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10.氷の王太子
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(ここを訪れるのは何年ぶりかしら。やはり威厳が違うわ)
離婚が成立してから数日後。
用意していた隠れ家に篭り、傷を癒したアイリスは、この国で最も高貴な人々が住まう場所ーー王宮を訪れていた。アバンドール家に嫁いで平民となってからは、一度も訪れたことはなかったが、遡れば王家に連なる古い家柄の出なのだ。幼い頃は、何度か王宮の門を潜ったこともある。
意を決してやってきたアイリスではあるが、荘厳な扉の前で怯んでしまいそうになる。中にいる人物のことを思えばなおさらだ。が、怖気付いている場合ではないと、アイリスは自分を叱咤した。
「どうぞ中へ、レディ」
侍従と近衛兵に礼を告げると、緊張を押し殺してアイリスは部屋の中へ足を踏み入れる。
(一人で生きるためのチャンスなのよ。さあ、自信を持つの)
顔をまっすぐあげ、内心の不安など微塵も感じさせない表情を作り上げる。伝令を出してすぐに、来訪を許すと答えが来たのだから、望みが無いわけでは無いだろう。
「久しぶりだな。まさか貴女から訪ねてきてくれるとは」
秀麗な顔に微笑をたたえ、アイリスを出迎えたのは、この国が誇る次代の国王、ルシフェル王太子である。
常に冷静沈着、怜悧な頭脳とその冴えざえとした美貌から、氷の王太子と評される若者。
そんな世間の評価を聞くたび、幼い頃はあんなに可愛かったのに…と不思議に思う。ロイと結婚してから一度も会っていないのだが、その間に随分変わってしまったようだ。
「ご無沙汰しております、王太子殿下」
「畏まらなくていい。僕と貴女は幼馴染ではないか」
幼馴染…皮肉なものね、と自重気味な気分がアイリスの心に浮かぶ。幼馴染に夫を奪われた自分が、幼馴染という存在を頼ってここにいるのだから。
けれど、頼れるものは何でも頼ると決めたのだ。実家の父母も弟も、喜んで迎えてくれるだろうが、一人で自立して生きたいのだった。
「ありがとうございます。もう随分と遠い日のように感じますわね。ともに田園の中を走り回ったあの日が」
懐かしさのあまり口に出したが、すぐにアイリスは後悔した。
ルシフェルは、軽々しく情に訴えることを最も嫌うという。思い出を利用して自分に取り入る浅ましい人間、そう思われてしまったのではないか。
けれどアイリスの不安をよそに、ルシフェルは懐かしそうに目を細め、静かにつぶやいた。
「そうかな。僕には昨日のことのよう思えるよ。僕は…」
何か言いかけて、口をつぐむ。
鋭利な刃物のように言葉を操るこの男が、アイリスのことにだけは唯一煮え切らなくなる。だが当のアイリスは知りもせず、王太子の周りの者たちはみな、密かに不憫に思っているのだった。
「殿下、あの……」
「あっ、ああ、つまりだな、あの日々は私にとっても良い思い出だ。だから貴女は、何も遠慮することなどないんだよ、レディ・アイリス……アバンドール」
ルシフェルにとって、アイリスの名に他の男の家名を付けて呼ぶなど、耐えがたい苦痛だ。だが、気づいた時には他の男と結婚していて、黙って受け入れるしかなかった。そのあたりも、母后から情けないと嘆かれるのだが。
(よかった。世間の噂を聞くと不安だったけれど、殿下は変わっておられないわ)
「ありがとうございます、ルシフェル殿下。でしたらお言葉に甘えて、ひとつ訂正させていただいてもよろしいでしょうか?」
自分は何か言ってはならないことを口にしてしまったのだろうか。アイリスのこととなると、途端に自信を無くす王太子は、気が気ではない。
「訂正?かまわないが……」
ルシフェルの内心などつゆ知らず、正念場だわとアイリスは気を引き締める。
結婚前のことではあるが、妹姫の話し相手兼教師役として仕えないか、とルシフェルは話をくれたことがあった。今も望んでもらえるのなら、ぜひお仕えしたいと伝えなければ。
「ありがとうございます……私、今の名前はアイリス・ド・ラ・グリネッドでございますのよ」
「……え?……え、どういうことだ?旧姓…?」
