上 下
5 / 23

再会 〜動悸のせいで寿命が削れてる気がする〜

しおりを挟む
 秀ちゃんとの再会の日まで、平日は仕事でメンタルを削られたりボコボコにされながらも踏ん張って、土日は秀ちゃんとの同棲に向けて準備を始めた。

 お揃いのカップやお皿や箸置きを買ってみたり、歯ブラシと歯ブラシスタンドを買ってみたり、アメリカから届いた段ボール箱を見ては、本当に秀ちゃんがこの部屋に来るんだな、と同棲の妄想に耽ってニヤニヤしたり……そんな浮かれきった生活を送っていた。
 ついには小さな花瓶を買ってきて家にピンクのお花を飾り始めたり、「最近明るい色の服が多いね」と先輩の伊吹さんから言われたりと、脳内からあふれ出したピンク色が知らぬ間に外界にまで影響を及ぼし、私の日常を侵食する有様だった。でも、そんなこともどうでもいいと思えるくらい、私は秀ちゃんの彼女ごっこを満喫しまくった。

 そして、今日。ついに秀ちゃんが帰ってくる。
 お気に入りの黒色のブラウスとジーンズ。脚が綺麗に見える華奢なストラップヒールのサンダルとオレンジのペディキュア。そして、秀ちゃんから誕生日プレゼントでもらったネックレスとピアス。
 最寄り駅の改札の出口で秀ちゃんを待つ。家で待ってろと言われたけど、落ち着かなさ過ぎて迎えに来てしまった。髪を弄ってそわそわしていると、電車が到着して乗客がぞろぞろと出てきた。

「秀ちゃんだ……!」

 秀ちゃんは大勢の人の中にいても、そこだけスポットライトが当たっているかのように目立つのですぐに分かった。
 男らしく形のいい額。きりっとした眉と目。スッと通った鼻筋と引き締まった口許。漆黒の髪と強く光る黒い瞳が、抜群に整った顔を際立たせて、見る人を魅了する輝きを放っている。顔面だけでも破壊力が凄いっていうのに、186センチの長身とモデルみたいに長い手脚が存在感を爆上げして、オーラが半端ないのだ。
 今だって黒いTシャツにジーンズという極めてシンプルな格好なのに、ジャケット写真のように絵になっている。

「お帰り、秀ちゃん」

 周囲の女性の視線という視線をことごとく奪っている彼が私の方を見て、口角を吊り上げる。

「ああ、ただいま」

 ギュンッと悲鳴を上げる心臓を抑えた。やっぱり、半端なくカッコいい。2年前よりも自信と男の色気が増していて、もう全然太刀打ちできる気がしない。

「悪いな、無理言って」

「ううん、頼られて嬉しかったから気にしないで」

 ぱち、と不思議そうに瞬きをした美形に微笑む。

「あの秀ちゃんに頼ってもらえるほど、私も大人になったんだなぁって」

「そういうことな。確かに、あの小さかった真白が働いて独り暮らししてるとか感慨深いよな」

 シュミレーションどおり『大人になったアピール』が成功して、へへ、と笑うと、スーツケースの上に乗せられた手荷物が目についた。

「荷物持とうか?」

「お前に持たせるわけないだろ」

 呆れたような顔で言われて、しゅんと気落ちすると、ぽん、と大きな手が頭に置かれる。なんだかその感触が不思議で瞬きをして秀ちゃんを見つめ返した。

「どうした?」

 ――小さな頃からこうしてたくさん撫でてもらったりしてきたけど。社会人になった今は……ときめいたりとかする以上に、こみ上げてくる不思議な感覚があった。

 社会人として働き始めたら、誰かに守ってもらえたりすることなんか無くって。日々、司法書士の『先生』として相応しいように、見下されないように、自信のあるフリをして振る舞って。仕事を押し付けられたり、ミスや責任を押し付けられたりする度に強くならなきゃって頑張って。傷つくたびに傷つかないようにしようって何重にも鎧を身に着けて。
 そうやっていつの間にか積み重ねた重たいものが、パキパキと音を立てて剥がれていくのを感じた。

