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第三話 こうなった理由
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まだ日が昇らない薄暗いスラム街。こんな時間に目を覚ましているのは、私にとっていつぶりだろうか? そばには眠気のせいでウトウトとしているレユがいる。私の手を何度も放しそうになっても、私が彼女の手を握り返せば、レユはふんわりと笑う。それは眠気を堪えながら……
「地下鉄の電車の中でゆっくり眠れるから、それまで我慢して」
私が言うと、レユは私の手を非力な力で握る。麻薬中毒のせいで力が入らないのか、その手の力はまるで幼い子供のようだった。
薄汚れたスラムの地下鉄の駅。正直ここにはあまりきたくなかった。何年か前まで、ここは廃人の巣窟で、生きる行き先を失った人々で溢れかえっていた……
『……ここは廃人どもの末路だ。お前がどうしても生きていたいなら、クスリになんて手を出すな、こいつらのように何も考えられなくなったら、あとは死を待つだけだからな……』
ここで私はランスに拾われた……
「……お母さん……」
廃人で本当の母親じゃないのに、私に覆いかぶさる女の人から、ランスは私を引きはがしたのを覚えている。
麻薬を売るのに、幼い女の子がいいとあいつが勝手に決めつけていたから……売れなかった日はただ殴られた……
本当の母親じゃないあの人に会いたいと思って、勇気を出してこの地下鉄の様子を見に行こうとしたのに、ボロボロの服から、新しい服を着た私には、すでにどうでもいい人になっていた……
スラムの地下鉄の駅。そこは私の知っている場所じゃない。廃人の人々は誰もおらず、いるのは少し緊張していて、ホッと胸をなでおろしている私と、相変わらずウトウトとしているレユの二人だけ。電車がくるまで少しだけ時間がある。
「ベンチが開いている。少しだけ眠る?」
「うん……そうする……」
人気のないスラムの地下鉄の駅だから、嫌でもベンチは開いているのだが、私とレユが座ったそのベンチは私にとって偶然にも特別な場所だった。
レユはうたた寝をし始める。私は今ではすっかりどうでもいい過去を思い返す。
『……あなたどうしたの……? ボロボロじゃない……』
両親に捨てられて、まだ幼かった私はどうやってこの地下鉄にきたのかもうろ覚えで、裸足の足がただ痛くてこのベンチに座っていた。偶然隣に座っていた浮浪者の女性が心配そうに私に声をかけてきたが、あの日の幼い私はなぜか地下鉄の薄汚い床だけを見つめていた。多分、両親の住む家に帰りたいから拗ねていたんだと思う。
「これ食べて」
浮浪者の女性が渡してくれたのは、少し硬くなったパン。空腹だった私は喜んでかじりついていた。
「ここで待っていて、いい? 私が戻るまで待っているのよ」
あの日、硬いパンに夢中になりながらも、一度だけ頷いたのを私は微かに覚えている。パンをかじりながら辺りを見回すと、まるで人の気配のない人たちがそこらかしこにいるのに私は気が付いた。硬いパンをベンチに置いて、人の気配のない人たちに私は話しかけていた。
「あの、こんにちは、私はアイル……」
誰も私に話し返してくる人はいない。
後になって知った。この人たちが廃人と呼ばれる人たちであることを……スラムに蔓延するクスリのせいでそうなってしまったことを……教えてくれたのはランスだ……
「待っていてって言ったでしょ? ここで生きられるほどあなたは強くないの……!」
戻ってきた浮浪者の女性は私を抱きしめる。それは大人とは思えない力のなさで……
「これからは私が守ってあげる。もう何も心配しなくていいのよ」
女性は二足の薄汚れた靴を私にくれた。裸足で足が痛かったから、とても嬉しくてあの日は久しぶに一人の子供らしく喜んでいた。
「あの、ありがとう」
それからも名前も知らない浮浪者の女性は私の面倒を見てくれた。ある日は私に合いそうな服を拾ってきてくれたが、結局はぶかぶかで二人して笑った。私はぶかぶかの服をそのまま着ることにした。
「お母さん。おかしい?」
「おかしくない。とても美人よ」
そう言いながらお母さんは楽しそうに笑う。ぶかぶかの服を着ていれば二人して笑顔になれる。それにこの人は私を決して殴ったり、罵倒することがないから心から安心できた。私の本当の母親が最低で、いつも虫の居所が悪ければ私を殴った。だから私はこの優しい浮浪者の女性を不思議とお母さんと呼んでいたのかもしれない……
