痛愛と狂恋

Hatton

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最悪で最幸の失恋

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昔から動物には好かれないんだよな。

神社の床下に住む猫は、私の用意した餌になかなか手をつけない。食べてもらわなきゃ困るんだけどな。

しゃがみこんで猫を見つめる私の後ろから、石畳をふみ歩く音が響いた。きっと私は雑踏の中でも、この足音だけは聞き分けられる。

「悪いな、餌やり任せちゃって」

「私がやるって言ったんだもん」

綾人の声は、表面にいくつも小さな穴が空いているみたいに掠れていた。振り向いてその顔を見れば、手で払えば消え入ってしまいそうなほどやつれていた。

今日は確かバイトの日だ。こんなとこにいる暇はないはず。綾人のことだから、休むにしても遅れるにしても連絡はしてるだろうけど、それにしたって尋常なことじゃない。

「大変だったみたいだね」

「知ってるのか?」

「ついさっきうちのクラスの子からメッセージが届いてね、詳しくはわからんけどさ」

「確か無理はしないんじゃないの?なのになんだい?その顔は?」

私は綾人に一歩詰め寄って、髪の毛で隠れた瞳を捉えようとした。

「ごめん」

「謝んないでよ」

私たちの間に、沈黙が降りる。お互い黙っているのは珍しいことじゃないけど、こういう種類のやつは久しぶりだ。

ちょうど1年前。私は綾人に告白した。その時も彼は謝り、私はそれを嫌がった。


「私、綾人が好きなの」

5月だというのにやたらと肌寒かったあの日。私は綾人を夜の散歩に連れ出していた。そして綾人に思いの丈を伝えた。

きっかけはほんの些細なこと。私の部屋の壁にかかっている、あのパーカーだった。

もう少し厚着してくれば良かったと、内心で後悔した瞬間、まるで聞こえてたみたいに自分が着ていた綾人がパーカーをかけてくれた。ただそれだけのことだった。

綾人は華奢だけど、それでもそのパーカーは私の腕や胴体をすっぽりと包んで、ずっしりとした重さを背中に感じた。

フワリと綾人の匂いが鼻腔をくすぐる。普段は意識していないのに、私の頭はどこかでこの香りをしっかり記憶していたらしい。

それくらい馴染んでいて、安心する匂いだった。

ただパーカーを羽織っただけで、意識が綾人に染め上げられる。そしてたまらなくなった。
気持ちが溢れるなんて陳腐で非現実的な表現だと思ってたけど、本当にあることなんだと知った。

綾人は私をじっと見つめていた。

本気で言っているのかどうか確認しているみたいだった。いっそのこと、誤魔化してしまいたくなったし、笑顔を作ろうともした。

でも無理だった。表情を作れないなんて初めてだったな。

顔は両頬にカイロを押し当てられたみたいに熱い。そのくせ、心臓から下は血を抜かれたみたいに感覚が無い。手は小刻みに震えている。まだ何も言われてないのに、瞳の表面にしっとりとした水気を感じた。

みっともないくらい、体のあらゆる部分が、綾人が好きだと叫んでいた。

「ごめん」そう呟きながら綾人は私から目を逸らした。

意外じゃなかった。綾人が私をそういう目で見てないのは、なんとなく気づいていたから。

「謝らないでよ」私は一言だけなんとか絞り出した。

これだけじゃダメ。これで終わらせたら、綾人が離れていってしまうかもしれない。それだけは嫌だ。だから、早く何か言わなきゃ。この10秒間の出来事をぜんぶ帳消しにしなきゃ。

焦る気持ちと裏腹に、私の喉は声とすら呼べない音を漏らすだけだった。

でも意外なことに、綾人がまた向き直り、まっすぐに私を見つめる。

「俺さ、恋愛とかできない人間なんだ。たぶん、誰が相手でも…」

そして綾人は、妹も親も知らない秘密を打ち明けた。

中学2年生くらいの時、綾人は自分の体の異変に気づいたらしい。性的な欲求を一切感じないのだという。

試しにその手の画像やら動画やらを見てみたものの、嫌悪感を覚えるだけで、全く食指が動くことがなかったそう。特殊な性癖なのかと思い、かなりアブノーマルなところも覗いてみたが同じだった。

異性愛でも同性愛でもなく、性というものに本能から関心が持てない。それが綾人だった。

無性愛、アセクシャル、呼び方はいろいろだし、それぞれ微妙にニュアンスは違うみたいだけど、とにかくそういう存在が世の中にはいるらしい。

そして高校生になった今になっても、ただの一度も綾人は性欲を感じたことがないと言った。

「中には、性欲は抱かなくても恋愛感情は抱くって人もいるらしいけど、俺の場合はそれも無いみたいだ」

つまり、綾人は誰が相手とか関係なく、恋愛関係になれないということだった。

こんな絶望的な失恋ってある?

綾人と恋人同士になる。人生で一番強く望んだ夢。この日、それが容赦無く奪われてしまった。

でも同時に、人生で一番大事だと思える宝物を手にした瞬間でもあった。

「そっか」

私は心から泣き、心から笑いながら、綾人の瞳を見据えた。

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