三山怪談集・第一夜 「仕方なかった者たち」

三山

文字の大きさ
2 / 5
第一章 仕方なかった者たち

第二話 鏡に映る呼吸

しおりを挟む
 夕暮れの教室は赤に沈み、机の列が長く影を落としていた。彼女は最後まで残った子の席に腰をかけ、鉛筆を握る小さな手に自分の指をそっと添えた。

「ここは間違ってないよ。数字が怖いだけ。いっしょにゆっくりやれば大丈夫」

 子どもは下唇を噛んで、こくりと頷く。ノートの罫線に涙が落ちないように、おでこを寄せて計算をなぞる。彼女は背を丸め、時々頭を撫でる。汗と石鹸の混じった匂いが髪から立っていた。

 職員室に戻れば、同僚が紙コップの湯気越しに囁いた。

「最近あの子、笑うようになったって。あなたのおかげよ」
「保護者が言ってたわ。『厳しいけど、ちゃんと見てくれる先生』だって」

 彼女は控えめに笑い、首を振る。

「いえ、皆さんのおかげです。私ひとりじゃ何も」

 言葉の角は磨かれていた。ひとつひとつが、相手の胸に刺さらない丸さで出来ている。

 保護者会では父兄が列を作った。

「先生、家でも宿題するようになりました」
「叱るときも優しくて、ありがたいです」

 彼女は名札を押さえ、何度も揺れるように頭を下げる。笑顔は長く留まらず、すぐ薄れる。誰も彼女の疲労の色を見つけようとはしない。


 * * *


 夜の教室。黒板のチョークを拭き取り、配布物を仕分け、戸締まりの札を確認したとき、黒板脇の姿見に小さな影が映った。肩を震わせ、声もなく泣いている生徒の姿。
 彼女は椅子をきしませて立ち上がり、振り返る。机は整然と並び、廊下は静まり返っていた。誰もいない。

「……どこ? どこにいるの?」

 返事はない。だが鏡の中の泣き顔に向かって、声が零れた。

「泣かないで。先生がいるから。大丈夫だから」

 翌日、廊下の窓ガラスに嗚咽する影が映った。

「待って。今すぐ行くから」

 水飲み場のステンレスの面にも、涙で濡れた頬が浮かぶ。

「先生が守るから。こっちを見て」

 職員室へ駆け込む彼女を見て、若い講師が声をかけた。

「どうしたの?」
「子どもが泣いてるの。鏡の中で。助けてあげなきゃ」
「誰もいないよ?」
「いるの。私が行かないと」

 短く、迷いのない調子だった。


 * * *


 日が経つほど、鏡の中の子どもたちは声を持ち始めた。

 ――どうして。
 ――先生は守ってくれるんじゃなかったの。

 彼女は耳を塞ぎ、首を振る。

「やめて。そんなこと言わないで」

 ――先生の手、痛かった。
 ――怒鳴る声が、こわかった。

「違う。私は守ろうとしたの。守らなきゃいけないの」

 彼女は胸の前で自分の手を固く握った。

「私が盾にならないと。私が——」

 鏡は別の誰かを映した。泣く子の肩を掴み、揺さぶる人影。机を叩き、睨みつける人影。怯える目を見下ろし、唇の端を冷たく持ち上げる人影。

 ――先生、たすけて。
 ――痛いよ。
 ――こわい。

 涙が滲み、声が途切れた。

「待って、今行く。先生が行くからね」


 * * *


 保健室の白は乾いた匂いがした。養護教諭が椅子を引く。

「最近、眠れてる?」
「眠れてるわ。問題ない」
「鏡の件、気にかかってるの。疲れだと思うけど」
「違うの。助けを求める声よ。私が行かなきゃ」
「誰かと分担しても——」
「私が行くの」

