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第八話 白い夜
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私がこんな風になったのはいつからだっただろう? 微かに思い出せるのは孤児院と、怖い男の人たち、それだけだ。
「レユ。まぁ、お金ならあるんだし、ダラダラしようよ」
「うん」
アイルはスラムにある公園の壊れた噴水の前で、両手を広げながら仰向けになって、相変わらずのそのどこか寂し気な瞳でほんの少し冷たそうな青空、夏から秋に変わろうとしている青空を見つめている。
「お昼はまたパンケーキにする? 苺が添えられてるパンケーキ。好きでしょ?」
ほぼ毎日のようにお昼は寂れたレストランで苺が添えられているパンケーキを食べている。私は正直飽きていたけど、アイルが食べたいのならそれでいい。
「よっと」
少し冷たそうな青空を見つめていたアイルは起き上がる。
「最近暇だよね。ランスはなんだか大人しくなって気味が悪いし」
アイルはランスのことをよく思っていないかもしれないが、私はランスのことが好きだ。リエルをアイルに売らせていることは悪いことだと思うけど、それでも実は誰かに優しくできるいい心を持っている人だと私は思う。
「食べていくのにしばらく困らないお金はあるけど、こう暇だとなんだか滅入るな……」
都会の街にある古い屋敷でアイルはすごい数のリエルを売ったから、お金には困っていないが、仕事がない現実はアイルをちょっとした抜け殻にしたようだった。
「お昼のパンケーキが楽しみだよ。アイルと二人で楽しい食事ができるから」
「少し早いけど、食べに行く?」
「うん。お腹空いた」
嬉しそうに笑うアイルに手を繋がれ、私たちは寂れたレストランへと歩き出す。本当はお腹なんて空いていない。すっかり飽きているパンケーキより私には欲しいものがある。それはアイルが持っているリエル。私は液体の麻薬ですばらしい世界を見た。
そこは白い夜の世界で、白い空からはまるで冷たさを感じない雪が降り続けている。この白い世界にいつまでもいたいのに、クスリがないから私は存在できない。だから安物でもいい。リエルが一つ欲しいと頼めばいいのに……それができない……アイルに嫌われたくないから……
「レユ?」
気が付けばアイルが寂れたレストランでパンケーキを食べようとしていた。いつの間にここに来たのか思い出せない……微かに思い出せるのは白い夜の世界と、クスリへの欲求だけ。もうずっと止めているはずなのに、苦しくて仕方がない……
「美味しそうだね」
無理に笑顔を作って、パンケーキに添えられた苺を一口食べると、私の少し早いお昼は終わる……
お腹は空いていない……それよりアイルが持っている私が欲しいものをください……なんでもしますから……
「全然食べてないよ? 気分でも悪い?」
悪いよ……アイルが持っているリエルをくれれば良くなるかも……
それは駄目……アイルがきっと悲しそうにするから……だからクスリは嫌なはずだ……
「どうしてだろう……私は苺だけでお腹いっぱい……」
意識が遠くなるのを感じる……気が付けば白い夜の世界にいる私……冷たくない雪がいつまでもゆっくりと降り続ける世界……誰かの優しさも、手を差し伸べてくれる誰かもいないのに、私は白い夜の世界にて座り込んでしまう……ここには私以外誰もいないのに、不思議と寂しさを感じない……いや、感じられないのかもしれない……
「……幸せの場所……」
言葉にした途端。目が覚めた……少しだけ目眩がするけど、それだけ……
「……知ってるだろ……最後が近い……」
目眩がするなかでランスの声がする……いつも会えて嬉しい人……本当は優しい人だと知っているから嬉しいのかな……? それにしても、誰の最後が近いんだろう……?
