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しくじった。

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 頭からシャワーを被り、水滴のしたたる髪を後ろになでつける。

 ――やばいな、しくじった。

 何度目かのため息をつき、「高校生ガキか」と独り言ちる。

 初日からここまでするつもりなんて毛頭なかった。なに、うっかりキスなんかしてんだ。

『彼氏は……今は、いない、けど』

 電話越しにその事実を聞いた瞬間の苦々しさは生涯忘れないだろう。
 2年も離れていたんだし、年齢も年齢だ。いてもおかしくないことなんて分かりきっていたのに。
 実際、控えめな性格だから目立たないだけで、真白は整った容姿をしている。
 雪のように白い肌と艶やかな黒い髪、黒いブラウス、すらりとした脚を包むタイトなジーンズ。シンプルな格好が、積もったばかりの雪のような彼女の綺麗さを引き立てていた。
 真白の灰色がかった黒い印象的な瞳と目が合って、微笑まれた瞬間、2年前よりずっと綺麗になったな、と思った。
 俺がいない間に、こんな風にあいつを綺麗にさせた男がいると思うと、反吐がでるような気分だった。



 真白は、男ばかりの俺の親戚の中で唯一の女の子だった。
 最初は祖父母の家にいくと必ずいるな、程度の認識だった。ちまちましたのに懐かれたから普通に可愛がった。当時の俺にとってはただそれだけの存在だった。
 おかしいことに気づいたのは、親戚で集まった夜に大人たちが真白のことで話し合いをしているのを偶然立ち聞きしたからだ。聞いて楽しい話でも無いので去ろうとしたら、俺から少し離れた所に小さな存在がいたのに気がついた。

 ――やべ。

 明らかに真白には聞かせてはならない話だった。ヒートアップした大人達の会話は、まるで真白を邪魔者扱いして押しつけ合うような様相になっていたからだ。

 ――ああ、クソ。理解してなきゃいいんだけど。

 その微かな希望は、その横顔を見た時に打ち砕かれた。
 泣いてはなかった。
 悲痛そうでも、落ち込んでもなかった。
 ただ無垢な大きな瞳でじっと大人たちを見つめていた。
 それでも、まだ3歳かそこらのこの少女が、何を言われてるか理解してしまっているんだと、直感で分かった。
 真白、と呼びかけると、くりっとした大きな瞳がこちらを向いた。

「あっちに行こう」

 真白は頷いて、素直についてきた。


 それからは、できるだけ構ってやった。
 真白の両親は、いつまで経ってもカップル気分で父親と母親に成り切れない人達だった。
 両親からの電話に出て、目にいっぱい涙を溜めて、早く帰ってきてね、と伝える真白を見て、ガキの頃の俺はいつも居た堪れない気持ちになった。それでも、あいつはずっと“いい子”だった。祖父母にも両親にもわがままを言わず、なるべく面倒をかけないように、部屋の片隅で静かに絵をかいて一人で過ごしている“手のかからない子”だった。

『寂しくないのか?』

 まだあいつが小学校低学年ぐらいの時にそう聞いたことがあった。その頃には、ブンブン揺れる尻尾と耳の幻が見えるくらい真白から懐かれていたから、頼ってもらえるものだと思っていた。

『お父さんとお母さんから、なかまはずれにされちゃうのは、やっぱり、さみしい、かな』

『俺からおじさん達に言ってやろうか』

『ううん、だいじょうぶ。さみしいけど、その分いいこともたくさんあるから』

『いいことって?』

『しゅうちゃんにあえる!』

『可愛いこと言ってくれるじゃん』

 小さな頭を撫でるとふにゃふにゃと嬉しそうな顔で笑う。

『あとね、おじいちゃんとおばあちゃんといっしょにいられるでしょ、おばあちゃんのごはんおいしいでしょ、おばあちゃんとオヤツつくるのたのしいでしょ、おじいちゃんとお庭いじりするのたのしいでしょ、お庭でひみつきち作るのたのしいでしょ』

 指折り数えながらキラキラした目で話し続ける真白を見て、喉が詰まった。
 純真な笑みを浮かべ、両手で数えきれなくなってもなお、小さな嬉しい事や小さな楽しい事をいっぱい口にし続けるその姿に自分は何も言えなくなったからだ。
 もっと他の同世代の子どもたちみたいに親にわがままを言っていいんだって言ってやりたかった。欲しいものを強請ったり、外出を強請ったり、一緒に遊んでくれって言ったっていいんだって。
 こんな小さな子が両親から自分だけのけ者にされて辛くないはずがない。それでも、間近で見てきた自分には――よくわかった。自分の隣に座るこの小さな女の子が、辛い環境でも、そこに心から楽しみを見出す強さを持った子なのだと。
 両親から普通に愛情を注がれて、まっとうに育てられた自分には、小さな真白の在り方が突き刺さった。

