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第二話 星一つない夜空
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夏の夕暮れの日に僕は学校が終わると、いつものように莉緒が通う中学まで迎えにいった。
「穂。今日もちゃんと終わったよ」
薄青い長い髪と白い夏服が似合う少女。莉緒がいつものように校門の前で僕を待っていた。
「今日も頑張ったな、莉緒。ご褒美に夕飯はカレーにしよう」
「本当?」
「莉緒に嘘なんかつかねぇって」
僕が嬉しそうな莉緒の頭を撫でてあげると、彼女は無邪気な子供のように笑ってくれる。そんな莉緒のことが僕は可愛くて仕方なかった。最初は妹のように思っていたけど、気が付いた時には恋になっていた……
夕暮れの通学路を僕らはいつものように歩く。それは今日学校で起こった出来事を莉緒が楽しそうに話すのがあたりまえの時間。
「算数の問題が少しだけできたんだよ。みんなの前で先生に褒められてちょっと恥ずかしかった」
「莉緒、算数じゃなくて、中学は数学な」
「あ……うん、数学」
別に障害というほどじゃなかったが、莉緒は頭が弱いほうだった。考え方も小学生の低学年みたいなところがあり、莉緒の母親も未来を心配してか彼女を週に何度か精神病院に通院させている。
まぁ、病院にいつも連れ添うのは僕の役目なのだが。
莉緒を自宅へと上がらせる僕。僕の両親は夜遅くにしか帰ってこないし、それはパートで忙しい莉緒の母親も同じだったから、僕はおばさんに頼まれて莉緒の面倒を見るのが日常だった。
「穂……学校……友達出来た?」
僕の家のソファに座る莉緒が心配そうな面持ちでたまにこんなことを訊いてくる。
「俺は莉緒がいればそれでいいよ」
いつもなら曖昧な答えを返す会話なはずなのに、僕は莉緒への恋心を遠回しに答えていた。カレーの材料である野菜を包丁で刻みながら恥ずかしさがこみ上げてくる。だからはぐらかすことにしたんだ……
「今夜寝る前にアリサの絵本読んでやるからな」
きっと恥ずかしさで赤い顔をした僕が後ろを向くと、
「嬉しいなー」
愛らしい笑みを浮かべる莉緒がいつものようにそこにいたと思う……
「……アリサ……? この病院の名前にほかならないが……?」
朦朧とする意識の中で氷室っていうあの医者がペンライトで僕の目を照らしている……
「アリサっていう莉緒の大好きな絵本があるんだ……」
「それはどんな内容の絵本だい? 覚えている部分だけでいい。僕に教えて欲しい」
仕方ない。この医者に教えてやるのも悪くない……
「朝がない森の中で一人で暮らす少女の物語だよ……出てくる仲良しのキツネさんが可愛いんだ……」
「もういい。それだけ喋れるのならきっと大丈夫だ」
氷室はペンライトを僕の瞳から照らすのをやめてくれる。きっとという言葉が少し気になるが、体は大丈夫そうで寝ていたベッドから身を起こすことにした。
「君が飲まされたのはブロマゼバム系の向精神薬だ。ここで処方している患者は優一人だけだから、あとできつく言っておくよ」
きつく言うだけ? こっちは頭がグニャリと……まぁいい。僕にクスリを口移しで飲ませた子の名前がわかった。名前は優。
あの金髪女!
「イラつくのは結構だが、ここでの患者への暴力は許されない。おっと、そろそろ朝食の時刻だ。一緒に行こう。優に飲まされた薬の効果は切れている。それにしても酷い初日だな」
初日もクソもない。その優っていう患者に思い知らせてやるつもりだ。
「俺が絶対泣かせてやるよ! あの女!」
「それは、きっと無理だ」
氷室はどこか呆れた表情で僕を見ていた。
氷室に案内されるがまま、僕は大きな食堂に案内される。
そこでは体の弱った人と言うべきか。それとも精神的に弱った人々がたくさんいるようだった。看護師に呆然と食事を食べさせてもらう人々や、一人だけで食事をする優もいた。
「今朝、夜なんだが朝食はパンケーキか。美味しそうだ」
「ふざけんな」
美味しそうなパンケーキをトングを使って皿に乗せる氷室なんてどうでもいい。
「よぉ! このとおり生きているぜ!」
僕は優が座っている席の向かい側に座る。それも攻撃的に。
「ああ……一粒程度なら死なないよ……それでも過剰摂取なら死ぬけど……」
薄ら笑いを浮かべるこいつに、僕は憤りを感じて仕方ない……!