「……嘘だよ……だって、寂しくさせないって……」
取り乱すアイルが瞳にぼんやりと映る……まさか泣いているの? 寂しくさせないと私は誓った……だから泣かないで……
「どうすればいいの……? また一人で暮らすの? そんなの寂しいよ……!」
目眩が少しだけ消えていく中で……アイルの悲痛そうな叫びが確かに聞こえた……
「これは罪だ……ちんけな金儲けでクスリをお前に流し続けた俺への罪だ……もう無垢な子の最後を見たくない……レユも自分の見た幻覚に支配されるんだ……そんな最後だけは……」
「やめて! レユは幻覚なんて見ていない! 見ていないよ……!」
見たよアイル……白い夜の世界に確かに私はいた……
「せめて看取ってやるんだ……レユはお前のことが好きだから……幻覚の世界に逝きそうになっても手を握ってやってくれ、俺にはできなかったことだから……」
そう……死ぬ日が近いんだ……だから白い夜の世界を見たんだ……死ねばあの世界に私は永遠にいつづけるのかな……? それはそれで悪くない気がする……
「起きたのか? ただ気を失っただけだ。何も心配はいらない」
ランスが私の頭を優しく撫でる。ここは見慣れたアイルの部屋。私が住ませてもらっているこぢんまりとしたアパート。
「嘘つき。幻覚の世界なら見たよ。とても美しい世界だと思うよ……」
白い夜の世界を不思議と恋しく思ってしまう……永遠に一人だけでいられる世界……怖い孤児院も、乱暴された男の人たちのことも忘れられる世界……今すぐにでも逝ってもいいと思うのに……
本当にそれでいいの? という思いに支配されてしまう。こんな中毒者の私にも残された人ができたから……
「そうか……ならこの世界でしたいことは……? 幻覚の世界に旅立つ前に……なんでもいい……言ってくれ……」
白い夜の世界に旅立つ前に私がしたいこと、それは決まっている。寂しくさせないと約束したから。
「アイルと一緒にいたい」
ランスは笑ってくれた。とても穏やかに、そして悲しそうに……
アイルは涙を拭い続けていた……
冷たい夕日に支配されたスラムの街で、私は一人立ち尽くしている。今は目眩もないし、気分もいいから出歩いてみた。
人気のないスラムの街。私以外誰もいないんじゃないかと錯覚させるよう。白い夜の世界が近いのだと私に思わせるようだ。
「不思議だよね。この時間になると慈善団体の人たちが食事を配るから、みんないなくなる」
少し瞳を赤くしたアイルが後ろに立っていた。
「私とアイルだけの世界だね」
私が言葉すると、アイルは小首を傾げながら笑ってくれた……それはとても寂しそうな仕草をすると、俯いて見せた……
「嫌だよ……どこにも行かないで……」
冷たい夕日の空しい光の中で、暗く俯くだけのアイルに、私は誤魔化すように微笑んで返すしかない……
死は怖いのかな? 私には待っている世界がある……そこは白い夜の世界で、冷たくない雪が降り続いているから……だからほんの少しだけ逝けることを楽しみにすれば、死は怖くないと信じたくなった……
その夜。シングルのベッドの上で私はアイルに抱き締められる。小柄な女の子が二人だから、シングルのベッドも苦じゃない。いつもこうして寝ているから、私はアイルの温もりにすっかり慣れていた。でもこの夜だけは違う。きっと私と過ごす最後の夜だから、アイルは小刻みに震えていた。
「……ゆっくり眠ろう……アイルが目を覚ました朝に、また会いましょう……」
アイルの耳元で私が囁くと、彼女は弱く頷いたように思えた。
ふと私はあってはいけない幻想を抱いてしまう。アイルも私と一緒に旅立てないのかと……
そんなのは駄目だとすぐに自分で気づくことができた。アイルのこれからは、幸せに満ちていると信じたいから……確かに酷い行いをしてきたアイルだけど……
……神様どうかお願いです……アイルに幸せな日々をお与えください……
「レユ。綺麗な朝だよ。見てみなよ」
アイルに起こされて、まだ少しだけ眠気が残るけど、私は瞳を擦りながら窓の外を見てみる。
「わぁー……」
窓の外の青空。雲一つない青空。夏の終わりの青空がとても綺麗にどこまでも広がっているようだった。
「朝食にしよう」
嬉しそうにしているアイル。綺麗な雲一つない夏の終わりの青空のおかげで嬉しそうなのか? それとも私の最後を受け入れたくなくて、無理に嬉しそうにしているのか? 私にはわからない……