「今日はゴミ捨て場に缶詰が捨てられていたよ。アイルの好きなフルーツの缶詰」
捨てられたものでもフルーツの缶詰が好きな私。お母さんと二人で食べる缶詰がとてもごちそうだった。
あの日が、最後に私が心から笑った日だったと思う。まだ幼い私がお母さんのほんの些細な秘密を、後からして知ったから……
「気が付けばいいの……気が付いたら、視界に娘の姿が浮かぶの……間違っているとわかっているのに……死んだ娘の姿に私は満足している……」
お母さんは麻薬が好きだった。それも質の悪い麻薬であるリエルが……
「あの……お母さん、私は生きているよ……」
お母さんが望んでいるのは、死んだ本当の娘のことだと知らず、生きている偽物の娘の私は空しくお母さんに両手を伸ばしていた……
「ごめんなさい……アイルことじゃないの……」
お母さんはリエルのせいで、地下鉄の暗闇に向かってもう存在することのない娘との会話を楽しんでいる……
「あなたがお墓に埋められたときは、それは気が遠くなりそうで……悲しくて……」
あの日幼かった私は、呆然とお母さんの姿を見ていることしかできない……
「違う、違う。お墓になんて埋まっていなかったわね? 今は都会の学校にいるんでしょ? いっぱい勉強して、偉くなって私をむかえに来てくれる。きっとそうでしょ?」
存在しない本当の娘が頷いたか、それとも幻覚の言葉に耳を傾けたのか、お母さんはとっくに失っている存在との会話を楽しんでいる……それはリエルのせいで……
「アイル……ごめんなさいあと少しだけでいいから……幻覚を楽しみたい……それだけだから……」
死んだ娘じゃない偽物の娘である私をそっと抱きしめるお母さん。そっと抱きしめられて、お母さんの悲しみが暖かく幼い私に流れ込んでくるのを感じた……それは悲しさに溢れていても、きっと優しいものだと私は知ったのに……
「本当の母じゃなくてごめんなさい……」
お母さんは私に覆いかぶさるように地下鉄の床に倒れる……
「寒い季節がくるから……今夜だけでも温まって……」
ただ、ぬくもりを感じただけなのに、不思議と私は眠かった……
「……愛してる……愛しているのに……どうしてこんなに怖いんだろう……」
私に覆いかぶさり動かなくなったお母さん……きっと朝になれば、また捨てられた缶詰を拾ってきて、二人で幸せそうに食べる……そんな些細な日があたり前だと思ったのに、お母さんはリエルのせいで死んだ……
「おい、ピンク髪のガキが! 聞いているのか?」
あのとき何度か目の前で、ランスに指を鳴らされて、私はハッと我に返るが、次の瞬間には、お母さんを失った悲しみが私を襲ったから、涙がボロボロと出てしまう。
「お前……綺麗にすれば使えそうだな……いいか? 俺の売り物のリエルに手を出して死んだこの女の償いをしろ」
まだ初対面であるランスは私をどこか意味深に見つめるから、私は怖くて震えあがってしまう……
「警察署の留置所で温かいシャワーを浴びさせてやるから、俺の言いなりなれ、拒んだらバケツいっぱいの冷たい水を、俺が頭からかけてやる」
こんなやつの言いなりなんて嫌だから、私はボロボロと泣きながら、首を何度も横に振っていた……
「言っとくが、お前に覆いかぶさって死んだこの女は最低だ。リエルですっかりおかしくなって、自分の娘を殺したんだぞ?」
ランスは小馬鹿にしたような口調で話し始める。お母さんが実の娘の首を絞めて殺したことや、ランスが嘘の報告をして無罪放免にしたこと。そしてリエルの売人にしようとしたが、売り物に手を出すばかりで商売にならなかったこと。
「馬鹿だったよ、リエルの中毒者なんかあてにしたから」
私はボロボロと出る涙を何度も手で拭うと、ただランスを見る。思えば憎しみという感情を初めて知ったときだった。
「あなたは人じゃない……あなたみたいな悪魔がいるから……」
馬鹿な子供だったから、それ以上言葉が出なかったのを覚えている。それでも人であることを否定され、悪魔呼ばわりしたことは、ランスを怒らせるのに十分だった。
「バケツの水で綺麗にしてやる。来い!」
ランスは幼い私でも容赦しなかった。スラムの寒空の下でバケツに溜まっていた冷たい水を頭からかけられて、私は凍えた。警察署の留置所にしばらくの間だけ保護されることになったが、凍えたせいで高熱を出して留置所の汚いベッドの上で横になり続けるしかなかった。
