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第一章
第17話 打算で語る愛【フィセリオ視点】
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旅行三日目。フィセリオは降りしきる雨音を聞きながら、外を眺めていた。雨で空気は白く烟り、海は激しく白波を立てて荒れている。それは気まぐれな秋の、小さな嵐のようだった。
窓ガラスには、暖炉の炎の揺らめきとソファに座っているウィステルが映っている。この天候で外へ行けなくなってしまったが、ならばと彼女は、昨日海岸で拾い集めた貝殻をせっせと磨き始めた。
不満一つ漏らさず、黙々と静かに、誰にも迷惑をかけることなく、自分で自分のやりたいことを見つける。あまりにもよくできた“期待以上の”妻の姿。これ以上ないほどありがたいことだというのに、手放しで喜んではいけないような……何か違和感のようなものがある。それが何かを探るように、フィセリオは思考を過去へと向けて回し始めた。
* * *
フィセリオには元々、結婚願望というものがまるでなかった。政治的なことを度外視するなら、家督など縁戚から優秀な者を選んで継がせれば良いとまで考えるほどだった。
『フィセリオ、いいかげん結婚しろ。そのままでは、世間の目が許さんぞ』
『世間から心ないことを言われて、傷ついてほしくありません。フィセリオ……早く良い方を見つけなさい』
病弱な嫡子を生み、そして病で亡くしたことで、母のヘレニーテは世間の目に心を折られた。心を病んで塞ぎ込んだヘレニーテと、それを支えるために一線を退いた父のアマドゥロ。普通から外れることの苦しみと代償を知るからこそ、フィセリオに結婚するようしつこく迫っていた。
結婚してしまえば、父上も母上も……いや、キャスバート家や領地の安定を考えても必要なことか……
フィセリオ自身は、言葉の攻撃に耐える自信はあった。けれど、父の渋い表情や母の不安定さを目にするたびに、結婚すべきなのかもしれないと思うようになっていった。
そんなときに出会ったのが、ウィステルだった。フィセリオが初めて彼女を認識したのは、年始にあった王家主催の夜会でのことだった。
令嬢の参加する社交場では、挨拶回りを済ませた途端に女性たちに囲まれてしまうことも多い。特定の誰かと深く関わると影響を及ぼしてしまう立場であるため、政務を理由に去ろうとするのだが、あまり上手くいったことはなかった。
実にもならない世間話。権力や金目当ての打算に満ちた世辞。さり気ないダンスへの誘い。それらに辟易としながらも、フィセリオは綺麗に微笑みを貼り付け、うんうんと耳を傾けながら丁寧に躱していた。
兄上ならきっとそうするだろう。私は、あくまでも家督を継げなかった兄上の代わりだ。
人格者として慕われていた兄、エオナック。フィセリオ自身も兄を信頼し、尊敬していた。今でも家督を継ぐべきはエオナックであったと考え、彼の足跡をなぞるように真似できる部分を真似ている。
それにしても……これだけいるのに、妻にできそうな女性が誰もいないとは……
今夜も収穫なしだ。いいかげん話を切り上げて帰ろうとしたときだった。壁の端の方、軽食が並べられたところに、ぽつんと一人の令嬢が立っていた。踊る相手も話す相手もいない、いわゆる壁の花というやつだ。
彼女は小皿に三種ほど軽食を取ると、すぐには口にしなかった。控えめに角度を変えながらじっくりと見回し、そっと口にする。
何をしてるんだ……?