「ごめんなさい。いらない」
苦笑いを浮かべるしかない私。自分でも驚くほどに食欲がない。昨日のように意識が遠くなる感覚がないだけよかった。
「それなら出かけよう。きっと外は気持ちがいいよ」
「そうだね」
夏の終わりの外は気持ちのいい涼しい風が吹いている。私が知っているスラムの街が視界に映っている。涼しい風の中で物乞いをする子供たちが映る。何度拒否されて蔑まれ断られても、子供たちは笑みを絶やさずにまた物乞いに走り出す。そんな光景を私は見つめ、ただ静かに笑みを零していた。
そういえば点滴の針を抜いて、孤児院から逃げて、当てもなく私は見知らぬ路上で物乞いをしていた。そして怖い男の人たちに好きにされたんだった……
「レユ。いい一日の始まりだね」
アイルは私の手のひらを取ると、手の甲にキスしてくれる。心から安心できるアイルのキス。怖い男の人たちに襲われたことなどどうでもよくて、私はアイルとのいい一日の始まりに感謝した。
それは無垢な笑顔ができる好きな人と最後までいられるいい一日の始まりだと思うから……
「さぁ、行こう。どこまでも」
アイルの無垢な笑顔に私も嬉しくなり、ただ口を開けて笑顔になる。
私はアイルに手を繋がれたままスラムの街を歩いている。
「アイルは優しいね」
「そうかな……」
アイルは立ち止まり、ドレス屋のショーウィンドウに飾られた黒いドレスを見つめているようだが、違った。ショーウィンドウのガラスに薄っすらと映る自分の顔を静かに見つめているようだった。
「優しくなんてないよ」
優しくないアイルなんて私は嫌だ……だから……
「私は今日で終わるんでしょ?」
小首を傾げて無理して笑い、自分の死を受け入れたふりをする。本当は自分の意志が壊れて消えてなくなることが恐くて仕方ないのかもしれない……
「アイルは優しいでしょ?」
「レユにだけだよ」
アイルは私と手を繋ぎながら歩き出す。
「あの場所どうなっているかな? 子供の頃に行ったきりだから」
どうやらアイルの言うあの場所とやらにこれから行くらしい。
そこはこのスラム街にある寂れた映画館で、街外れの丘の上に忘れられたかのように存在しているようだった。
「麻薬を売って、私のせいで廃人にした人や、死んでいった人のことを思うと耐え切れなくなって、よくここに来ていた。いつの間にか苦しむ人たちや死んでいく人たちのことなんかどうでもよくなって、ここには自然と足が向かなくなった」
アイルは繋いだ私の手を引っ張り半ば強引に、映画館の中へと入ろうとする。
「アイル……なんだか怖いよ……」
「今さらどうしてだろう? 自分が許せないのはどうしてなのかな?」
怖いと訴えても、アイルは聞く耳を持ってくれなかった。まるで自分の罪に苛まれているかのように呆然としていた。
ふと瞳を閉じただけで、白い夜がすぐそばまで訪れているのが見えた……私だけが知る白い夜は怖いはずなのに、どうして美しさに似た儚さを感じるのか……? 自分でもわからなかった……
「少し古くなったくらいか……後は何も変わってない……」
私とアイル以外誰もいない映画館は少しだけ埃臭くて、ここ何年も誰も座った気配のないたくさんの客席が静かな空しさを私に印象づける……
「すぐそこだよ。私がいつも座っていた客席は」
私は案内されるがまま、客席へと座る。その隣にアイルも腰かけると、私の顔を見て静かな笑みを零してくれる。
「どうしたの?」
静かな笑みを零すアイルに私が訊くと。
「なんだか恋人同士のデートみたいだなって」
同じ女の子同士だけど、アイルが恋人なら悪い気はしない。むしろとても嬉しい気持ちになる。
「アイルはどんな映画がいい? もしもここで映画が観られるなら」
映画など観たことがない私は訊いてみる。だってすぐそこまで来ているから……だからアイルの声や表情を少しでもたくさんある私の思い出の一つにしたい……
「そうだねー……普通に女の子が男の子にキスされて終わる映画がいい。いつまでもずっと幸せになったんだって思えるから」
「幸せの場所にいるんだね。アイルも同じだよ……これからはずっと……」
私はアイルの頬にキスをする。アイルは驚いた表情を見せたが、
「ありがとう。レユ」
すぐに穏やかな表情になり、私の頭を撫でてくれた。