「なんだろう……、たぶん、今、私、ものすごく安心してるんだと思う……」

 そう、自分は『ここなら、もう誰にも傷つけられずにすむ、守ってもらえる』そういう絶対的な安全地帯に戻ってこれたかのような安堵を感じてしまってるのだ。

「なんだそれ」

「知らないうちに神経を張り詰めて日々過ごして来たんだなーって実感した」

 秀ちゃんは何か言いたそうな顔をしたあと、私の頭をガシッと掴んだ。

「えっ、痛っ!?」

 なになに!?と目を白黒させていると、グイッと引き寄せられて頭上から温かい声が落ちてきた。

「あんま、自分を追い込むなって言っただろ。……頑張ったな」

 小さい子にするみたいに頭をよしよししてくれながらの囁きに呼吸が止まる。
 手が私の頭から離れて。顔を上げた先にある秀ちゃんの笑顔に、今度は心臓まで止まった気がした。
 顔が熱い。胸が苦しい。言葉が出ない。さっき感じた絶対的な安堵感なんて簡単に吹き飛ばされてしまう。
 ――私、どうして再会したら手が届くだなんて思ってしまっていたんだろう。

 やっぱり小さい頃のまま、距離は縮まらないままだ。



 タクシーに乗ると、あっという間に家に着いてしまった。片想い歴だけが無駄にベテランで、恋愛経験値が底辺の自分としては、男の人を自分の部屋に上げるという事実だけでも妙に気恥ずかしさを感じる。

「狭いけど、どうぞ」

 ドキドキしながらドアを開けたのに、「お邪魔します」と、まるで自分の実家に上がるように自然と上がっていく秀ちゃんの後ろ姿に、これが恋愛の猛者の背中を見た。

「よかったらその辺に適当に座ってね、珈琲淹れるから」

「おー、サンキュ」

 秀ちゃんは黒いトランクを床に置いて、さっそく広げ始めた。
 ついつい血管の浮き出た腕や厚い胸板をジーッと見つめてしまう。ちらりと黒い瞳がこちらを向いた。

「なに?」

「なんか秀ちゃん前よりも……太くなった?」

「太く……お前、そこは逞しくなったね、ぐらいで言えって。あっちの奴らジムが好きで、付きあってたらこうなったんだよ。自分で言うのもなんだけど、今けっこう良い身体してるよ。腹もちゃんとバキバキに仕上がってるから」

 ――見る? なんて悪戯気な顔で微笑むので、またもや顔が熱くなる。

「何言ってるの、もうっ」

 大人の男の魅力に満ちた美形が悪戯気に微笑むと凶悪なぐらい格好良くて、慌てて背を向ける。
 暴れる心臓を抑えていると、立ち上がっていつの間にか距離を詰めてきていた秀ちゃんが、スッとその長身をかがめて覗き込んで来た。

「おい、どうした?」

 間近にある精悍な美貌と腰にクるような低い美声。もうやめてほしい。こっちのライフはとっくにゼロだというのに。

「なっ、なにがっ? 秀ちゃんこそどうしたの?」

「これ、飲もうと思って買ってきたから冷やしてもらおうかと。それよか、お前こそこんな所で突っ立ってどうした?」

 小首を傾げた美形が、私の赤くなっているであろう頬を指の背で触れて、薄く笑った。

「真っ赤」

「だって、秀ちゃんがっ、さっき破廉恥なこと言ってきたから」

「いや、お前あれくらいで。っつーか、あの一言でそんな顔を赤くして、一体何を想像してんだよ、このムッツリが」

「……っ!」

 ニヤニヤ笑われて、恥ずかしくってしょうがない。

「コーヒーめちゃくちゃ濃くするね」

 恨みがましく見つめると、秀ちゃんが「悪かったって」と私の頭にポンと手を置く。
 こうやって簡単に私に言い負かされてくれる所も、自分が秀ちゃんにとって保護対象のままな感じがしてちょっと悔しい。……悔しいのに。どこか喜んでる自分もいて。ほんと、恋心はどうしようもない。
 自分の感情を持て余しながら、受け取った袋の中を覗く。赤と白の2本のワインとチーズとナッツが入っていた。

