その優しい人は、特別なお客様でした。

紬 祥子(まつやちかこ)

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第一章

【第4話】まさか、あの人が


【第4話】まさか、あの人が

「ねえ、桜田さん。ちょっとこれ見て」

 それからしばらく経った日の、昼休憩の終わり頃。一緒に休憩していた三好が、スマホの画面を亜矢香に向けながらそう言った。声には何か、軽い興奮のようなものが感じられる。

 画面に表示されていたのは、Cafeワイズの親会社である、「ワイズホールディングス」の公式サイトのようだ。右上に見慣れたロゴが配置されている。
 ……『今月の社内報』と書かれたページの、中ほどに載っていたのは。

「――え?」

 驚きで、思わず声が漏れた。

 見覚えのある、端正な顔立ち。
 清潔感あるスーツ姿と、何度も見た穏やかなまなざし。

 どう見ても「あの常連客」にしか見えない、バストアップの写真の下には【副社長 吉羽よしば俊輔しゅんすけ】という肩書きが記されていた。

「嘘……」
「ね、あの人よね。うちの『品のいいイケメン常連』さん。副社長だったんだ」
「……」

 心臓がどくどくと鼓動を強め、耳が熱くなってくる。
 記憶の中で幾度となく繰り返されていた、彼の笑顔と言葉が押し寄せてくる。

『慣れてきましたか? お仕事』
『頑張ってるの、ちゃんと伝わってきます』

 ――そんなふうに言ってくれていた、のに。
 そのすべてが、意味を変えてしまったかのようにリフレインされる。

(あの人が、副社長……?)

 親会社、しかも最高レベルの幹部である人に、勤務初日からぶつかってバインダーを拾ってもらい。
 この間は菓子をもらった挙句に「失礼しますっ!」と逃げるように帰ってしまったわけで。

「わああっ……!」
「あ、ごめんね、驚かせた? ……顔真っ赤だよ、 桜田さん」
「すみません、ちょっと外の空気吸ってきます!」

 慌てて立ち上がり、亜矢香は通用口から外へ出た。
 持ってきたペットボトルの水を、ひと口、ふた口と飲む。

(どうしよう……何か失礼なこと言ったんじゃ……?)
 記憶している限りでは、言っていないはず。
 だが、落ち着きのないところは散々見せてしまっている。全部、思い出したくはない。けれど頭は勝手に思い出してしまって、顔から火が出そうだった。

(副社長って……そんな人が、なんで)

 毎日のように来店して、亜矢香に優しく言葉をかけてくれていた理由。
 それが、ただの「親切なお客さん」だからではなかったのだとしたら──いったい、何が目的だったのだろうか。


 その日の午後、また彼は来ていた。
 何食わぬ顔をして、いつもの窓際の席に座った。

「桜田さん、これ二番テーブルにお願い」

 しかも、亜矢香の手が空いていたため、コーヒーを運ばねばならない局面に陥ってしまった。
 仕方ない、仕事だ。
 そう心の中で言い聞かせながら、平静を装ってトレイを運ぶ。

「……お待たせいたしました。ホットのブレンドです」
「いつもありがとう。お疲れ様」
「っ……!」

 思わずビクッとしてしまったのが、自分でもわかる。

 彼の声はひどく自然で、いつもと同じように優しくて。
 けれどもう「親切な常連客」とは思えなくなってしまった今、どう距離を取ればいいのかが測れない。

 穏やかな微笑みさえも、少し怖く感じる。
 その表情に、上の立場の人間としての余裕が重なって見えてしまう。

 亜矢香が固まってしまっていると、彼は少し身を乗り出し、静かな口調ではっきりと尋ねた。

「その様子だと、公式サイトの更新、見たんですね」
「……!」

 言い当てられて言葉を失う。
 心臓が跳ねて、うるさいほどの鼓動が耳に響いた。

「仕方ないですね。遅かれ早かれ目にするものですから」
「あ……はい、その……申し訳ありませんでした。失礼な振る舞いをしてしまって……!」

 亜矢香の早口での謝罪を、彼は手で制する。

「そんなにかしこまらないでください。ここに来ているのは、この店舗が外回りの途中で寄りやすいですから」
「……でも、やっぱり、その……」
「役職のことは、あまり気にしないでもらいたいんです。できれば、これまで通りに接してほしい」

 ゆっくりと、こちらの目を覗き込むように見つめてくる。
 まなざしの真っ直ぐさ、浮かんだ真摯な色に、亜矢香は返す言葉に詰まってしまった。

「それと、もうひとつ」

 彼の声が、少しだけ低くなる。
 胸の奥が、何かの予感を察したようにざわついた。

「今日は仕事の後、予定はありますか」
「……いいえ」
「では少しでいいので、時間をください」
「えっ……?」
「あなたに、伝えたいことがあるんです」

 そう告げた彼の視線は、どこまでも真っ直ぐだった。


 現実感のない、ふわふわと浮くようなこの感覚が、やがて大きな転機へとつながっていく。
 亜矢香はまだ、その先にあるものを知らない。
 だかこの日を境に、運命が静かに、かつ大きく動き出すことは、確かなように思えた。
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