「俺のいいなりになるか? なるんなら温かい食事を食わせてやるし、熱に効く薬も与えてやる。ちゃんとした薬だ。俺からしてみれば、スラムのガキにまともな薬なんて勿体ないが」
高熱でずっと食事を与えられてなかった私は……ランスの言いなりになるしかなかった……拾われてリエルを売るしかない……お母さんを殺した麻薬を……それ以外に生きていくすべがなかったから……
だから今もこうして生きている。
「レユ。そろそろ電車がくるよ」
私が隣を向けば、いるはずのレユがいない。どうでもいい思い出にふけりすぎたせいか、うたた寝をしていたレユがいない。
「レユ!」
いつまでも一緒にいてって約束したのに、私はこのざま。レユを呼ぶ私の声だけが暗い地下鉄に響くだけ。
「……死ぬのが怖い……?」
暗い地下鉄の奥のほうで確かにレユの声がする。私から逃げたわけじゃない? 私は暗い地下鉄を歩いた……
「……私も怖い……だっていつまでも暗闇が続くから……」
そこは地下鉄の片隅で、消えかかっていたランタンが置かれている。ランタンを置いたとみられる人物は、私が見る限り廃人にほかならなかった。レユを見つけて安心したのはいいが、彼女は言葉を忘れた廃人に向かって、語り掛けている。
「アイルやランスっていう人と出会えて、今は嬉しい。ただ一緒にいたいだけ……」
「ここに廃人なんてまだいたんだ。それも誰かに看取られる廃人なんて……」
この地下鉄で廃人の姿を見た私は物珍しく見入ってしまう。仕事柄、何人もの廃人を見てきたが、誰かに看取らる廃人は初めてだった。麻薬に溺れて死んでいくのが廃人の在り方で、死にかけていても無視されるのがこのスラム街の常識だ。
「アイル。この人は死んでどこにいくのかな……?」
レユに向かって震えた力ない汚れた手を伸ばす廃人の人。
「ほら、死にかけだよ。ほっときなよ」
「そんなの嫌……」
レユにその汚れた手を握り返された途端に、廃人の人はまるで安心したかのようにこの世を去ったかのようだった。
「アイルが死んだらどこにいくの?」
それは目の前で死んでいった廃人の影響なのか? レユは唐突にそんな質問をしてくる。
「知らないけど……私がもし死んだら、そこは私が好きになった人と、もう一度だけ出会える世界だと思う……いや違う……夢を見続ける場所かな……?」
正直、死んだ先のことなんて考えたことがなかったから、私はレユに曖昧なことしか言えない。
リエルを売って悪いことばかりしている私が、死んだあといい世界にいけないのは、心の片隅でどこか知っていた。
「レユは? もし死んだ先があるなら、そこはどんな世界だと思う?」
死後のことなんてわからない私は、まるでごまかすかのように年下のレユに訊いていた。情けないと自分でもわかっていたが……私は不思議と答えを知りたい……
「アイルを見守るよ。いつまでも一緒にいたいって心から思うから……だって、本当は優しいんでしょ?」
私は、自分が優しいと思ったことは一度もない……それでもレユの言葉が嬉しいと思った……
「私は優しくなんてないけど……」
悪徳警官のランスに従ってリエルを売りさばき、儲けのいい夜には豪遊したことだってある。その陰でリエルの中毒者のことは考えたこともなく、私を抱いてくれる男の子と深いキスをして、女である喜びを感じていた……
すぐ目の前で死んでいる廃人を増やしているのは、薬物を横流しするランスと、それを売る私にほかならない……
「この死んだ人は、このままにはしておけないのかな……?」
それはどの口が言えたことなのだろうか? ドラッグディーラーの私が廃人で死んだ人に使う言葉じゃない……それは私のような者からクスリを買って、死んでいったのだから……
「大切な誰かを、あなたは見守っているんですか?」
レユは廃人で死んだ人を物珍しそうに見つめて言う。それも自分の赤い瞳をうっとりとさせながら……
そんなレユの姿に私はあらためて気づく、この子が麻薬中毒者で、もう後戻りできないくらい頭の中がおかしいことに……
「見守っているあなたはどうしています? そこはどういう世界ですか? 幸せな世界ですか? もし、その世界から見えるあなたの大切な人が酷い目にあっていても見守り続けるんですか……?」
レユは答えてよといわんばかりに、死んでしまった廃人の人に語り掛け続ける……
「もうやめよう。この人が大切な人を見守り続けている世界にいるのなら、そっとしといてあげよう」
私は地下鉄の捨てられていたボロボロの布切れを、死んでしまった廃人の人にかぶせる。お母さんもよくこうやって廃人の人を見送ったのを覚えている……微かにこう言ったのも……
