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第1章
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鳥の歌声がにぎやかになる季節。
豊かに栄えるレーヴェン王国南部の都市ブランギットに、そろそろ春がやってくる。
この王国は大陸中部にどっしりと腰を据えた歴史のある国で、中でもブランギットは他国にも名を轟かせる大都市であった。
「この都市なくしてレーヴェンなし」
そう言ったのは王国を訪れた外国使節だっただろうか。北部の首都グランと並んで勢力を誇る都市は暖かく陽気で、ここを治めるリューネブルク伯爵家は領民から強い支持を得ていた。貴族としての血筋は300年以上も続き、いずれの当主のときでも統治能力はレーヴェン国内のどの王侯貴族よりも長けていた。
「おはようございます、ヴィーツ様」
ブランギットの中心部に位置し、リューネブルク家の居城でありブランギットの象徴でもあるシュトレーン城。
美しい白亜にきらめく絵のようなこの城は大きなコの字を縦にしたような形をしている。その右側の棟にある部屋の中、落ち着いた緑色に統一された豪奢な寝台で、部屋付きのメイドに起こされる少年がいた。
窓から差し込む光に艷めく髪は黒く、普段からのくせ毛にまだ寝癖がついて、いろんな方向にぴょんぴょんはねている。
眠たげにこする瞳はエメラルドのように澄む美しい緑。ふちどるまつ毛は濃く長く、顔立ちを中性的なものにしていた。
「あいたたた…これだから舞踏会は嫌なんだ、次の日まで脚が痛くなるなんて…」
少年にしてはかなり細作りの脚をさすりながら体を起こす。くすぐるように顔をなでる陽光に細く目を向けてひとつあくびをした。
運動が嫌いで文学が好きというこの少年の名はヴィーツ・フォン・リューネブルク。
まだ14歳、宮廷デビューも済ませていない小さな少年が、このリューネブルク伯爵家の長男なのである。
「ヴィーツ様、そんなことをおっしゃっているようでは王宮で笑われてしまいますよ、ダンスもできない伯爵なんて聞いたことがありません」
黒い制服に身を包んだメイドが困った顔をして笑うが、ヴィーツはまだごねている。
「でも僕には踊るなんてちっとも楽しいと思えないんだよ、本を読んでいる方が絶対楽しいのに……、舞踏会の席では優しいくせに、終わった途端みんな冷たくなるし」
「…何をおっしゃられますか。そんなことでは伯爵家嫡男は務まりませんよ。
それにヴィーツ様、いい加減奥方様にお親しみあそばしませ。お母様に親しまない子などどこにいると言うんですか」
ため息混じりにメイドは言う。
「でも、ギーゼラ様はなぜか僕にはお構いなしじゃないか。僕の方がハンスより早く生まれたのに、お父様だって僕に冷たいし。
……いつか君が言っていたね、僕を産んだのはギーゼラ様ではないと」
ぼそりとつぶやくように言ったヴィーツにメイドは慌てて言った。
「だ、だからヴィーツ様、そのお話は早くお忘れなさいませ。ただの嘘だと思って…」
そして、物問いたげな彼に向かって、思い出したかのように小さく叫んだ。
「ああ、そうだ、ヴィーツ様。
伯爵様が、朝の支度が済んだら私の部屋へと仰っておりましたよ」
美しい彫刻が施された重厚な扉。
ヴィーツが最も苦手とする男であり、その父親でもあるライン伯爵の私室である。
会いたくないという思いを振り払うかのように頭をぶんぶんと振り、ヴィーツはその扉を叩いた。
「入れ」
中から応えたその低い声に少し肩をすくめて彼は扉を開けた。
「お父様、おはようございます」
広く薄暗い部屋の中、彼の父親は机に向かっていた。少しくすんだ金の髪を後ろになでつけ、細く青い瞳は冷徹そうに光る。襟の詰まった青いジャケットを着こなす身には少しの隙もない。
「ああ、ヴィーツか」
無感動な声はやはり低い。
息子への挨拶もなく彼は続けた。
「今日はお前に話すことがある。
ブランシュという女性のことだ」
初めて聞いた響きにヴィーツが何も言えずにいると、ラインはゆっくりと立ち上がりながら口を開いた。
「あれは15年以上前のことだ。このリューネブルク伯爵家に出入りする豪商がいた。名前はフェリクス・ディーツェと言ったか……、そしてその男には娘がいてな」
伯爵はそのまま、歴代当主と夫人の肖像画が掛かっている方へと向かった。自分と夫人であるギーゼラの肖像画の隣、ヴィーツが今まで小窓か何かがあると思っていた、小さな真紅のカーテンが閉じられた一角。彼はゆっくりとそのカーテンをめくった。
そこには、他のものより小さい額に入った肖像画が飾られていた。描かれているのは、星明かりを灯した艷めく黒髪に真っ白な肌、そして澄んだエメラルドの瞳。幾重にも重ねられた花びらのような薄いピンクのドレスにその身を包んで笑う、美しい貴婦人だった。
「これがブランシュ・ディーツェ……、その豪商フェリクスの娘、そしてお前の母親だ」
