1 / 10
第一話:偽物のモテ顔、つまらない自分
しおりを挟む
9月の朝、6時の彩花の部屋は蒸し暑い空気に満ちていた。
カーテンの隙間から差し込む陽光が、机の上のメイク道具を照らす。
ベージュのクッションファンデ、ブラウンとベージュのアイシャドウパレット、透明感あるピンクリップ、カラコンケース、涙袋用のハイライトペンシル、細いアイライナー。
彩花は鏡の前に立ち、化粧筆を握って額の汗を拭った。
開けた窓から蝉の残響が薄く響き、夏の名残が漂う。
鏡の中の素顔は、どこまでも平凡だ。
薄い眉、そばかすが点々と散る頬、小さな目元。透明感や華やかさとは無縁の、ありふれた自分。
中学の教室が頭をよぎる。
グループの端で縮こまる自分。
友人の冷たい声。「彩花、めっちゃ普通じゃん。つまんないって、男子も言ってたよ」。笑い声が響き、誰も彩花を見なかった。
話しかけても、視線はすぐに逸らされた。
美咲の「彩花、黙ってろ」が耳に残る。
あの頃の私は、ただの背景だった。
誰かが美奈を笑う中、私は黙って俯いていた。
彩花は目を閉じ、鏡の素顔を一瞬だけ見つめる。
このままじゃ、誰も振り向かない。偽物の私でいい。そうすれば、傷つかずに済む。胸の奥で、小さな声が囁く。
本当の私は、誰にも必要ない。
メイクは彩花にとって儀式だ。コンシーラーでそばかすを丁寧に隠し、クッションファンデを薄く重ねて肌を滑らかに。
ブラウンのカラコンを装着し、目を大きく、自然に。
アイシャドウはブラウンでグラデーション、ベージュでまぶたに光を。
涙袋はハイライトペンシルでふっくら、細いアイラインで目を引き締める。
ピンクリップを塗り、グロスで濡れた輝き。
シェーディングで輪郭を整え、透明感マスカラでまつ毛を長く。
鏡の中の自分は、さっきまでとは別人だ。
清楚で儚い、誰もが振り返る美貌。
作りなれた笑顔を浮かべ、彩花は小さく頷いた。
偽物の鎧に守られ、心は少し軽い。
制服の襟に汗が滲み、彩花は鏡で最後を確認。
完璧な仮面。
鞄を手に玄関へ向かう。
母の「遅刻するよ!」に「行ってきます」と答え、蒸し暑い朝の空気の中を歩き出した。
校門までの道は青々とした木々が揺れ、地面はまだ夏の熱を帯びている。
彩花の心が揺れる。
この偽物の私が、今日も誰かに届くかな。
校舎のシルエットが朝の陽射しに浮かび、彩花は深呼吸した。
新しい自分を、今日も演じる。
高校3年B組の教室は、朝8時にざわめきで満ちていた。
扇風機がブーンと回り、窓から差し込む陽光が机に汗ばむ影を落とす。
制服の襟が湿り、教室は蒸し暑い。彩花が教室に入ると、視線が集まる。
作りなれたふんわりした甘い笑顔で、彩花は窓際の席へ向かう。
そこには親友の凛子が、手を振って待っている。
凛子はクールな美貌の持ち主だ。
鋭い目元と知的な佇まい、色気ある仕草は演劇部のエースにふさわしい。女優の母を持つ彼女は、教室の空気を一瞬で変える存在だ。
彩花の胸が温まる。凛子のそばにいると、つまらない自分を忘れられる。
「彩花、遅い。寝坊?」
凛子の声は柔らかく、彩花の緊張を解す。
汗で額に張り付いた前髪を直し、彩花は首を振った。
少し、メイクに時間がかかっただけ。凛子は彩花の涙袋に気づき、軽く笑う。
「今日も可愛いね。気合い入ってる」
凛子の言葉は軽やかで、自然な優しさだ。
彩花は微笑むが、胸の奥が疼く。