『いい夢を見るだけだから……あとはゆっくりと眠ればいい……』
もう二度と目覚めることはないと、あの頃の幼い私は理解していたのに、そんな言葉が不思議と出てしまう。
「夢か……私も夢の中にいるのかな……」
レユは小首を傾げて笑う。私は、それは違うと彼女をなだめるしかなかった……
「……私といるだけだから……」
私は優しさぶって、レユの手を握るしかない……
「地下鉄の電車の中でゆっくり眠れるから、それまで我慢して」
私が言うと、レユは私の手を非力な力で握る。麻薬中毒のせいで力が入らないのか、その手の力はまるで幼い子供のようだった。
薄汚れたスラムの地下鉄の駅。正直ここにはあまりきたくなかった。何年か前まで、ここは廃人の巣窟で、生きる行き先を失った人々で溢れかえっていた……
『……ここは廃人どもの末路だ。お前がどうしても生きていたいなら、クスリになんて手を出すな、こいつらのように何も考えられなくなったら、あとは死を待つだけだからな……』
ここで私はランスに拾われた……
「……お母さん……」
廃人で本当の母親じゃないのに、私に覆いかぶさる女の人から、ランスは私を引きはがしたのを覚えている。
麻薬を売るのに、幼い女の子がいいとあいつが勝手に決めつけていたから……売れなかった日はただ殴られた……
本当の母親じゃないあの人に会いたいと思って、勇気を出してこの地下鉄の様子を見に行こうとしたのに、ボロボロの服から、新しい服を着た私には、すでにどうでもいい人になっていた……
スラムの地下鉄の駅。そこは私の知っている場所じゃない。廃人の人々は誰もおらず、いるのは少し緊張していて、ホッと胸をなでおろしている私と、相変わらずウトウトとしているレユの二人だけ。電車がくるまで少しだけ時間がある。
「ベンチが開いている。少しだけ眠る?」
「うん……そうする……」
人気のないスラムの地下鉄の駅だから、嫌でもベンチは開いているのだが、私とレユが座ったそのベンチは私にとって偶然にも特別な場所だった。
レユはうたた寝をし始める。私は今ではすっかりどうでもいい過去を思い返す。
『……あなたどうしたの……? ボロボロじゃない……』
両親に捨てられて、まだ幼かった私はどうやってこの地下鉄にきたのかもうろ覚えで、裸足の足がただ痛くてこのベンチに座っていた。偶然隣に座っていた浮浪者の女性が心配そうに私に声をかけてきたが、あの日の幼い私はなぜか地下鉄の薄汚い床だけを見つめていた。多分、両親の住む家に帰りたいから拗ねていたんだと思う。
「これ食べて」
浮浪者の女性が渡してくれたのは、少し硬くなったパン。空腹だった私は喜んでかじりついていた。
「ここで待っていて、いい? 私が戻るまで待っているのよ」
あの日、硬いパンに夢中になりながらも、一度だけ頷いたのを私は微かに覚えている。パンをかじりながら辺りを見回すと、まるで人の気配のない人たちがそこらかしこにいるのに私は気が付いた。硬いパンをベンチに置いて、人の気配のない人たちに私は話しかけていた。
「あの、こんにちは、私はアイル……」
誰も私に話し返してくる人はいない。
後になって知った。この人たちが廃人と呼ばれる人たちであることを……スラムに蔓延するクスリのせいでそうなってしまったことを……教えてくれたのはランスだ……
「待っていてって言ったでしょ? ここで生きられるほどあなたは強くないの……!」
戻ってきた浮浪者の女性は私を抱きしめる。それは大人とは思えない力のなさで……
「これからは私が守ってあげる。もう何も心配しなくていいのよ」
女性は二足の薄汚れた靴を私にくれた。裸足で足が痛かったから、とても嬉しくてあの日は久しぶに一人の子供らしく喜んでいた。
「あの、ありがとう」
それからも名前も知らない浮浪者の女性は私の面倒を見てくれた。ある日は私に合いそうな服を拾ってきてくれたが、結局はぶかぶかで二人して笑った。私はぶかぶかの服をそのまま着ることにした。
「お母さん。おかしい?」
「おかしくない。とても美人よ」
そう言いながらお母さんは楽しそうに笑う。ぶかぶかの服を着ていれば二人して笑顔になれる。それにこの人は私を決して殴ったり、罵倒することがないから心から安心できた。私の本当の母親が最低で、いつも虫の居所が悪ければ私を殴った。だから私はこの優しい浮浪者の女性を不思議とお母さんと呼んでいたのかもしれない……
