アリサ記念精神病院

天倉永久

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第三話 私は優。優しいという名前……

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診察の時間は午前十時ごろ。そろそろあの子が来る時間だ。

「氷室先生。こんにちは」

莉緒。僕にとって青空のような少女は無垢な笑みを浮かべながら、僕が勤務する病院の診察室の椅子へといつもどおり腰掛ける。

「こんにちは莉緒。調子はどう? 学校は? 勉強のほうは順調かい?」

質問攻めはいけないことだと医学部で散々教えられたことなのに、僕はそうせざるを得ない。理由は目の前の青空のような髪をした莉緒をいつまでも視界に入れておきたいから……

「いつも元気ですよ。学校では笑われてばかり……勉強ができないから……」

勉強ができないからといって笑うのはどうしてだ? 世界は貧しい人や虐げられている人、それに争いごとが絶えず起こっている。莉緒のような無垢な子こそが大切にされるべきなんだと僕は心から感じる。

「もし、僕でよければいつでも莉緒に勉強を教えてあげるよ」

一人の患者に私的な特別な行いを禁ずる。僕が務めるこの病院の規則。これは立派な違反行為。クビになってもおかしくないのに、僕は平然としていた。莉緒のためなら何でもしたいと思って当然だから……

「算数なら穂がいつも教えてくれている。だから大丈夫」

穂ってあいつか。いつも僕の診察が終わるまで待合室に置いてあるくだらないゴシップ誌ばかりを読んでいる気に入らないあいつ……これでは僕の青空が、莉緒が汚れてしまう。莉緒の恋人気取りならよしてくれと心から思う。それにしてももう一つ気に入らないことがある。

「莉緒。算数じゃなくて、君には数学だろ?」

「うん。数学ですよ。穂からもいつも言われているのに覚えられないや……」

穂。どうして莉緒の口からはいつも穂が出てくる? 僕じゃなくてどうして穂なんだ?

「穂は莉緒にとってどんな人?」

怒りに我を失いそうになりながらも、僕は莉緒に問診する。

「好きな人。いつかは穂と一緒になりたい。アリサが暮らした森の中にある小さな家で、穂と二人だけでいつまでも過ごしたい」

アリサ? 何だそれ? ああ、確か莉緒が好きな絵本の主人公だったな……それにしてもどうして僕じゃない? 僕にとって君は青空じゃないか……

「どうして僕じゃないんだ!?」

案の定我を忘れて大声を出せば、莉緒は一瞬にして涙目になる。まさか僕が怖い? そんなはずはない。今までどれほど莉緒の話を聞いてあげた? 僕はすっかり莉緒を愛している。この思いだけは誰にも邪魔させない。それなのに……

「穂!」

莉緒は大声であのガキの名を叫んだ。

「莉緒! どうした!」

大声を聞きつけて診察室のドアをノックなしに開けてくる穂というガキ。

「無作法だな。今は診察中だ」

穂。礼儀知らずな奴だ……どこがいいんだ……?


アリサ記念精神病院に来てから数日ほど経つのか? 相変わらず外は夜の闇に支配されている。だから時間の経過がわからない。これが時差ボケってやつなのか? 海外に行ったことすらない僕には、この頭がおかしくなりそうな感覚がそう思えて仕方ない。

「穂。おい、ちゃんと聞いているのか?」

目の前には氷室医師がいる。モップ片手に僕はボーとしていたらしい。

「え? 何を?」

氷室医師は呆れたようなため息を吐く。

「明けない夜にやられた君のためにもう一度説明してやる」

相変わらず偉そうなやつ。だから好きになれない。

「優は君のことを気に入っているらしい。診察の時も君の話しばかり、だから世話係をよろしく頼みたい」

「優。絶対に嫌だ」

僕は床へのモップがけを始める。あいつの世話係を始めるくらいなら、明けない夜とやらで苦しんでモップがけをしているほうがましだ。

「断るのなら問題を起こしたことにしてやる。あの暴動だ。どうだ? 停学が長引くだけだぞ? それか退学になってここでいつまでも働くことになる。それも低賃金で」

あの暴動は優がここの患者たちの不安定な心を逆なでしただけだと思うのに。それにしても停学なんて本当に心当たりが僕にはない。それに退学になんてなったら莉緒が泣くだけだし、ここで低賃金で雇われ続けるのにもゾッとする。

「なぁ、先生。俺は何をして停学になったんだ?」

「自分で思い出せ。愚か者」

僕は手に持っているモップを捨ててこいつを殴ってやりたい。それかモップで殴りつけようか迷った。

「それか自分の通っていた学校に電話して訊いてみるのはどうだ? 受付にある電話なら好きに使うといい」

去っていく氷室医師。僕は彼の後姿をムカつきながら見ているしかない。モップを握りしめて、こんなダサいエプロンを身に着けている自分に腹が立つ。

「電話って、どうして俺が……」

学校。あんな孤独な場所にどうして僕は電話して、自分が停学になった理由を知らなければならない……?