「それでも、お前がくれた一粒で俺は死にかけたんだぞ!?」
「目の前には生きている君がいる」
笑い出しやがるこの女!
「頭痛はどう? 私のキスのおかげで治った?」
軽いウィンクしながらのこいつの笑いがどうにもこうにも気に入らない……!
「まさかいたずらだったなんて言うなよ……!」
憤りを感じたまま僕が言葉にすると、
「うん。いたずらだよ。まさかあんな頭がおかしくなる薬で、君の頭痛が治るなんて思ってもみなかった」
「そうかよ!」
普段ならいけないことだとわかっているのだが、僕は優が食べているパンケーキの皿を右手を使って床になぎ払う。
皿の割れる音が食堂に響いた。
「これで暴動の首謀者だよ。よくやったね。ここは本当に退屈だから」
優は僕を見つめながらあざ笑う。
「暴動? 首謀者ってなんだよ?」
僕は、僕のことをあざ笑う優をただ訳もわからず見つめ返すしかない。
「さぁ、みんな! ここを壊そう! 今だけは自由な時間を過ごそう!」
優が叫んだ途端に、ここの患者たちが一斉に暴れだす。今まで看護師に従っていた患者たちが一斉に牙をむいた。
「皿の割れる音は耳に響くよね? 心地いい響き方がするものや、そうでない響き方がするものがある!」
優は笑いながらテーブルの上へと立つ。
「私たちはみんなが頭痛をしている! ここの不味い薬を飲み続けてもきっと助からない! それならどうしたらいい? この明けない夜に列車に乗りたい人は? 朝を忘れた私たちにはもう一度思い出す権利がきっとある!」
暴動を起こした患者たちに狼狽える看護師たちは、なだめたりする者や、抵抗する者もいるが、収束の気配がまるでなかった。
「おい! どうすんだよ!?」
「首謀者は君だ。優の朝食を台無しにした君が悪いんじゃないのか?」
唯一助けを求められそうな相手である氷室は呆れた表情で僕を見た。
「こうなった理由は君のせいだろ? 前からわかってはいたが、暴れている連中はここの薬を気に入っていない。鎮静剤の類を与えてもきっと拒まれるだけだ」
だったらどうすんだ? このクソ医者が!
心の中でそう叫んでもこの悪夢のような事態が解決しないとわかっている。
「確証はないが、一つ提案がある。優に謝罪してみるのはどうだ?」
僕があいつに謝罪?
「あはは! ショーをもっと見せて! 不味い薬なんて飽きた私を満足させてよ!」
手をパチパチと叩きながら高笑いを浮かべて、テーブルの上から暴れだす患者たちを見下ろしているかのような優。まるで女王様気取りで見物しているあいつに?
「見ての通り優は人格に問題がある。一定には留まらない妄想を抱いたりして、面白半分で他者を傷つけたりする行動が目立つ患者だ」
僕に口移しで薬を飲ませたのが面白半分かよ……! 憤りを感じながら僕は優を睨みつけると、優も僕の視線に気づいた様子でパチパチと叩く手をやめると、ただ微笑みにも似た薄ら笑いを僕に返すのだった。
「集団ヒステリーにも似たことを先導するのもどうやら得意らしい」
そんなの医者でない僕にも見ればわかる。
あいつの微笑みが気に入らないし、僕に莉緒のことと
『穂。アリサの絵本読んで』
アリサの絵本を思い出させたのがとても許せない……! だから僕は怒りを胸の中に隠して行動に移すことにする。
「優。お前の名前だろ?」
「そうだよ。あなたは穂君」
優は薄ら笑いを浮かべながら小首を傾げた。それはとてもワザとらしい仕草で、これから僕がしようとしていることに見当がついているかのようだった。
「ごめんなさい。謝ります」
怒りを堪えながら僕は優に頭を下げる。心の奥底ではどうやったらこいつを泣かせることができるのか、それは怒りに身を任せて考えている……
「思ったとおり穂君は、私に頭を下げた……だからみんなやめよう!」
優が叫んだらアリサの患者たちは、皆が暴動をやめてくれた。
僕は呆然とし、優を見つめるしかない。僕が感じている怒りはとにかく隠すしかない。
「穂君も私と同じでこの明けない夜がきっと嫌いになる。嫌いになった先で私のようにおかしくなって、心がきっと壊れて後ろを振り向けなくなる……」
明けない夜って何だよ? もうすぐ朝だから窓には日の光が差すだろ?
