この世界に魔法は存在しない

美海

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魔女・1

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 かけてから五年が経って、とうとう魔法は解けてしまったらしい。

 宝物庫で拾った急患に施した縫合手術は無事に成功したのに、少年はなかなか意識を取り戻さなかった。おまけに目覚めたら目覚めたで記憶喪失だなんて、間違いなく彼はイェルチェが今までに診た中で一番手のかかる患者だった。
 イェルチェはごく普通の人間でしかないから、もちろん『魔法』なんて使えない。
 たとえば荒れた部屋は『魔法で元に戻した』のではない。体調が安定してきた少年を『転院』させただけだ。窓を塞いだ馬車で移動して『狩場からの帰り道』だと偽り、違う屋敷へと移した。設えが同じ部屋を転院先として用意したのは、環境を変えると彼の心に負担をかけるかもしれないと思っただけだったが、思いのほか『魔法』の存在を信じ込まれてしまって焦った。
 だが、そんな子ども騙しの嘘が長く保つわけもなかったのだ。

「どうして魔女だなんて嘘を吐いた」
「『魔法が使える』と言ったのは、あなたに逃げられると困るから脅しのため。でも『魔女』なのは本当よ。わたしがしてきたことはすべて『魔女』の仕事だもの。……それに、あなたがたには『魔女』と言った方が通りがいいかと思って」

 イェルチェが投げやりに認めると、彼は厳しい目で尋ねてきた。

「どういう意味だ」
「わたしの母も『魔女』だったの。『正しい学問』から外れた知識を持つ女、という意味でね。とある国の王妃さまの出産を任されるくらいには評判のいい産婆だった」
「それはすごいな」
「ええ、尊敬すべき人だった。おまけに母はわたしと違って優しい人だったから、王妃さまのことをよく気遣っていましたよ。妊娠中に気分がすぐれないと聞けば、気分の落ち着く薬草茶を淹れてさしあげたり。……そんなこと、しなければよかったのに」

 脈絡のない話を、彼はひどく真剣な顔で聞いていた。イェルチェの言葉を一言一句聞き逃すまいとするかのように。

「王妃さまには生まれてくる子どもに対して望むことがあったんですって。男の子であること、王家に伝わる金色の瞳を持っていること……」

 そう言いながら見つめ返すと、彼ははっと息を呑んだ。
 この話に出てくる『とある国の王妃』が誰のことなのか、彼にも分かったのだろう。その『子ども』が誰かということも。

「安産で生まれた王子さまは健やかで可愛らしい御子だったけれど、金色の瞳を持っていなかった。その子を見た王妃さまは『魔女に呪われたからだ』と言ったそうです。『あの薬草茶が魔女の毒だったんだ』って」
「恩知らずにも程があるだろう!……僕の母は、本当にそんなことをしたのか?」
「魔女の言葉など信じなくても構いませんけど」
「……いや。いかにもしそうな人ではあったな」

 当時の王妃も難しい立場にあったのだとは、後に聞いて理解した。
 暴君は自分を不快にさせた者に対して一切の容赦がなく、実際に前の王妃は不義密通の罪で処刑までされていた。国王の望む容姿ではない子どもの命も、その子を産んだ自分の命も危うかったから、王妃はその『罪』を産婆に押しつけた。
 死を恐れてやむなくした行為だと理解はする。理解はするけれど、一生彼女のことは恨むし憎むというだけだ。

「母は即日処刑されました。娘のわたしもまとめてサクッとやってくれればよかったのに『まだ子どもだから』と妙な慈悲が湧いたらしく、国外追放で済まされまして」

『命は助かってよかった』とは簡単に口にできない。
 言葉もろくに通じない地に放り出された幼い孤児にまともな運命が待ち受けているはずもなく、イェルチェは程なくして人買いに捕まって、娼館に売り飛ばされた。
 一つだけ幸運だったことは、売られた先の娼館で出会った人には恵まれたことだろうか。
 そこでいくらか友人もできた。面倒見のいい先輩娼婦の姐さんたちと、気のおけない同輩たちと、妹のような後輩たち。あとは、客としてやってきた『彼』だとか。

