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第三話 夏屋敷
しおりを挟む「……眠れない……ここは静かで、波の音しか聞こえないのに」
私がこの夏町に来てから数日か、それとも数か月だろうか、時間の感覚がなくまるで眠れない日々が続いている。
眠ろうとして瞳を閉じても、この夏町が夏の光に照らされているとわかると、どうしても眠れないでいる……
「ここは、あの怪物がいないと薄暗い夜にならないの? どうして命の気配がないの? とても寂しいしことのはずなのに、この静けさがだんだん好きになっている気がする……」
すっかり住み着いてしまっている誰かの家で、私は瞳を開けるしかない。気分が少しだけボーとしている……小首を傾げながら無表情で私を見る美羽に、私は力なく笑って見せる……
「最後にクスリを飲んだのはいつ?」
訊いてくる美羽に、私は何も答えられない。私がどういう存在なのかは、もう誰にも知ってほしくないから……
「訊いてほしくない……お願い……美羽……」
悲しくなんて決してないはずなのに、私の目からは一粒の涙が零れる……
「わかった」
美羽は私を残して外へと出ていく……
追いかけたいけど、体に力が入らず、立ち上がるのも辛い……眠っていないせいもあったが、根本的な原因は決められた時間に飲むはずのクスリを飲んでいないせいだ……
飲まされていたおびただしい数の安定剤が恋しいと思うなんて、本当に最悪だ……
命の気配がない海から聞こえる静かな波の音を聞きながら、私は少しだけ過去を振り返ることにした……
どうせ眠れないし、ちょうどいい暇つぶしだ……
「いいか水上。水上涼葉。今日のことは誰にも言うんじゃないぞ」
無理矢理脱がされた制服に奪われた処女。私は震える自分の体を抱きしめながら、今にも泣きだしたくなるのを堪えるしかない。
「言えばお前が同性愛者だってばらしてやる。小さなケーキ屋の夢も消してやるからな……」
あの日の私の些細な夢は、どこでもいいから小さなケーキ屋を開くこと。私の小さなケーキ屋は格安で、毎日のように子供たちがお小遣いを握りしめてやってくる。エプロン姿の私は自然と笑顔を見せるようになって、店の前にある小さなテラスでは、少し甘いコーヒーをお客様にお出しして、自分らしい笑顔になりたかったのに……
「水上。将来の夢は?」
「ケ、ケーキ屋さん……誰でも気軽に来られるような小さなケーキ屋さん……」
進路指導室で担任の先生に小さな夢を話したら、後はとまらなかった……言葉に飢えていたから……
「調理師の勉強もしています。家ではケーキを焼いたりするけど、食べるのは私だけ。母は夜の仕事のせいでお酒ばかり飲んでいるから……自分で作ったケーキを私だけが食べる……」
寂しいから秘密を打ち明けたんだと思う……
「同じ女が好きです。これは誰にも言わないでくださいね……」
きっと自然に頬を赤らめたんだと思う。担任の先生。あいつは私の弱さを知ると、襲ってきた……
女が好きな私は、ずっと年上の男に支配され、痛くて瞳を強く閉じた……
終わった後は嫌悪感だけが強く残った……自分が男に犯されたとわかったから、後は震えるしかない……泣き出したいのに……できなかった……
「涼葉さん」
暇つぶしが終わり、美羽が帰ってきていた。
「これで元気になる?」
美羽は薬を床に並べ始める。それは風邪薬や頭痛薬に、子供用の咳止めシロップまである。
「私の場合……普通のクスリじゃダメなんだよ……でも、ありがとう……」
私は力なく笑った。私のために行動してくれた美羽のために……
「どれでもいいから飲んでほしい」
どれを飲んでも私は、今すぐにでも気がふれておかしくなりそうだ。
「……この中に私のクスリはないねー……美羽は偉いよ……だからどうもありがとう……」
クスリのないこんな私には、無表情な美羽の頭を一撫ですることしかできない。