目を伏せて咀嚼し、ゆっくりと味わいながら僅かに顔を綻ばせていた。どうやら気に入る味だったらしい。残った二種にも同じ行動をし、それがなんとも風変わりに見えた。
よくよく観察すると、その令嬢はかなり地味な装いをしていた。藤色の髪は編み込みこそあるものの、小さな飾りが一つだけ。小さな水晶のイヤリングとネックレス。淡い水色のドレスも品はあるが、きらびやかさのないシンプルなデザインと相まって質素だ。近くに来た者に話しかけると、穏やかに笑って二言三言交わし、あとはおとなしく微笑んで佇んでいる。
例えるなら、美しく整えられた庭園の片隅に、うっかり咲いたなずなの花だ。異質なのに人目につかず、気ままに風に吹かれている。
彼女だ……あれなら“都合がいい”。
着飾ることに興味がなく、貞淑。質素で、慎重で、必要以上に他人に媚びない。そんな女性なら、権力や金に目が眩むことなく、無駄に波風を立たせることもないだろう。
あとは、逆らえないよう従えさせる“何か”があれば完璧だな。
妻など、ただ隣で従順に立っているだけでいい。それ以上を期待する気にもなれなかった。
そんな打算に満ちた思考と、雑然とした会場の中で──あの地味で珍妙な姿が不思議と記憶に残った。
接触する機会を得られなかったフィセリオは、彼女の素性を調べるよう秘密裏にエルウッドへ命じた。少ない情報から辿り、数ヶ月かけて入念に調べ上げてくれたが、報告に来た彼の表情は渋い。
「ハッキリ言わせてもらう。求婚はやめとけ、フィセリオ。相手が悪すぎる」
そう言って、とても主に向けるとは思えない態度で、エルウッドは報告書の束を突き出してきた。エルウッドは物心がついた頃からの幼馴染であり、気心が知れている彼へ、非公式の場では身分の差を気にせず振る舞うようにしてもらっていた。
報告書には『ウィステル・ラティマー』という名前と共に、急いで仕上げたと思しき小さな肖像画が添えてある。そこに描かれた人物は、まさにあの日フィセリオが見た“地味で珍妙な令嬢”だった。
灯台下暗しとは、まさにこのことだな。
キャスバート領の南東部に隣接しているのがラティマー領であり、壁のように横切る山脈によって隔てられている。地政学的に見れば他の家との領境……特に政敵であるフェアファクス家との狭間にある緩衝地として手元に置きたい領地。だが、土地は痩せ細って資源も乏しく、手に入れたところで利益が少ない地でもあった。
「ラティマー伯爵家の令嬢だったのか」
「だから言ってるだろ? ラティマーって言ったら、二年前まではフェアファクス派だったんだ。そんなウィステル嬢と結婚すれば、キャスバート派に属している家門から反感を買う。フェアファクス家だって黙ってないかもしれない」
二年前の長雨による災害で、ラティマー家の当主であるアリュードが亡くなった。彼の死の余波は、災害で疲弊した貧しい地をさらに追い詰めることになる。
現当主であるローワンは、引き継ぎもままならぬ状態で二十二歳という若さで家督を継いだ。そして彼はなぜかこの窮地で“フェアファクス派からの離脱”を宣言し、中立になった。
彼の動きを「愚か」と断じる者もそこそこいたが、フィセリオはそうは思わなかった。おそらくフェアファクス公爵家から支援を得られず見限られ、ラティマー側からも見限ったと見るのが妥当だ。
緩衝地としてもたらしてきた恩恵を削ぎつつ、フェアファクス家の影響を抜けることで周辺領地から広く支援や援助を募ろうとしたのだろう。少しでも生存確率の高い方を選んだ……いわば最後の賭けというやつだ。
しかし、それは事態を好転させるきっかけにはならなかった。フェアファクス派から抜けたとはいえ、変に支援すれば目をつけられる。支援したところで恩恵はほとんどない。緩衝地としては、中立のままでも十分に機能する。ラティマー領に支援を申し出る“慈善者”は、残念ながら彼らの周囲にはいなかった。
「何をそんなに怯える必要がある? 君は派閥内の動きやフェアファクス家が怖いのか? 結婚一つで、キャスバート家が凋落するとでも?」