『『掃き溜めの聖女』って君のこと?』

 噂を聞いて会いに来たという物好きな商人を、イェルチェはじろりと睨みつけた。

『その呼び名、やめてくれない? 教会は嫌いなの。『聖女』呼ばわりなんて虫唾が走る』

 教会は嫌いだ。教会の知らない技術や知識を持つ産婆や薬師のことを『魔女』だと決めつけて、迫害しか加えない。娼婦を神に背く汚れた存在だと切り捨てて、治療も臨終の儀式もしてくれない。
 だから大嫌いだ。やつらが有難がる神も聖女も嫌い。そんなものに取り込まれたくない。
 イェルチェが言うと、『フレッド』と名乗った彼は素直に頭を下げた。

『ごめん。君を尊敬してるって伝えたかっただけなんだ。君がこの娼館に来てから、望まぬ妊娠や性病に苦しむ娼婦が減ったと聞いて。さぞかし凄腕の名医なんだろうと思ったら、僕と同年代の女の子だったから』
『お医者さまなんて立派なもんじゃない。ただの娼婦の手遊び。母さんの教えてくれたとおりに薬を作って配ってるだけよ』
『上下水道を整備させて衛生環境を改善させたのは? おかげでこの地区では先の流行病の死人が少なかったらしいね』
『それも姐さんたちのお手柄。ご贔屓の成金さんに『生水に当たってお腹が痛くて今日は無理』ってベッドで泣きついてもらったの』
『なるほどね。……ねえ、君。身請けするから僕のために働いてくれない?』

 君の知識はここで燻らせておくには惜しい。僕と来ればもっと多くの人を助けられる力だ。
 その言葉通りにフレッドはイェルチェを落籍させてくれたし、『肩書きで態度を変えるなんて馬鹿馬鹿しいと思うけど、その程度で変わるものなら立派な肩書きがあった方がいい』と言って、医学の進んだ隣国の大学に聴講生として通わせてくれさえした。
 フレッドの言うことは、たいてい正しい。『医学を修めた才媛で医官の職につく進歩的な女』という肩書きを得たイェルチェのことを、もはや誰も『魔女』とは呼ばなかった。

「だから、あなたに『魔女』と呼ばれたときに驚いたの。久しぶりに聞いたから」

 その単語を口にしたのが母の死の原因となった赤子だなんて、何かの因縁を感じずにはいられなかった。
 イェルチェがそう言うと、彼は顔をこわばらせた。彼を責めたつもりはなかったが、何か勘違いさせてしまったらしい。

「……そんな過去があってどうして、あなたは、僕を助けたんだ」
「仕事だからよ。これでも医師の端くれですもの」
「義務感だけか?」
「八割くらいは。あとは、そうね、『興味』かしら」
「興味?」
「見てみたかったの。王子さまの『魔女に呪われた瞳』はどんな色をしているのか」

『王太子の瞳は血のような色をしている』という噂は聞いたことがあった。
 おそらく色素の欠乏によるものだと予想はついていたけれど、あの宝物庫で出会った少年はぎゅっと瞼をつぶっていたから瞳の色は分からなかった。

「いざ見てみたら、思ったよりも普通だったわ」
「なんだ、その感想」
「そうとしか言えないもの」

 母を死に追いやった瞳は、思ったよりも『普通』だった。確かに珍しい色ではあるが、理屈で説明がつく通りの、イェルチェが予想した通りの色をしていた。
 少し拍子抜けして、恐れるまでもない綺麗に透き通った色を個人的に愛おしいと思った。

「こんな昔話をしていてもつまらないわね。わたしはあなたを騙して脅かして洗脳して閉じ込めた。『悪い魔女』に罰を与えたいなら何でもご自由にどうぞ。あなたにはその権利がある」
「なんでも、か」

 イェルチェの言葉を繰り返した青年は、少しの沈黙の後に、喉奥から絞り出すように言った。

「……抱きたい。抱かせてくれ」

 その声を聞いて『抱きしめてあげましょうか? 甘えん坊ね』と茶化すことはできなかった。
 さすがに意味は分かる。イェルチェの女としての尊厳を奪うことが『罰』だと言っているのだ。

