アリサ記念精神病院

天倉永久

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第一話 夏の森。夜の世界

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そこは星明りが照らす夜の森の中だった。僕はしばらく前からボーっとしていたらしく、気が付いた時には不安げに辺りを見回していた。

「どこなんだ……ここ……?」

鈴虫が鳴いているから季節が夏。夏の夜だということだけがわかる。

「俺は……」

自分の名前を忘れてしまいそうな感覚がしたので、僕は慌ててしまう。しかし、どうして知っていて当然の自分の名前を忘れてしまうのか? それは慌てていても不思議なことに思えた。
着ているカッターシャツの胸ポケットには何もない。履いている黒い学生ズボンには、左ポケットには何もなく、右ポケットには財布がある。
僕は財布の中身を見る。きっと自分の名前がわかるどこかのポイントカードくらいあるだろうと思ったけど、あったのは現金と、僕の学生証。楽しさの欠片もない学校生活のことが嫌でも頭の中を駆け巡る。

『穂』

薄青い髪をしたあの子のことまで思い出す始末だ……
牧村穂(まきむらみのる)学生証にはそうある。歳まではわからないが、僕が高校生であることは間違いなさそうだ。

「それにしても……これからどうすんだよ……?」

とりあえず名前を忘れてしまいそうな感覚は消えたが、夜の森の中で僕は途方に暮れてしまう。ここがどこだかもわからないし、見覚えすらない場所にほかならないから……

「歩くしかないよな……」

僕は夏の夜の森を歩くしかない。あてもなく軽く息切れしながら、とにかく歩いていると、赤いレンガ造りの大きな建物が見えてきた。僕はただ無我夢中でレンガ造りの建物へと走る。
赤いレンガ造りの建物の横には木製の看板がある。

「アリサ記念精神病院? アリサ……?」

木製の看板にはそう書かれている。それにしてもアリサって、あの子の好きな絵本の主人公じゃないか……

「お前、俺がその本読んでやらないと、寝なかったよな?」

僕はとある終わった過去を懐かしんでいた。懐かしみながら、病院のドアを開けた。
病院の中へと入ると、僕は生き返る気分になる。暑い夜の外とは違い、ここは空調の風が行き届いていて、とても心地いい気分になれる。