「可能性はゼロじゃない……」
「それは相手が愚かな場合だ。彼女は違う」
フィセリオは報告書の一枚を抜き出し、エルウッドへと渡す。内容に視線をも落とした彼は、フィセリオが言わんとしていることをすぐに察したようだった。
ラティマー領の状況なら、領民は領主に向けて不満を募らせていてもおかしくはない。しかしなぜかそういった不満はほとんど見られず、暴動が起きたことは一度もないと報告書には書き記されている。
領地は潰れずに持ちこたえ、今のところ致命的な崩壊には至っていない。どうやって民衆の感情を制御しているのかまではわからないが、領地経営は堅実で誠実、善処していることが垣間見える。そこから、ローワンだけでなく彼の妹であるウィステルの人柄も自ずと見えてきた。
「しかしこれは当主ローワンの手腕で、ウィステル嬢の人柄ではない。領民からは“親身で優しい”、“いつも笑いかけてくれて場が明るくなる”といった声は聞けたが、それもどこまで本当か……」
「貧困に喘ぐ民が、屋敷の中で悠々と過ごす“お姫様”を見逃すと思うか?」
「それはそうだけど、この結婚が泥舟なことは変わらないからな?」
とはいえ、それはあくまでもこの条件下で“善処している”という話だ。復興に注力せざるを得ず、その復興に充てる資金すら足りていない。税収で賄おうにも領民の生活が安定せず、そんなものはまだ先の先。
元より経済力のない土地に、劣悪な条件。ローワン一人で状況を劇的に好転させるのは、この先も厳しい。まさにエルウッドの言う通り、静かに静かに沈んでいく……泥舟だ。
「ウィステル嬢の出身では、夫人として務めを果たすにも苦労が絶えないに決まってる。母君みたいに心を病まれたらどうする? いや、母君どころじゃない……格差、派閥関連、領の経営状況……どれを取っても最悪だ。社交場でボコボコにされるところしか想像がつかない!」
「そんなものは私がどうとでもする。粛々と準備を進めてほしい」
「正気か!? てか、その自信はどこから湧いてくるんだよ! なんで負債を抱えるだけの結婚を強引に進めるんだ……フィセリオらしくもない……」
不幸を嘲るつもりはないが、好都合だった。援助を申し出れば、ラティマー家の状況的に受け入れざるを得ない。そうなれば恩義という鎖で縛りつけ、逆らえぬ立場にできる。これで、従順で感情を乱さぬ“理想の妻”になるはずだ。
傍に置いても邪魔にならず、家に損害を与えるような軽卒さもない。あとは適度に金を与えておけば満足して黙っているだろう。そして本当に“愛しているフリ”をして大切に囲ってやれば、むしろ感謝すらされるかもしれない。
世間体を保つことで、両親や領民たちも安心する。誰にも疑われることなく、権力と金目当てに群がる令嬢やその親共を黙らせられる。ウィステルも、“愛されていない”と知らずに穏やかでいられる。誰も、何一つ損をしない。そうなるように組んだのだから。
「なぜ……? 一目惚れだ。理屈も通らず利益もないなら、それ以外に何があると思う?」
一目惚れ、一目惚れ……まったく、便利な言葉だ。理由を考える必要性すらないうえ、嘘とも言い切れない。
私は彼女の──利便性に一目で堕ちたのだから。
「はぁ……一日でも早く婚礼を挙げたい。ウィステル、君に会えるのが楽しみだな……」
「おぉぉッ……やめろやめろぉ! 僕がウィステル嬢の尊厳を守らねば……!」
ウィステルに“恋焦がれるフリ”をして声に熱を灯しながら、肖像画の中の彼女の頬をそっと撫でる。その横から素早く伸びたエルウッドの手が、肖像画をサッと掻っ攫っていった。
「愛おしそうになぞるな、気色悪いッ……めちゃくちゃ変態臭いぞ! しかもまだ、向こうが応じるって決まったわけでもないからな!?」
エルウッドは目を見開き、ウィステルの肖像画を後ろ手に隠す。あからさまに引いている反応だ。
少しやりすぎたか? しかし、恋に酔っている男など、皆押し並べてこのくらい気色悪い生き物だろう。少なくとも、私にはそう見える。