「……そう。あなたも年頃だものね。こんな年増が初体験の相手でいいなら」

 自分から『何でも自由に』と言ったのに、イェルチェに騙されて数年間を棒に振った彼には、復讐する権利があると思うのに、失望と落胆を隠せなかった。
 何を期待していたのだろう。真相が露わになった後も謝ってみせれば許してくれると――彼がこれまで通りにイェルチェを慕って心地の良い関係を続けてくれるとでも思っていたのか。
 それでは、あまりにも彼が可哀想だ。迷いを振り切るように、イェルチェは挑発的な言葉を紡ぎ続けた。

「潤滑剤の在庫はあるし。避妊薬はわたしが飲むから膣内で射精していいわ。わたしの作る薬の効き目は知っているでしょう?」
「そういう問題じゃない! そんな強い作用の薬を飲んで、あなたの体は大丈夫なのか!?」
「娼婦の頃は常用してたわ。害があるならもう手遅れよ」
「……っ、」
「ちょうどいい機会だから女の体のことも教えてあげる」

 早くベッドに行きましょう、と誘っても、彼はその場から動こうとしなかった。

「レオポルト殿下?」
「その名で呼ぶな!」
「……どうしたの、ブランカ。なにも、泣くことないでしょう?」

 彼の赤い瞳からは透明な涙がぽたりぽたりとこぼれ落ちていた。イェルチェは彼の望みを全て叶えると言ったのに、おかしな反応だ。

「ねえ、ブランカ?」
「あなたは、何も分かってない!」
「そんなこと」
「僕はっ、ずっと、あなたの隣に並べる男になりたいと思ってた。僕が知らない話をイェルチェがするたびに悔しくなって、過去の男なんてみんな消えてしまえばいいのにって」

 イェルチェが心を傾けた男なんていなければいい、自分が愛される唯一の男になりたいと狭量に思っていたと、ブランカは独占欲を告白した。

「今はそう思わない。僕が『最初』じゃなくていい。あなたの傍には、これまでに誰ひとり、心から愛し合った人はいなかったのか」

 想い人が愛してもいない男たちに奪われ続けたと聞くくらいなら、過去に真摯に愛し合った相手がいたと言われる方が、何千倍もマシだ。
 少年のような潔癖さを色濃く残す言葉を聞いて、イェルチェは思わず笑ってしまった。身に纏った分厚いローブを脱ぎ捨てた。『これ』を見ても彼はまだ同じことが言えるだろうか。

「魔女の烙印を押された女にまともな恋愛ができると思う?」

 下着だけを身に着けたイェルチェの左肩には醜く引き攣れた痕がある。十歳の時に焼鏝で刻まれた『異端』の烙印は、傷そのものの痛みが失せてからも長くイェルチェを苦しめ続けた。
 好意を抱いた相手がいても、裸を晒す仲にはなれなかった。そんな相手にだけは自分の忘れたい過去を知られて嫌われたり軽蔑されたりしたくなかったから。
 反対に、イェルチェの秘密を知った下衆な輩は言いふらさないことと引き換えに、便宜を図るように求めてきた。金や身体や大学での席次を譲ることなどを。経験人数だけは多くなっても、その下衆の中に心を許して愛し合った者などいるわけがない。

「処女や良家の子女でもあるまいし、大したことじゃない。犬に噛まれたようなものよ。嫌なことをされてもすぐに忘れるようにしてるから――」
「嫌だっ!」

 だからあなたも気にしなくていいと言い切る前に、ブランカは言葉を遮ってきた。
 考えてみれば彼はれっきとした『良家の子女』なのだ。イェルチェの持つ考え方に嫌悪感を抱いても仕方がない。

「その気になれないならやめる?」
「……話を聞いても止めたくない自分に腹が立つ。男用の避妊具を出してくれ。前に村人に頼まれて作っていただろう」
「いいけど。どうして?」
「僕が着けるから。少しでもあなたの負担を減らしたい。……あなたのためじゃない、僕とのことを『すぐに忘れられる嫌な思い出』にしないでほしいからだ」

『どうか覚えていてほしい』という彼の言葉は、イェルチェが知らない『愛』だの『恋』だのよりもずっと素直に受け取れる気がした。
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