「君も時計の針を見ればわかるよ」
優は食堂にある古びた柱時計を指さしていた。
時刻はもうすぐ午前十時になろうとしている。それなのに外は暗いままで日の光が差す兆候がない。
「何だこれ? お前が時計の針でもいじったのか?」
優に僕が訊くが、彼女はただ可笑しそうに首を横に振るだけでそれ以上は何も答えようとしない。
「ここでは誰も時計の針をいじろうなんてしない。僕も最後に日の光を見たのは、いつだったか思い出せない」
冷静な氷室先生。今はお前なんてどうでもいい。そんな世界が終わったわけじゃあるまいし……!
僕は食堂を出て走り出す。この病院の外へ……きっと外の世界は明るい日の光が差しているはずだ。
それなのに病院の外は鈴虫の鳴き声が聞こえ、相変わらずそこは涼しい夏の夜の世界が広がっている。
「日の光はどこだよ? ここは何なんだ?」
僕は暗闇に包まれている森を見るしかない。時間の感覚がなくなっていくのがわかる。気が変になりそうだ。
「こんにちは……違う。ここでは、こんばんはだよね」
気が変になりそうな中で、僕は再び出会った。薄青いロングヘアの髪と同じく薄青い瞳をした少女と。彼女は相変わらず夏服のセーラー服がよく似合う。
「莉緒! よかった! お前もここに来ていたのかよ!」
嬉しさのあまり僕は莉緒に駆け寄っていた。大好きで愛している女の子が目の前にいる。こんな見知らぬ精神病院で掃除の仕事をさせられていた僕にとって、莉緒との出会いはこの上なく幸せで仕方ない。
「穂が元気そうでよかった」
元気そう? いや、別に元気じゃないって!
「俺がさっきまでいたあそこの精神病院! 暴動があってさ、頭のおかしな馬鹿女に頭下げたんだから!」
僕はアリサ記念精神病院を指さし、必死で莉緒に訴えていた。空けない夜もそうだし、三つ下の少女に向かってずいぶんと情けないと自分でも感じていた。
「うふふ。そんなに叫ぶ穂は初めてかな?」
莉緒は可笑しそうに静かに笑った。いつも頭の悪そうなことばかり口にして、俺に変な注意をさせるくせに、今の莉緒は妙に大人びて落ち着いているように感じる。
「いい友達もできたみたいだし、私は心から安心しているよ」
莉緒は僕の後ろをただ見つめている。それは言葉のとおり安心しているかのように……
「穂君。誰と話しているの?」
後ろを向くと、優が小首を傾げながら立っていた。それは妖しげな笑みを浮かべながら。
「明けない夜の外には、私と穂君しかいない。きっとそうでしょ?」
訊いてくる優に僕は怒りを覚えるしかない。
「いるだろうがそこに! 俺の大切な人がそこにいるんだよ!」
僕は指さす。それは大切な人に向かって……
「だからどこにいるの?」
「いるだろうが……!」
僕が指さした先には誰もいない。ただ夏虫が鳴き続ける夜の森が永遠と続いているだけだった。
僕は莉緒の幻覚を見ていた……?