「……返してくれないか?」
「しょんぼりするな! ホントに人が変わっちゃったみたいだな……」
エルウッドという人間は、昔から純朴で義理堅く、かといって軽率でもなかった。頭も決して悪くはない。だが、どうにも単純で、素直に人を信じてしまうところがある。
これだけ長い付き合いだというのに、こうしてもっともらしく演技してみせれば、エルウッドはあっさり騙されてしまうのだ。それが彼の美徳であり、弱点でもあった。けれど、この性格だからこそ友人のままでいられて、彼を少なからず信用できた。
「求婚の書状をしたためる」
「行動力は相変わらずで……」
フィセリオは執務机から便箋を取り出し、早速筆を執る。エルウッドの呆れともなんともつかない覇気のない声を聞きながら、内容を考える。一目惚れを疑われないように情熱を文字にしながら、援助についても一言触れておこう。断られないように、地獄に差し込んだ一筋の光に見えるように。
窓ガラスには、暖炉の炎の揺らめきとソファに座っているウィステルが映っている。この天候で外へ行けなくなってしまったが、ならばと彼女は、昨日海岸で拾い集めた貝殻をせっせと磨き始めた。
不満一つ漏らさず、黙々と静かに、誰にも迷惑をかけることなく、自分で自分のやりたいことを見つける。あまりにもよくできた“期待以上の”妻の姿。これ以上ないほどありがたいことだというのに、手放しで喜んではいけないような……何か違和感のようなものがある。それが何かを探るように、フィセリオは思考を過去へと向けて回し始めた。
* * *
フィセリオには元々、結婚願望というものがまるでなかった。政治的なことを度外視するなら、家督など縁戚から優秀な者を選んで継がせれば良いとまで考えるほどだった。
『フィセリオ、いいかげん結婚しろ。そのままでは、世間の目が許さんぞ』
『世間から心ないことを言われて、傷ついてほしくありません。フィセリオ……早く良い方を見つけなさい』
病弱な嫡子を生み、そして病で亡くしたことで、母のヘレニーテは世間の目に心を折られた。心を病んで塞ぎ込んだヘレニーテと、それを支えるために一線を退いた父のアマドゥロ。普通から外れることの苦しみと代償を知るからこそ、フィセリオに結婚するようしつこく迫っていた。
結婚してしまえば、父上も母上も……いや、キャスバート家や領地の安定を考えても必要なことか……
フィセリオ自身は、言葉の攻撃に耐える自信はあった。けれど、父の渋い表情や母の不安定さを目にするたびに、結婚すべきなのかもしれないと思うようになっていった。
そんなときに出会ったのが、ウィステルだった。フィセリオが初めて彼女を認識したのは、年始にあった王家主催の夜会でのことだった。
令嬢の参加する社交場では、挨拶回りを済ませた途端に女性たちに囲まれてしまうことも多い。特定の誰かと深く関わると影響を及ぼしてしまう立場であるため、政務を理由に去ろうとするのだが、あまり上手くいったことはなかった。
実にもならない世間話。権力や金目当ての打算に満ちた世辞。さり気ないダンスへの誘い。それらに辟易としながらも、フィセリオは綺麗に微笑みを貼り付け、うんうんと耳を傾けながら丁寧に躱していた。
兄上ならきっとそうするだろう。私は、あくまでも家督を継げなかった兄上の代わりだ。
人格者として慕われていた兄、エオナック。フィセリオ自身も兄を信頼し、尊敬していた。今でも家督を継ぐべきはエオナックであったと考え、彼の足跡をなぞるように真似できる部分を真似ている。
それにしても……これだけいるのに、妻にできそうな女性が誰もいないとは……
今夜も収穫なしだ。いいかげん話を切り上げて帰ろうとしたときだった。壁の端の方、軽食が並べられたところに、ぽつんと一人の令嬢が立っていた。踊る相手も話す相手もいない、いわゆる壁の花というやつだ。
彼女は小皿に三種ほど軽食を取ると、すぐには口にしなかった。控えめに角度を変えながらじっくりと見回し、そっと口にする。
何をしてるんだ……?
