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第二章
第41話 湖面に浮かぶ偽りの月【フィセリオ視点】
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ウィステルの誕生日が半月後に迫ったある日、フィセリオ宛てに小包が届く。差出人は白磁のペンを依頼していたラティマー領にある工房からだった。
すでに試作品の確認を終え、製作に入るよう伝えてある。つまり、もう完成品が届いたということだ。
包みを解くと、緩衝材の中から丁寧に磨き上げられた木製の箱が露わになる。フィセリオは箱に傷をつけないよう、慎重に蓋を開いた。
箱の中は二つに仕切られ、ペンとなぜか注文した覚えのないインク壺が収められている。それぞれの形に合わせて窪みが彫られ、動かないよう固定されていた。
ペンとインク壺には、フィセリオが指定していた月桂樹とツバメの模様があしらわれている。捻りはないが、キャスバート家の紋章である月桂樹とラティマー家の紋章であるツバメを合わせたものだった。図案に関しては職人に任せきりにしていたが、ほっこりするような柔らかな色使いで丁寧に描かれている。
小包には工房からの手紙も添えられており、箱を閉じてから手紙の封を切った。
【ウィステル様への贈り物と伺い、無事誕生日までに完成に至りましたことを、こちらの品と共にご報告させていただきます。】
贈り物だとは伝えたが、誕生日までに完成させろと急かした覚えはないが?
【我々もウィステル様に喜んでいただきたく、誠に勝手ながらインク壺も製作いたしました。絵柄はペンと同じ月桂樹とツバメをモチーフにしたものを採用しております。お気に召していただけましたら幸いでございます。】
職人たちの熱量は感じていたが、ここまでとは……
細部にまで、職人たちのウィステルへの思いが詰まった唯一無二の品。それは時間と労力を捧げてでも報いたいと思われるほどに、ウィステルが領民から大切に思われている証でもある。
ウィステルが大切にしているものをできる限り寄せ集めて作ったが……喜んでもらえるだろうか。
罪滅ぼしから始まった品は、いつの間にか『ウィステルを笑顔にしたい』という気持ちへと変化していた。同時に、これまで製作に関わってくれた人々の思いが無駄になってほしくないという願いまで混ざるようになっていた。
* * *
六の月一番の日。今日は亡き兄エオナックの誕生日であり、ウィステルが企画した催事『白花薫る味の旅市』の開催日だ。ウィステルの収穫祭への出店の評判が良く、領民と商人どちらにも喜んでもらえることをしたいと考えた彼女の発案だった。
ウィステルが公爵夫人になって初めて企画した催事であるにも関わらず、商業ギルドへ出店の応募が殺到したと報告を受けている。出店者の選定も商業ギルド主導で行われ、面談と審査を通過した商人の中から抽選で選出された。
ウィステルもここ数日は催事と出店両方の準備で、いつにも増して忙しくしている。特に昨日……五の月三十一番の日は彼女の誕生日でもあるはずなのに、祝福の言葉すらろくにかけられないほどに慌ただしく動き回っていた。
フィセリオはというと、今日も変わらず政務と向き合っている。催事の開催を告げる花火の音も執務室で聞いた。時計の針はもう間もなく十二時を差そうとしている。飲食物を扱った催事であるため、会場の中央広場は今頃人でごった返していることだろう。
「フィセリオ、催事の様子は見に行かなくていいのか? 笑顔があふれるエオナック様のような日にって、ウィステル様も言ってくれただろ」
「だから行かないんだろう。私が行けば皆の顔色が曇る」
フィセリオは“微笑み公爵”と呼ばれるようになるほどに、笑みを貼りつけてきた。だがその笑顔が相手の緊張を解き、親しみを与えられるかは別問題だ。
エオナックと同じようにしているはずなのに、自分が近づくと緊張で強張る者も少なくない。せっかくのウィステルの努力を、自分が台無しにしてしまうような気がしていた。
