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杏子のいうとおり、本当に寝心地の悪いソファだ。
安物のワーキングチェアに座りながら、軋む体に表情を歪ませた。
「いてて…」
「どうかしたんですか?」
つい呻き声を漏らした俺に、ショウケースのガラスを拭いている並木さんが、心配そうに尋ねた。
「ちょっと寝違えちゃってさ」
「…そうですか」
彼女は愛想笑いを浮かべつつも、目を伏せた。今日はたぶん、一度も目が合っていないな。
なんとも気まずい沈黙が、俺たちの間におり、居心地の悪さに息が詰まりそうになったところで、スマホが着信を知らせた。
「ここは…お前の家か?」
出てみれば、相澤の不機嫌そうなガラガラ声が耳に届いた。
店の時計をちらりと見れば、もう短針も長針もてっぺん付近だ。
「こんな時間にお目覚めとは、さすがですね社長」
「気持ちわりい…」
「頼むからトイレで吐いてくれよ。本社の方には俺から連絡入れといたから、きっちり酔い覚ましてから行った方がいい」
「すまん、ほんとうに色々と…なんつーか、助かったよ」
「いいってことよ」
正直、いま目覚めてくれて助かった。おかげで朝に杏子と対面させずに済んだからな。
上司との通話を終え、また仕事に取り掛かる。ふと、店内に目を配らせると、こっちを見ていた並木さんと視線がぶつかる。互いにぎこちない笑みを浮かべながら、互いにそそくさと視線を外した。
こんな感じで、長い一日を終え、いつものように帰路に着いた。
ベランダに立つ杏子に手を振り返し、マンションの出入り口をくぐったところで、ふたたび着信があった。
知らない番号だが、誰からの電話かは見当がつく。良い知らせだといいんだけどな。
「もしもし」
「夜分遅くにすみません、地田です」
あいつの、地田の父親の苦々しい声が耳に届いた。
彼と話しながら、マンションの中を進み、自分の部屋のドアを開ける。
靴を脱いでリビングに足を運ぶと、ソファに座っている杏子が声をかけようとしてくれたが、電話中であることに気づいて口をつぐんだ。俺の口調から、誰からの電話か察しがついたのか、その表情に影が差す。
「はい、はい、そうですか…わかりました。ええ、もういいですから、俺の方こそ脅すような真似をしてしまいすみません、それでは失礼いたします」
電話を切った俺は、彼女の隣に腰を下ろした。
「どうだった?」
「あいつはどうやら入院することになったらしい」
「そっか…」
結局、妄想が激しすぎて通院治療は不可能と判断されたようだ。
これで、ひとまず安心だ。つまりそれは、この生活も終わりってことになる。
それでいい、こんなリスクまみれの生活、長く続けるべきじゃない。別にこれからだって、定期的に会うことはできるわけだし。
頭ではそう思っていても、どうにも切り出せなかった。
杏子もまたしばらく黙っていたが、気を取り直すように立ち上がり、壁にかけたパーカに手をかけた。
「じゃ、お祝いしなきゃだね!なに食べたい?」
今日は俺が早番だったから、杏子もまだ夕食の支度をしていないらしい。どうやら、今から食材を買いに行って、腕を振るってくれるみたいだ。
「えっと…そうだなあ…」
俺は少し考えたのちに、ふと頭をよぎったものを口に出した。
「やっぱり、タコスかな」
杏子は俺の答えに、すこし意外そうに目を開いたが、すぐに口元が綻んだ。
「うん、アタシもそう思った」
こうして、一緒に買い物して、今回は彼女に教わりながら一緒に料理して、あの日のようにタコスとビールで乾杯した。
そのあいだも、そのあとも、俺は帰ったほうがいいんじゃないかとは言わなかった。
杏子もまた、もう帰るとは言わなかった。
なんの約束も、なんの正当性もないまま、俺たちの同棲生活はもうしばらく続きそうだ。