凛子は偽物の私を見ても、本当の私を許してくれる。
そこへ、美奈と鈴香が教室に入ってきた。
美奈はギャル風で、派手なメイクと明るい髪が目立つ。クラスのリーダー格だ。鈴香は意地悪な笑顔の取り巻き。陽菜が黙って後ろを歩く。美奈が彩花を一瞥し、鈴香に耳打ちする。
「誰かさん、今日も化粧濃いね。顔作り過ぎ」
「嘘くさいよね。媚び媚びの顔、キモっ」
美奈の目が一瞬、冷たく光る。
彩花の胸が締まる。
美奈の視線には、ただの嫌み以上の何かがある。
過去の教室が頭の中をちらつく。美奈の震える声、グループの笑い声。
彩花は聞こえないふりで凛子の前の席に着く。凛子が彩花の震える手を見て、小さく手を握る。
「彩花、気にしないで。あいつらの言葉、価値ないよ」
凛子の手は温かい。彩花は頷くが、心がざわめく。
スマホを取り出し、クラスLINEを開く。
グループトークが盛り上がっている。誰かさん、今日も顔作り込んでたね~。転校生来るから気合い入ってる? 彩花とは書いていないが、明らかに自分だ。手が震える。
LINEやSNSは嘘ばかり。偽物の私と同じだ。
凛子が彩花のスマホを覗き、眉をひそめる。
「通知、切っておきな。彩花の価値は、あいつらが決めるもんじゃない」
凛子の声に、彩花は小さく頷いた。
でも、気になって切れない。
美奈が遠くで彩花を見据え、唇の端を歪める。「昔のこと、忘れた?」と囁くような目。彩花の胸が締まる。
あの頃の私は、ただ黙っていただけなのに。
そこへ、陽太が教室に飛び込んできた。凛子の彼氏で、くしゃっとした笑顔が愛嬌たっぷり。短髪が汗で湿り、ギターケースを背負っている。陽太の明るさは、蒸し暑い教室を一瞬で和らげる。彩花の心が軽くなる。
「おはよー! 凛、めっちゃ輝いてる! 彩花ちゃんスター!」
陽太のボケに、彩花は小さく笑った。凛子が呆れた顔で陽太の頭を軽く叩く。
「陽太、うるさい。朝からテンション高すぎ」
「凛の笑顔見たら、テンション爆上げ! な、彩花ちゃん?」
陽太がウインクし、彩花に振る。彩花は作りなれた笑顔で答える。
「うん、陽太君、今日も元気だね」
陽太がギターケースを机に置き、軽く弦を弾く。軽快な音が教室に響き、彩花の心が温まる。美奈が舌打ちし、鈴香が囁く。「彩花、調子乗ってる」。陽太は気にせず、ニヤリと笑う。
「噂とかバカらしい! 凛も彩花ちゃんも、最高だぜ!」
陽太は友達と廊下へ消える。彩花は陽太の背中を見て思う。本音でいられる人、いいな。陽太の笑顔は、凛子を「凛」と呼ぶ声は、彩花には遠い眩しさだ。
ホームルーム前、亮太が彩花に絡んできた。サッカー部のモテ男、自信たっぷりの俺様系。取り巻きの男子2人と一緒だ。亮太がニヤニヤしながら近づく。
「彩花、文化祭当日は当然俺と回るよな?」
彩花は作りなれたふんわりした甘い笑顔で、亮太の腕に軽く触れる。
「亮太君、強引だね~。うーん、どうしようかな」
声は甘ったるく、曖昧に誤魔化す。亮太が笑い、友達が囃し立てる。「彩花ちゃん、可愛い!」。亮太は余裕たっぷりに肩をすくめる。
「まぁ、考えといて」
亮太たちが去ると、彩花は小さく息を吐く。美奈が遠くで睨む。彩花は笑顔を保つが、心の奥はひんやりと冷たい。偽物の私が、こんな視線を集めるなんて。
ホームルームが始まる。担任が転校生を連れてくる。高木悠斗。
黒髪、端正な顔立ち、落ち着いた雰囲気。