「あの人に頼ろう。きっと助けてくれる」
「うふふ……天音は駄目……考えちゃ駄目な存在……」
桜色。桜の匂い。これが天音の匂い。
「外に出ようよ」
美羽は私に肩をかす。私はふらつきながらも外に出るしかない。
外に出るとそこは人の気配がない暑い夏の町。青空を軽く見上げると、私は死にそうになるくらいに苦しくなるのに、どういうわけか笑ってしまう……
「よろしければお助けしますよ。涼葉」
天音がいた。美羽に肩を借りる私をあざ笑っているような笑み……私は睨みつけたいのにそれができないほど弱っている……
「普段飲んでいるクスリがないのは辛いですね」
天音は笑い声を上げる。夏町にて……
「涼葉さんを助けて」
美羽が言葉すると、天音は笑うことを止めて、美羽を見つめているんだと思う……
クスリがない私は今にも意識が消えそうで……夏の暑い地面を見つめるしかない……
「どうして助けたいんですか?」
「……わからないけど……死なせたくない……」
「あー……涼葉の正体から目を背けているんですね……」
「どうでもいい。涼葉さん弱ってる」
「うーん。私の夏屋敷に同じような精神疾患を患う者がいますから、もしかしたらクスリがあるかもしれませんね」
美羽と天音のやり取りだけが聞こえる……
「聞こえていますか涼葉。クスリの飢えは苦しいものでしょ? 夏屋敷でその飢えがどうにかなるといいですね……その後は綺麗な怪物になりましょう……」
視界が真っ白になるのを感じた……
ここは空が暗い? 夜? 私と美羽は薄暗い空の下で、随分と古い橋の上にいた……
「ここが古い屋敷の町。クスリを探そう」
美羽に肩を貸してもらいながら私は屋敷の町を歩くしかない。
「美羽……」
私はもう駄目だと思いながら薄ら笑いを浮かべる中で彼女の名を口にする。
「どうも……ありがとう……私なんかのために……」
私の些細なお礼の言葉に美羽が笑ってくれたのは錯覚だろうか……?
夏屋敷。そこは大中小の古風な屋敷が立ち並んでいた。微かに人の気配がしたから目をやると、屋敷の中からは異形な姿をしたものたちが顔を覗かせている。あの冴島とかいう死刑囚の怪物と似たような姿をしている。私と美羽を襲う気はないようで、ただ物珍しそうな視線で私たちを見ていた。
「さぁ、こちらです。私の夏屋敷へ、心から歓迎しますよ」
天音の声がしたから辺りを見回しても、あの子の姿はない。声遣いもまるで弄ぶかのように聞こえてしまう。
虚ろながら目の前を見ると、そこにはとても大きな屋敷がある。
「行こう。きっと助かる」
美羽に肩を貸されたまま、何の覚悟もなく私たちは天音の夏屋敷へと足を踏み入れる。
夏屋敷の中。無数の灯篭が薄暗い屋敷の中を照らしていて、今にも気を失いそうな私はつい
「……綺麗……」
そう言葉にしてしまう……
「怖くないよ。私も、涼葉さんも」
私に肩を貸しながら美羽は進んでくれる……灯篭の薄暗い光が照らす夏屋敷の中を……
進んだ先は広い大部屋のような場所で、畳の上には無数の布団が敷かれ、その上には弱った異形の怪物たちが、虫の息で横たわっていた……
「……天音……天音……僕の天使……」
「……こんな場所はもう嫌だ……家に帰りたい……」
「……殺してくれ……誰か……」
「……そばにいてくれ……天音……」
襲ってくる気はない異形の怪物たち。今にも死にそうな物ばかりだ。
「……クスリ……クスリ……」
異形の怪物の中で、クスリを欲する物がいた。黒い鞄にグチャグチャになった手を伸ばす怪物。
美羽は私から肩を貸すのをやめて、黒い鞄へと駆け寄る……私はぐったりと畳の上に倒れこむしかない……
「涼葉さん。この鞄の中、クスリがいっぱいある。それと注射器と小瓶も」
「そう……クスリの名前は何……?」
駄目もとで訊いた私……意識が遠くなり……このまま消えるのが怖い……