【第一部 完】
安物のワーキングチェアに座りながら、軋む体に表情を歪ませた。
「いてて…」
「どうかしたんですか?」
つい呻き声を漏らした俺に、ショウケースのガラスを拭いている並木さんが、心配そうに尋ねた。
「ちょっと寝違えちゃってさ」
「…そうですか」
彼女は愛想笑いを浮かべつつも、目を伏せた。今日はたぶん、一度も目が合っていないな。
なんとも気まずい沈黙が、俺たちの間におり、居心地の悪さに息が詰まりそうになったところで、スマホが着信を知らせた。
「ここは…お前の家か?」
出てみれば、相澤の不機嫌そうなガラガラ声が耳に届いた。
店の時計をちらりと見れば、もう短針も長針もてっぺん付近だ。
「こんな時間にお目覚めとは、さすがですね社長」
「気持ちわりい…」
「頼むからトイレで吐いてくれよ。本社の方には俺から連絡入れといたから、きっちり酔い覚ましてから行った方がいい」
「すまん、ほんとうに色々と…なんつーか、助かったよ」
「いいってことよ」
正直、いま目覚めてくれて助かった。おかげで朝に杏子と対面させずに済んだからな。
上司との通話を終え、また仕事に取り掛かる。ふと、店内に目を配らせると、こっちを見ていた並木さんと視線がぶつかる。互いにぎこちない笑みを浮かべながら、互いにそそくさと視線を外した。
こんな感じで、長い一日を終え、いつものように帰路に着いた。
ベランダに立つ杏子に手を振り返し、マンションの出入り口をくぐったところで、ふたたび着信があった。
知らない番号だが、誰からの電話かは見当がつく。良い知らせだといいんだけどな。
「もしもし」
「夜分遅くにすみません、地田です」
あいつの、地田の父親の苦々しい声が耳に届いた。
彼と話しながら、マンションの中を進み、自分の部屋のドアを開ける。
靴を脱いでリビングに足を運ぶと、ソファに座っている杏子が声をかけようとしてくれたが、電話中であることに気づいて口をつぐんだ。俺の口調から、誰からの電話か察しがついたのか、その表情に影が差す。
「はい、はい、そうですか…わかりました。ええ、もういいですから、俺の方こそ脅すような真似をしてしまいすみません、それでは失礼いたします」
電話を切った俺は、彼女の隣に腰を下ろした。
「どうだった?」
「あいつはどうやら入院することになったらしい」
「そっか…」
結局、妄想が激しすぎて通院治療は不可能と判断されたようだ。
これで、ひとまず安心だ。つまりそれは、この生活も終わりってことになる。
それでいい、こんなリスクまみれの生活、長く続けるべきじゃない。別にこれからだって、定期的に会うことはできるわけだし。
頭ではそう思っていても、どうにも切り出せなかった。
杏子もまたしばらく黙っていたが、気を取り直すように立ち上がり、壁にかけたパーカに手をかけた。
「じゃ、お祝いしなきゃだね!なに食べたい?」
今日は俺が早番だったから、杏子もまだ夕食の支度をしていないらしい。どうやら、今から食材を買いに行って、腕を振るってくれるみたいだ。
「えっと…そうだなあ…」
俺は少し考えたのちに、ふと頭をよぎったものを口に出した。
「やっぱり、タコスかな」
杏子は俺の答えに、すこし意外そうに目を開いたが、すぐに口元が綻んだ。
「うん、アタシもそう思った」
こうして、一緒に買い物して、今回は彼女に教わりながら一緒に料理して、あの日のようにタコスとビールで乾杯した。
そのあいだも、そのあとも、俺は帰ったほうがいいんじゃないかとは言わなかった。
杏子もまた、もう帰るとは言わなかった。
なんの約束も、なんの正当性もないまま、俺たちの同棲生活はもうしばらく続きそうだ。
【第一部 完】
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