教室がざわつく。女子の視線が集まり、美奈が鈴香に囁く。「かっこいい!」。
担任が悠斗を彩花の隣の席に案内する。
彩花の心が少し高鳴る。作りなれたふんわりした甘い笑顔で、彩花は微笑んだ。
「悠斗君、よろしくね。」
悠斗は彩花のカラコンをじっと見つめ、素っ気なく頷く。
「…うん、よろしく」
彩花はいつものように、可愛く見える角度で絡む。偽物の顔なら、怖くない。
「悠斗君、ミステリアスだね。彼女いる? 絶対モテるでしょ」
悠斗の目が鋭くなる。眉が一瞬だけ動いた。
「何のつもり? そういう絡み、いいよ」
彩花は微笑んだまま、顔が固まる。教室の空気が重くなり、美奈がクスクス笑う。
「彩花、速攻フラれた。モテ顔、ビッチすぎて通用しないね」
彩花は微笑みを崩さない。
心がチクッと痛む。
偽物の私が、こんな簡単に嫌われるなんて。
凛子が後ろの席から心配そうに見つめる。
彩花は目を逸らし、ノートを開いた。
悠斗の冷たい目が頭に焼きつく。なぜか胸が締まる。
あの鋭い視線は、偽物の私を突き抜けて、本当の私を見た気がした。
心が揺れる。
こんな気持ち、初めてだ。
放課後、演劇部の部室は文化祭の準備で賑やかだった。
古い木の床に小道具が散らばり、窓の外は夕暮れの湿気を帯びている。
部室はムッとした空気で、扇風機が弱々しく回る。
遠くで運動部の掛け声が響く。
彩花は裏方を担当し、黙々と小道具を整理する。地味でコツコツやる自分に戻れる場所。
凛子は主演で、舞台の中心に立つ。
女優の母から受け継いだ実力と、誰もが目を奪われる存在感。
凛子の演技は、彩花の心を震わせる。でも、凛子の高嶺の花な雰囲気は、演劇部の女子数人に疎まれる。
彩花は凛子のそばにいるせいで、余計に悪く言われる。
それでも、彩花は離れるつもりはない。
凛子が彩花に小道具を渡しながら笑う。
「彩花、ありがとう。あなた、ほんと頼りになる」
凛子の言葉に、彩花の胸が温まる。つまらない自分でも、凛子には必要とされる。
そこへ、陽太がギターケースを背負って現れる。
「凛の演技、世界一! 文化祭、ぶちかますぜ!」
陽太がギターを取り出し、軽くコードを弾く。スピッツの「チェリー」風のメロディーが部室に響き、部員たちが笑い出す。
彩花も小さく笑う。
陽太の明るさは、彩花の重い心を軽くする。
演劇部の女子が囁く。
「彩花、凛子に媚びて目立とうとしてる。顔作り過ぎ」
「嘘くさいよね。ビッチ、ムカつく」
彩花は聞こえないふりで小道具を整理する。
胸が締まる。
凛子が彩花の肩に手を置き、小さく呟く。
「彩花、気にしないで。あなたは私の大切な友達」
凛子の目が一瞬、弱くなる。「母さん、また来ないかな」と呟く声がかすれる。彩花はそっと凛子の手を握る。
「大丈夫、凛子の演技、絶対届くよ」
凛子の笑顔が戻る。
そこへ、担任に連れられた悠斗が演劇部を見学に来る。
転校初日の校内案内だ。
彩花はいつものように絡む。
「悠斗君、舞台映えしそうだね。カッコいいから、演劇部入っちゃえばいいのに」
悠斗は一瞬だけ彩花を見て、素っ気なく答える。
「…興味ない」
彩花は笑顔で頷くが、心がチクッと痛む。
悠斗が凛子と彩花の手を握る瞬間をチラッと見る。
無意識に小さく微笑む。
彩花はその笑顔に、なぜか心がドキッとした。
演劇部の喧騒の中で、その一瞬だけ時間が止まる。
彩花はすぐに目を逸らし、小道具に戻る。