「そうかなぁ……まぁ仮にそうだとしても、僕は見ておいた方が良いと思うけどな」
正直に言えば、短時間だけでも見に行きたい。フィセリオはウィステルの努力を知っているし、結果を出していることも知っている。
けれどそれは報告という形であり、数値として可視化されたものでしかない。ウィステルがその場でどう振る舞って、どんな表情をして、周囲にいる人々がどんな反応を示しているのか。フィセリオは自身の目で確かめたことはなかった。
ウィステルが残そうとしてる、兄上が生きていた証……それがどんなものかは、見届けるべきかもしれない。
他でもない、エオナックの死が刻んだキャスバート家の傷を癒そうと手を伸ばしてくれた。それを売り上げや評判などの報告で済ませてしまって良いのか。キャスバート家の責任を全て負う当主として、それはあまりにも他人事過ぎるのではないかと思い直し始めていた。
フィセリオは考えた結果、短時間だけ顔を出すことにした。軽食を嗜む時間を過ぎ、夕食を食べるには早い時刻。人波も少し落ち着いているであろう頃合いを見計らって足を運ぶ。人が少なそうな時間帯に来たつもりだったが、想像していたよりも多くの人々が行き交っていた。
気楽な様子で談笑しながら歩く青年たち。何を買うか迷いながら目を輝かせている少女。美味しそうに菓子を頬張る子供と、それを穏やかに見守る親。飲み物を片手に、ゆったりと過ごす老夫婦。ウィステルが目指していた『笑顔のあふれる日』が目の前にある。
ウィステルの姿を探して出店場所の方へ目を向けると、ちょうど飲み物を手渡しているところだった。彼女の笑顔が初夏の陽射しのように、相手の笑顔を咲かせていく。その温かさの端に振れた心が、柔らかく綻んだような気がした。
もう、見たいものは見られた。
この空気を壊さないよう、そっとその場を離れようとしたときだった。どこからともなく聞こえた「公爵様……?」という声に、場の空気がサッと冷えたような気がした。
「気づかれてしまったようですね」
潜められたエルウッドの声が、淡々とした響きで耳に届く。地味で目立たない私服を選んで着てきたつもりだったが、結局無駄に終わってしまった。
それまでのざわめきは引き、今も奏で続けられている陽気な音楽がやけによく聞こえる。一瞬前まで当たり前のようにあった人々の笑顔は驚きと困惑の色へと変わり、視線は先触れもなく突然姿を見せたフィセリオへと向けられていた。
やはり、来るべきではなかったか──
見届けるべきと考えたのは、判断ミスだったのかもしれない。想像していた通り、せっかくウィステルが築き上げた空気を壊してしまっている。
歓迎されていないというほどではない。けれど、いると居心地が悪くなる。エオナックが夢見た光景に馴染むことができない自身の異物感。目の前につきつけられた現実に、フィセリオの心は温度を失っていった。
すでに試作品の確認を終え、製作に入るよう伝えてある。つまり、もう完成品が届いたということだ。
包みを解くと、緩衝材の中から丁寧に磨き上げられた木製の箱が露わになる。フィセリオは箱に傷をつけないよう、慎重に蓋を開いた。
箱の中は二つに仕切られ、ペンとなぜか注文した覚えのないインク壺が収められている。それぞれの形に合わせて窪みが彫られ、動かないよう固定されていた。
ペンとインク壺には、フィセリオが指定していた月桂樹とツバメの模様があしらわれている。捻りはないが、キャスバート家の紋章である月桂樹とラティマー家の紋章であるツバメを合わせたものだった。図案に関しては職人に任せきりにしていたが、ほっこりするような柔らかな色使いで丁寧に描かれている。
小包には工房からの手紙も添えられており、箱を閉じてから手紙の封を切った。
【ウィステル様への贈り物と伺い、無事誕生日までに完成に至りましたことを、こちらの品と共にご報告させていただきます。】
贈り物だとは伝えたが、誕生日までに完成させろと急かした覚えはないが?