「レユは? どんな映画が観たいの?」
私が観てみたい映画……それは一つの世界で、麻薬のせいで私だけが見たり存在することができる孤独の世界……
「……白い夜が続く世界……私……もう逝くね……」
気が付けば私は白い夜の世界に一人存在していた……白い空からは冷たくない雪が降り続けている……
大切な人であるアイルの姿はどこにもないのに、私の心には不思議と寂しさはなかった……
この世界にまた来られて、永遠に一人でいられることに幸せを感じる……
……どうしてだろう……とても眠くなってきたから、私は冷たくない雪の積もる地面に横になる……
「……綺麗だよ……とても綺麗……」
眠りに落ちる瞬間……白い空を少しだけ見ることができた……だから嬉しい……
「……アイル……おやすみなさい……忘れないよ……」
「レユ。まぁ、お金ならあるんだし、ダラダラしようよ」
「うん」
アイルはスラムにある公園の壊れた噴水の前で、両手を広げながら仰向けになって、相変わらずのそのどこか寂し気な瞳でほんの少し冷たそうな青空、夏から秋に変わろうとしている青空を見つめている。
「お昼はまたパンケーキにする? 苺が添えられてるパンケーキ。好きでしょ?」
ほぼ毎日のようにお昼は寂れたレストランで苺が添えられているパンケーキを食べている。私は正直飽きていたけど、アイルが食べたいのならそれでいい。
「よっと」
少し冷たそうな青空を見つめていたアイルは起き上がる。
「最近暇だよね。ランスはなんだか大人しくなって気味が悪いし」
アイルはランスのことをよく思っていないかもしれないが、私はランスのことが好きだ。リエルをアイルに売らせていることは悪いことだと思うけど、それでも実は誰かに優しくできるいい心を持っている人だと私は思う。
「食べていくのにしばらく困らないお金はあるけど、こう暇だとなんだか滅入るな……」
都会の街にある古い屋敷でアイルはすごい数のリエルを売ったから、お金には困っていないが、仕事がない現実はアイルをちょっとした抜け殻にしたようだった。
「お昼のパンケーキが楽しみだよ。アイルと二人で楽しい食事ができるから」
「少し早いけど、食べに行く?」
「うん。お腹空いた」
嬉しそうに笑うアイルに手を繋がれ、私たちは寂れたレストランへと歩き出す。本当はお腹なんて空いていない。すっかり飽きているパンケーキより私には欲しいものがある。それはアイルが持っているリエル。私は液体の麻薬ですばらしい世界を見た。
そこは白い夜の世界で、白い空からはまるで冷たさを感じない雪が降り続けている。この白い世界にいつまでもいたいのに、クスリがないから私は存在できない。だから安物でもいい。リエルが一つ欲しいと頼めばいいのに……それができない……アイルに嫌われたくないから……
「レユ?」
気が付けばアイルが寂れたレストランでパンケーキを食べようとしていた。いつの間にここに来たのか思い出せない……微かに思い出せるのは白い夜の世界と、クスリへの欲求だけ。もうずっと止めているはずなのに、苦しくて仕方がない……
「美味しそうだね」
無理に笑顔を作って、パンケーキに添えられた苺を一口食べると、私の少し早いお昼は終わる……
お腹は空いていない……それよりアイルが持っている私が欲しいものをください……なんでもしますから……
「全然食べてないよ? 気分でも悪い?」
悪いよ……アイルが持っているリエルをくれれば良くなるかも……
それは駄目……アイルがきっと悲しそうにするから……だからクスリは嫌なはずだ……
「どうしてだろう……私は苺だけでお腹いっぱい……」
意識が遠くなるのを感じる……気が付けば白い夜の世界にいる私……冷たくない雪がいつまでもゆっくりと降り続ける世界……誰かの優しさも、手を差し伸べてくれる誰かもいないのに、私は白い夜の世界にて座り込んでしまう……ここには私以外誰もいないのに、不思議と寂しさを感じない……いや、感じられないのかもしれない……
「……幸せの場所……」
言葉にした途端。目が覚めた……少しだけ目眩がするけど、それだけ……
「……知ってるだろ……最後が近い……」
目眩がするなかでランスの声がする……いつも会えて嬉しい人……本当は優しい人だと知っているから嬉しいのかな……? それにしても、誰の最後が近いんだろう……?