目を伏せて咀嚼し、ゆっくりと味わいながら僅かに顔を綻ばせていた。どうやら気に入る味だったらしい。残った二種にも同じ行動をし、それがなんとも風変わりに見えた。
よくよく観察すると、その令嬢はかなり地味な装いをしていた。藤色の髪は編み込みこそあるものの、小さな飾りが一つだけ。小さな水晶のイヤリングとネックレス。淡い水色のドレスも品はあるが、きらびやかさのないシンプルなデザインと相まって質素だ。近くに来た者に話しかけると、穏やかに笑って二言三言交わし、あとはおとなしく微笑んで佇んでいる。
例えるなら、美しく整えられた庭園の片隅に、うっかり咲いたなずなの花だ。異質なのに人目につかず、気ままに風に吹かれている。
彼女だ……あれなら“都合がいい”。
着飾ることに興味がなく、貞淑。質素で、慎重で、必要以上に他人に媚びない。そんな女性なら、権力や金に目が眩むことなく、無駄に波風を立たせることもないだろう。
あとは、逆らえないよう従えさせる“何か”があれば完璧だな。
妻など、ただ隣で従順に立っているだけでいい。それ以上を期待する気にもなれなかった。
そんな打算に満ちた思考と、雑然とした会場の中で──あの地味で珍妙な姿が不思議と記憶に残った。
接触する機会を得られなかったフィセリオは、彼女の素性を調べるよう秘密裏にエルウッドへ命じた。少ない情報から辿り、数ヶ月かけて入念に調べ上げてくれたが、報告に来た彼の表情は渋い。
「ハッキリ言わせてもらう。求婚はやめとけ、フィセリオ。相手が悪すぎる」
そう言って、とても主に向けるとは思えない態度で、エルウッドは報告書の束を突き出してきた。エルウッドは物心がついた頃からの幼馴染であり、気心が知れている彼へ、非公式の場では身分の差を気にせず振る舞うようにしてもらっていた。
報告書には『ウィステル・ラティマー』という名前と共に、急いで仕上げたと思しき小さな肖像画が添えてある。そこに描かれた人物は、まさにあの日フィセリオが見た“地味で珍妙な令嬢”だった。
灯台下暗しとは、まさにこのことだな。
キャスバート領の南東部に隣接しているのがラティマー領であり、壁のように横切る山脈によって隔てられている。地政学的に見れば他の家との領境……特に政敵であるフェアファクス家との狭間にある緩衝地として手元に置きたい領地。だが、土地は痩せ細って資源も乏しく、手に入れたところで利益が少ない地でもあった。
「ラティマー伯爵家の令嬢だったのか」
「だから言ってるだろ? ラティマーって言ったら、二年前まではフェアファクス派だったんだ。そんなウィステル嬢と結婚すれば、キャスバート派に属している家門から反感を買う。フェアファクス家だって黙ってないかもしれない」
二年前の長雨による災害で、ラティマー家の当主であるアリュードが亡くなった。彼の死の余波は、災害で疲弊した貧しい地をさらに追い詰めることになる。
現当主であるローワンは、引き継ぎもままならぬ状態で二十二歳という若さで家督を継いだ。そして彼はなぜかこの窮地で“フェアファクス派からの離脱”を宣言し、中立になった。
彼の動きを「愚か」と断じる者もそこそこいたが、フィセリオはそうは思わなかった。おそらくフェアファクス公爵家から支援を得られず見限られ、ラティマー側からも見限ったと見るのが妥当だ。
緩衝地としてもたらしてきた恩恵を削ぎつつ、フェアファクス家の影響を抜けることで周辺領地から広く支援や援助を募ろうとしたのだろう。少しでも生存確率の高い方を選んだ……いわば最後の賭けというやつだ。
しかし、それは事態を好転させるきっかけにはならなかった。フェアファクス派から抜けたとはいえ、変に支援すれば目をつけられる。支援したところで恩恵はほとんどない。緩衝地としては、中立のままでも十分に機能する。ラティマー領に支援を申し出る“慈善者”は、残念ながら彼らの周囲にはいなかった。
「何をそんなに怯える必要がある? 君は派閥内の動きやフェアファクス家が怖いのか? 結婚一つで、キャスバート家が凋落するとでも?」
「可能性はゼロじゃない……」
「それは相手が愚かな場合だ。彼女は違う」
フィセリオは報告書の一枚を抜き出し、エルウッドへと渡す。内容に視線をも落とした彼は、フィセリオが言わんとしていることをすぐに察したようだった。
ラティマー領の状況なら、領民は領主に向けて不満を募らせていてもおかしくはない。しかしなぜかそういった不満はほとんど見られず、暴動が起きたことは一度もないと報告書には書き記されている。
