痛愛と狂恋

Hatton

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母はうるさい

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俺の母さんはとにかく騒がしい人だ。

「綾人~、たっだいまー!お誕生日おめでと~!」

深夜1時過ぎ。仕事から帰った母さんは、ドアを開けるやいなや、リビングの机で課題をしていた俺に抱きついてきた。アルコールと香水と化粧品が混ざった匂いに、むせ返りそうになる。

「ありがと、ただもう少し静かにしてくれ」

莉子はとうの昔に寝ている。

「ごめんごめん」

「いやあ、本当に立派になって、母さん嬉しいよお」

と言いながら、俺の髪をガシガシと撫でた。

「そうそう、プレゼントも用意してあるんだあ」

おぼつかない手つきでカバンを漁る母さん。あれえ?どこだあ?と言いながらガサゴソやってたかと思えば、ついにはカバンの中身を床に出し始め、ようやく見つけたらしい。

「はい!!」

自信満々に渡されたのは、手のひらサイズの黒い箱。ブランドロゴが印字されているだけで、なんなのかパッと見でわからない。

箱の底側を見て、ようやくわかった。

「ヘアワックス?」

「あんた全然オシャレしないでしょ?たまにはこういうのつけてキメてみなよ~」

「プロ仕様だからめっちゃいいやつよ!これでバッチリオシャレして、彼女でも作っちゃえよお~」

肘ツンツンという古のウザムーブをかます母さん。

俺に彼女なんかできたら、一番困るのはあんただろうに。まあ曲りなりもお祝いしてくれているのだから、野暮なことは言うべきじゃないだろう。

「ありがと、機会があれば使わせてもらうよ」

まるで使う気がないことがモロバレな言い回しをしてしまったが、母さんは気にしてない。酔いが回ってきたらしい彼女は、背骨が軟化したみたいにグラグラと前後左右に揺れながら言う。


「お水もってきて~」


俺が席を立ち、戸棚からコップをだし、台所から水を汲んで振り返ると、母さんは今度は鼻をすすりながら、目に涙を浮かべていたのだった。

「ごめんねえ…綾人お。母さん、本当はいっじょににお祝いじかったけど、どうしても無理でさあ」

水を汲むために背を向けていた時間はせいぜい10秒。その間に何があれば、こんな状態になれるんだか。

それが酔っ払いという生き物なのだと、今は分かっているから、特に動揺はない。だがうっとおしいことこの上ない。

「か、母さん本当にダメな母親だよ、子供の誕生日も一緒に祝っでやれ“ないんだから」

反省して欲しいのは誕生日を祝えないことじゃなく、冷蔵庫の中身の件についてなんだけどな。

普段、自分が酒のつまみしか口にしないからなのか、小学生や高校生には「食事」が必要であることを、母さんは忘れがちだ。


「ごめんね、ごめんね、母さんダメだね、もっとちゃんとしなきゃね」

やや年甲斐のない濃いマスカラをつけているから、泣くとかなり悲惨な状態になる。黒く染まった涙のあとは、いつか観たホラー映画の怨霊を彷彿とさせる。莉子が夜中に見たら絶叫するレベルだ。

鼻をすすり、目をこすり、ユラユラとしながら、謝る母さん。なのに責められている気になるのはなぜだろうか?

母さんは騒がしい人だ。それはでかい声でよく喋るからじゃない。

そのジェットコースターみたいな気分の変化は、酒を飲むとさらに激しくなり、漏れ出す感情の波が、鼓膜も通さず頭蓋内に反響しているかのよう。

強い感情は騒がしい。

「仕事なんだから仕方ないよ」と俺が面倒そうに言うと

「あやとお、ありがどー、母さん幸せだよお」と喚きながらまた抱きついてくる

頼むからその顔で抱きつくのは勘弁してくれ。俺はまだ制服なんだ。

無理やり引っぺがすと、案の定ワイシャツが黒々としたマスカラの涙で汚れていた。すぐにもみ洗いしないとな。

深夜に増やされた余計な仕事を終えてリビングに戻ると、母さんは寝ていた。やっと静かになった。寝室から持ってきた布団をかけてやろうとするが、ふと手が止まる。

母さんのいかにもお水な巻き毛が前より少し明るくなっている。髪を染め直したようだ。たぶんこのワックスもそのついでに買ったんだろう。

見た目を気遣う必要がある仕事なのはわかっている。わかっているけど…

品のない音を鳴らしそうなった舌の代わりに、ゴクリと喉が鳴る。放るように布団をかけた。気をそらせたくて、母さんが床に並べたカバンの中身をしまおうとした。乱れた時は整える作業に限る。


リップとスマホとポーチが散乱する中、見慣れない長方形の箱が目に留まる。そしてそれがなんなのか理解したとき

「チッ」と舌が下品な音を鳴らした。せっかくさっきは飲み込んだというのに。

でも見なかったことにするしかない。床に散らばるリップとスマホとポーチ、そしてコンドームを鞄にしまい、母さんの部屋に放り込んだ。

洗面所に向かう自分の足音がドスドスと響く。ドアを閉める手も、脱いだ服をカゴに放りこむ手も、意図せず乱暴になる。

湧き立つ感情が頭の中に響いて、うるさい。強い感情は騒がしい。やや冷たいシャワーもこの苛立ちを冷ましてくれない。

ふと、もらったヘアワックスのことを思い出した。濡れた髪をあげて、セットしたらどんな感じになるのか、浴室の鏡で確認してみた。

「やっぱりまだ目立つな」

おでこの中心で主張する赤くて爛れた丸い跡とは、もう長い付き合いだ。ワックスで前髪を上げたら目立ちすぎるだろう。

「はあ」

ため息の自己記録を一つ更新して、誕生日を締めくくった。
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