 今にして思えば、このときから真白が俺の中での特別になっていたのだろうと思う。

 俺が大学生になってからも、兄として誕生日を祝ってやったり、食事に連れていってやったり、一緒に買い物について行ってやったりしていた。
 どんどん綺麗に成長していく真白に対しては、俺の妹だし当然の結果だな、なんてふざけたことを思っていた。
 そんな俺が男として真白を好きだと言い逃れができないくらいに自覚したのはニューヨークに行く直前だった。
 ニューヨーク赴任が決まり、引き継ぎや準備で忙しく過ごしていたあの日、会社で残業していると珍しく真白から電話がかかってきた。

『――しゅうちゃん、たすけて』

 少し呂律の回っていない声と後ろから聞こえる賑やかな音に大体の事情を察した。酒が飲めるようになったばかりの年頃だ。どこかの馬鹿が酒にまかせて盛ろうとしているに違いない。

『分かった。今どこだ。……そこなら、15分くらいで着くと思うから』

 ありきたりな雰囲気の飲み屋に着いて、通路を歩きながら電話を鳴らす。音が聞こえた方に向かって進んでいくと、真白が男に肩を組まれて縮こまっていた。体を守るように両腕を組んで涙目になっているのを見て、自分でも信じられないくらいに頭に血が昇った。

『悪いな、そいつ酔っちまったみたいで』

 相手の男を殴り倒したい衝動を噛み殺し、自分の外見を最大限に活かした紳士的な笑みを向けると、こちらを睨んでいた男どもの気勢がそがれる。見れば、相手にもならない粋がった学生どもだった。
 ちらりと真白を見るとあからさまに安堵して、今にも泣き出しそうな顔をした。誰にもバレないように小さく息を吐き出す。連れ帰りたいのは真白だけだが、彼女の救援要請には周りの友人も含まれている筈だ。

『これ、こいつらの参加費な。迷惑かけたな』

 財布から万札をそれなりに抜いてテーブルに置くと、金額を確認したガキどもの態度が変わった。

『えっ、こんなにいいんすか⁉︎』

 貧相な盛った猿どもに内心冷めた目を向けつつ、にっこりと友好的な笑みを向ける。

『こいつら連れて帰っちまう詫びだ。悪かったな、それで楽しんでくれ』

 口端をあげてその場を去ったが、内心は全員殴り倒したいくらいに苛立っていた。

『しゅうちゃん、ごめんね』

 とろんとした瞳、赤らんだ顔、舌足らずな話し方。こんな隙だらけの姿をアイツらに晒していたのかと思うと更にドロリとした怒りが腹の底から湧き上がってくる。

『説教は明日だ。とりあえず、怖かったな』

 肩を抱き寄せてやれば、瞳を潤ませてすんなりと腕の中に収まってきた。そのことでほんの少しだけ怒りが鎮まったが、それでもフツフツと湧き上がる怒りを止められない。真白が他の男に触れられていたことがどうしようもなく気に食わない。
 生まれて初めて感じる強烈な独占欲と支配欲。
 必要以上に煮えたぎる怒りの中で、俺はやっと自分の気持ちに気がついた。
 ニューヨークに行く前にいっそのこと籍でも入れてしまいたかったが、当時は仕事の引継ぎや引越しの準備に追われて口説く時間が全く無かった。結局、俺は真白に「二度とコンパには行くな」ときつく叱る事ぐらいしかできなかった。
 ニューヨークに行ってからはたまに電話をし、誕生日やクリスマスを体のいい口実にして、その辺の男には荷が勝ちすぎるようなハイブランドのものを送りつけた。真白が喜んで使ってくれればいいし、ほんの少しでも男避けになることを願って。……一体何してるんだ、俺は。我ながら健気過ぎて涙が出そうだった。好きな女を口説きもせず、こんな事しかできないだなんて馬鹿馬鹿しすぎる。
 出世コースのニューヨーク赴任が決まった時はほくそ笑んでいた筈だったのに、その頃の俺は俺をニューヨークに飛ばした上司を恨んでさえいた。
 結局、ニューヨークの奴らにワーカーホリックだと馬鹿にされるくらい働いて、真白に会うためだけに誰もが納得する成果を上げて、早い帰国を願い出た。