「赤は常温で、白は冷蔵庫でいい?」

「ああ、それでいいよ。今晩開けようぜ」

「今日は和食の予定だよ?」

「別に飲み物はワインでもいいだろ? 日本食に飢えてるし、真白の料理、楽しみにしてる」

 ふわりと爽やかな笑みを向けられて、またしても心臓がキュウッと悲鳴をあげた。


 それからは何事も無かったように一緒にコーヒーを飲んで、秀ちゃんが荷ほどきをしている間に夕飯の準備を始めた。今日のメニューは秀ちゃんのリクエストの唐揚げ、大葉と柚胡椒をきかせたトマトと豆腐の和風サラダ、小松菜のお浸しと、肉じゃがと、具だくさんの豚汁と炊き立てのご飯。
 準備を終えて、たくあんとのり佃煮を小皿に盛ってご飯の横に置いたら「食いたかった」とすごく感謝された。分かるよ、実家に帰ったかのようなほっとするメンバーだよね。

 ビールで乾杯した後、「いただきます」と両手を合わせた秀ちゃんが揚げたての唐揚げを頬張る。

「この唐揚げ、実家と同じ味がする……」

「昔、おばさんと一緒によく作ってたからね」

「いつの間に」

「秀ちゃんのサッカーの応援に行ってた時に」

 あの頃の私は花嫁修業気分でルンルンだったな。秀ちゃんが私が作るのを手伝ったお弁当を食べてくれるのを見て、奥さんになった気分でいたりした。――今は勝手に同棲した彼女気分を味わっている。驚くほど自分が何にも変わっていない。これが三つ子の魂百までもということだろうか。もしや、10年後も自分は変わっていないのだろうか。なにそれ怖すぎる。

「……おばさんには、よくしてもらったな」

「母さん、真白のこと気に入ってたもんな」

「えへ、嬉しい」

「そういや、クローゼット半分空いてたけど、服は実家に送ったのか?」

「うん、あんまり使わないのとかをとりあえずね」

「迷惑かけて悪いな」

「ううん。私は別にいいから、家が決まるまでゆっくりしていってね」

 むしろこのまま永久に私と一緒に住めばいい……そんな呪いのような言葉を私は心の中で唱えています。

「無理矢理押しかけて来た俺が言えたことじゃないけど、お前、もう少し危機感を持った方がいいよ」

 秀ちゃんの顔をまじまじと見かえす。

「え……どういう意味?」

「別に。そのまんまだけど」

 もしかして、俺も男なんだけど、とかそういうことかな! 手を出すかもしれないだろ、的な……! 逆に言えば、私のことを女として見てる、的な……っ!

「俺がこのまま家賃も払わずにヒモのように居座ったりしたらどうするつもりだよ」

 そっちか……! 心中でガクッと項垂れる。
 だって、少女漫画とかだとお約束のやつだし! 期待するよね普通!? 
 これが現実ですよね。分かってますとも。凡人にTL展開はやってこないことぐらいは。自分の恋愛脳の残念さに脱力せずにはいられない。

「そんなの心配する必要ないよ。秀ちゃんは絶対そんなことしないから」

「まあ確かにそんなことはしないけどな。でも――」

 小首を傾げて艶っぽく笑った秀ちゃんがスルリと私の頬を撫でた。

「俺も男だから違う意味で『危ない』ことをしたりするかもしれないだろ」

 完全なる不意打ちを食らって、心の中で『ぎゃああああーーっ!』と悲鳴をあげる。
 綺麗な瞳が悪戯っぽく細められているから、からかわれているんだって分かるのに、顔が熱くなるのも、暴れまくる心臓を鎮めることもできそうにない。
 カッコ良すぎて反則だ。

「き、禁止……! からかうの禁止……っ!」

 死ぬ! これ以上は、死ぬ!