気が付けば僕はアリサ記念病院の受付にいた。一応空調が効いているようだが、夏の夜の外から、若干の暑さが入ってきているようで、僕は額から流れる汗を若干緊張とともに拭っていた。

「ここでの長電話は禁止されている。患者でないあんたも例外じゃない」

僕に黒いエプロンをくれた張本人であるポニーテールの看護婦は言う。

「気に入ったよ。このエプロン」

「そう。喫茶店にいそうな素敵なアルバイト君みたいでお似合いね」

嫌味なのかお世辞なのかわからない看護婦の言葉に僕は怒りを覚えながらも笑って見せ、受話器を耳に当て僕が通う学校への電話番号を押しながら

「俺の肌の潤いが羨ましいのかよ、ババァ」

看護婦のババァは当然怒った様子だった。僕をずっと見ているのが何だか気に入らなかったから、そんな暴言が不思議と出ただけだ。
それにしてもどうして僕は学校の電話番号なんて知っている? ああ、そうだった……散々ズル休みの電話をしてきたから電話番号も不思議と覚えているんだ……出席日数も散々で、だから進級もヤバかったなぁ……
受話器からは何の音もしない。もういいと思い受話器を置こうとした矢先。誰かが電話に出た。

「牧村穂は不登校気味の生徒で友人はおらず、浮いた存在の学校生活を送り続けていた」

それは知らない男の声だった。どこか背筋を凍り付かせるかのような声。僕は受話器を置けばいいのに、金縛りにあったかのようにそれができないでいる。今いるこの受付に、外の若干の暑さが入ってくるのに妙な気持ち悪さを感じさせる。

「耳を傾けてよく聞き続けなさい。目をそらし続けるよりよっぽどマシだから」

看護婦のババァは言う。僕がいつ何に目をそらし続けたんだ……? 電話の受話器を今すぐ投げ捨てたいが、どういうわけかそれができないんだ……

「孤独な現実で唯一の救いが莉緒と一緒にいること。年下の少女と毎日のようにいるから、陰では嫌な噂ばかりが立った。それでも君は莉緒のために尽くした。眠る前にアリサの本を読んであげたはずだ。古本屋に置いていそうな古い絵本を莉緒が眠りにつくまで読んであげたんだろ? だからきっと魔が差したんだ」

僕は惨めに震えあがるしかない。確かに僕は莉緒に……

「まだ壊れないでよ。穂君はまだここにいるんでしょ?」

誰かが電話機のフックスイッチを押している。目をやれば妖しそうに笑う優がそこにいる。力なく受話器を放し僕は安心感を取り戻していた。

「俺はいつまでもここにはいられない……停学になった理由も知りたいし、莉緒が今どうしているのかも心配で仕方ないんだよ……」

「ここの外に出たって、いつまでも途方なく森が続いている。近くには小さな駅があって時々列車が出ているらしい。それはここを退院した人たちを乗せて」

「その列車はいつ出る?」

藁をもすがる思いで優に訊くのだが、彼女は首を横に振るだけ。

「なぁ、おい! いつだよ!?」

優が駄目なのなら、僕はあの看護婦のババァに訊くことにするのだが、アリサの病院の受付には誰もいない。冷たそうな水の入ったプラスチックカップが淵に水滴を垂らして受付のカウンターに置かれているだけだった。それはさっきまで誰かいた証拠に他ならないはずだ。

「君は独り言が多い人だね」

小首を傾げている優。その口元は笑いを堪えているようだった。

「最初から一人だったのにいったい誰と話していたの?」

「ふざけんなよお前! あの看護婦どこいったんだよ!?」

僕は優に詰め寄った。彼女の両肩を掴み焦ってしまう。状況が不気味に思えて恐怖を感じずにはいられなかった。

「君。私に触ったね。いいよもっと触ってよ」

「お前なんかどうでもいい。俺は莉緒のいる場所に帰りたい。それだけなんだ」

「帰りたいなんて冷たいね。私のことがどうでもいいっていうのも何だか傷つく」

優は着ている白い病院服を自らはだけさすと、誘惑するような笑みを零した。

「触らないなら大声出すよ。そうなれば人がたくさん来て、君の停学がもっと伸びることになる」

こんなイカレタ女の体に興味があってたまるか。いいのはきっと顔だけ。血のように赤い瞳は、僕には不気味で仕方ない。こいつは精神病院にいるのだから、まともじゃないのは確かだ。

「触るかよ。頭のおかしな馬鹿女が!」

僕は吐き捨てて受付の前を去るしかない。

「私がおかしいことなんてわかってる。最初からわかってるから」

普通の女の子なら怒り出してあたり前な言葉を浴びせたのに、優は楽し気な笑い声を上げていた。
僕は受付を後にして、二階の廊下のモップがけを始める。とにかく停学の期間を終わらせるために黙って掃除するしかない。優なんかの世話係なんて死んでも耐えられない気がした。
それしにても受付の看護婦。あのババァ、突然姿を消したというか、いなくなったって感じだ。まだ優に口移しで飲まされた薬が効いている? だとしたら僕は誰もいないのに独り言を? きっと妙な幻覚を見たに違いない。

「穂君」

嬉しそうにした優がいつの間にか僕のそばにいる。まとわりついて離れようとしない蝶々のようだが、毒があることはもうわかっている。

「穂君はどんなことが好き? 私が飲んでいるクスリは合わないみたいだから頭がグルグル回ることには興味ないよね?」

お前が口移しで僕に飲ませたんだ。味わったから当然だろう。そう言葉にしたくてたまらない。
それにしても……

「何が穂君だよ」

モップがけをやめて僕は優を睨みつける。彼女は僕の目を見つめると、次の瞬間には嬉しそうな笑みを見せた。それにしてもその笑みはどこか壊れたもので、やはりクスリによっておかしくなっているのだろうか?