「今日はゴミ捨て場に缶詰が捨てられていたよ。アイルの好きなフルーツの缶詰」
捨てられたものでもフルーツの缶詰が好きな私。お母さんと二人で食べる缶詰がとてもごちそうだった。
あの日が、最後に私が心から笑った日だったと思う。まだ幼い私がお母さんのほんの些細な秘密を、後からして知ったから……
「気が付けばいいの……気が付いたら、視界に娘の姿が浮かぶの……間違っているとわかっているのに……死んだ娘の姿に私は満足している……」
お母さんは麻薬が好きだった。それも質の悪い麻薬であるリエルが……
「あの……お母さん、私は生きているよ……」
お母さんが望んでいるのは、死んだ本当の娘のことだと知らず、生きている偽物の娘の私は空しくお母さんに両手を伸ばしていた……
「ごめんなさい……アイルことじゃないの……」
お母さんはリエルのせいで、地下鉄の暗闇に向かってもう存在することのない娘との会話を楽しんでいる……
「あなたがお墓に埋められたときは、それは気が遠くなりそうで……悲しくて……」
あの日幼かった私は、呆然とお母さんの姿を見ていることしかできない……
「違う、違う。お墓になんて埋まっていなかったわね? 今は都会の学校にいるんでしょ? いっぱい勉強して、偉くなって私をむかえに来てくれる。きっとそうでしょ?」
存在しない本当の娘が頷いたか、それとも幻覚の言葉に耳を傾けたのか、お母さんはとっくに失っている存在との会話を楽しんでいる……それはリエルのせいで……
「アイル……ごめんなさいあと少しだけでいいから……幻覚を楽しみたい……それだけだから……」
死んだ娘じゃない偽物の娘である私をそっと抱きしめるお母さん。そっと抱きしめられて、お母さんの悲しみが暖かく幼い私に流れ込んでくるのを感じた……それは悲しさに溢れていても、きっと優しいものだと私は知ったのに……
「本当の母じゃなくてごめんなさい……」
お母さんは私に覆いかぶさるように地下鉄の床に倒れる……
「寒い季節がくるから……今夜だけでも温まって……」
ただ、ぬくもりを感じただけなのに、不思議と私は眠かった……
「……愛してる……愛しているのに……どうしてこんなに怖いんだろう……」
私に覆いかぶさり動かなくなったお母さん……きっと朝になれば、また捨てられた缶詰を拾ってきて、二人で幸せそうに食べる……そんな些細な日があたり前だと思ったのに、お母さんはリエルのせいで死んだ……
「おい、ピンク髪のガキが! 聞いているのか?」
あのとき何度か目の前で、ランスに指を鳴らされて、私はハッと我に返るが、次の瞬間には、お母さんを失った悲しみが私を襲ったから、涙がボロボロと出てしまう。
「お前……綺麗にすれば使えそうだな……いいか? 俺の売り物のリエルに手を出して死んだこの女の償いをしろ」
まだ初対面であるランスは私をどこか意味深に見つめるから、私は怖くて震えあがってしまう……
「警察署の留置所で温かいシャワーを浴びさせてやるから、俺の言いなりなれ、拒んだらバケツいっぱいの冷たい水を、俺が頭からかけてやる」
こんなやつの言いなりなんて嫌だから、私はボロボロと泣きながら、首を何度も横に振っていた……
「言っとくが、お前に覆いかぶさって死んだこの女は最低だ。リエルですっかりおかしくなって、自分の娘を殺したんだぞ?」
ランスは小馬鹿にしたような口調で話し始める。お母さんが実の娘の首を絞めて殺したことや、ランスが嘘の報告をして無罪放免にしたこと。そしてリエルの売人にしようとしたが、売り物に手を出すばかりで商売にならなかったこと。
「馬鹿だったよ、リエルの中毒者なんかあてにしたから」
私はボロボロと出る涙を何度も手で拭うと、ただランスを見る。思えば憎しみという感情を初めて知ったときだった。
「あなたは人じゃない……あなたみたいな悪魔がいるから……」
馬鹿な子供だったから、それ以上言葉が出なかったのを覚えている。それでも人であることを否定され、悪魔呼ばわりしたことは、ランスを怒らせるのに十分だった。
「バケツの水で綺麗にしてやる。来い!」
ランスは幼い私でも容赦しなかった。スラムの寒空の下でバケツに溜まっていた冷たい水を頭からかけられて、私は凍えた。警察署の留置所にしばらくの間だけ保護されることになったが、凍えたせいで高熱を出して留置所の汚いベッドの上で横になり続けるしかなかった。
「俺のいいなりになるか? なるんなら温かい食事を食わせてやるし、熱に効く薬も与えてやる。ちゃんとした薬だ。俺からしてみれば、スラムのガキにまともな薬なんて勿体ないが」