 体の前に手をクロスさせて必死に訴えると、秀ちゃんが声を上げて笑った。

「悪い、悪い、面白いくらい顔が赤くなるから、つい」

 ひとしきり笑った秀ちゃんがビールを煽る。私も暴れる心臓と熱くなった顔を誤魔化すようにビールを一気に流し込んだ。

「真白は次どうする? もうワインいく?」

「いく」

 これは飲まないと心臓が持ちそうにない。

「じゃあ俺もワインにしようかな」

「ワインとグラス持って来ます」

 キッチンに行って、高い所に収納していたワイングラスを取ろうと背伸びをする。手を伸ばした先でワイングラスの脚に指が引っかかる。よし、と引っ張った瞬間、隣に置いてあったシャンパングラスがぐらついた。
 ――しまった。
 咄嗟のことにギュッと目を瞑ったけど、想像していたガラスの割れる音も衝撃もやってこなかった。

「……っぶね」

 恐る恐る目を開けて振り返ると、すぐ真後ろに秀ちゃんが立っていた。
 背中に感じる彼の体温と身体に、身体が固まる。

「危ないだろ。一緒に生活するんだし、これから高い所の物は俺が取るから」

 ただでさえ艶のある声なのに、甘い吐息が耳にかかって、息ができなくなる。
 腕を伸ばしたままの間抜けな体勢で固まっていると、私の左側に彼の手が置かれ、

「真白?」

 右側から顔を覗き込まれた。
 え、なにこの状況……左側に頑丈な腕があって、後ろに逞しい身体があって、私の右側にイケメンの顔があって……って近い近い近い! 距離が近い! これが欧米帰りの人間のパーソナルスペースか! 大和撫子(笑)にはハードルがきついです!
 どうしよう。秀ちゃんのすごくいい匂いに包まれてる。微かに香る上質なオーデコロンが大人の男、って感じがして……ああもうなんかエッチすぎて無理。

「おい」

 秀麗な貌が私の耳元の近くにあって、腰にクるような声が耳元で発せられて。もうだめ。私、想像妊娠しちゃいそう。
 瞬間、ふぅっと耳に息が吹きかけられた。

「ひぁぁぁ……っ!」

 ドキドキしすぎて無駄に元気のいい悲鳴が出てしまった。ぷっと笑う声が聞こえて、秀ちゃんの腕がスルリと解かれる。振り返ると憎らしい程の美形が肩を揺らして笑っていた。

 く、悔しい……! またからかわれた……!
 こっちはドキドキして死にそうになってるっていうのに。ジトリとした目で見つめても、余裕の笑顔が返ってくるだけだ。

「怪我なくてよかったな」

 引き出しを開けてワインオープナーを取りだした秀ちゃんはワインボトルもワイングラスも持って、何事も無かったかのように離れていった。
 未だドキドキしてるせいで動けない私をよそに、秀ちゃんはソムリエのように手際よくコルクを抜いて、ワイングラスに片手でサーブしている。
 いちいち格好いい彼に腹を立てながら、お皿に移したチーズとナッツを出す。

「あ、チーズとかは空港で適当に買ったやつだから、そんな期待するなよ」

「社会人一年目には、十分過ぎるほど豪勢です」

「そ。ならよかった」

 前に置かれたグラスを持ち上げると、秀ちゃんも同じようにスッと持ち上げて、こちらを見る。

「お帰り、秀ちゃん」

「ああ、ただいま」

 二人でワイングラスを控えめにチンと鳴らして、口に含む。芳醇な香りがふわっと鼻に抜けて、口の中いっぱいにふくよかな余韻が広がって幸せな気持ちになった。

「美味しい~」

「だろ? あっちで飲んだ時、絶対に真白にも飲ませようと思ったんだ」

「すごく嬉しい。ありがとう」

 私の事をちょっとでも思い出してくれたってことだもんね!

「それにしてもニューヨークかぁ、いいなあ。海外勤務とか憧れちゃう。私は絶対にないもんなぁ」

「言葉の壁とか文化の違いとかあって、慣れるまで結構しんどいけどな」

「秀ちゃんでも大変だったんだ」

「そりゃな。あっちの奴等は基本残業とかしないし。でも働き方はすごい刺激を受けた。優先順位がはっきりしてて。1番が奥さんで、2番が家族で、3番が趣味とかで仕事なんてもっとずっと下だからさ。仕事残ってても普通にみんな帰ってくんだよ。でも、家族を大事にするそのスタンスはいいなって思った」