『彼氏は……今は、いない、けど』

 スマートフォンを握り壊しそうな程、苦い思いが込み上げてきた。それでも、今いないなら奪う手間が省けてよかった、と自分を納得させて帰国してみれば、好きな女の部屋中に他の野郎のいた痕跡こんせきが散らばっていた。
 ペアのスリッパに始まり、クッション、マグカップ、茶碗、箸置き、皿、歯ブラシスタンド……俺がいない間にさぞ楽しい生活をここで送ったことだろう。
 なるべく大人に振る舞おうとしても、どうしても目につく他の野郎の痕跡に苛立ちは募るばかりだった。
 一緒に酒を飲みながら向かいに座る真白に目を向ける。
 胸下までの艶々した細く柔らかな髪、黒目がちの大きな目、長いまつげ、柔らかそうな頬。さくらんぼ色の形のいい口に小さな顎からすらっとした首すじ……黒いレースのトップスから透ける肌の白さ。
 綺麗になった。それに、2年前よりもうんと色っぽくなった。
 長い腕や足はすらりと細いのにふわふわと柔らかそうで、思わず触れて見たくなる。
 成熟した大人の女の身体をしておきながら、ガラスのように透きとおった雰囲気をもっていて、そのアンバランスさが、男の本能と征服欲をこれでもかと刺激してくる。

「近すぎたかなって」

「子供のときはあんなに俺にべったりくっついてたくせに、今更だな」

「子供の時はね。でも、ほら、今は……」

 潤んだ瞳、紅潮した頬、ふっくらとした唇。すぐそばから香る甘く堪らない匂い。

「今は何だよ」

「……お互い、大人になったから」

 恥ずかし気に目が伏せられると、長い睫毛が微かに揺れた。
 俺がいない2年の間に、他の野郎の手によってこの色気を引き出されたのだ。
 他の野郎がこの白い肌を暴いて、真白を女にしたのだ。殺してやりたい、と思った。同時に、自分もその白い肌を貪りたいとも。腹の内でそんな事を考えている俺の前で真白は頬を染めて、のこのこと切り出した。

「彼氏、のことなんだけど」

 この期に及んで俺の前で他の男の話をするのか。
 そんな理不尽な怒りと共に獰猛な感情が支配した結果がこの暴走だ。
 真白に無理矢理キスをさせ、それでも足りずに真白の口内を蹂躙し、甘い唇を味わい尽くした。

「ん、は……っ、んぅぅ……っ」

 他の男が居たとは思えないような初心な反応や初めて見る淫らで可愛らしい姿。抵抗するどころか必死に受け入れようとして俺に縋りつくその可愛らしい媚態に、暴力的なまでの苛立ちが、すっかり鳴りを潜めて余裕が生まれた。――このまま勢いにまかせて何もかもを無理矢理奪うのは簡単だ。少しとろくて、お人好しで、優しい真白の事だ。きっと最後には受け入れてくれるだろう。でも、そうやって真白を手に入れたいわけじゃない。
 唇を解放してやると、真白は肩で息をしながら、ぽぉっと上気した表情を覗かせて俺をじっと見上げてきた。うるうると蕩けきった瞳とぽってり赤く腫れた唇は力なく半開きになっている。その蠱惑的な姿にまたも走り出しそうになる欲を抑えながら会話を楽しんでいた。

「秀ちゃんのばか」

 一気に冷静になった。明らかにやり過ぎた。
 そうして、頭を冷やそうと逃げた先で俺は再び苛立つことになった。――洗面台に置かれた男物のひげ剃りに。
 ペアのカップやらなんやらは引き出物やらなんやらの理由で元からペアだったのかもしれないという希望的観測もあった。だが、ひげ剃りは完全にアウトだ。
 捨 て て え !
 自分の気持ちに蓋をして無自覚に膨らまし続け、自覚した瞬間に2年間もお預けを食らったせいか、完全に真白への想いを拗らせているのは分かっていたが、余裕が無さ過ぎて、自分でも笑えるレベルだ。
 ゆっくりと息を吐き、苛立ちを必死に抑えて部屋に戻ると、真白がローテーブルに突っ伏して寝ていた。

「――おい、真白」

 話しかけても、揺らしてみても、深く寝入っているようで、反応がない。
 さっきまで自分に無理矢理キスをさせてきた男の前でこんな無防備に寝るか? 
 指でその柔らかな白い頬を突っつくと、嫌がるように眉根を寄せて小さく顔を振る。その可愛い姿に鬱憤を晴らして。

「しょうがねえな」

 そっと抱き上げてベッドに寝かせ、布団をかけてやった。
 ちらりと周囲に視線を遣る。俺用の布団がしまわれている場所は容易に想像がつくけれど、俺は真白からその場所を聞いていない。よって、俺は知らない。――同じ布団で寝ても文句は言えねえよな。

「男の前で無防備に眠りこけてるお前が悪い」

 まさか、ここまで自分が‟兄”としか思われていないとは。――まあいい。これからはすぐ近くに居られるのだから、ゆっくりじっくり落とすのも楽しいだろう。それに、ここまで俺が暴走しても嫌がったり怒ったりしないのだから、それなりに脈はあるはずだ。
 そう自分に言い聞かせて腕の中で寝息をたてる真白の顔にかかった髪の毛をそっとどかす。

「真白」

 小さく微かな声で囁くとふにゃりと寝顔が緩んだ。それに、相好を崩す。

「会いたかった」

 頭に口付けを落として目を閉じる。

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