悠斗の笑顔が、頭から離れない。
あの温かさは、偽物の私に向けられたものじゃない気がした。
胸が締まる。こんな感情、知らない。
夜、彩花の部屋は静かだった。
開けた窓から生ぬるい風が流れ、コオロギの声が響く。
カーテンの隙間から星の光が差し込み、机の上のメイク道具をぼんやり照らす。
文化祭の台本を手に、彩花はベッドに座る。
スマホにクラスLINEの通知。
夜11時、グループトークが盛り上がっている。今日のアイツ見た? 転校生がかっこいいから、早速媚びてたよね。マジうざい。ビッチすぎ。
彩花とは書いていないが、明らかに自分だ。
彩花はスマホをベッドに置く。
SNSは嘘ばかり。偽物の私と同じ。本音なんて言えない。
中学の傷が蘇る。グループの笑い声。「彩花、つまんない」。美奈の震える声。
彩花は目を閉じる。
教室での悠斗の冷たい目。鋭い一言。「そういう絡み、いいよ」。演劇部での無意識の笑顔。ドキッとした瞬間が、胸を締め付ける。あの笑顔は何だったんだろう。彩花は演劇部の喧騒を思い出す。
凛子の疲れた顔。自分を必要と言ってくれる声。
なのに、悠斗の微笑みが頭から離れない。心がざわめく。なぜ、悠斗の笑顔がこんなに胸を締めるんだろう。
鏡の前に立つ。カラコンを外し、化粧を落とす。
そばかす、薄い眉、平凡な顔。
つまらない自分だ。凛子のそばにいたい。偽物の鎧を脱ぎたい。
でも、噂の目は冷たい。
悠斗の笑顔は、なぜか温かかった。
彩花はベッドに倒れ込む。
胸の奥で、知らない感情が芽生えている。
まだ名前はつけられない。
窓の外、9月の星空が薄い雲に揺れていた。
カーテンの隙間から差し込む陽光が、机の上のメイク道具を照らす。
ベージュのクッションファンデ、ブラウンとベージュのアイシャドウパレット、透明感あるピンクリップ、カラコンケース、涙袋用のハイライトペンシル、細いアイライナー。
彩花は鏡の前に立ち、化粧筆を握って額の汗を拭った。
開けた窓から蝉の残響が薄く響き、夏の名残が漂う。
鏡の中の素顔は、どこまでも平凡だ。
薄い眉、そばかすが点々と散る頬、小さな目元。透明感や華やかさとは無縁の、ありふれた自分。
中学の教室が頭をよぎる。
グループの端で縮こまる自分。
友人の冷たい声。「彩花、めっちゃ普通じゃん。つまんないって、男子も言ってたよ」。笑い声が響き、誰も彩花を見なかった。
話しかけても、視線はすぐに逸らされた。
美咲の「彩花、黙ってろ」が耳に残る。
あの頃の私は、ただの背景だった。
誰かが美奈を笑う中、私は黙って俯いていた。
彩花は目を閉じ、鏡の素顔を一瞬だけ見つめる。
このままじゃ、誰も振り向かない。偽物の私でいい。そうすれば、傷つかずに済む。胸の奥で、小さな声が囁く。
本当の私は、誰にも必要ない。
メイクは彩花にとって儀式だ。コンシーラーでそばかすを丁寧に隠し、クッションファンデを薄く重ねて肌を滑らかに。
ブラウンのカラコンを装着し、目を大きく、自然に。
アイシャドウはブラウンでグラデーション、ベージュでまぶたに光を。
涙袋はハイライトペンシルでふっくら、細いアイラインで目を引き締める。
ピンクリップを塗り、グロスで濡れた輝き。
シェーディングで輪郭を整え、透明感マスカラでまつ毛を長く。
鏡の中の自分は、さっきまでとは別人だ。
清楚で儚い、誰もが振り返る美貌。
作りなれた笑顔を浮かべ、彩花は小さく頷いた。