「そうだね」

 ニューヨークでのことを話す秀ちゃんはちょっと少年っぽい表情で。大人の男性のギャップにときめきが鳴りやまなかった。
 二人でワイン片手に離れていた間のお互いの話とか、親戚の話とか、思い出話とかとりとめもない話を沢山して、気がついたらシンクに空のワインボトルが2本転がっていて、私の秘蔵のワインを開けているような有様だった。

「てか、さっきから思ってたけど、なんでお前はそんな離れたところに座ってんだよ」

「え? 離れた所って?」

 普通にテーブルを挟んで反対に座ってるだけなのに。

「ほら」

 私のワイングラスを取り上げて、自分の横に置いた秀ちゃんに目をぱちぱちさせていると、大きな手が伸びてきて手を引かれる。

「来いよ」

 ふわふわと心地よく酔っ払っている私は、なんの疑問もなく、彼にうながされるがまま隣に座る。うっかり、肩と肩が触れ合いそうなほどすぐ隣に座ってしまって、恥ずかしくって、ちょっと横にずれた。

「なんで離れんの?」

「ちょっと、近すぎたなって」

「子供のときはあんなに俺にべったりくっついてたくせに」

「子供の時はね。でも、ほら、今は……」

 ワインを口に含んだ彼がふ、と口元を緩める。その表情が妙に色っぽくてドキドキと心臓が暴れる。

「今は何だよ」

 分かってるくせに、その抜群に整った顔をこちらに寄せてにやにやと意地悪く聞いてくるイケメンに目を泳がす。

「……お互い、大人になったから」

 なんとなく気恥ずかしさを感じて尻すぼみになる。それに、意識しているのは私だけで、秀ちゃんにとっては生意気に色気づきやがって、ぐらいの話だったのかもしれない。

「へーえ、随分と慎み深くいるんだな」

「大和撫子といいまして、我ら平たい顔族の女性はとても奥ゆかしいんですの」

「ははっ」と笑う秀ちゃんに、むぅ、と唇を突き出す。秀ちゃんが私を見つめながら、私の頬にかかった髪の毛を優しく耳にかける。

「男がいたわりには、全然男慣れしてないんだなって言ってんだよ」

 私の髪の毛先を弄んでいる秀ちゃんに「おとこ?」と首を傾げる。
 男ってなんだろう。彼氏いない歴=年齢の私に何言って……あっ。
 そう言えば前に電話で、彼氏は今いない的な調子に乗った事言ってたんだった。どうしよう、早いうちに訂正しないと。

「あ、あのね」

「ん?」

「彼氏、のことなんだけど」

「そういえば、真白、あの紙の事覚えてた?」

 突然話を遮られて、きょとんとする。秀ちゃんがこんなことをするなんて、珍しい。

「え……紙?」

「そう。これ」

 そう言ってポケットから取り出した物を秀ちゃんが私に見せつけた。
 節くれだった男らしい人差し指と中指の間に挟まれた古びた紙切れ――。

「そ、それっ!」

 思わず手を伸ばすと、ピッと遠ざけられた。

「え……? な、なんで」

 手を伸ばしたまま縋るように見つめると、黒い瞳が至極楽しそうに細まる。

「俺のだし、それに、これまだまだ使うつもりだから」

「え?」

「ほら」

 ぴら、と〝なんでもいうことをきくけん〟を裏向ける。

「……」

 そこには、下手くそな字で『しようかいすう∞ しようきげん∞』と書いてあった。――秀ちゃんに『無限』を教えてもらったばかりのアホの子の私が、書きたくてしょうがなかったのが伺い知れる。

「……ッ!」

 もう、悶絶である。本当になんてモノを産み落としてくれたんだ私は!

 秀ちゃんは再び黒い瞳を細め、ゆっくりと口角を上げた。

「な?」

『な?』ってなに!? 『な?』って。
 恐ろしいほどにドロついた笑顔の秀ちゃんはすごく楽しそうだし、ちょっと悪い顔がめちゃくちゃ格好よくてキュンキュンするけど。

「……まだ、なにか、この後も、使い道が、あるのでしょうか……」

 思わず敬語である。縋り付くように見つめる私に対して、さらに甚振るようにゆっくりと目を細める美形。

「男にこんなものを持たせたら、普通たくさんあるだろ?」

「しゅ、しゅうちゃん?」

 胸が高鳴る。主に期待で。
 もしかして、今から、えっちな命令とかされるのだろうか。されてしまうのだろうか。いや、していただけるのだろうか!?