 即答だった。彼女の舌には「私が」が馴染んでいた。
 校長は朝礼の壇上で彼女に会釈し、終わると近寄って言った。

「無理は禁物だよ。君は十分頑張っている」
「子どもたちが待っていますから」
「他にも先生はいる」
「私が行きます」

 校長は押し黙り、片眼鏡を上げた。

 その夜、彼女は台所で蛍光灯を点けた。電子レンジの曇った黒い扉、冷蔵庫の扉の銀色、スマートフォンの黒い画面。どれも小さな鏡になって彼女を返す。

「見えてる」

 彼女は自分に告げるように言い、コートを椅子にかけ直した。蛇口から落ちる水滴が、泣き声に似ていた。

「守るから」

 手を合わせるように胸の前で指を組み、ぎゅっと握った。


 * * *


 朝礼の日、教卓に立つ彼女はいつもより少し早口だった。チョークが板書で擦れて音を立てる。

「ここは大事。できなくても、先生といっしょにやる」

 最前列の子が手を挙げる。

「先生、鏡、どうしたの?」

 教卓の上の小さな手鏡は、伏せたり起こしたりを繰り返していた。起こすたびに、教室の隅に別の泣き顔が映り、伏せれば消える。

「なんでもないよ。じゃあ次の問題」

 彼女は笑ってみせたが、頬が引きつっていた。

 休み時間、廊下の窓の前。

「どこ」
 ――ここ。

「大丈夫。こっちにおいで」
 ――行けない。

「じゃあ、私が行く」
 ――痛いの、まだ。

「ごめん……いや、ごめんじゃない。守る。守るから」

 言葉がもつれ、呼吸が浅くなる。教室の隅で、小さな手鏡がかちりと音を立てて倒れた。


 * * *


 夕方の職員室。缶コーヒーのプルタブが鳴り、湯気が白い。

「土曜のボランティアも行くの?」
「行きます」
「家庭訪問も重なってるよ」
「行きます。あの子の家は、先生が行った方がいいから」

 スケジュール帳は青いインクで埋まっている。補習、巡回、面談。

「あなたばっかり頑張らなくていいのに」

 年配の教師が言った。

「私が行くと決めたので」

 口調は静かで、揺れなかった。


 * * *


 夜。教室の扉が重く閉まる。電灯の白は冷たい。
 黒板脇の姿見は、昼間よりも深い黒だった。彼女はその前に立ち、ゆっくりと手を伸ばす。冷たく硬い表面が指先に触れる。鏡は無数の泣き顔を映した。列になり、こちらを見ている。

 ――どうして。
 ――守ってくれるんじゃなかったの。
 ――先生、あのとき——

「やめて」

 彼女は耳を塞ぎ、首を振る。

「私は守った。守ろうとした。守らなきゃ。私が、盾にならなきゃ」

 鏡の中の彼女が、子どもの肩を掴む。力は強すぎる。

 ――いたい。
「違う。私は正しい叱り方を——」

 ――こわい。
「違う。私は、私が——」

 言葉が崩れ、舌が乾いた。胸がつかえる。

 その次の呼吸で、声の色が変わった。吐息が湿りを増す。鏡面の手形が増え、表面が白く曇る。

「……そうよ」

 笑いが混じった。

「そう。私は——泣かせたかったの」

 膝が床に触れ、ワックスがきゅっと鳴る。

「怯える顔を見ると、胸の奥が甘く痺れた」
「涙の光で、私が生きてるって分かる。『先生』って呼ばれるより、泣く声の方がずっと響いた」

 彼女は胸の中央を指で押し、鼓動を確かめる。

「助けたんじゃない。守ったんじゃない。支配したかったの」
「弱い声は、手のひらで形を変えられる。小さな肩は、指で震えさせられる。怯える目を見下ろすと、血が熱くなった。あれは喜び。あれだけが、私のごはん」

 呼吸は荒く、吐いた息は白く濁って鏡に吸い込まれていく。鏡の裏側で、細かな泡が弾けるように見えた。

「『ありがとう』って言わせたかった。何度でも。枯れるまで。私が必要だって、証明してほしかった」

 無数の手形が鏡の内側から浮かび、彼女の頬、肩、鎖骨へと触れる。冷たさはない。ただ、やわらかく、離れない。

「ごめんね。ずっと、欲しかったの。泣き顔と、お礼。あなたたちが私を必要とする瞬間だけが、本当の私だから」

 彼女は額を鏡に押し当て、目を閉じた。吐息は濃く、部屋の温度が下がっていく。


 * * *


 朝、階段を駆け上がる足音が響いた。扉が開き、短い悲鳴が切れる。

「先生が——!」

 机の列の間に、彼女は仰向けに倒れていた。顔は上を向き、口元がわずかに開いている。
 両目は破裂していた。眼窩いっぱいに小さな乳歯が詰め込まれ、白い粒がぎちぎちと擦れ合っていた。血はほとんど流れていない。歯は乾ききらず、ところどころ薄い赤で繋がったままだ。
 喉には白い泡の塊が固まってはみ出し、頬を汚していた。指先は教卓の縁を掻き、爪の間にはチョークの粉が詰まっている。