偽物の鎧に守られ、心は少し軽い。
制服の襟に汗が滲み、彩花は鏡で最後を確認。
完璧な仮面。
鞄を手に玄関へ向かう。
母の「遅刻するよ!」に「行ってきます」と答え、蒸し暑い朝の空気の中を歩き出した。
校門までの道は青々とした木々が揺れ、地面はまだ夏の熱を帯びている。
彩花の心が揺れる。
この偽物の私が、今日も誰かに届くかな。
校舎のシルエットが朝の陽射しに浮かび、彩花は深呼吸した。
新しい自分を、今日も演じる。
高校3年B組の教室は、朝8時にざわめきで満ちていた。
扇風機がブーンと回り、窓から差し込む陽光が机に汗ばむ影を落とす。
制服の襟が湿り、教室は蒸し暑い。彩花が教室に入ると、視線が集まる。
作りなれたふんわりした甘い笑顔で、彩花は窓際の席へ向かう。
そこには親友の凛子が、手を振って待っている。
凛子はクールな美貌の持ち主だ。
鋭い目元と知的な佇まい、色気ある仕草は演劇部のエースにふさわしい。女優の母を持つ彼女は、教室の空気を一瞬で変える存在だ。
彩花の胸が温まる。凛子のそばにいると、つまらない自分を忘れられる。
「彩花、遅い。寝坊?」
凛子の声は柔らかく、彩花の緊張を解す。
汗で額に張り付いた前髪を直し、彩花は首を振った。
少し、メイクに時間がかかっただけ。凛子は彩花の涙袋に気づき、軽く笑う。
「今日も可愛いね。気合い入ってる」
凛子の言葉は軽やかで、自然な優しさだ。
彩花は微笑むが、胸の奥が疼く。
凛子は偽物の私を見ても、本当の私を許してくれる。
そこへ、美奈と鈴香が教室に入ってきた。
美奈はギャル風で、派手なメイクと明るい髪が目立つ。クラスのリーダー格だ。鈴香は意地悪な笑顔の取り巻き。陽菜が黙って後ろを歩く。美奈が彩花を一瞥し、鈴香に耳打ちする。
「誰かさん、今日も化粧濃いね。顔作り過ぎ」
「嘘くさいよね。媚び媚びの顔、キモっ」
美奈の目が一瞬、冷たく光る。
彩花の胸が締まる。
美奈の視線には、ただの嫌み以上の何かがある。
過去の教室が頭の中をちらつく。美奈の震える声、グループの笑い声。
彩花は聞こえないふりで凛子の前の席に着く。凛子が彩花の震える手を見て、小さく手を握る。
「彩花、気にしないで。あいつらの言葉、価値ないよ」
凛子の手は温かい。彩花は頷くが、心がざわめく。
スマホを取り出し、クラスLINEを開く。
グループトークが盛り上がっている。誰かさん、今日も顔作り込んでたね~。転校生来るから気合い入ってる? 彩花とは書いていないが、明らかに自分だ。手が震える。
LINEやSNSは嘘ばかり。偽物の私と同じだ。
凛子が彩花のスマホを覗き、眉をひそめる。
「通知、切っておきな。彩花の価値は、あいつらが決めるもんじゃない」
凛子の声に、彩花は小さく頷いた。
でも、気になって切れない。
美奈が遠くで彩花を見据え、唇の端を歪める。「昔のこと、忘れた?」と囁くような目。彩花の胸が締まる。
あの頃の私は、ただ黙っていただけなのに。
そこへ、陽太が教室に飛び込んできた。凛子の彼氏で、くしゃっとした笑顔が愛嬌たっぷり。短髪が汗で湿り、ギターケースを背負っている。陽太の明るさは、蒸し暑い教室を一瞬で和らげる。彩花の心が軽くなる。
「おはよー! 凛、めっちゃ輝いてる! 彩花ちゃんスター!」
陽太のボケに、彩花は小さく笑った。凛子が呆れた顔で陽太の頭を軽く叩く。
「陽太、うるさい。朝からテンション高すぎ」
