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第一章
第2話 その偽りは香る
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フィセリオの求婚の書面に書かれていた『貴領にお力添えできたら』という言葉。ウィステルとの結婚と引き換えに、彼はラティマー領への援助と支援を申し出た。
フィセリオが用意した援助に関する書類には、結婚支度金という名目での実質的な“借金全額の肩代わり”を皮切りに、返済義務のない資金援助や復興支援、交易の優遇措置など、これ以上ないほどの好条件が並んでいる。
ただ、読み込むほどに、監査官の派遣など、公爵家による介入の余地があることが見えてくる。領民の信頼、市場の価格形成、領主としての裁量権。それらが、甘く緩やかに掠め取られていく気配がそこはかとなく漂う。
「援助という名の服従契約のようですね。この条件を受け入れて妹を差し出すくらいなら、我が領は王家の管理下に入ります」
ローワンの声は酷く落ち着いていて、冷めたものだった。そんな兄とは反対に、ウィステルは内心かなり焦っていた。
この二年、ローワン兄様が懸命に守ってきたものを……わたくしが捨てさせてしまうの……?
ローワンは常々口にしていた。このまま立ち行かないなら、土地の要所を他領に切り売りして資金を工面するか、誇りを捨てて恥をかいてでも王家の管理下に置いてもらうか、と。それは全て、ラティマー領に生きる民の生活のためであった。
「その理由を尋ねても?」
ローワンの直接的な言葉による拒絶に、フィセリオは変わらない微笑を浮かべていた。想定内のことであったのか、それとも綺麗に覆い隠しているだけなのか。物言いを無礼だとも糾弾せず、彼の月のような銀灰の瞳が、静かにローワンを見据えていた。
「あなたの条件を呑んだとしましょう。その後、貴領を潤すために我が領から搾取を行わないという保証がどこにあるというのです?」
「……確かに、保証はされていないな」
「であれば、それは巡り巡って領民を苦しめる選択となる。ならば、最大限安全策を取るというのが、領主としての務めというものでしょう」
怯むことなく毅然と相対するローワンに、フィセリオは小さく笑う。それは嘲りではなく、楽しげな雰囲気に感じた。一方で、フィセリオのこちらを推し量るような……値踏みしている雰囲気が和らいだわけでもなかった。
「……私は少し、ローワン殿を見くびっていたな。領地経営に苦慮していると聞き、介入すべきかと思っていたが……なかなか聡明な方のようだ。不慣れな中、資源に乏しい領地を二年支えてこられたのも頷ける」
「過分なお言葉、恐れ入ります。ですが、私一人の力ではありません。民の協力と、私に代わって声を聞き届けてくれる妹の努力あってのことです」
フィセリオは、そっとウィステルを一瞥する。彼の眼差しは穏やかなのに、スッとナイフの切っ先が喉元へ向けられたような心地がした。
「そうでしたか……では、領地経営のためにも、ウィステル嬢に嫁がれては困る……と」
固い殻の表面を撫でながら、弱く柔らかいところを探る声色に、ゾクリと小さく背筋が震える。ローワンの急所とも言えるウィステルの存在に、彼の指がかかりかけている。
「私があなたの提案を受け入れない理由は先ほどお話しした通りです。妹が幸せになれるのであれば、どこへ嫁ごうと心から祝福しますよ」
「なら、何も案ずる必要はない。一目惚れとはいえ、私はウィステル嬢を心から愛している。必ず大切にすると、キャスバートの名に誓いましょう」
フィセリオの瞳が、とろりと熱を灯す。ウィステルはその視線に絡め取られながらも、笑みを絶やさないように唇を固くした。
むせ返りそうなほどの甘ったるい匂いが立ち込めている。人が嘘をついたときの、甘くて重い匂い。
ウィステルとローワンには、生まれつき『人の嘘が匂いでわかる』という特殊な力があった。きっとこの匂いを、嘘を……ローワンも今感じ取っているはずだ。
ダメだ。立場の弱いわたくしたちでは、もう太刀打ちできない。
ならば、その嘘をこちらが逆手に取るしかない。これからする提案を一方的に拒むのであれば、それは打算と利益しかない証明。受け入れれば、条件は緩む。
フィセリオが愛してもいないのに『愛している』と嘘をつくのなら、その愛とやらを試させてもらおうではないか。
「キャスバート様、失礼を承知でお願いがございます。先ほどご提示いただいた援助内容の中から、どれを受けるかをわたくしたちの方で選ばせていただけないでしょうか。わたくしはもう、あなたのもとへ嫁ぐ覚悟はできております」
