼女は出てくれた。
「もしもーし、どうだった?」
「助けてくれ…」
情けなすぎる俺の声をうけた杏子は、面食らったように一瞬黙ったのちに
「いま家?」
「ああ」
「ヨテー変更、そっちに行くから住所教えて」
「おはよ、寝起きかい?」
「うん…こんな時間に起きるの…めっちゃ、ひさしぶり」
杏子は言い終えると、大きなあくびをひとつした。俺はトイレの床にへたり込み、ドアに背を預けた。
「てか、連絡してって言ったじゃん」
「ちょうどしようと思ってたとこだよ」
「嘘つけ」
「…ああ、すっかり忘れてたよ」
今度は大きなため息が返ってきた。
「で?大丈夫なの?」
「ああ」
「また嘘ついた」
「そんなにわかりやすいかい?」
「声震えてんじゃん」
「…はは、そうか、そうか、震えてるか」
また大きなため息をつかれた。俺は彼女を呆れさせてばかりだ。
見上げれば、トイレのオレンジ色の電球が、涙でぼやけた視界に浮かんだ。
暖かな光が、目に刺さる。左頬が小指で撫でられるような感触がした。目端からこぼれた雫を、拭う気力さえもう無かった。
「ねえ、きのうの質問、ちゃんと答えてもらってないよね?」
「なんのことだい?」
「なんで辞めないの?そんなんになるまでさ」
そうだ。確かにそうだった。あのとき俺は彼女の質問を無意識にズラしたのだ。
なぜ辞めないのか?
辞めたい気持ちはあった。辞めた方がいいのもわかってた。でも辞めなかった。
その理由を、今度こそ正直に、彼女に告げた。
「カッコ悪い大人に、なりたくなかったから…」
学生時代は普通の大人を見下していた。
でも気がつけば、自分も似たような大人になっていた。
だから、別のなにかを、見下すようにしたんだ。
しんどい仕事を、しんどいからと辞める大人を俺は見下すようになった。
いまの会社は基本的にブラックだ。俺の配属されたエリアは群を抜いているが、他のエリアだって褒められた労働環境じゃない。
同期と呼べる人間は、もうほとんど残っていない。
かつての上司や先輩も、後輩や部下も、次々に去っていった。
そんな彼ら彼女らに、俺は慰めや労りの言葉をかけつつも
「こうはなるまい」
と心中で吐き捨てていた。
つまるところ、俺はまるで成長していないのだ。見下す対象が、横にズレただけで。
「それで、そのザマなの?」
杏子は意味不明だったろう俺の返答に、しかし深くは追求してこなかった。
「ああ」
残っていた自尊心が、杏子に一蹴され、粉々に砕けていく感覚がした。
「それで昨日は死のうとしたし、今日はメソメソと泣いてるの?」
「ああ」
「ダッサ」
「ほんとうにね」
「カッコ悪いね、岩城さん」
「まったくだ」
杏子は砕けた残骸をさらに踏みにじる。不思議とそれが心地よかった。
ここでようやく、本当の意味で、俺は折れたのだと思う。
本当に情けない。誰かに蹴られでもしないと、きちんと折れることさえできないなんて。
でも、もういい。素直に認めよう。俺は世界で一番カッコ悪い大人なんだ。
「ありがとう…ありがとう…」
ぐずぐずと泣きながら、ひたすらに、お礼を言った。心の底から、杏子に感謝していた。
おっさんの泣きごと同然な惨めな謝礼を、彼女は黙って受け止めてくれた。
どうにか落ち着き、電話を繋いだまま俺はトイレからリビングに移動し、ソファに腰をおろした。
「で?これからどうすんの?」
「退職代行に連絡しようかな」
「そーしなよ」
「ああ、そうするよ」
「手続きとか終わったら、昨日のサイゼに来て」
「どうして?」
「いいから来る」
「はい」
「じゃ、9時ぐらいに集合ってことで」
彼女はそれだけ告げ、電話を切った。
俺はそのまま、前に調べたことのある退職代行サイトにアクセスした。
電話をする必要もなく、メッセージアプリでやり取りするだけでいいらしい。
そんなんで本当にいいのか?、と半信半疑でメッセージを送ると、返事はすぐに来た。
担当者の事務的な質問に答え、クレカで料金を支払った。
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「僕の方で何かしておくことはありますか?」
「後に退職届や備品の返却を郵送でしていただく必要はあるかと存じますが、すべて退職が決まったあとの話なので、いまはごゆっくりお過ごしください」
「わかりました。ありがとうございます」
「私共から岩城様に連絡しないようお伝えはしますが、ただ強制はできないため、連絡がくる可能性はございます」
「仮に会社から連絡が来ても対応する必要はないので、お出にならなくても結構でございます」
このようなメッセージのやりとりを終え、俺の一大決心による退職は完遂した。
時間にして、20分足らず。なんだよ、こんなことで済む話なのか。
ふと時計を見れば、朝の8時半に差し掛かろうとしていた。
いつものミーティングが始まる時間だ。
収まっていたはずの動悸が再び鳴り始めた。
俺が店にいないことは、あと数分もすれば気づかれる。そうなれば、近藤さんはどうするか?
答えは火を見るより明らかだ。鬼のように電話がかかってくるに決まっている。
動悸に呼応するように、ズキンズキンと頭が痛みだした。
呼吸も浅く細かく、そして荒くなる。
いまの状態で、あの怒声を聞かせられたら、正気を保っていられる気がしなかった。
スマホの時計は29分を示している。持つ手が震える。
あれ?電源ってどうやって落とすんだ?
えっと、えっと、サイドのホームボタンと、それと…
頭を掻きむしりながら必死に記憶を呼び起こし、ホームボタンと音量調整ボタンの長押しであることを思い出した。
ホッと息をつき、電源を落とそうとしたのもつかの間
「プルルルル!」
ソファの隣にある鞄の中から、けたたましい発信音が響いた。
俺はバカだ。プライベートのスマホじゃなく、まず会社支給のスマホにかかるに決まっているじゃないか。
甲高い機械音に、脳がズタズタに引き裂かれるようだった。絶対に、そんなわけがないのに、どんどん音が大きくなっている気がした。
俺は寝室に逃げ、ベッドに入り布団を覆い被さり、耳を塞いだ。
数分間か、十数分間、その状態でやり過ごした。おそるおそる手を離すと、鳥の鳴き声しか聞こえなかった。
怖い、怖い、怖い、怖い。
頭のなかは恐怖でいっぱいだった。
さらに間抜けにも、プライベート用のスマホの電源をまだ落としていないことに気づく。
だが、俺は電源を落とさず、メッセージアプリを開き、通話ボタンを押した。
数コールで彼女は出てくれた。
「もしもーし、どうだった?」
「助けてくれ…」
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