「レキゾンシンって書いてある」
これはどんな偶然だろうか……? 私が病院で毎日飲んでいた向精神薬がある……
「……今すぐ飲ませて……とても苦しいの……美羽……いい子でしょ……?」
美羽は笑みを浮かべながら私にクスリを持ってくる……
クスリが効いてくるまで、私はぐったりとしながら病院での日々を思い出していた……
「乱暴されたことは、まだ思い出す?」
消毒液の匂いがする病室で私は女の精神科医に診察されていた。
「わからない……夜がきても私は眠りたくない……」
「乱暴された女性の大半は夜が怖くなって眠れなくなるものなのよ」
それが当然だと言わんばかりな診察をする女の精神科医。
「少し強い薬だけど、レキゾンシンを処方する。副作用で嫌な悪夢を見るかもしれないけど、眠れない夜を過ごすよりずっとマシなはずだから」
こんな薬で担任の先生にレイプされた私が前向きになれるはずがないのは、自分でもよくわかっている。
「同じ女が好きなのに、男に犯された私の気持ちが本当にわかる……?」
だから私は男ができた母に学校を退学させられて精神病院送りになった……
心の悲痛な叫びを訴えたのに、女の精神科医は黙々とカルテを書くだけ……
「怖いよ……あいつが私の中に入ってきた……」
もしかしたら子供ができていたかもしれない……きっと私には愛せない子が……考えただけで心が苦しくなり、気がふれておかしくなりそうだ……
「毎日薬を飲みなさい。きっとあなたを助けてくれるから」
女の精神科医が言葉すると、私はおかしくなりそうな中で、一度頷いて見せるしかない……
それからは毎日のようにクスリを飲んだ。レキゾンシンとやらを……
不安や怖さが消えたのは幻のようなもので、実際は薄れただけのものだと思う……
クスリの効果が切れれば、待っているのは耐えがたい苦痛で、立ち上がるのもままならないから、私はレキゾンシンを飲み続けた。
「……夏の夜……涼しそうで綺麗だな……」
自分がいる病室の窓の外をふと見たとき、夏の夜の光景を見て気がついた。私はいつでもこの精神病院から出られることに。
まずは窓ガラスを割る。それはそばにあった来客用の椅子を使って……窓ガラスの破片が部屋中に飛び散る。窓ガラスの向こうには当然のことながら鉄格子が邪魔して出られない……でも音を聞きつけて……
「水上さん落ち着いて!」
女の看護師が施錠された病室のドアを開けて入ってくる。私はレイプされておかしくなった患者だから、男の看護師はまずこない。だからか弱い女程度なら、どうとでもなる。
「先生呼んでよ。本当に助けてほしい……」
私は持っていた窓ガラスの尖った破片で、女の看護師の首を刺していた。
生き苦しそうに床でのたうち回る女の看護師の姿……
私が笑いかけようとしたとき、彼女は事切れた……
「……笑ってあげたかったのに……」
目の前には開けられたままの病室の扉……
どれだけ持つかわからないけど、私は行くことにした。
「何してるの?」
穏やかな表情で廊下に立つ女精神科医に呼び止められた。
「薬を持ってきてあげたから、飲みなさい。飲んだらベッドの上で眠りにつくの。できるわね?」
私の手にはまだ尖ったガラスの破片がある。だから……気がついたら襲い掛かっていた……
殺すつもりはないのに、動かなくなるまでめった刺しにしていた……
持っていたクスリを奪って飲むと、私は涼しい夏の夜へと消えることにした……
久しぶりの外は肌寒い夜の夏で、美しくてとても儚い場所に見えて場違いだから……
だから私には儚さがない夏町があるのかもしれない。
どこまでも続く夏町は、私にいい夢を見させてくれると信じる。
悪夢のような夏屋敷は、きっと私の苦しさを終わらせてくれる。
「……信じてみよう……」
私は笑った……
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