「幻覚は私によく頭痛をさせる。どれだけ薬を飲んでも治らないような痛み。それは幻覚の痛みだと自分でもわかっているのに、痛みに身を任せておかしくなる自分がいる。私がその一人のように……頭の中で虫が這っているかのような痛みがする……穂君も同じだね……頭の中に虫がいるから幻覚を見た……」
優の血のように赤い瞳を見つめるしかない僕は……
「自分でもわかってる。頭の中で虫が這っている感覚が……」
明けない夜が続くこの世界とやらの夜空を、呆然と見続けるしかなかった……それは星一つない空虚で綺麗な夜空だった……
「穂。今日もちゃんと終わったよ」
薄青い長い髪と白い夏服が似合う少女。莉緒がいつものように校門の前で僕を待っていた。
「今日も頑張ったな、莉緒。ご褒美に夕飯はカレーにしよう」
「本当?」
「莉緒に嘘なんかつかねぇって」
僕が嬉しそうな莉緒の頭を撫でてあげると、彼女は無邪気な子供のように笑ってくれる。そんな莉緒のことが僕は可愛くて仕方なかった。最初は妹のように思っていたけど、気が付いた時には恋になっていた……
夕暮れの通学路を僕らはいつものように歩く。それは今日学校で起こった出来事を莉緒が楽しそうに話すのがあたりまえの時間。
「算数の問題が少しだけできたんだよ。みんなの前で先生に褒められてちょっと恥ずかしかった」
「莉緒、算数じゃなくて、中学は数学な」
「あ……うん、数学」
別に障害というほどじゃなかったが、莉緒は頭が弱いほうだった。考え方も小学生の低学年みたいなところがあり、莉緒の母親も未来を心配してか彼女を週に何度か精神病院に通院させている。
まぁ、病院にいつも連れ添うのは僕の役目なのだが。
莉緒を自宅へと上がらせる僕。僕の両親は夜遅くにしか帰ってこないし、それはパートで忙しい莉緒の母親も同じだったから、僕はおばさんに頼まれて莉緒の面倒を見るのが日常だった。
「穂……学校……友達出来た?」
僕の家のソファに座る莉緒が心配そうな面持ちでたまにこんなことを訊いてくる。
「俺は莉緒がいればそれでいいよ」
いつもなら曖昧な答えを返す会話なはずなのに、僕は莉緒への恋心を遠回しに答えていた。カレーの材料である野菜を包丁で刻みながら恥ずかしさがこみ上げてくる。だからはぐらかすことにしたんだ……
「今夜寝る前にアリサの絵本読んでやるからな」
きっと恥ずかしさで赤い顔をした僕が後ろを向くと、
「嬉しいなー」
愛らしい笑みを浮かべる莉緒がいつものようにそこにいたと思う……
「……アリサ……? この病院の名前にほかならないが……?」
朦朧とする意識の中で氷室っていうあの医者がペンライトで僕の目を照らしている……
「アリサっていう莉緒の大好きな絵本があるんだ……」
「それはどんな内容の絵本だい? 覚えている部分だけでいい。僕に教えて欲しい」
仕方ない。この医者に教えてやるのも悪くない……
「朝がない森の中で一人で暮らす少女の物語だよ……出てくる仲良しのキツネさんが可愛いんだ……」
「もういい。それだけ喋れるのならきっと大丈夫だ」
氷室はペンライトを僕の瞳から照らすのをやめてくれる。きっとという言葉が少し気になるが、体は大丈夫そうで寝ていたベッドから身を起こすことにした。
「君が飲まされたのはブロマゼバム系の向精神薬だ。ここで処方している患者は優一人だけだから、あとできつく言っておくよ」
きつく言うだけ? こっちは頭がグニャリと……まぁいい。僕にクスリを口移しで飲ませた子の名前がわかった。名前は優。
あの金髪女!
「イラつくのは結構だが、ここでの患者への暴力は許されない。おっと、そろそろ朝食の時刻だ。一緒に行こう。優に飲まされた薬の効果は切れている。それにしても酷い初日だな」
初日もクソもない。その優っていう患者に思い知らせてやるつもりだ。
「俺が絶対泣かせてやるよ! あの女!」
「それは、きっと無理だ」
氷室はどこか呆れた表情で僕を見ていた。
氷室に案内されるがまま、僕は大きな食堂に案内される。
そこでは体の弱った人と言うべきか。それとも精神的に弱った人々がたくさんいるようだった。看護師に呆然と食事を食べさせてもらう人々や、一人だけで食事をする優もいた。
「今朝、夜なんだが朝食はパンケーキか。美味しそうだ」
「ふざけんな」
美味しそうなパンケーキをトングを使って皿に乗せる氷室なんてどうでもいい。
「よぉ! このとおり生きているぜ!」
僕は優が座っている席の向かい側に座る。それも攻撃的に。
「ああ……一粒程度なら死なないよ……それでも過剰摂取なら死ぬけど……」
薄ら笑いを浮かべるこいつに、僕は憤りを感じて仕方ない……!