「あの、道に迷ったんですけど、どなたかいませんか……?」

一応夜なので、僕は声を落として言葉する。とりあえず道に迷ったと言えば、ここにいる看護師か医者がきっと助けてくれるだろうと思った。

「ずいぶんと遅い到着だな。もう少しで学校か自宅に連絡を入れるところだった」

白衣を着た背の高い医者が、階段を降りてきたかと思うと、僕に右手を差し出す。とりあえず僕と握手がしたいらしい。

「僕はここの精神科医の氷室。きっと長いつきあいになりそうだから、どうぞよろしく」

「え? あ……牧村穂です」

僕は氷室医師の右手を握って握手する。

「君もとんだ災難だな。停学中の条件がここへのボランティアだなんて」

ボランティア? 停学? 僕には心当たりがない。氷室医師は握手している僕の手を放すと、かなり呆れているかのような態度を見せた。

「君の担当は二階全般。清掃と患者たちへの話し相手。君が知っている外のことをあまり多く話すんじゃないぞ。知られればきっと誰か一人は外に行きたがるだろうから」

どうして僕が外のことを。知っていてあたり前なつまらない日常のこと話してはならないのか? 氷室医師の指図に腹が立った。

「おい! この病院のボランティアなんか知らねぇし! 俺に指図するあんたも気に食わねぇ!」

僕はキレる真似をするしかない。本当はここがどこだか知りたいし、僕が途方に暮れていることを悟られないようにしないと。

「一人で勝手に怒り続けろ。僕はこれから診察で忙しい。怒りが収まったら、誰でもいいから看護婦にエプロンをもらえ」

半ば慌ただしく氷室医師は病院の階段を駆け上がっていく。

「エプロンって何だよ!? 俺は、ままごとなんてしねぇぞ!」

結局途方に暮れた。訳の分からない精神病院で僕は一人取り残されている。
しばらくするとクスクスと笑う看護婦らしき女性たちが僕に近づいてくる。

「ほら、これ」

看護婦の女性は僕に黒いエプロンを手渡す。

「いらねぇよ……」

面倒くささを抑えきれずに僕が黒いエプロンを突き返そうとしても、看護婦の女性は受け取ろうとせずに僕を見つめていた。

「どれだけ拒んでもあなたはここからは逃げられない」

看護婦の女性は言う。とりあえずキレる真似はよして、僕は純粋にこの年上のお姉さんに今現在の僕の心境を伝えたい。

「ここがどこだか教えてください。それから家に帰りたいので、最寄りの駅の道も教えていただければなーっと思います……」

僕の心境を伝えると、ポニーテールをした看護婦さんは鈴虫が鳴く窓の外を指さす。

「ここは森の中にある精神病院。それからここを退院する患者たちが乗る列車はもうすぐ出発する」

列車? 今の時代は電車と呼ぶんじゃないのか?
窓の外。森の奥からは汽笛の音が響いた。

「ふざけんなっ……!」

僕は慌てながら窓の外を開けると、涼しい空調の風が外へと逃げていく。

「あのー、次の電車が明け方だってことは、流石にないですよね……?」

恐る恐るかしこまって僕は看護婦さんに訊くしかない。

「私にだってわからないから困惑するのよ。夜にしか列車は来ないし、それに明け方なんて私にはどうしても思い出せないの」

とにかく列車じゃなくて電車って言葉使えよ。それに明け方を知らないなんて、この人はどうかしているんじゃないのか?

「いい加減に窓を閉めなさい」

「はい……」

明け方を知らないポニーテールの看護婦さんの言うことを僕は聞くしかない。

「とにかくエプロンをつけて二階の掃除をお願い。前の清掃員がいなくなってずいぶん経つからきっと汚れている」

清掃員がいなくなったってどういうことだよ?

「モップとバケツは二階の廊下の隅にあるロッカーにあるから。それとバケツの水はトイレの手洗い場で汲むように。私は氷室先生のお手伝いがあるから、あとはしっかりやりなさい」

看護婦さんは小走りに階段を駆け上がっていく。僕は一人取り残され、黒いエプロンをつけるしかなかった。

「うーわー……」

エプロン姿の僕。大きな鏡で自分の姿を見たわけじゃないが、まるでどこかの喫茶店でアルバイトをしている学生そのものに思えた。
喫茶店は嫌いだ。あの子が外食を嫌ったから、僕も嫌いになった。莉緒のために……

言われた通り僕は二階の隅にあるロッカーから、モップとバケツを取り出して、トイレの手洗い場でバケツに水を入れると、軽く舌打ちをしながら汚れている二階の廊下をモップがけした。

「やっぱ気に入らねぇよ、こんなの……」

僕は我慢できずモップを床に捨てる。停学だのボランティアだの僕にはまるで覚えがないのだから当然だ。僕がこの精神病院でこんな無意味なことをして何になる。
あの命令形の氷室って医者も気に入らないし、ポニーテールの看護婦も明け方を知らないなんてきっとどうかしている。

「めんどくせぇー……家に帰って飯の支度しなきゃならねぇのに……」

あの子が、莉緒がお腹を空かせていると思うと、僕は心が苦しくなって仕方ないのに、こんなわけのわからない精神病院にいる。

「確か夕飯はカレーを作るはずだったのになー……」

莉緒が好きだから週一で僕はカレーを作ってあげていた。

『穂の作るカレー。とても好き。野菜がいっぱいでおいしいね』

小首を傾げて笑ったと思う一人の薄青い髪をした幻想的な少女。今ではどういうわけか顔が思い出せない……美少女で僕は純粋にいつも可愛いと思っていたはずなのに。

『……穂……? 暗くなる……怖い……』

莉緒の涙声だけが、僕の耳を酷く打つ……僕は膝から下に崩れ落ち、両手で頭を抱えた……
頭が痛い……まるで頭の中で無数の虫が這いまわっているかのように、死にそうなくらい痛かった……

「頭が痛くなるのなら、どうしてこうなったの?」

それは聞き覚えのない女の子の声……僕が顔を上げると、白いワンピースを着た見知らぬ金色の髪をした子が不思議そうに僕を見下ろしていた……

「教えてくれれば私の薬をあげる。教えてくれればの話しだけど……」

血のように赤い瞳をした少女はその瞳をうっとりとさせ、小瓶に入った錠剤を僕に向かって見せびらかす。

「……好きだから……」

それだけだ……僕が莉緒を思う気持ちはそれだけ……それだけでいい……

「よくできました。だからご褒美をあげる」

金色の髪をした少女は持っている小瓶の蓋を開けると、中に入っている錠剤を自らの口に入れる。

「お前が飲むのかよ……」

「ひゃんとあげるから」

少女はカールがかかった自分の髪を片手であげると、僕に口づけをし、口移しで薬をくれた。甘い香りのする吐息を一瞬感じた……それだけだ……
これで頭痛から解放されると思ったのに……待っていたのはグニャリと回る世界で……僕は多分泡を吹いたと思う……

「あら、ごめんなさいね。この薬、少し強すぎたみたいね。私がいつも飲んでいる薬だから当然か」

こいつのわざとらしい笑い声が、僕の耳を突き刺すかのように聞こえたのを最後に……僕の視界は真っ暗になった……
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