「凛の笑顔見たら、テンション爆上げ! な、彩花ちゃん?」
陽太がウインクし、彩花に振る。彩花は作りなれた笑顔で答える。
「うん、陽太君、今日も元気だね」
陽太がギターケースを机に置き、軽く弦を弾く。軽快な音が教室に響き、彩花の心が温まる。美奈が舌打ちし、鈴香が囁く。「彩花、調子乗ってる」。陽太は気にせず、ニヤリと笑う。
「噂とかバカらしい! 凛も彩花ちゃんも、最高だぜ!」
陽太は友達と廊下へ消える。彩花は陽太の背中を見て思う。本音でいられる人、いいな。陽太の笑顔は、凛子を「凛」と呼ぶ声は、彩花には遠い眩しさだ。
ホームルーム前、亮太が彩花に絡んできた。サッカー部のモテ男、自信たっぷりの俺様系。取り巻きの男子2人と一緒だ。亮太がニヤニヤしながら近づく。
「彩花、文化祭当日は当然俺と回るよな?」
彩花は作りなれたふんわりした甘い笑顔で、亮太の腕に軽く触れる。
「亮太君、強引だね~。うーん、どうしようかな」
声は甘ったるく、曖昧に誤魔化す。亮太が笑い、友達が囃し立てる。「彩花ちゃん、可愛い!」。亮太は余裕たっぷりに肩をすくめる。
「まぁ、考えといて」
亮太たちが去ると、彩花は小さく息を吐く。美奈が遠くで睨む。彩花は笑顔を保つが、心の奥はひんやりと冷たい。偽物の私が、こんな視線を集めるなんて。
ホームルームが始まる。担任が転校生を連れてくる。高木悠斗。
黒髪、端正な顔立ち、落ち着いた雰囲気。
教室がざわつく。女子の視線が集まり、美奈が鈴香に囁く。「かっこいい!」。
担任が悠斗を彩花の隣の席に案内する。
彩花の心が少し高鳴る。作りなれたふんわりした甘い笑顔で、彩花は微笑んだ。
「悠斗君、よろしくね。」
悠斗は彩花のカラコンをじっと見つめ、素っ気なく頷く。
「…うん、よろしく」
彩花はいつものように、可愛く見える角度で絡む。偽物の顔なら、怖くない。
「悠斗君、ミステリアスだね。彼女いる? 絶対モテるでしょ」
悠斗の目が鋭くなる。眉が一瞬だけ動いた。
「何のつもり? そういう絡み、いいよ」
彩花は微笑んだまま、顔が固まる。教室の空気が重くなり、美奈がクスクス笑う。
「彩花、速攻フラれた。モテ顔、ビッチすぎて通用しないね」
彩花は微笑みを崩さない。
心がチクッと痛む。
偽物の私が、こんな簡単に嫌われるなんて。
凛子が後ろの席から心配そうに見つめる。
彩花は目を逸らし、ノートを開いた。
悠斗の冷たい目が頭に焼きつく。なぜか胸が締まる。
あの鋭い視線は、偽物の私を突き抜けて、本当の私を見た気がした。
心が揺れる。
こんな気持ち、初めてだ。
放課後、演劇部の部室は文化祭の準備で賑やかだった。
古い木の床に小道具が散らばり、窓の外は夕暮れの湿気を帯びている。
部室はムッとした空気で、扇風機が弱々しく回る。
遠くで運動部の掛け声が響く。
彩花は裏方を担当し、黙々と小道具を整理する。地味でコツコツやる自分に戻れる場所。
凛子は主演で、舞台の中心に立つ。
女優の母から受け継いだ実力と、誰もが目を奪われる存在感。
凛子の演技は、彩花の心を震わせる。でも、凛子の高嶺の花な雰囲気は、演劇部の女子数人に疎まれる。
彩花は凛子のそばにいるせいで、余計に悪く言われる。
それでも、彩花は離れるつもりはない。
凛子が彩花に小道具を渡しながら笑う。
「彩花、ありがとう。あなた、ほんと頼りになる」