「そうだな、朝起すのと、ご飯作ってもらうのと……」

 なんだそんなことか……がくっと項垂れそうになる。

「それくらい、そんなのなくてもしてあげるし」

 拍子抜けしながら笑みを零すと、秀ちゃんが口角を艶っぽくあげる。

「気前がいいな。それじゃあ、やっぱり一番最初は」

 大きな手が伸びてきて私の頬に触れる。彼の親指が私の唇をそっと撫でた。
 その艶っぽい仕草に息を止めて固まると、濃蜜な男の色香をまき散らし始めた男前が口を開いた。

「真白」

 今まで一度も聞いたことがない、甘く低い声音。

「キスして」

 初めてみる雄の顔をした秀ちゃんに胸が痛いほど高鳴った。

再会 ~2年ぶりに会っただけ~

「……へ?」

 一瞬、何を言われたか分からなかった。
 数拍置いて、言葉を飲み込んだ後もますます意味が分からなくなった。

「え? なにそれ……冗談、だよね?」

「こんなことを冗談で言うわけないだろ」

 そんなことを言われてもますます混乱する。
 それに、私を見つめる視線も空気もトロリとした甘さを孕んでいて。こんな秀ちゃんは知らなくて、本当に訳がわからない。

「イヤ?」

 じっと力強く私を見つめる秀ちゃんから視線が剥がせない。もちろん、イヤなわけじゃない。本音を言えば、大歓迎なぐらい。だけど――。

「どうしてもイヤなら諦めるけど、そうじゃないなら……ほら」

「……っ」

 うっとりと微笑む顔が近付いてきて心臓がますます暴れ始める。顎に手をかけられて、上を向かせられて。

「ほら、早く」

 お互いの吐息が唇を湿らす距離で端正な顔が止まる。私が少し動けば触れてしまう距離感。

「ど、どうして」

 鋭さと男の甘さが程よく混ざりあった美形が、口の端を上げて挑発的な笑みを浮かべる。

「そんなこと俺に聞くなよ」

 吐息が口にかかる。間近に迫った顔。熱っぽい眼差し。自分をすっぽりと覆う逞しい身体。濃密な男の色香。初めてのものばかりで、頭の中がぐるぐるするし、息苦しいくらいに心臓が音を奏でる。

「もしかして、酔ってる?」

「まさか。この程度で酔うわけないだろ。なんだったら明日シラフでも同じことしようか」

「明日、シラフでも……?」

「そう、明日シラフでも」

 情欲を纏った黒い瞳が獰猛に細まる。

「俺は焦らされるのが好きじゃないから、早いとこ覚悟決めてしたほうがいい」

 背に回った手が絶妙なタッチで私の背中を撫でる。ぞくぞくとした甘い痺れが駆け抜けて、ますます思考が鈍くなっていく。

「じゃないと、もっと困ることになると思うし」

「もっと?」

「そう、もっと」

 艶っぽく囁く美形に、こくっと喉を鳴らす。

「ほら、早く。残り10センチもないだろ」

 その通りだ。でも、セカンドキスがこんなシチュエーションだなんて……いや、むしろアリかもしれない。相手が秀ちゃんだと、途端になんだって嬉しくなってしまう私の恋愛脳では、もはや正解なんて分からない。
 硬い指先で、くすぐるように耳の縁を撫ぜられて、頭が霞みがかったように白くなっていく。