領地は潰れずに持ちこたえ、今のところ致命的な崩壊には至っていない。どうやって民衆の感情を制御しているのかまではわからないが、領地経営は堅実で誠実、善処していることが垣間見える。そこから、ローワンだけでなく彼の妹であるウィステルの人柄も自ずと見えてきた。
「しかしこれは当主ローワンの手腕で、ウィステル嬢の人柄ではない。領民からは“親身で優しい”、“いつも笑いかけてくれて場が明るくなる”といった声は聞けたが、それもどこまで本当か……」
「貧困に喘ぐ民が、屋敷の中で悠々と過ごす“お姫様”を見逃すと思うか?」
「それはそうだけど、この結婚が泥舟なことは変わらないからな?」
とはいえ、それはあくまでもこの条件下で“善処している”という話だ。復興に注力せざるを得ず、その復興に充てる資金すら足りていない。税収で賄おうにも領民の生活が安定せず、そんなものはまだ先の先。
元より経済力のない土地に、劣悪な条件。ローワン一人で状況を劇的に好転させるのは、この先も厳しい。まさにエルウッドの言う通り、静かに静かに沈んでいく……泥舟だ。
「ウィステル嬢の出身では、夫人として務めを果たすにも苦労が絶えないに決まってる。母君みたいに心を病まれたらどうする? いや、母君どころじゃない……格差、派閥関連、領の経営状況……どれを取っても最悪だ。社交場でボコボコにされるところしか想像がつかない!」
「そんなものは私がどうとでもする。粛々と準備を進めてほしい」
「正気か!? てか、その自信はどこから湧いてくるんだよ! なんで負債を抱えるだけの結婚を強引に進めるんだ……フィセリオらしくもない……」
不幸を嘲るつもりはないが、好都合だった。援助を申し出れば、ラティマー家の状況的に受け入れざるを得ない。そうなれば恩義という鎖で縛りつけ、逆らえぬ立場にできる。これで、従順で感情を乱さぬ“理想の妻”になるはずだ。
傍に置いても邪魔にならず、家に損害を与えるような軽卒さもない。あとは適度に金を与えておけば満足して黙っているだろう。そして本当に“愛しているフリ”をして大切に囲ってやれば、むしろ感謝すらされるかもしれない。
世間体を保つことで、両親や領民たちも安心する。誰にも疑われることなく、権力と金目当てに群がる令嬢やその親共を黙らせられる。ウィステルも、“愛されていない”と知らずに穏やかでいられる。誰も、何一つ損をしない。そうなるように組んだのだから。
「なぜ……? 一目惚れだ。理屈も通らず利益もないなら、それ以外に何があると思う?」
一目惚れ、一目惚れ……まったく、便利な言葉だ。理由を考える必要性すらないうえ、嘘とも言い切れない。
私は彼女の──利便性に一目で堕ちたのだから。
「はぁ……一日でも早く婚礼を挙げたい。ウィステル、君に会えるのが楽しみだな……」
「おぉぉッ……やめろやめろぉ! 僕がウィステル嬢の尊厳を守らねば……!」
ウィステルに“恋焦がれるフリ”をして声に熱を灯しながら、肖像画の中の彼女の頬をそっと撫でる。その横から素早く伸びたエルウッドの手が、肖像画をサッと掻っ攫っていった。
「愛おしそうになぞるな、気色悪いッ……めちゃくちゃ変態臭いぞ! しかもまだ、向こうが応じるって決まったわけでもないからな!?」
エルウッドは目を見開き、ウィステルの肖像画を後ろ手に隠す。あからさまに引いている反応だ。
少しやりすぎたか? しかし、恋に酔っている男など、皆押し並べてこのくらい気色悪い生き物だろう。少なくとも、私にはそう見える。
「……返してくれないか?」
「しょんぼりするな! ホントに人が変わっちゃったみたいだな……」
エルウッドという人間は、昔から純朴で義理堅く、かといって軽率でもなかった。頭も決して悪くはない。だが、どうにも単純で、素直に人を信じてしまうところがある。
これだけ長い付き合いだというのに、こうしてもっともらしく演技してみせれば、エルウッドはあっさり騙されてしまうのだ。それが彼の美徳であり、弱点でもあった。けれど、この性格だからこそ友人のままでいられて、彼を少なからず信用できた。
「求婚の書状をしたためる」
「行動力は相変わらずで……」
フィセリオは執務机から便箋を取り出し、早速筆を執る。エルウッドの呆れともなんともつかない覇気のない声を聞きながら、内容を考える。一目惚れを疑われないように情熱を文字にしながら、援助についても一言触れておこう。断られないように、地獄に差し込んだ一筋の光に見えるように。
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※アルファポリス先行公開(なろうにも転載予定です)
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