高熱でずっと食事を与えられてなかった私は……ランスの言いなりになるしかなかった……拾われてリエルを売るしかない……お母さんを殺した麻薬を……それ以外に生きていくすべがなかったから……
だから今もこうして生きている。
「レユ。そろそろ電車がくるよ」
私が隣を向けば、いるはずのレユがいない。どうでもいい思い出にふけりすぎたせいか、うたた寝をしていたレユがいない。
「レユ!」
いつまでも一緒にいてって約束したのに、私はこのざま。レユを呼ぶ私の声だけが暗い地下鉄に響くだけ。
「……死ぬのが怖い……?」
暗い地下鉄の奥のほうで確かにレユの声がする。私から逃げたわけじゃない? 私は暗い地下鉄を歩いた……
「……私も怖い……だっていつまでも暗闇が続くから……」
そこは地下鉄の片隅で、消えかかっていたランタンが置かれている。ランタンを置いたとみられる人物は、私が見る限り廃人にほかならなかった。レユを見つけて安心したのはいいが、彼女は言葉を忘れた廃人に向かって、語り掛けている。
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「ここに廃人なんてまだいたんだ。それも誰かに看取られる廃人なんて……」
この地下鉄で廃人の姿を見た私は物珍しく見入ってしまう。仕事柄、何人もの廃人を見てきたが、誰かに看取らる廃人は初めてだった。麻薬に溺れて死んでいくのが廃人の在り方で、死にかけていても無視されるのがこのスラム街の常識だ。
「アイル。この人は死んでどこにいくのかな……?」
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「知らないけど……私がもし死んだら、そこは私が好きになった人と、もう一度だけ出会える世界だと思う……いや違う……夢を見続ける場所かな……?」
正直、死んだ先のことなんて考えたことがなかったから、私はレユに曖昧なことしか言えない。
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「私は優しくなんてないけど……」
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すぐ目の前で死んでいる廃人を増やしているのは、薬物を横流しするランスと、それを売る私にほかならない……
「この死んだ人は、このままにはしておけないのかな……?」
それはどの口が言えたことなのだろうか? ドラッグディーラーの私が廃人で死んだ人に使う言葉じゃない……それは私のような者からクスリを買って、死んでいったのだから……
「大切な誰かを、あなたは見守っているんですか?」
レユは廃人で死んだ人を物珍しそうに見つめて言う。それも自分の赤い瞳をうっとりとさせながら……
そんなレユの姿に私はあらためて気づく、この子が麻薬中毒者で、もう後戻りできないくらい頭の中がおかしいことに……
「見守っているあなたはどうしています? そこはどういう世界ですか? 幸せな世界ですか? もし、その世界から見えるあなたの大切な人が酷い目にあっていても見守り続けるんですか……?」
レユは答えてよといわんばかりに、死んでしまった廃人の人に語り掛け続ける……
「もうやめよう。この人が大切な人を見守り続けている世界にいるのなら、そっとしといてあげよう」
私は地下鉄の捨てられていたボロボロの布切れを、死んでしまった廃人の人にかぶせる。お母さんもよくこうやって廃人の人を見送ったのを覚えている……微かにこう言ったのも……
『いい夢を見るだけだから……あとはゆっくりと眠ればいい……』
もう二度と目覚めることはないと、あの頃の幼い私は理解していたのに、そんな言葉が不思議と出てしまう。
「夢か……私も夢の中にいるのかな……」
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辺境の地で魔物からの脅威に領地を守りながら、過ごした12年間。その生が終わった筈だったけど…雨。その日に辺境伯が連れて来た赤ん坊。「セリュートとでも名付けておけ」暫定後継者になった瞬間にいた、私は赤ちゃん??
私が、もう一度自分の人生を歩み始める物語。給水係と呼ばれる水魔法でお悩み解決?
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