「俺に泣かされたいってんなら、このままでもいいけど」

「わ、分かった。する、から……目、閉じて」

「ヤダ」

「お願い、恥ずかしいから」

 私の必死の懇願を、うっとりするような艶を纏った囁き声が、愉しそうに「だーめ」と切り捨てる。

「~~っ、なんで」

「見たいからに決まってるだろ?」

 形のいい唇が動くたびに、甘い吐息が唇にかかる。それが得体の知れない媚薬のようで、五感が彼に支配されていく。

「ほら、早くしろよ。それとも、やっぱり俺に苛められたい? お望みならめちゃくちゃに啼かせてやるけど」

 熱い息が吹きかかるたびに、もうキスをしている気分になっていた。それほどに近い距離で見つめあって、囁きあって。
 浅く乱れた息を吐き出して、涙で滲んだ目で見つめて、彼のTシャツに縋り付いている私は、きっと欲情した女の顔をしてる。

「ほら、早く」

 美形が笑みを深めて、さらにほんの少し顔を近づける。

「真白」

 まるで恋人を呼ぶかのように、甘く掠れた声で乞うように名前を呼ばれて、凶暴なほどの彼の魅力に吸い寄せられるように、

「ん……」

 ――自然と自分から唇を重ねてしまっていた。その甘さと多幸感に身体がふわふわとした喜びでいっぱいになる。

「だめだな。――全然足りない」

 すぐに、大きな掌が私の後頭部に回る。角度を傾げた彼の顔が近づいてもう一度、唇がちゅぷ、と重なる。ちゅ、ちゅ、と唇を何度も何度も重ねられて、心臓が壊れそうな程にドクドクと音を立てる。顔が熱くて息苦しい。焦げ付きそうな程の彼の視線から目を離せない。
 はふ、と息をした瞬間に、ぬるりとした感触が口内に侵入してびく、と固まると、大きな掌が私の頭をゆっくりと撫で回し始めた。節くれだった長い指が耳の横から分け入って、何度も何度も梳くように撫でつける。まるで甘やかすみたいなその仕草にうっとりと力を抜くと、私の舌先だけをチロチロと舐めていた秀ちゃんの厚みのある舌が奥に侵入してきて、舌全体を絡め取られた。

「ん……ッ」

 ねっとりと秀ちゃんの舌が私の舌を余す所なく舐め回す。敏感な粘膜同士を、愛おしむみたいに睦み合わせる。きもちいい。うっとりと蕩けた視線の先に、私を力強く見つめる秀ちゃんの黒い瞳があった。その瞳にぎらつく欲が宿っているのを見て取って、ぞくんっと背筋が甘く痺れる。

「ん、んぅ……は、んっ」

 歯列をなぞられたり、口の中をかき混ぜるみたいにくゅちくちゅ口腔粘膜を舐められたり、舌同士を絡めたり。
 秀ちゃんから施される濃密な口付けに理性なんてあっという間に取り払われてしまった。甘美なキスのきもちよさに、もうどうにでもして欲しいような淫らな気持ちになる。
 10分か、15分か、時間感覚も分からなくなるくらいそのまま大人のキスをたっぷりと施されて。その間、私は蹂躙される気持ちよさにひくひくと震え続け、秀ちゃんに縋り付くことしかできなかった。
 解放されたときには、体の骨が溶けてしまったみたいにくったりと力が抜けて、秀ちゃんにもたれ掛かりながら、ぽぉっとその整った顔を見つめていた。
 濡れて光る唇をぺろりと舐めとった美形が小さく笑った。

「何その顔。もっとして欲しい?」

「ちが、ん……っ」

 ちゅ、ともう一度唇が重なって唇を塞がれる。

「違わないだろ。そんな真っ赤な顔で目うるうるさせて」

「だって、秀ちゃんキス、すごい、上手だから」

「やっぱり、キスのおねだりじゃないか」

「……っ」

 恥ずかしくって顔をうつむける。

「キス、 良かっただろ?」

 そんな事、素直に答えられるわけなくってますますうつむくと、ちゅっとつむじに口付けを落とされた。衝撃に身を強張らせると、ぎゅっと更に私を抱き寄せた彼が熱っぽい吐息と共に囁いた。