凛子の言葉に、彩花の胸が温まる。つまらない自分でも、凛子には必要とされる。
そこへ、陽太がギターケースを背負って現れる。
「凛の演技、世界一! 文化祭、ぶちかますぜ!」
陽太がギターを取り出し、軽くコードを弾く。スピッツの「チェリー」風のメロディーが部室に響き、部員たちが笑い出す。
彩花も小さく笑う。
陽太の明るさは、彩花の重い心を軽くする。
演劇部の女子が囁く。
「彩花、凛子に媚びて目立とうとしてる。顔作り過ぎ」
「嘘くさいよね。ビッチ、ムカつく」
彩花は聞こえないふりで小道具を整理する。
胸が締まる。
凛子が彩花の肩に手を置き、小さく呟く。
「彩花、気にしないで。あなたは私の大切な友達」
凛子の目が一瞬、弱くなる。「母さん、また来ないかな」と呟く声がかすれる。彩花はそっと凛子の手を握る。
「大丈夫、凛子の演技、絶対届くよ」
凛子の笑顔が戻る。
そこへ、担任に連れられた悠斗が演劇部を見学に来る。
転校初日の校内案内だ。
彩花はいつものように絡む。
「悠斗君、舞台映えしそうだね。カッコいいから、演劇部入っちゃえばいいのに」
悠斗は一瞬だけ彩花を見て、素っ気なく答える。
「…興味ない」
彩花は笑顔で頷くが、心がチクッと痛む。
悠斗が凛子と彩花の手を握る瞬間をチラッと見る。
無意識に小さく微笑む。
彩花はその笑顔に、なぜか心がドキッとした。
演劇部の喧騒の中で、その一瞬だけ時間が止まる。
彩花はすぐに目を逸らし、小道具に戻る。
悠斗の笑顔が、頭から離れない。
あの温かさは、偽物の私に向けられたものじゃない気がした。
胸が締まる。こんな感情、知らない。
夜、彩花の部屋は静かだった。
開けた窓から生ぬるい風が流れ、コオロギの声が響く。
カーテンの隙間から星の光が差し込み、机の上のメイク道具をぼんやり照らす。
文化祭の台本を手に、彩花はベッドに座る。
スマホにクラスLINEの通知。
夜11時、グループトークが盛り上がっている。今日のアイツ見た? 転校生がかっこいいから、早速媚びてたよね。マジうざい。ビッチすぎ。
彩花とは書いていないが、明らかに自分だ。
彩花はスマホをベッドに置く。
SNSは嘘ばかり。偽物の私と同じ。本音なんて言えない。
中学の傷が蘇る。グループの笑い声。「彩花、つまんない」。美奈の震える声。
彩花は目を閉じる。
教室での悠斗の冷たい目。鋭い一言。「そういう絡み、いいよ」。演劇部での無意識の笑顔。ドキッとした瞬間が、胸を締め付ける。あの笑顔は何だったんだろう。彩花は演劇部の喧騒を思い出す。
凛子の疲れた顔。自分を必要と言ってくれる声。
なのに、悠斗の微笑みが頭から離れない。心がざわめく。なぜ、悠斗の笑顔がこんなに胸を締めるんだろう。
鏡の前に立つ。カラコンを外し、化粧を落とす。
そばかす、薄い眉、平凡な顔。
つまらない自分だ。凛子のそばにいたい。偽物の鎧を脱ぎたい。
でも、噂の目は冷たい。
悠斗の笑顔は、なぜか温かかった。
彩花はベッドに倒れ込む。
胸の奥で、知らない感情が芽生えている。
まだ名前はつけられない。
窓の外、9月の星空が薄い雲に揺れていた。
0
あなたにおすすめの小説
あんなにわかりやすく魅了にかかってる人初めて見た
しがついつか
恋愛
ミクシー・ラヴィ―が学園に入学してからたった一か月で、彼女の周囲には常に男子生徒が侍るようになっていた。
学年問わず、多くの男子生徒が彼女の虜となっていた。