ローワンが何かを言いかけて口を開くのを、ウィステルは目配せで制した。ウィステルよりも賢いローワンなら、このまま何も手を打てなければ、フィセリオの意のままに呑まれていくだけと理解しているはずだ。
どちらにせよ、これでフィセリオの退路は断った。もしここで拒否するのなら、愛など嘘だとローワンは指摘してくれる。愛しているから援助したいなどと言っているが、その実ただウィステルを人質にして、ラティマー領を手中に収めようとしているようにしか見えませんね、と。
追い詰めた。思い通りにならないように、追い詰めた……はず。だというのに、“微笑み公爵”の口元はピクリとも歪まない。美しく、静かに、塗り固められたように形を保ち、酔いしれたように目元を和らげる。
「ふふ……惚れた弱み、だな。君にそんなふうに頼まれたら、どこまでも譲歩したくなってしまう。ウィステル嬢は、もう私の扱い方を心得ているようだ」
ウィステルの真意には気づいている、と婉曲的に牽制こそされたが、提案は呑んでくれるようだ。だからこそ、ウィステルはフィセリオの真意がますます見えなくなってしまった。
ラティマー領は土地も痩せていて資源に乏しく、魅力的な要所も多くはない。広大で豊かな土地を持つキャスバート公爵家には、そうまでして手に入れたいほどのものがあるとは思えなかった。何も利益がないとまでは言わないが、無計画に吸収すれば負債にしかならないような領地がラティマーなのだ。
「ローワン殿も、なかなかに見込みがある。ここは一つ、協議で新たな条件を取り決めるのも悪くない。ただし、ウィステル嬢が私のもとへ来てくれるのなら……だが」
なぜ、フィセリオは愛してもいないウィステルとの結婚にこだわるのか。ラティマー領への援助の条件を緩めても、そこだけは譲らない理由がなんなのか。結局彼が帰るまでに掴むことは叶わなかった。
* * *
ローワンはキャスバート家の馬車が視界から消えるのを二階の執務室から注意深く見届けてから、カーテンを閉める。
「アイツの愛は嘘だ。ウィステルも“匂い”で気づいただろ? 俺は、お前に幸せになってほしいんだ。この縁談は断りなさい」
いつになく真剣なローワンの眼差しが、ウィステルに突き刺さる。母を早くに亡くし、二年前に父を土砂災害で亡くした。たった一人残った血縁である妹を、きっと大切に思ってくれているのだろう。
けどわたくしたちは、その前に……“ラティマー伯爵家の継承者”だから。
「ローワン兄様。キャスバート様が笑って話を聞き入れてくれるうちに、さっさと縁談をまとめてしまいましょう」
「……俺の話を聞いていたのか?」
「もちろんです。ですが、公爵家ともなれば、ラティマー領を兵糧攻めのように干上がらせ、要求を呑ませることだってできます。その頃にはもう、交渉の余地など残りません。わたくしを愛するフリをして、甘い顔をしている今を攻めるべきです」
ローワンは「そんなことはわかっている」と言いたげに唇を引き結ぶ。いつもは澄んだ川面のような翠の瞳が、暗い炎を灯したように静かに揺れていた。
「ローワン兄様が当主として立派に務めているように、わたくしも伯爵家の娘として、立派に務めを果たしてみせます」
「ウィステル……本当にそれでいいんだな?」
「はい」
もう何を言われても、譲るつもりはなかった。領地のことに、一人心を砕く兄の力になり、役に立ちたい。貧しく、厳しい生活を強いられながらも、ラティマー家を信じてくれている民の思いに報いたい。
わたくしはもう十分……ローワン兄様に甘やかしてもらいました。
「……わかった。お前の信念を、俺は信じよう」
ローワンはゆっくりと細く息を吐き、ウィステルの決意を承諾した。やがて訪れた沈黙の中、ウィステルとローワンは言葉もなく頷き合った。
道が分かたれ、遠くに離れようと志は同じ。伯爵家の責務を果たし、必ずこの領地を立て直す。
──全ては、ラティマー領の未来のために。
フィセリオが用意した援助に関する書類には、結婚支度金という名目での実質的な“借金全額の肩代わり”を皮切りに、返済義務のない資金援助や復興支援、交易の優遇措置など、これ以上ないほどの好条件が並んでいる。
ただ、読み込むほどに、監査官の派遣など、公爵家による介入の余地があることが見えてくる。領民の信頼、市場の価格形成、領主としての裁量権。それらが、甘く緩やかに掠め取られていく気配がそこはかとなく漂う。
「援助という名の服従契約のようですね。この条件を受け入れて妹を差し出すくらいなら、我が領は王家の管理下に入ります」
ローワンの声は酷く落ち着いていて、冷めたものだった。そんな兄とは反対に、ウィステルは内心かなり焦っていた。
この二年、ローワン兄様が懸命に守ってきたものを……わたくしが捨てさせてしまうの……?