「いつでもしてやるから、遠慮なく言えよ」

 そのドロドロに甘い声に『ぎゃー!』と心の中で叫びながら意識を失いそうになってるというのに、男前は再び私の顎に手をかけて、顔を上げさせてきた。

「沈黙は肯定ってことでいいんだよな」

 スリッと親指で私の唇をなぞって。熾烈なまでの官能的な色香を放って笑みを深める美形にときめきと羞恥とが限界点に達した。

「~~っ秀ちゃんのばかぁ」

 半泣きで身を捩って秀ちゃんの手から逃れる。縮こまって体操座りして真っ赤になっているであろう顔を両手で隠した。
 ため息の音が聞こえて、そっと顔を上げると、自分の前髪をくしゃり握って乱した秀ちゃんが、眉間にしわを寄せていた。――明らかに後悔している顔。
 ちらりとこちらを向いた黒い瞳は、先ほどまでの艶っぽさはすっかり鳴りを潜め、完全に冷静さを取り戻していた。いっそ白けたとでもいうように。

「俺、風呂に入って来るわ。真白はここでゆっくりしてろ」

 クッションの上に私を下ろすと、秀ちゃんはお風呂に消えていった。

「……え?」

 えっ、なに、今の。
 もしかして、酔った勢いでしちゃって、冷静になって、後悔している、の?
 先ほどまでのキスで高揚した気持ちから一転、今度は泣きたいくらいの不安が押し寄せてきて、全く頭が動かない。
 ぐるぐる、ぐるぐる同じことを考えては唇に触れて青くなってしまう。
 冷静になったら、イヤだったってこと? うわぁ、妹としちゃったよ、みたいな?
 そんな……恥ずかしいけど、すごく嬉しかったのに!
 最初のキス以外は秀ちゃんからしてきたくせに! しかも、最初のキスも無理やりさせたくせに!
 ぽすっと膝におでこを乗せて、ため息をつく。――もう、訳が分からない。


『ましろ、しゅうちゃんのおよめさんになりたい』

 小さい頃、よく告白しては『ませガキ』とあっさりとフラれていた。いつからか告白することはやめてしまったけど、秀ちゃんのことはずっとずっと好きだった。
 でも、6年の年の差は残酷だった。私が小学校3年生でランドセルを背負ってるときに中学校3年生の秀ちゃんの周りには綺麗で可愛いお姉さんたちが群がっていた。小学校3年生から見た綺麗なお姉さんたちはもう絶対的に敵うはずのない相手で。それに、その頃には自分が特別に可愛い子ではないことは分かっていて。お家に帰ってこっそり涙した。

『ましろ、いい女になるから。それまで待っててね、先にけっこんしちゃダメだからね』

『いや、俺まだ中学生なんだけど』

『とにかく、すぐけっこんしないでね』

『ほんと、ませガキだよな』

『おねがい、しゅうちゃん。おねがい』

『はいはい』

 高校の時の秀ちゃんには年上の綺麗な彼女がいた。大学以降は知らないけど、それでも自分が恋愛対象外のお子様なのだといつも思い知らされてきた。
 眉目秀麗、頭脳明晰、スポーツ万能で面倒見のいい秀ちゃんは男子からも女子からも人気があって、いつも大勢の人の中心にいた。眩しくて、誇らしくて。手が届かなくて、切なくて。でも、諦められなくて。
 たまにこんな私をいいと言ってくれる人もいたけれど、秀ちゃんしか目に入らなかった私は、恋人が欲しいとは全く思わなかった。
 それは、秀ちゃんがニューヨークに行って、2年間全く会えなくっても変わらなかったし、変われなかった。
 でもそれと同じように、秀ちゃんの私への想いが変わるきっかけもこの2年間無かったはずで……。
 彼が去っていったお風呂のドアをじっと眺めてしまう。
 2年ぶりに会った。ただ、それだけ。

「どうして、キスなんて」

 この数週間で、何度となく秀ちゃんとキスをする妄想はしてきた。
 でも、流石の私だって、妄想は妄想だと思ってたわけで。まさか実際に起こるなんて、全く思ってなかったわけで。

「期待してもいいの、かな……」

 でも、それにしては、最後の後悔したような表情が胸に突き刺さる。
 さっきから落ち着かなくて、ワイングラスを持つ手が自然と進んでいる。
 恥ずかしくて、嬉しくて、どきどきして、ぐるぐるして、胸が痛くて。もう何が何だかわからない。
 
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!


処理中です...