「うふふ、穂君は私のどんなところが嫌い? それとどんなとこが好き?」

血のような赤い瞳をうっとりとさせる優。僕はムカついたから、答えることにする。

「俺を君付けで呼ぶな。あとは、お前が好きじゃない」

これでも怒りを抑えて答えてやったのに。優、こいつは可笑しそうに笑いやがる。

「まさか、誰からも君付けで呼ばれたことがない? 私が初めて? それは悲しい日々を送っていたんだね」

こいつの言う通り、確かに悲しい日々だ。学校じゃ友達は一人もいなくて孤独な日々を送るしかなかった。不登校気味で自分でも惨めに過ごしていた日々の学校生活だけど、それでも唯一の楽しみが僕にはあった。

「心から孤独に殺されそうなとき、君の孤独を知ったかのようにある女の子が話しかけてくれる」

笑い声を上げる優。僕はこいつを怪訝な表情で見つめるしかない。どうしてこいつがあの子のことを知っているのかと……

「ねぇ、アリサのこと聞かせてよ」

声を真似しただけだと感じたのに、優の声はあの子にそっくりだった……それは気が遠くなりそうなくらいに……


夏の夕暮れが差し込む教室で、僕は一人机に座っていた。今日は莉緒のこともおばさんが見ているし、家に帰ってもやることがとくにないので、あとは眠るだけなのが空しかった。こういう日は一人だけでボーとしていたい……

「ね、ねぇ……アリサのお話し聞かせてよ……」

こいつかよ。そう思った瞬間僕はため息をつくしかなかった。白いワイシャツに白いスカートを着たうちの学校の女子。名前こそ知らないが、外見は金色の長い髪をしていて、いつも前髪は目を隠すくらい長かった。どうやら周りからはイジメられているらしく、リストカットでもしているのか? その細く綺麗なはずの白い腕は傷だらけだ。

「ま、牧村君……あ、あのー……アリサのお話を……」

たまに話しかけてきては僕にアリサの話をねだるように聞いてくる。それは聞かせてくださいといわんばかりに。正直こいつのことは好きにはなれないけど、この学校で弱い者同士だから、少しだけ相手をしてやらないでもない。どうせ今日は暇だから。

「アリサって、古い絵本のお話しなのにどうしてお前が知ってる?」

僕が言葉を返したのがよほど嬉しいのか? 彼女は両手を重ねると、僕に詰め寄った。

「こ、この前、あの子に話していた。通学路で。薄青い髪をした子にアリサのお話し聞かせていた。可愛い子だよね。彼女?」

莉緒のことで間違いないだろう。

「優しそうに話すから、あの子が羨ましかった……私もああやって誰かに話されたい……」

嬉しそうな口元と、少しだけ赤くさせる頬。僕と同じで彼女も孤独に殺されそうなんだなっと、そう感じた。

「わ、私、変な子でしょ? 牧村君が嫌に思ったなら……ごめんなさい……」

僕に深々と頭を下げる名前も知らない女子。多分いい子なことは前から薄々と気づいていた。どうせこの教室で二人だけだから、話を聞かせたところで別に恥ずかしいことはないだろう。

「遠い昔にアリサという名前の少女が古い山小屋に住んでいました。アリサは……」

「い、今から私と喫茶店にでも行かない。いや……行きませんか……牧村君がよければだけど……」

せっかく聞かせてやろうと思ったのに、彼女はアリサの話を遮るように僕を喫茶店へと誘ってきた。どこか狼狽えているせいで、金色の前髪に隠れた血のように赤い瞳が露わになる。とても可愛い子だということが理解できたのだけど……

「ごめん。帰らないと」

僕には冷たくあしらうことしかできなかった。鞄を持って教室を後にして、夕暮れの光が差し込む廊下へと出る僕。

「牧村君……! ち、違う……穂君! また明日!」

後ろから名前も知らない女子が叫んでいる。僕は無視して廊下を歩くしかない。
僕を下の名前で呼ぶな。お前みたいに惨めになりたくない。
僕は今の惨めなままがいい。少なくとも莉緒に会えるから……僕は誰もいないお前とは違うんだ……お前の惨めよりマシだ……
あくる日だ。彼女が死んだのは……
どんな状況だったかは知らないが、車に轢かれて死んだらしい……

「……私は優……優しいって意味だよ……」
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