【我々もウィステル様に喜んでいただきたく、誠に勝手ながらインク壺も製作いたしました。絵柄はペンと同じ月桂樹とツバメをモチーフにしたものを採用しております。お気に召していただけましたら幸いでございます。】
職人たちの熱量は感じていたが、ここまでとは……
細部にまで、職人たちのウィステルへの思いが詰まった唯一無二の品。それは時間と労力を捧げてでも報いたいと思われるほどに、ウィステルが領民から大切に思われている証でもある。
ウィステルが大切にしているものをできる限り寄せ集めて作ったが……喜んでもらえるだろうか。
罪滅ぼしから始まった品は、いつの間にか『ウィステルを笑顔にしたい』という気持ちへと変化していた。同時に、これまで製作に関わってくれた人々の思いが無駄になってほしくないという願いまで混ざるようになっていた。
* * *
六の月一番の日。今日は亡き兄エオナックの誕生日であり、ウィステルが企画した催事『白花薫る味の旅市』の開催日だ。ウィステルの収穫祭への出店の評判が良く、領民と商人どちらにも喜んでもらえることをしたいと考えた彼女の発案だった。
ウィステルが公爵夫人になって初めて企画した催事であるにも関わらず、商業ギルドへ出店の応募が殺到したと報告を受けている。出店者の選定も商業ギルド主導で行われ、面談と審査を通過した商人の中から抽選で選出された。
ウィステルもここ数日は催事と出店両方の準備で、いつにも増して忙しくしている。特に昨日……五の月三十一番の日は彼女の誕生日でもあるはずなのに、祝福の言葉すらろくにかけられないほどに慌ただしく動き回っていた。
フィセリオはというと、今日も変わらず政務と向き合っている。催事の開催を告げる花火の音も執務室で聞いた。時計の針はもう間もなく十二時を差そうとしている。飲食物を扱った催事であるため、会場の中央広場は今頃人でごった返していることだろう。
「フィセリオ、催事の様子は見に行かなくていいのか? 笑顔があふれるエオナック様のような日にって、ウィステル様も言ってくれただろ」
「だから行かないんだろう。私が行けば皆の顔色が曇る」
フィセリオは“微笑み公爵”と呼ばれるようになるほどに、笑みを貼りつけてきた。だがその笑顔が相手の緊張を解き、親しみを与えられるかは別問題だ。
エオナックと同じようにしているはずなのに、自分が近づくと緊張で強張る者も少なくない。せっかくのウィステルの努力を、自分が台無しにしてしまうような気がしていた。
「そうかなぁ……まぁ仮にそうだとしても、僕は見ておいた方が良いと思うけどな」
正直に言えば、短時間だけでも見に行きたい。フィセリオはウィステルの努力を知っているし、結果を出していることも知っている。
けれどそれは報告という形であり、数値として可視化されたものでしかない。ウィステルがその場でどう振る舞って、どんな表情をして、周囲にいる人々がどんな反応を示しているのか。フィセリオは自身の目で確かめたことはなかった。
ウィステルが残そうとしてる、兄上が生きていた証……それがどんなものかは、見届けるべきかもしれない。
他でもない、エオナックの死が刻んだキャスバート家の傷を癒そうと手を伸ばしてくれた。それを売り上げや評判などの報告で済ませてしまって良いのか。キャスバート家の責任を全て負う当主として、それはあまりにも他人事過ぎるのではないかと思い直し始めていた。
フィセリオは考えた結果、短時間だけ顔を出すことにした。軽食を嗜む時間を過ぎ、夕食を食べるには早い時刻。人波も少し落ち着いているであろう頃合いを見計らって足を運ぶ。人が少なそうな時間帯に来たつもりだったが、想像していたよりも多くの人々が行き交っていた。
気楽な様子で談笑しながら歩く青年たち。何を買うか迷いながら目を輝かせている少女。美味しそうに菓子を頬張る子供と、それを穏やかに見守る親。飲み物を片手に、ゆったりと過ごす老夫婦。ウィステルが目指していた『笑顔のあふれる日』が目の前にある。
ウィステルの姿を探して出店場所の方へ目を向けると、ちょうど飲み物を手渡しているところだった。彼女の笑顔が初夏の陽射しのように、相手の笑顔を咲かせていく。その温かさの端に振れた心が、柔らかく綻んだような気がした。
もう、見たいものは見られた。
この空気を壊さないよう、そっとその場を離れようとしたときだった。どこからともなく聞こえた「公爵様……?」という声に、場の空気がサッと冷えたような気がした。
「気づかれてしまったようですね」
潜められたエルウッドの声が、淡々とした響きで耳に届く。地味で目立たない私服を選んで着てきたつもりだったが、結局無駄に終わってしまった。
それまでのざわめきは引き、今も奏で続けられている陽気な音楽がやけによく聞こえる。一瞬前まで当たり前のようにあった人々の笑顔は驚きと困惑の色へと変わり、視線は先触れもなく突然姿を見せたフィセリオへと向けられていた。
やはり、来るべきではなかったか──
見届けるべきと考えたのは、判断ミスだったのかもしれない。想像していた通り、せっかくウィステルが築き上げた空気を壊してしまっている。
歓迎されていないというほどではない。けれど、いると居心地が悪くなる。エオナックが夢見た光景に馴染むことができない自身の異物感。目の前につきつけられた現実に、フィセリオの心は温度を失っていった。
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