「救急! 早く!」
「脈、なし……」
「眼が……これ、どうなって……」

 医師が灯を持って近づく。

「……眼球破裂。眼窩内に硬組織様異物こうそしきよういぶつ……乳歯……? これは……」

 言葉はここで途切れた。

「……脳の、異常かもしれない」

 それらしい言い方をして、誰かが曖昧に締めた。
 同僚は口を覆い、肩を震わせた。

「いい先生だったのに」
「子どもたちのために、いつも」

 廊下には保護者が集まった。

「惜しい人を亡くした」
「うちの子、先生に救われたのに」

 花が届き、教室の前はしだいに色で埋まった。教室の隅の姿見は布で覆われ、画鋲で留められた。布越しに、ぎちぎちという小さな音がしたが、誰も耳を寄せなかった。


 * * *


 葬儀の日、白い花の匂いが会場を満たした。写真の中の彼女は柔らかい目で微笑んでいる。

「守ってくれる先生でした」
「どの子にも公平に厳しく、最後には必ず抱きしめてくれた」

 校長は深く頭を下げて、弔辞を読んだ。

「彼女は、最後まで生徒のために尽くした先生です。私たちは、その志を忘れません」

 拍手は起きず、静かなうなずきだけが波のように広がった。
 彼女のデスクには小さな花束が置かれ、スケジュール帳は閉じられた。青いインクで埋まった予定は、もう誰もなぞらない。
 教室では代替の先生が授業を続け、窓の桟は丁寧に拭かれ、黒板には新しい字が並ぶ。姿見の布は、いつの間にか二重になっていた。画鋲は増え、端はテープで目張りされた。誰かが近づくと、その布はかすかに呼吸するように膨らみ、しぼむ。

 夜の学校は、音を吸う。廊下の蛍光灯がひとつ、またひとつ落ち、教室の鍵が回される。教壇のチョーク受けに残った粉だけが、微かな白で夜を縁取る。
 布の下の鏡は黙っていた。いや、正確には黙ってはいない。内側で、極小の噛み合わせの音が続いていた。ぎち、ぎち、と。小さく、しかし終わらないリズムで。


 * * *


 ここから先は、あなたの番だ。

 この物語の外に立っていても、教室の空気を吸ったことがあるなら、鏡の前に立つ感覚は思い出せるはずだ。
 目を合わせないようにしても、視界の端に、列が見えるだろう。泣き顔の子どもたちが、こちらを見ている列。

 そのいちばん端に、あなた自身の顔が、紛れていないか。
 もし見つけてしまったら、耳を澄ませてはいけない。歯の音は、ありがとうと同じ形で鳴る。甘く、明るく、食べやすい音だ。

 そして、それは癖になる。
「守らなきゃ」という言葉の裏で、あなたの呼吸がどんな形をしているのか、鏡はよく知っている。

 だから、近づかないで。
 どうしても近づくなら、目を閉じて。
 どうしても目を閉じられないなら——そのときは覚悟を。

 あなたの眼窩が、何で満たされるのかを。
 あなたの喉の奥で固まる白いものの、味を。

 この話はもう終わった。
 終わってほしいと願うなら、鏡から離れて。
 離れられないなら、せめて声は出さないで。

 声は、すぐ形になる。
 そして形は、いつまでも残る。


 ——————

 次話は「燃える掌」
 ──その熱は、誰のために燃えているのか。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

意味が分かると怖い話(解説付き)

彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです 読みながら話に潜む違和感を探してみてください 最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください 実話も混ざっております

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

意味が分かると怖い話【短編集】

本田 壱好
ホラー
意味が分かると怖い話。 つまり、意味がわからなければ怖くない。 解釈は読者に委ねられる。 あなたはこの短編集をどのように読みますか?

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

処理中です...