カフェ・ミッドナイト

第17話「扉の向こうへ」

　深夜のカフェ。
　灯（あかり）の姿は、もう輪郭さえ曖昧だった。
　カウンターに立つ彼女の手は、グラスを掴もうとしても空を切り、影さえ床に落ちなくなっていた。

　「……わたし、ここにいていいのかな」
　声は細く、すぐに闇に吸い込まれていく。

　――ギシ、ギシ。
　階段の上から、誰かの足音。
　古びた扉の隙間から、ひときわ強い光が漏れ出す。

　「……呼んでる」
　胸の奥で、確かな声が響く。

⸻

　灯はふらりと立ち上がり、階段を上っていった。
　扉の前に立つと、取っ手に伸ばした手は、もう透けて見えていた。
　けれど、扉は自ら軋みをあげて開き、眩しい光があたりを満たしていく。

　背後からマスターの声が届いた。
　「行きなさい。君が必要とされる場所へ」

　灯はかすかに頷き、微笑んだ。
　「……ありがとう」

　白い光が彼女を包み込み、次の瞬間、カフェのカウンターからその姿は消えていた。

⸻

　カラン……。
　扉の鈴が鳴る。

　入ってきたのは、一人の男。
　コートを抱えたその姿に、灯が聞いたはずの“父”が重なる。
　彼はカウンターを見渡し、少し困ったように眉を寄せた。

　「……あの子は、もう来ないのですか」

　マスターは答えず、ただカウンターの上を指さした。

　そこには、一杯の飲み物が置かれていた。
　淡い光をたたえたカップ―― 夜明けの雫。
　湯気が静かに立ちのぼり、白い光の粒が朝の星のようにきらめいている。

⸻

　男はそっとカップを手に取り、ひと口含んだ。
　「……ああ」
　胸の奥に広がる温もりに、目がにじむ。
　「やっぱり……ここにいたんですね」

　マスターは懐中時計を閉じ、柔らかく微笑んだ。
　「言葉も、想いも。消えはしません」

　窓の外、東の空が白く染まりはじめる。
　カフェのランプが最後にひときらめき、夜明けの光の中に溶けていった。