「……嘘だよ……だって、寂しくさせないって……」
取り乱すアイルが瞳にぼんやりと映る……まさか泣いているの? 寂しくさせないと私は誓った……だから泣かないで……
「どうすればいいの……? また一人で暮らすの? そんなの寂しいよ……!」
目眩が少しだけ消えていく中で……アイルの悲痛そうな叫びが確かに聞こえた……
「これは罪だ……ちんけな金儲けでクスリをお前に流し続けた俺への罪だ……もう無垢な子の最後を見たくない……レユも自分の見た幻覚に支配されるんだ……そんな最後だけは……」
「やめて! レユは幻覚なんて見ていない! 見ていないよ……!」
見たよアイル……白い夜の世界に確かに私はいた……
「せめて看取ってやるんだ……レユはお前のことが好きだから……幻覚の世界に逝きそうになっても手を握ってやってくれ、俺にはできなかったことだから……」
そう……死ぬ日が近いんだ……だから白い夜の世界を見たんだ……死ねばあの世界に私は永遠にいつづけるのかな……? それはそれで悪くない気がする……
「起きたのか? ただ気を失っただけだ。何も心配はいらない」
ランスが私の頭を優しく撫でる。ここは見慣れたアイルの部屋。私が住ませてもらっているこぢんまりとしたアパート。
「嘘つき。幻覚の世界なら見たよ。とても美しい世界だと思うよ……」
白い夜の世界を不思議と恋しく思ってしまう……永遠に一人だけでいられる世界……怖い孤児院も、乱暴された男の人たちのことも忘れられる世界……今すぐにでも逝ってもいいと思うのに……
本当にそれでいいの? という思いに支配されてしまう。こんな中毒者の私にも残された人ができたから……
「そうか……ならこの世界でしたいことは……? 幻覚の世界に旅立つ前に……なんでもいい……言ってくれ……」
白い夜の世界に旅立つ前に私がしたいこと、それは決まっている。寂しくさせないと約束したから。
「アイルと一緒にいたい」
ランスは笑ってくれた。とても穏やかに、そして悲しそうに……
アイルは涙を拭い続けていた……
冷たい夕日に支配されたスラムの街で、私は一人立ち尽くしている。今は目眩もないし、気分もいいから出歩いてみた。
人気のないスラムの街。私以外誰もいないんじゃないかと錯覚させるよう。白い夜の世界が近いのだと私に思わせるようだ。
「不思議だよね。この時間になると慈善団体の人たちが食事を配るから、みんないなくなる」
少し瞳を赤くしたアイルが後ろに立っていた。
「私とアイルだけの世界だね」
私が言葉すると、アイルは小首を傾げながら笑ってくれた……それはとても寂しそうな仕草をすると、俯いて見せた……
「嫌だよ……どこにも行かないで……」
冷たい夕日の空しい光の中で、暗く俯くだけのアイルに、私は誤魔化すように微笑んで返すしかない……
死は怖いのかな? 私には待っている世界がある……そこは白い夜の世界で、冷たくない雪が降り続いているから……だからほんの少しだけ逝けることを楽しみにすれば、死は怖くないと信じたくなった……
その夜。シングルのベッドの上で私はアイルに抱き締められる。小柄な女の子が二人だから、シングルのベッドも苦じゃない。いつもこうして寝ているから、私はアイルの温もりにすっかり慣れていた。でもこの夜だけは違う。きっと私と過ごす最後の夜だから、アイルは小刻みに震えていた。
「……ゆっくり眠ろう……アイルが目を覚ました朝に、また会いましょう……」
アイルの耳元で私が囁くと、彼女は弱く頷いたように思えた。
ふと私はあってはいけない幻想を抱いてしまう。アイルも私と一緒に旅立てないのかと……
そんなのは駄目だとすぐに自分で気づくことができた。アイルのこれからは、幸せに満ちていると信じたいから……確かに酷い行いをしてきたアイルだけど……
……神様どうかお願いです……アイルに幸せな日々をお与えください……
「レユ。綺麗な朝だよ。見てみなよ」
アイルに起こされて、まだ少しだけ眠気が残るけど、私は瞳を擦りながら窓の外を見てみる。
「わぁー……」
窓の外の青空。雲一つない青空。夏の終わりの青空がとても綺麗にどこまでも広がっているようだった。
「朝食にしよう」
嬉しそうにしているアイル。綺麗な雲一つない夏の終わりの青空のおかげで嬉しそうなのか? それとも私の最後を受け入れたくなくて、無理に嬉しそうにしているのか? 私にはわからない……
「ごめんなさい。いらない」
苦笑いを浮かべるしかない私。自分でも驚くほどに食欲がない。昨日のように意識が遠くなる感覚がないだけよかった。
「それなら出かけよう。きっと外は気持ちがいいよ」
「そうだね」
夏の終わりの外は気持ちのいい涼しい風が吹いている。私が知っているスラムの街が視界に映っている。涼しい風の中で物乞いをする子供たちが映る。何度拒否されて蔑まれ断られても、子供たちは笑みを絶やさずにまた物乞いに走り出す。そんな光景を私は見つめ、ただ静かに笑みを零していた。