彼女の周りを男子生徒が侍ることも、女子生徒達が冷ややかな目で遠巻きに見ていることも、最近では日常の風景となっていた。
そんな中、ナンシーの恋人であるレオナルドが、2か月の短期留学を終えて帰ってきた。
完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました
らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。
そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。
しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような…
完結決定済み
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
〜仕事も恋愛もハードモード!?〜 ON/OFF♡オフィスワーカー
i.q
恋愛
切り替えギャップ鬼上司に翻弄されちゃうオフィスラブ☆
最悪な失恋をした主人公とONとOFFの切り替えが激しい鬼上司のオフィスラブストーリー♡
バリバリのキャリアウーマン街道一直線の爽やか属性女子【川瀬 陸】。そんな陸は突然彼氏から呼び出される。出向いた先には……彼氏と見知らぬ女が!? 酷い失恋をした陸。しかし、同じ職場の鬼課長の【榊】は失恋なんてお構いなし。傷が乾かぬうちに仕事はスーパーハードモード。その上、この鬼課長は————。
数年前に執筆して他サイトに投稿してあったお話(別タイトル。本文軽い修正あり)
Pomegranate I
Uta Katagi
恋愛
婚約者の彼が突然この世を去った。絶望のどん底にいた詩に届いた彼からの謎のメッセージ。クラウド上に残されたファイルのパスワードと貸金庫の暗証番号のミステリーを解いた後に、詩が手に入れたものは?世代を超えて永遠の愛を誓った彼が遺したこの世界の驚愕の真理とは?詩は本当に彼と再会できるのか?
古代から伝承されたこの世界の秘密が遂に解き明かされる。最新の量子力学という現代科学の視点で古代ミステリーを暴いた長編ラブロマンス。これはもはや、ファンタジーの域を越えた究極の愛の物語。恋愛に憧れ愛の本質に悩み戸惑う人々に真実の愛とは何かを伝える作者渾身の超大作。
*本作品は「小説家になろう」にも掲載しています。
私の存在
戒月冷音
恋愛
私は、一生懸命生きてきた。
何故か相手にされない親は、放置し姉に顎で使われてきた。
しかし15の時、小学生の事故現場に遭遇した結果、私の生が終わった。
しかし、別の世界で目覚め、前世の知識を元に私は生まれ変わる…
悪役令嬢の心変わり
ナナスケ
恋愛
不慮の事故によって20代で命を落としてしまった雨月 夕は乙女ゲーム[聖女の涙]の悪役令嬢に転生してしまっていた。
7歳の誕生日10日前に前世の記憶を取り戻した夕は悪役令嬢、ダリア・クロウリーとして最悪の結末 処刑エンドを回避すべく手始めに婚約者の第2王子との婚約を破棄。
そして、処刑エンドに繋がりそうなルートを回避すべく奮闘する勘違いラブロマンス!
カッコイイ系主人公が男社会と自分に仇なす者たちを斬るっ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる