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第一章 仕方なかった者たち
第二話 鏡に映る呼吸
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夕暮れの教室は赤に沈み、机の列が長く影を落としていた。彼女は最後まで残った子の席に腰をかけ、鉛筆を握る小さな手に自分の指をそっと添えた。
「ここは間違ってないよ。数字が怖いだけ。いっしょにゆっくりやれば大丈夫」
子どもは下唇を噛んで、こくりと頷く。ノートの罫線に涙が落ちないように、おでこを寄せて計算をなぞる。彼女は背を丸め、時々頭を撫でる。汗と石鹸の混じった匂いが髪から立っていた。
職員室に戻れば、同僚が紙コップの湯気越しに囁いた。
「最近あの子、笑うようになったって。あなたのおかげよ」
「保護者が言ってたわ。『厳しいけど、ちゃんと見てくれる先生』だって」
彼女は控えめに笑い、首を振る。
「いえ、皆さんのおかげです。私ひとりじゃ何も」
言葉の角は磨かれていた。ひとつひとつが、相手の胸に刺さらない丸さで出来ている。
保護者会では父兄が列を作った。
「先生、家でも宿題するようになりました」
「叱るときも優しくて、ありがたいです」
彼女は名札を押さえ、何度も揺れるように頭を下げる。笑顔は長く留まらず、すぐ薄れる。誰も彼女の疲労の色を見つけようとはしない。
* * *
夜の教室。黒板のチョークを拭き取り、配布物を仕分け、戸締まりの札を確認したとき、黒板脇の姿見に小さな影が映った。肩を震わせ、声もなく泣いている生徒の姿。
彼女は椅子をきしませて立ち上がり、振り返る。机は整然と並び、廊下は静まり返っていた。誰もいない。
「……どこ? どこにいるの?」
返事はない。だが鏡の中の泣き顔に向かって、声が零れた。
「泣かないで。先生がいるから。大丈夫だから」
翌日、廊下の窓ガラスに嗚咽する影が映った。
「待って。今すぐ行くから」
水飲み場のステンレスの面にも、涙で濡れた頬が浮かぶ。
「先生が守るから。こっちを見て」
職員室へ駆け込む彼女を見て、若い講師が声をかけた。
「どうしたの?」
「子どもが泣いてるの。鏡の中で。助けてあげなきゃ」
「誰もいないよ?」
「いるの。私が行かないと」
短く、迷いのない調子だった。
* * *
日が経つほど、鏡の中の子どもたちは声を持ち始めた。
――どうして。
――先生は守ってくれるんじゃなかったの。
彼女は耳を塞ぎ、首を振る。
「やめて。そんなこと言わないで」
――先生の手、痛かった。
――怒鳴る声が、こわかった。
「違う。私は守ろうとしたの。守らなきゃいけないの」
彼女は胸の前で自分の手を固く握った。
「私が盾にならないと。私が——」
鏡は別の誰かを映した。泣く子の肩を掴み、揺さぶる人影。机を叩き、睨みつける人影。怯える目を見下ろし、唇の端を冷たく持ち上げる人影。
――先生、たすけて。
――痛いよ。
――こわい。
涙が滲み、声が途切れた。
「待って、今行く。先生が行くからね」
* * *
保健室の白は乾いた匂いがした。養護教諭が椅子を引く。
「最近、眠れてる?」
「眠れてるわ。問題ない」
「鏡の件、気にかかってるの。疲れだと思うけど」
「違うの。助けを求める声よ。私が行かなきゃ」
「誰かと分担しても——」
「私が行くの」
即答だった。彼女の舌には「私が」が馴染んでいた。
校長は朝礼の壇上で彼女に会釈し、終わると近寄って言った。
「無理は禁物だよ。君は十分頑張っている」
「子どもたちが待っていますから」
「他にも先生はいる」
「私が行きます」
校長は押し黙り、片眼鏡を上げた。
その夜、彼女は台所で蛍光灯を点けた。電子レンジの曇った黒い扉、冷蔵庫の扉の銀色、スマートフォンの黒い画面。どれも小さな鏡になって彼女を返す。
「見えてる」
彼女は自分に告げるように言い、コートを椅子にかけ直した。蛇口から落ちる水滴が、泣き声に似ていた。
「守るから」
手を合わせるように胸の前で指を組み、ぎゅっと握った。
* * *
朝礼の日、教卓に立つ彼女はいつもより少し早口だった。チョークが板書で擦れて音を立てる。
「ここは大事。できなくても、先生といっしょにやる」
最前列の子が手を挙げる。
「先生、鏡、どうしたの?」
教卓の上の小さな手鏡は、伏せたり起こしたりを繰り返していた。起こすたびに、教室の隅に別の泣き顔が映り、伏せれば消える。
「なんでもないよ。じゃあ次の問題」
彼女は笑ってみせたが、頬が引きつっていた。
休み時間、廊下の窓の前。
「どこ」
――ここ。
「大丈夫。こっちにおいで」
――行けない。
「じゃあ、私が行く」
――痛いの、まだ。
「ごめん……いや、ごめんじゃない。守る。守るから」
言葉がもつれ、呼吸が浅くなる。教室の隅で、小さな手鏡がかちりと音を立てて倒れた。
* * *
夕方の職員室。缶コーヒーのプルタブが鳴り、湯気が白い。
「土曜のボランティアも行くの?」
「行きます」
「家庭訪問も重なってるよ」
「行きます。あの子の家は、先生が行った方がいいから」
スケジュール帳は青いインクで埋まっている。補習、巡回、面談。
「あなたばっかり頑張らなくていいのに」
年配の教師が言った。
「私が行くと決めたので」
口調は静かで、揺れなかった。
* * *
夜。教室の扉が重く閉まる。電灯の白は冷たい。
黒板脇の姿見は、昼間よりも深い黒だった。彼女はその前に立ち、ゆっくりと手を伸ばす。冷たく硬い表面が指先に触れる。鏡は無数の泣き顔を映した。列になり、こちらを見ている。
――どうして。
――守ってくれるんじゃなかったの。
――先生、あのとき——
「やめて」
彼女は耳を塞ぎ、首を振る。
「私は守った。守ろうとした。守らなきゃ。私が、盾にならなきゃ」
鏡の中の彼女が、子どもの肩を掴む。力は強すぎる。
――いたい。
「違う。私は正しい叱り方を——」
――こわい。
「違う。私は、私が——」
言葉が崩れ、舌が乾いた。胸がつかえる。
その次の呼吸で、声の色が変わった。吐息が湿りを増す。鏡面の手形が増え、表面が白く曇る。
「……そうよ」
笑いが混じった。
「そう。私は——泣かせたかったの」
膝が床に触れ、ワックスがきゅっと鳴る。
「怯える顔を見ると、胸の奥が甘く痺れた」
「涙の光で、私が生きてるって分かる。『先生』って呼ばれるより、泣く声の方がずっと響いた」
彼女は胸の中央を指で押し、鼓動を確かめる。
「助けたんじゃない。守ったんじゃない。支配したかったの」
「弱い声は、手のひらで形を変えられる。小さな肩は、指で震えさせられる。怯える目を見下ろすと、血が熱くなった。あれは喜び。あれだけが、私のごはん」
呼吸は荒く、吐いた息は白く濁って鏡に吸い込まれていく。鏡の裏側で、細かな泡が弾けるように見えた。
「『ありがとう』って言わせたかった。何度でも。枯れるまで。私が必要だって、証明してほしかった」
無数の手形が鏡の内側から浮かび、彼女の頬、肩、鎖骨へと触れる。冷たさはない。ただ、やわらかく、離れない。
「ごめんね。ずっと、欲しかったの。泣き顔と、お礼。あなたたちが私を必要とする瞬間だけが、本当の私だから」
彼女は額を鏡に押し当て、目を閉じた。吐息は濃く、部屋の温度が下がっていく。
* * *
朝、階段を駆け上がる足音が響いた。扉が開き、短い悲鳴が切れる。
「先生が——!」
机の列の間に、彼女は仰向けに倒れていた。顔は上を向き、口元がわずかに開いている。
両目は破裂していた。眼窩いっぱいに小さな乳歯が詰め込まれ、白い粒がぎちぎちと擦れ合っていた。血はほとんど流れていない。歯は乾ききらず、ところどころ薄い赤で繋がったままだ。
喉には白い泡の塊が固まってはみ出し、頬を汚していた。指先は教卓の縁を掻き、爪の間にはチョークの粉が詰まっている。
「救急! 早く!」
「脈、なし……」
「眼が……これ、どうなって……」
医師が灯を持って近づく。
「……眼球破裂。眼窩内に硬組織様異物……乳歯……? これは……」
言葉はここで途切れた。
「……脳の、異常かもしれない」
それらしい言い方をして、誰かが曖昧に締めた。
同僚は口を覆い、肩を震わせた。
「いい先生だったのに」
「子どもたちのために、いつも」
廊下には保護者が集まった。
「惜しい人を亡くした」
「うちの子、先生に救われたのに」
花が届き、教室の前はしだいに色で埋まった。教室の隅の姿見は布で覆われ、画鋲で留められた。布越しに、ぎちぎちという小さな音がしたが、誰も耳を寄せなかった。
* * *
葬儀の日、白い花の匂いが会場を満たした。写真の中の彼女は柔らかい目で微笑んでいる。
「守ってくれる先生でした」
「どの子にも公平に厳しく、最後には必ず抱きしめてくれた」
校長は深く頭を下げて、弔辞を読んだ。
「彼女は、最後まで生徒のために尽くした先生です。私たちは、その志を忘れません」
拍手は起きず、静かなうなずきだけが波のように広がった。
彼女のデスクには小さな花束が置かれ、スケジュール帳は閉じられた。青いインクで埋まった予定は、もう誰もなぞらない。
教室では代替の先生が授業を続け、窓の桟は丁寧に拭かれ、黒板には新しい字が並ぶ。姿見の布は、いつの間にか二重になっていた。画鋲は増え、端はテープで目張りされた。誰かが近づくと、その布はかすかに呼吸するように膨らみ、しぼむ。
夜の学校は、音を吸う。廊下の蛍光灯がひとつ、またひとつ落ち、教室の鍵が回される。教壇のチョーク受けに残った粉だけが、微かな白で夜を縁取る。
布の下の鏡は黙っていた。いや、正確には黙ってはいない。内側で、極小の噛み合わせの音が続いていた。ぎち、ぎち、と。小さく、しかし終わらないリズムで。
* * *
ここから先は、あなたの番だ。
この物語の外に立っていても、教室の空気を吸ったことがあるなら、鏡の前に立つ感覚は思い出せるはずだ。
目を合わせないようにしても、視界の端に、列が見えるだろう。泣き顔の子どもたちが、こちらを見ている列。
そのいちばん端に、あなた自身の顔が、紛れていないか。
もし見つけてしまったら、耳を澄ませてはいけない。歯の音は、ありがとうと同じ形で鳴る。甘く、明るく、食べやすい音だ。
そして、それは癖になる。
「守らなきゃ」という言葉の裏で、あなたの呼吸がどんな形をしているのか、鏡はよく知っている。
だから、近づかないで。
どうしても近づくなら、目を閉じて。
どうしても目を閉じられないなら——そのときは覚悟を。
あなたの眼窩が、何で満たされるのかを。
あなたの喉の奥で固まる白いものの、味を。
この話はもう終わった。
終わってほしいと願うなら、鏡から離れて。
離れられないなら、せめて声は出さないで。
声は、すぐ形になる。
そして形は、いつまでも残る。
——————
次話は「燃える掌」
──その熱は、誰のために燃えているのか。
「ここは間違ってないよ。数字が怖いだけ。いっしょにゆっくりやれば大丈夫」
子どもは下唇を噛んで、こくりと頷く。ノートの罫線に涙が落ちないように、おでこを寄せて計算をなぞる。彼女は背を丸め、時々頭を撫でる。汗と石鹸の混じった匂いが髪から立っていた。
職員室に戻れば、同僚が紙コップの湯気越しに囁いた。
「最近あの子、笑うようになったって。あなたのおかげよ」
「保護者が言ってたわ。『厳しいけど、ちゃんと見てくれる先生』だって」
彼女は控えめに笑い、首を振る。
「いえ、皆さんのおかげです。私ひとりじゃ何も」
言葉の角は磨かれていた。ひとつひとつが、相手の胸に刺さらない丸さで出来ている。
保護者会では父兄が列を作った。
「先生、家でも宿題するようになりました」
「叱るときも優しくて、ありがたいです」
彼女は名札を押さえ、何度も揺れるように頭を下げる。笑顔は長く留まらず、すぐ薄れる。誰も彼女の疲労の色を見つけようとはしない。
* * *
夜の教室。黒板のチョークを拭き取り、配布物を仕分け、戸締まりの札を確認したとき、黒板脇の姿見に小さな影が映った。肩を震わせ、声もなく泣いている生徒の姿。
彼女は椅子をきしませて立ち上がり、振り返る。机は整然と並び、廊下は静まり返っていた。誰もいない。
「……どこ? どこにいるの?」
返事はない。だが鏡の中の泣き顔に向かって、声が零れた。
「泣かないで。先生がいるから。大丈夫だから」
翌日、廊下の窓ガラスに嗚咽する影が映った。
「待って。今すぐ行くから」
水飲み場のステンレスの面にも、涙で濡れた頬が浮かぶ。
「先生が守るから。こっちを見て」
職員室へ駆け込む彼女を見て、若い講師が声をかけた。
「どうしたの?」
「子どもが泣いてるの。鏡の中で。助けてあげなきゃ」
「誰もいないよ?」
「いるの。私が行かないと」
短く、迷いのない調子だった。
* * *
日が経つほど、鏡の中の子どもたちは声を持ち始めた。
――どうして。
――先生は守ってくれるんじゃなかったの。
彼女は耳を塞ぎ、首を振る。
「やめて。そんなこと言わないで」
――先生の手、痛かった。
――怒鳴る声が、こわかった。
「違う。私は守ろうとしたの。守らなきゃいけないの」
彼女は胸の前で自分の手を固く握った。
「私が盾にならないと。私が——」
鏡は別の誰かを映した。泣く子の肩を掴み、揺さぶる人影。机を叩き、睨みつける人影。怯える目を見下ろし、唇の端を冷たく持ち上げる人影。
――先生、たすけて。
――痛いよ。
――こわい。
涙が滲み、声が途切れた。
「待って、今行く。先生が行くからね」
* * *
保健室の白は乾いた匂いがした。養護教諭が椅子を引く。
「最近、眠れてる?」
「眠れてるわ。問題ない」
「鏡の件、気にかかってるの。疲れだと思うけど」
「違うの。助けを求める声よ。私が行かなきゃ」
「誰かと分担しても——」
「私が行くの」
即答だった。彼女の舌には「私が」が馴染んでいた。
校長は朝礼の壇上で彼女に会釈し、終わると近寄って言った。
「無理は禁物だよ。君は十分頑張っている」
「子どもたちが待っていますから」
「他にも先生はいる」
「私が行きます」
校長は押し黙り、片眼鏡を上げた。
その夜、彼女は台所で蛍光灯を点けた。電子レンジの曇った黒い扉、冷蔵庫の扉の銀色、スマートフォンの黒い画面。どれも小さな鏡になって彼女を返す。
「見えてる」
彼女は自分に告げるように言い、コートを椅子にかけ直した。蛇口から落ちる水滴が、泣き声に似ていた。
「守るから」
手を合わせるように胸の前で指を組み、ぎゅっと握った。
* * *
朝礼の日、教卓に立つ彼女はいつもより少し早口だった。チョークが板書で擦れて音を立てる。
「ここは大事。できなくても、先生といっしょにやる」
最前列の子が手を挙げる。
「先生、鏡、どうしたの?」
教卓の上の小さな手鏡は、伏せたり起こしたりを繰り返していた。起こすたびに、教室の隅に別の泣き顔が映り、伏せれば消える。
「なんでもないよ。じゃあ次の問題」
彼女は笑ってみせたが、頬が引きつっていた。
休み時間、廊下の窓の前。
「どこ」
――ここ。
「大丈夫。こっちにおいで」
――行けない。
「じゃあ、私が行く」
――痛いの、まだ。
「ごめん……いや、ごめんじゃない。守る。守るから」
言葉がもつれ、呼吸が浅くなる。教室の隅で、小さな手鏡がかちりと音を立てて倒れた。
* * *
夕方の職員室。缶コーヒーのプルタブが鳴り、湯気が白い。
「土曜のボランティアも行くの?」
「行きます」
「家庭訪問も重なってるよ」
「行きます。あの子の家は、先生が行った方がいいから」
スケジュール帳は青いインクで埋まっている。補習、巡回、面談。
「あなたばっかり頑張らなくていいのに」
年配の教師が言った。
「私が行くと決めたので」
口調は静かで、揺れなかった。
* * *
夜。教室の扉が重く閉まる。電灯の白は冷たい。
黒板脇の姿見は、昼間よりも深い黒だった。彼女はその前に立ち、ゆっくりと手を伸ばす。冷たく硬い表面が指先に触れる。鏡は無数の泣き顔を映した。列になり、こちらを見ている。
――どうして。
――守ってくれるんじゃなかったの。
――先生、あのとき——
「やめて」
彼女は耳を塞ぎ、首を振る。
「私は守った。守ろうとした。守らなきゃ。私が、盾にならなきゃ」
鏡の中の彼女が、子どもの肩を掴む。力は強すぎる。
――いたい。
「違う。私は正しい叱り方を——」
――こわい。
「違う。私は、私が——」
言葉が崩れ、舌が乾いた。胸がつかえる。
その次の呼吸で、声の色が変わった。吐息が湿りを増す。鏡面の手形が増え、表面が白く曇る。
「……そうよ」
笑いが混じった。
「そう。私は——泣かせたかったの」
膝が床に触れ、ワックスがきゅっと鳴る。
「怯える顔を見ると、胸の奥が甘く痺れた」
「涙の光で、私が生きてるって分かる。『先生』って呼ばれるより、泣く声の方がずっと響いた」
彼女は胸の中央を指で押し、鼓動を確かめる。
「助けたんじゃない。守ったんじゃない。支配したかったの」
「弱い声は、手のひらで形を変えられる。小さな肩は、指で震えさせられる。怯える目を見下ろすと、血が熱くなった。あれは喜び。あれだけが、私のごはん」
呼吸は荒く、吐いた息は白く濁って鏡に吸い込まれていく。鏡の裏側で、細かな泡が弾けるように見えた。
「『ありがとう』って言わせたかった。何度でも。枯れるまで。私が必要だって、証明してほしかった」
無数の手形が鏡の内側から浮かび、彼女の頬、肩、鎖骨へと触れる。冷たさはない。ただ、やわらかく、離れない。
「ごめんね。ずっと、欲しかったの。泣き顔と、お礼。あなたたちが私を必要とする瞬間だけが、本当の私だから」
彼女は額を鏡に押し当て、目を閉じた。吐息は濃く、部屋の温度が下がっていく。
* * *
朝、階段を駆け上がる足音が響いた。扉が開き、短い悲鳴が切れる。
「先生が——!」
机の列の間に、彼女は仰向けに倒れていた。顔は上を向き、口元がわずかに開いている。
両目は破裂していた。眼窩いっぱいに小さな乳歯が詰め込まれ、白い粒がぎちぎちと擦れ合っていた。血はほとんど流れていない。歯は乾ききらず、ところどころ薄い赤で繋がったままだ。
喉には白い泡の塊が固まってはみ出し、頬を汚していた。指先は教卓の縁を掻き、爪の間にはチョークの粉が詰まっている。
「救急! 早く!」
「脈、なし……」
「眼が……これ、どうなって……」
医師が灯を持って近づく。
「……眼球破裂。眼窩内に硬組織様異物……乳歯……? これは……」
言葉はここで途切れた。
「……脳の、異常かもしれない」
それらしい言い方をして、誰かが曖昧に締めた。
同僚は口を覆い、肩を震わせた。
「いい先生だったのに」
「子どもたちのために、いつも」
廊下には保護者が集まった。
「惜しい人を亡くした」
「うちの子、先生に救われたのに」
花が届き、教室の前はしだいに色で埋まった。教室の隅の姿見は布で覆われ、画鋲で留められた。布越しに、ぎちぎちという小さな音がしたが、誰も耳を寄せなかった。
* * *
葬儀の日、白い花の匂いが会場を満たした。写真の中の彼女は柔らかい目で微笑んでいる。
「守ってくれる先生でした」
「どの子にも公平に厳しく、最後には必ず抱きしめてくれた」
校長は深く頭を下げて、弔辞を読んだ。
「彼女は、最後まで生徒のために尽くした先生です。私たちは、その志を忘れません」
拍手は起きず、静かなうなずきだけが波のように広がった。
彼女のデスクには小さな花束が置かれ、スケジュール帳は閉じられた。青いインクで埋まった予定は、もう誰もなぞらない。
教室では代替の先生が授業を続け、窓の桟は丁寧に拭かれ、黒板には新しい字が並ぶ。姿見の布は、いつの間にか二重になっていた。画鋲は増え、端はテープで目張りされた。誰かが近づくと、その布はかすかに呼吸するように膨らみ、しぼむ。
夜の学校は、音を吸う。廊下の蛍光灯がひとつ、またひとつ落ち、教室の鍵が回される。教壇のチョーク受けに残った粉だけが、微かな白で夜を縁取る。
布の下の鏡は黙っていた。いや、正確には黙ってはいない。内側で、極小の噛み合わせの音が続いていた。ぎち、ぎち、と。小さく、しかし終わらないリズムで。
* * *
ここから先は、あなたの番だ。
この物語の外に立っていても、教室の空気を吸ったことがあるなら、鏡の前に立つ感覚は思い出せるはずだ。
目を合わせないようにしても、視界の端に、列が見えるだろう。泣き顔の子どもたちが、こちらを見ている列。
そのいちばん端に、あなた自身の顔が、紛れていないか。
もし見つけてしまったら、耳を澄ませてはいけない。歯の音は、ありがとうと同じ形で鳴る。甘く、明るく、食べやすい音だ。
そして、それは癖になる。
「守らなきゃ」という言葉の裏で、あなたの呼吸がどんな形をしているのか、鏡はよく知っている。
だから、近づかないで。
どうしても近づくなら、目を閉じて。
どうしても目を閉じられないなら——そのときは覚悟を。
あなたの眼窩が、何で満たされるのかを。
あなたの喉の奥で固まる白いものの、味を。
この話はもう終わった。
終わってほしいと願うなら、鏡から離れて。
離れられないなら、せめて声は出さないで。
声は、すぐ形になる。
そして形は、いつまでも残る。
——————
次話は「燃える掌」
──その熱は、誰のために燃えているのか。
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