そういえば点滴の針を抜いて、孤児院から逃げて、当てもなく私は見知らぬ路上で物乞いをしていた。そして怖い男の人たちに好きにされたんだった……
「レユ。いい一日の始まりだね」
アイルは私の手のひらを取ると、手の甲にキスしてくれる。心から安心できるアイルのキス。怖い男の人たちに襲われたことなどどうでもよくて、私はアイルとのいい一日の始まりに感謝した。
それは無垢な笑顔ができる好きな人と最後までいられるいい一日の始まりだと思うから……
「さぁ、行こう。どこまでも」
アイルの無垢な笑顔に私も嬉しくなり、ただ口を開けて笑顔になる。
私はアイルに手を繋がれたままスラムの街を歩いている。
「アイルは優しいね」
「そうかな……」
アイルは立ち止まり、ドレス屋のショーウィンドウに飾られた黒いドレスを見つめているようだが、違った。ショーウィンドウのガラスに薄っすらと映る自分の顔を静かに見つめているようだった。
「優しくなんてないよ」
優しくないアイルなんて私は嫌だ……だから……
「私は今日で終わるんでしょ?」
小首を傾げて無理して笑い、自分の死を受け入れたふりをする。本当は自分の意志が壊れて消えてなくなることが恐くて仕方ないのかもしれない……
「アイルは優しいでしょ?」
「レユにだけだよ」
アイルは私と手を繋ぎながら歩き出す。
「あの場所どうなっているかな? 子供の頃に行ったきりだから」
どうやらアイルの言うあの場所とやらにこれから行くらしい。
そこはこのスラム街にある寂れた映画館で、街外れの丘の上に忘れられたかのように存在しているようだった。
「麻薬を売って、私のせいで廃人にした人や、死んでいった人のことを思うと耐え切れなくなって、よくここに来ていた。いつの間にか苦しむ人たちや死んでいく人たちのことなんかどうでもよくなって、ここには自然と足が向かなくなった」
アイルは繋いだ私の手を引っ張り半ば強引に、映画館の中へと入ろうとする。
「アイル……なんだか怖いよ……」
「今さらどうしてだろう? 自分が許せないのはどうしてなのかな?」
怖いと訴えても、アイルは聞く耳を持ってくれなかった。まるで自分の罪に苛まれているかのように呆然としていた。
ふと瞳を閉じただけで、白い夜がすぐそばまで訪れているのが見えた……私だけが知る白い夜は怖いはずなのに、どうして美しさに似た儚さを感じるのか……? 自分でもわからなかった……
「少し古くなったくらいか……後は何も変わってない……」
私とアイル以外誰もいない映画館は少しだけ埃臭くて、ここ何年も誰も座った気配のないたくさんの客席が静かな空しさを私に印象づける……
「すぐそこだよ。私がいつも座っていた客席は」
私は案内されるがまま、客席へと座る。その隣にアイルも腰かけると、私の顔を見て静かな笑みを零してくれる。
「どうしたの?」
静かな笑みを零すアイルに私が訊くと。
「なんだか恋人同士のデートみたいだなって」
同じ女の子同士だけど、アイルが恋人なら悪い気はしない。むしろとても嬉しい気持ちになる。
「アイルはどんな映画がいい? もしもここで映画が観られるなら」
映画など観たことがない私は訊いてみる。だってすぐそこまで来ているから……だからアイルの声や表情を少しでもたくさんある私の思い出の一つにしたい……
「そうだねー……普通に女の子が男の子にキスされて終わる映画がいい。いつまでもずっと幸せになったんだって思えるから」
「幸せの場所にいるんだね。アイルも同じだよ……これからはずっと……」
私はアイルの頬にキスをする。アイルは驚いた表情を見せたが、
「ありがとう。レユ」
すぐに穏やかな表情になり、私の頭を撫でてくれた。
「レユは? どんな映画が観たいの?」
私が観てみたい映画……それは一つの世界で、麻薬のせいで私だけが見たり存在することができる孤独の世界……
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気が付けば私は白い夜の世界に一人存在していた……白い空からは冷たくない雪が降り続けている……
大切な人であるアイルの姿はどこにもないのに、私の心には不思議と寂しさはなかった……
この世界にまた来られて、永遠に一人でいられることに幸せを感じる……
……どうしてだろう……とても眠くなってきたから、私は冷たくない雪の積もる地面に横になる……
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妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
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