「それでも、お前がくれた一粒で俺は死にかけたんだぞ!?」
「目の前には生きている君がいる」
笑い出しやがるこの女!
「頭痛はどう? 私のキスのおかげで治った?」
軽いウィンクしながらのこいつの笑いがどうにもこうにも気に入らない……!
「まさかいたずらだったなんて言うなよ……!」
憤りを感じたまま僕が言葉にすると、
「うん。いたずらだよ。まさかあんな頭がおかしくなる薬で、君の頭痛が治るなんて思ってもみなかった」
「そうかよ!」
普段ならいけないことだとわかっているのだが、僕は優が食べているパンケーキの皿を右手を使って床になぎ払う。
皿の割れる音が食堂に響いた。
「これで暴動の首謀者だよ。よくやったね。ここは本当に退屈だから」
優は僕を見つめながらあざ笑う。
「暴動? 首謀者ってなんだよ?」
僕は、僕のことをあざ笑う優をただ訳もわからず見つめ返すしかない。
「さぁ、みんな! ここを壊そう! 今だけは自由な時間を過ごそう!」
優が叫んだ途端に、ここの患者たちが一斉に暴れだす。今まで看護師に従っていた患者たちが一斉に牙をむいた。
「皿の割れる音は耳に響くよね? 心地いい響き方がするものや、そうでない響き方がするものがある!」
優は笑いながらテーブルの上へと立つ。
「私たちはみんなが頭痛をしている! ここの不味い薬を飲み続けてもきっと助からない! それならどうしたらいい? この明けない夜に列車に乗りたい人は? 朝を忘れた私たちにはもう一度思い出す権利がきっとある!」
暴動を起こした患者たちに狼狽える看護師たちは、なだめたりする者や、抵抗する者もいるが、収束の気配がまるでなかった。
「おい! どうすんだよ!?」
「首謀者は君だ。優の朝食を台無しにした君が悪いんじゃないのか?」
唯一助けを求められそうな相手である氷室は呆れた表情で僕を見た。
「こうなった理由は君のせいだろ? 前からわかってはいたが、暴れている連中はここの薬を気に入っていない。鎮静剤の類を与えてもきっと拒まれるだけだ」
だったらどうすんだ? このクソ医者が!
心の中でそう叫んでもこの悪夢のような事態が解決しないとわかっている。
「確証はないが、一つ提案がある。優に謝罪してみるのはどうだ?」
僕があいつに謝罪?
「あはは! ショーをもっと見せて! 不味い薬なんて飽きた私を満足させてよ!」
手をパチパチと叩きながら高笑いを浮かべて、テーブルの上から暴れだす患者たちを見下ろしているかのような優。まるで女王様気取りで見物しているあいつに?
「見ての通り優は人格に問題がある。一定には留まらない妄想を抱いたりして、面白半分で他者を傷つけたりする行動が目立つ患者だ」
僕に口移しで薬を飲ませたのが面白半分かよ……! 憤りを感じながら僕は優を睨みつけると、優も僕の視線に気づいた様子でパチパチと叩く手をやめると、ただ微笑みにも似た薄ら笑いを僕に返すのだった。
「集団ヒステリーにも似たことを先導するのもどうやら得意らしい」
そんなの医者でない僕にも見ればわかる。
あいつの微笑みが気に入らないし、僕に莉緒のことと
『穂。アリサの絵本読んで』
アリサの絵本を思い出させたのがとても許せない……! だから僕は怒りを胸の中に隠して行動に移すことにする。
「優。お前の名前だろ?」
「そうだよ。あなたは穂君」
優は薄ら笑いを浮かべながら小首を傾げた。それはとてもワザとらしい仕草で、これから僕がしようとしていることに見当がついているかのようだった。
「ごめんなさい。謝ります」
怒りを堪えながら僕は優に頭を下げる。心の奥底ではどうやったらこいつを泣かせることができるのか、それは怒りに身を任せて考えている……
「思ったとおり穂君は、私に頭を下げた……だからみんなやめよう!」
優が叫んだらアリサの患者たちは、皆が暴動をやめてくれた。
僕は呆然とし、優を見つめるしかない。僕が感じている怒りはとにかく隠すしかない。
「穂君も私と同じでこの明けない夜がきっと嫌いになる。嫌いになった先で私のようにおかしくなって、心がきっと壊れて後ろを振り向けなくなる……」
明けない夜って何だよ? もうすぐ朝だから窓には日の光が差すだろ?