(ま、まさか!いや、落ち着け、落ち着くんだ。実家を継ぐために姓を戻すとか、可能性は他にもある。だが、だが…)
「ええ。離縁いたしましたの」
「りっ、りっ、離縁っ?!」
離婚が成立してから数日後。
用意していた隠れ家に篭り、傷を癒したアイリスは、この国で最も高貴な人々が住まう場所ーー王宮を訪れていた。アバンドール家に嫁いで平民となってからは、一度も訪れたことはなかったが、遡れば王家に連なる古い家柄の出なのだ。幼い頃は、何度か王宮の門を潜ったこともある。
意を決してやってきたアイリスではあるが、荘厳な扉の前で怯んでしまいそうになる。中にいる人物のことを思えばなおさらだ。が、怖気付いている場合ではないと、アイリスは自分を叱咤した。
「どうぞ中へ、レディ」
侍従と近衛兵に礼を告げると、緊張を押し殺してアイリスは部屋の中へ足を踏み入れる。
(一人で生きるためのチャンスなのよ。さあ、自信を持つの)
顔をまっすぐあげ、内心の不安など微塵も感じさせない表情を作り上げる。伝令を出してすぐに、来訪を許すと答えが来たのだから、望みが無いわけでは無いだろう。
「久しぶりだな。まさか貴女から訪ねてきてくれるとは」
秀麗な顔に微笑をたたえ、アイリスを出迎えたのは、この国が誇る次代の国王、ルシフェル王太子である。
常に冷静沈着、怜悧な頭脳とその冴えざえとした美貌から、氷の王太子と評される若者。
そんな世間の評価を聞くたび、幼い頃はあんなに可愛かったのに…と不思議に思う。ロイと結婚してから一度も会っていないのだが、その間に随分変わってしまったようだ。
「ご無沙汰しております、王太子殿下」
「畏まらなくていい。僕と貴女は幼馴染ではないか」
幼馴染…皮肉なものね、と自重気味な気分がアイリスの心に浮かぶ。幼馴染に夫を奪われた自分が、幼馴染という存在を頼ってここにいるのだから。
けれど、頼れるものは何でも頼ると決めたのだ。実家の父母も弟も、喜んで迎えてくれるだろうが、一人で自立して生きたいのだった。
「ありがとうございます。もう随分と遠い日のように感じますわね。ともに田園の中を走り回ったあの日が」
懐かしさのあまり口に出したが、すぐにアイリスは後悔した。
ルシフェルは、軽々しく情に訴えることを最も嫌うという。思い出を利用して自分に取り入る浅ましい人間、そう思われてしまったのではないか。
けれどアイリスの不安をよそに、ルシフェルは懐かしそうに目を細め、静かにつぶやいた。
「そうかな。僕には昨日のことのよう思えるよ。僕は…」
何か言いかけて、口をつぐむ。
鋭利な刃物のように言葉を操るこの男が、アイリスのことにだけは唯一煮え切らなくなる。だが当のアイリスは知りもせず、王太子の周りの者たちはみな、密かに不憫に思っているのだった。
「殿下、あの……」
「あっ、ああ、つまりだな、あの日々は私にとっても良い思い出だ。だから貴女は、何も遠慮することなどないんだよ、レディ・アイリス……アバンドール」
ルシフェルにとって、アイリスの名に他の男の家名を付けて呼ぶなど、耐えがたい苦痛だ。だが、気づいた時には他の男と結婚していて、黙って受け入れるしかなかった。そのあたりも、母后から情けないと嘆かれるのだが。
(よかった。世間の噂を聞くと不安だったけれど、殿下は変わっておられないわ)
「ありがとうございます、ルシフェル殿下。でしたらお言葉に甘えて、ひとつ訂正させていただいてもよろしいでしょうか?」
自分は何か言ってはならないことを口にしてしまったのだろうか。アイリスのこととなると、途端に自信を無くす王太子は、気が気ではない。
「訂正?かまわないが……」
ルシフェルの内心などつゆ知らず、正念場だわとアイリスは気を引き締める。
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「ありがとうございます……私、今の名前はアイリス・ド・ラ・グリネッドでございますのよ」
「……え?……え、どういうことだ?旧姓…?」
(ま、まさか!いや、落ち着け、落ち着くんだ。実家を継ぐために姓を戻すとか、可能性は他にもある。だが、だが…)
「ええ。離縁いたしましたの」
「りっ、りっ、離縁っ?!」
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