ローワンは常々口にしていた。このまま立ち行かないなら、土地の要所を他領に切り売りして資金を工面するか、誇りを捨てて恥をかいてでも王家の管理下に置いてもらうか、と。それは全て、ラティマー領に生きる民の生活のためであった。
「その理由を尋ねても?」
ローワンの直接的な言葉による拒絶に、フィセリオは変わらない微笑を浮かべていた。想定内のことであったのか、それとも綺麗に覆い隠しているだけなのか。物言いを無礼だとも糾弾せず、彼の月のような銀灰の瞳が、静かにローワンを見据えていた。
「あなたの条件を呑んだとしましょう。その後、貴領を潤すために我が領から搾取を行わないという保証がどこにあるというのです?」
「……確かに、保証はされていないな」
「であれば、それは巡り巡って領民を苦しめる選択となる。ならば、最大限安全策を取るというのが、領主としての務めというものでしょう」
怯むことなく毅然と相対するローワンに、フィセリオは小さく笑う。それは嘲りではなく、楽しげな雰囲気に感じた。一方で、フィセリオのこちらを推し量るような……値踏みしている雰囲気が和らいだわけでもなかった。
「……私は少し、ローワン殿を見くびっていたな。領地経営に苦慮していると聞き、介入すべきかと思っていたが……なかなか聡明な方のようだ。不慣れな中、資源に乏しい領地を二年支えてこられたのも頷ける」
「過分なお言葉、恐れ入ります。ですが、私一人の力ではありません。民の協力と、私に代わって声を聞き届けてくれる妹の努力あってのことです」
フィセリオは、そっとウィステルを一瞥する。彼の眼差しは穏やかなのに、スッとナイフの切っ先が喉元へ向けられたような心地がした。
「そうでしたか……では、領地経営のためにも、ウィステル嬢に嫁がれては困る……と」
固い殻の表面を撫でながら、弱く柔らかいところを探る声色に、ゾクリと小さく背筋が震える。ローワンの急所とも言えるウィステルの存在に、彼の指がかかりかけている。
「私があなたの提案を受け入れない理由は先ほどお話しした通りです。妹が幸せになれるのであれば、どこへ嫁ごうと心から祝福しますよ」
「なら、何も案ずる必要はない。一目惚れとはいえ、私はウィステル嬢を心から愛している。必ず大切にすると、キャスバートの名に誓いましょう」
フィセリオの瞳が、とろりと熱を灯す。ウィステルはその視線に絡め取られながらも、笑みを絶やさないように唇を固くした。
むせ返りそうなほどの甘ったるい匂いが立ち込めている。人が嘘をついたときの、甘くて重い匂い。
ウィステルとローワンには、生まれつき『人の嘘が匂いでわかる』という特殊な力があった。きっとこの匂いを、嘘を……ローワンも今感じ取っているはずだ。
ダメだ。立場の弱いわたくしたちでは、もう太刀打ちできない。
ならば、その嘘をこちらが逆手に取るしかない。これからする提案を一方的に拒むのであれば、それは打算と利益しかない証明。受け入れれば、条件は緩む。
フィセリオが愛してもいないのに『愛している』と嘘をつくのなら、その愛とやらを試させてもらおうではないか。
「キャスバート様、失礼を承知でお願いがございます。先ほどご提示いただいた援助内容の中から、どれを受けるかをわたくしたちの方で選ばせていただけないでしょうか。わたくしはもう、あなたのもとへ嫁ぐ覚悟はできております」
ローワンが何かを言いかけて口を開くのを、ウィステルは目配せで制した。ウィステルよりも賢いローワンなら、このまま何も手を打てなければ、フィセリオの意のままに呑まれていくだけと理解しているはずだ。