「君も時計の針を見ればわかるよ」
優は食堂にある古びた柱時計を指さしていた。
時刻はもうすぐ午前十時になろうとしている。それなのに外は暗いままで日の光が差す兆候がない。
「何だこれ? お前が時計の針でもいじったのか?」
優に僕が訊くが、彼女はただ可笑しそうに首を横に振るだけでそれ以上は何も答えようとしない。
「ここでは誰も時計の針をいじろうなんてしない。僕も最後に日の光を見たのは、いつだったか思い出せない」
冷静な氷室先生。今はお前なんてどうでもいい。そんな世界が終わったわけじゃあるまいし……!
僕は食堂を出て走り出す。この病院の外へ……きっと外の世界は明るい日の光が差しているはずだ。
それなのに病院の外は鈴虫の鳴き声が聞こえ、相変わらずそこは涼しい夏の夜の世界が広がっている。
「日の光はどこだよ? ここは何なんだ?」
僕は暗闇に包まれている森を見るしかない。時間の感覚がなくなっていくのがわかる。気が変になりそうだ。
「こんにちは……違う。ここでは、こんばんはだよね」
気が変になりそうな中で、僕は再び出会った。薄青いロングヘアの髪と同じく薄青い瞳をした少女と。彼女は相変わらず夏服のセーラー服がよく似合う。
「莉緒! よかった! お前もここに来ていたのかよ!」
嬉しさのあまり僕は莉緒に駆け寄っていた。大好きで愛している女の子が目の前にいる。こんな見知らぬ精神病院で掃除の仕事をさせられていた僕にとって、莉緒との出会いはこの上なく幸せで仕方ない。
「穂が元気そうでよかった」
元気そう? いや、別に元気じゃないって!
「俺がさっきまでいたあそこの精神病院! 暴動があってさ、頭のおかしな馬鹿女に頭下げたんだから!」
僕はアリサ記念精神病院を指さし、必死で莉緒に訴えていた。空けない夜もそうだし、三つ下の少女に向かってずいぶんと情けないと自分でも感じていた。
「うふふ。そんなに叫ぶ穂は初めてかな?」
莉緒は可笑しそうに静かに笑った。いつも頭の悪そうなことばかり口にして、俺に変な注意をさせるくせに、今の莉緒は妙に大人びて落ち着いているように感じる。
「いい友達もできたみたいだし、私は心から安心しているよ」
莉緒は僕の後ろをただ見つめている。それは言葉のとおり安心しているかのように……
「穂君。誰と話しているの?」
後ろを向くと、優が小首を傾げながら立っていた。それは妖しげな笑みを浮かべながら。
「明けない夜の外には、私と穂君しかいない。きっとそうでしょ?」
訊いてくる優に僕は怒りを覚えるしかない。
「いるだろうがそこに! 俺の大切な人がそこにいるんだよ!」
僕は指さす。それは大切な人に向かって……
「だからどこにいるの?」
「いるだろうが……!」
僕が指さした先には誰もいない。ただ夏虫が鳴き続ける夜の森が永遠と続いているだけだった。
僕は莉緒の幻覚を見ていた……?
「幻覚は私によく頭痛をさせる。どれだけ薬を飲んでも治らないような痛み。それは幻覚の痛みだと自分でもわかっているのに、痛みに身を任せておかしくなる自分がいる。私がその一人のように……頭の中で虫が這っているかのような痛みがする……穂君も同じだね……頭の中に虫がいるから幻覚を見た……」
優の血のように赤い瞳を見つめるしかない僕は……
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