「…僕の…母親……?」
ヴィーツは思わずそのまま言葉を返した。
豊かに栄えるレーヴェン王国南部の都市ブランギットに、そろそろ春がやってくる。
この王国は大陸中部にどっしりと腰を据えた歴史のある国で、中でもブランギットは他国にも名を轟かせる大都市であった。
「この都市なくしてレーヴェンなし」
そう言ったのは王国を訪れた外国使節だっただろうか。北部の首都グランと並んで勢力を誇る都市は暖かく陽気で、ここを治めるリューネブルク伯爵家は領民から強い支持を得ていた。貴族としての血筋は300年以上も続き、いずれの当主のときでも統治能力はレーヴェン国内のどの王侯貴族よりも長けていた。
「おはようございます、ヴィーツ様」
ブランギットの中心部に位置し、リューネブルク家の居城でありブランギットの象徴でもあるシュトレーン城。
美しい白亜にきらめく絵のようなこの城は大きなコの字を縦にしたような形をしている。その右側の棟にある部屋の中、落ち着いた緑色に統一された豪奢な寝台で、部屋付きのメイドに起こされる少年がいた。
窓から差し込む光に艷めく髪は黒く、普段からのくせ毛にまだ寝癖がついて、いろんな方向にぴょんぴょんはねている。
眠たげにこする瞳はエメラルドのように澄む美しい緑。ふちどるまつ毛は濃く長く、顔立ちを中性的なものにしていた。
「あいたたた…これだから舞踏会は嫌なんだ、次の日まで脚が痛くなるなんて…」
少年にしてはかなり細作りの脚をさすりながら体を起こす。くすぐるように顔をなでる陽光に細く目を向けてひとつあくびをした。
運動が嫌いで文学が好きというこの少年の名はヴィーツ・フォン・リューネブルク。
まだ14歳、宮廷デビューも済ませていない小さな少年が、このリューネブルク伯爵家の長男なのである。
「ヴィーツ様、そんなことをおっしゃっているようでは王宮で笑われてしまいますよ、ダンスもできない伯爵なんて聞いたことがありません」
黒い制服に身を包んだメイドが困った顔をして笑うが、ヴィーツはまだごねている。
「でも僕には踊るなんてちっとも楽しいと思えないんだよ、本を読んでいる方が絶対楽しいのに……、舞踏会の席では優しいくせに、終わった途端みんな冷たくなるし」
「…何をおっしゃられますか。そんなことでは伯爵家嫡男は務まりませんよ。
それにヴィーツ様、いい加減奥方様にお親しみあそばしませ。お母様に親しまない子などどこにいると言うんですか」
ため息混じりにメイドは言う。
「でも、ギーゼラ様はなぜか僕にはお構いなしじゃないか。僕の方がハンスより早く生まれたのに、お父様だって僕に冷たいし。
……いつか君が言っていたね、僕を産んだのはギーゼラ様ではないと」
ぼそりとつぶやくように言ったヴィーツにメイドは慌てて言った。
「だ、だからヴィーツ様、そのお話は早くお忘れなさいませ。ただの嘘だと思って…」
そして、物問いたげな彼に向かって、思い出したかのように小さく叫んだ。
「ああ、そうだ、ヴィーツ様。
伯爵様が、朝の支度が済んだら私の部屋へと仰っておりましたよ」
美しい彫刻が施された重厚な扉。
ヴィーツが最も苦手とする男であり、その父親でもあるライン伯爵の私室である。
会いたくないという思いを振り払うかのように頭をぶんぶんと振り、ヴィーツはその扉を叩いた。
「入れ」
中から応えたその低い声に少し肩をすくめて彼は扉を開けた。
「お父様、おはようございます」
広く薄暗い部屋の中、彼の父親は机に向かっていた。少しくすんだ金の髪を後ろになでつけ、細く青い瞳は冷徹そうに光る。襟の詰まった青いジャケットを着こなす身には少しの隙もない。
「ああ、ヴィーツか」
無感動な声はやはり低い。
息子への挨拶もなく彼は続けた。
「今日はお前に話すことがある。
ブランシュという女性のことだ」
初めて聞いた響きにヴィーツが何も言えずにいると、ラインはゆっくりと立ち上がりながら口を開いた。
「あれは15年以上前のことだ。このリューネブルク伯爵家に出入りする豪商がいた。名前はフェリクス・ディーツェと言ったか……、そしてその男には娘がいてな」
伯爵はそのまま、歴代当主と夫人の肖像画が掛かっている方へと向かった。自分と夫人であるギーゼラの肖像画の隣、ヴィーツが今まで小窓か何かがあると思っていた、小さな真紅のカーテンが閉じられた一角。彼はゆっくりとそのカーテンをめくった。
そこには、他のものより小さい額に入った肖像画が飾られていた。描かれているのは、星明かりを灯した艷めく黒髪に真っ白な肌、そして澄んだエメラルドの瞳。幾重にも重ねられた花びらのような薄いピンクのドレスにその身を包んで笑う、美しい貴婦人だった。
「これがブランシュ・ディーツェ……、その豪商フェリクスの娘、そしてお前の母親だ」
「…僕の…母親……?」
ヴィーツは思わずそのまま言葉を返した。
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