どちらにせよ、これでフィセリオの退路は断った。もしここで拒否するのなら、愛など嘘だとローワンは指摘してくれる。愛しているから援助したいなどと言っているが、その実ただウィステルを人質にして、ラティマー領を手中に収めようとしているようにしか見えませんね、と。
追い詰めた。思い通りにならないように、追い詰めた……はず。だというのに、“微笑み公爵”の口元はピクリとも歪まない。美しく、静かに、塗り固められたように形を保ち、酔いしれたように目元を和らげる。
「ふふ……惚れた弱み、だな。君にそんなふうに頼まれたら、どこまでも譲歩したくなってしまう。ウィステル嬢は、もう私の扱い方を心得ているようだ」
ウィステルの真意には気づいている、と婉曲的に牽制こそされたが、提案は呑んでくれるようだ。だからこそ、ウィステルはフィセリオの真意がますます見えなくなってしまった。
ラティマー領は土地も痩せていて資源に乏しく、魅力的な要所も多くはない。広大で豊かな土地を持つキャスバート公爵家には、そうまでして手に入れたいほどのものがあるとは思えなかった。何も利益がないとまでは言わないが、無計画に吸収すれば負債にしかならないような領地がラティマーなのだ。
「ローワン殿も、なかなかに見込みがある。ここは一つ、協議で新たな条件を取り決めるのも悪くない。ただし、ウィステル嬢が私のもとへ来てくれるのなら……だが」
なぜ、フィセリオは愛してもいないウィステルとの結婚にこだわるのか。ラティマー領への援助の条件を緩めても、そこだけは譲らない理由がなんなのか。結局彼が帰るまでに掴むことは叶わなかった。
* * *
ローワンはキャスバート家の馬車が視界から消えるのを二階の執務室から注意深く見届けてから、カーテンを閉める。
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いつになく真剣なローワンの眼差しが、ウィステルに突き刺さる。母を早くに亡くし、二年前に父を土砂災害で亡くした。たった一人残った血縁である妹を、きっと大切に思ってくれているのだろう。
けどわたくしたちは、その前に……“ラティマー伯爵家の継承者”だから。
「ローワン兄様。キャスバート様が笑って話を聞き入れてくれるうちに、さっさと縁談をまとめてしまいましょう」
「……俺の話を聞いていたのか?」
「もちろんです。ですが、公爵家ともなれば、ラティマー領を兵糧攻めのように干上がらせ、要求を呑ませることだってできます。その頃にはもう、交渉の余地など残りません。わたくしを愛するフリをして、甘い顔をしている今を攻めるべきです」
ローワンは「そんなことはわかっている」と言いたげに唇を引き結ぶ。いつもは澄んだ川面のような翠の瞳が、暗い炎を灯したように静かに揺れていた。
「ローワン兄様が当主として立派に務めているように、わたくしも伯爵家の娘として、立派に務めを果たしてみせます」
「ウィステル……本当にそれでいいんだな?」
「はい」
もう何を言われても、譲るつもりはなかった。領地のことに、一人心を砕く兄の力になり、役に立ちたい。貧しく、厳しい生活を強いられながらも、ラティマー家を信じてくれている民の思いに報いたい。
わたくしはもう十分……ローワン兄様に甘やかしてもらいました。
「……わかった。お前の信念を、俺は信じよう」
ローワンはゆっくりと細く息を吐き、ウィステルの決意を承諾した。やがて訪れた沈黙の中、ウィステルとローワンは言葉もなく頷き合った。
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