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第一章 仕方なかった者たち
最終話 舌の塔
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白い鐘楼は、曇りの日ほどよく音を通した。
礼拝堂の天井は低く、雨の気配をそのまま抱き込むように湿っている。
彼は柱の影から人の列を見渡し、いつもの言葉を置いた。
「どうか、あなたがたの重荷が軽くなりますように」
声は静かで、低く、遠くまで届く類のものではないのに、なぜか最後尾まで満ちた。
礼拝が終わると、彼は扉口に立ってひとりずつ手を取る。
「よく来られました」
「今日は眠れそうですね」
「大丈夫。ここに置いていきましょう」
頷き、握り返し、肩が下りる。人は言葉の意味よりも、置かれ方で安堵することがある。
* * *
彼は告解室で、最初の沈黙を長く取る。
格子の向こう側の呼吸が自分の呼吸と重なるのを待ち、言葉が舌の上に乗るまで待つ。
その日、最初に入ってきたのは、目のふちを赤くした中年の男だった。
「助けられなかったんじゃない、助けなかったんです」
「ええ」
「暗い水の音がして、足が、動かなかった。呼んでいました。でも、私だけが岸にいました」
男は鼻をすすり、喉を震わせる。けれどその声には、どこか乾いた気配があった。
彼はうなずき、言葉を置いた。
「よく話してくれました」
舌に落ちたのは、甘くない、焦げた蜜の匂いだった。塩でも砂糖でもない、喉の奥に貼り付く黒いもの。
「ここに置いていきましょう」
男は泣き方を思い出した子どものように、肩を揺らした。
* * *
次に来たのは女だった。
「生徒のため、って言っていました」
「ええ」
「守る、という言葉を飾りにして、私は、教室の空気を自分の息で満たしていた。子どもたちの目が、私の言葉で揺れるのが好きでした。——守るふりをして、支配していました」
声は滑らかで、舌に砂糖を擦り込むように甘く残った。
彼は目を伏せる。
「よく話してくれました。ここに置いていきましょう」
甘みは遅れて苦みに変わる。砂糖を焦がした鍋の底に残る粘りのように、舌に居座った。
* * *
三人目の靴底は、煤の匂いを連れてきた。
「僕は、火を消すために火をつけました」
「……」
「英雄になるために。『助けて』が欲しかった。救い上げた瞬間の拍手のために」
言葉は熱を帯び、彼の舌に火傷の薄皮のような痛みを置いた。
彼は呼吸の速度を整え、言葉を渡す。
「よく話してくれました。ここに置いていきましょう」
熱は一度おさまり、代わりに金属の味が長く残った。
* * *
四人目が格子の前で立ち止まった。
扉の向こうから、布が擦れるような音がした。
「座ってください」
彼が言うと、女は静かに膝を折った。深い藍色の布が膝に広がる。
「私は弱さを欲しがりました」
女は目を閉じ、言葉をゆっくりほどいた。
「泣き顔を、肩の落ちる音を、息が深くなる瞬間を。『可哀想に』と羽織をかけると、重みがこの布に移るの。——それが、私だけの蜜でした」
声は乾いていて、布と皮膚の間を指先でなぞるような音をした。
彼の舌に残ったのは、洗いきれない洗剤の甘さと、乾いた塩。
「よく話してくれました。ここに置いていきましょう」
女は頷き、布の端を指で摘んだ。
四つの声が重なって、彼の胸に落ちていく。
嘘、支配、火、同情。
どれも形を持たないのに、落ちたあとだけははっきり重かった。
胸の中心に置かれていく「石」の輪郭が、柔らかいものに変わりはじめるのを、彼は認めた。
* * *
葬儀の日は、彼の仕事が多い。
遺族の肩に手を置く。ただそれだけで、言葉は半分終わる。
「最後まで、よく隣にいらっしゃいました」
彼は泣かない。泣かないことが、泣いているように見える日がある。
火葬炉の小窓の前では、眼を閉じる時間をほんの少しだけ長くする。
熱が頬に触れ、舌に影が落ちる。
市場でパンを包まれながら、彼は喉が渇いていないことに気づく。
舌は一日の味を覚えている。
保身の乾いた甘くない蜜、教師の焦げた砂糖、消防の金属の熱、羽織の洗剤の甘さと塩。
混ざるほどに、味ははっきりした。
夜、祭壇の前で灯を落とすと、内側から声が上がる。
——置いていきましょう
自分の声と同じ高さ、同じ長さで、半拍遅れて。
最初は空耳だと思った。
二夜目には、復唱の方が少し甘いと気づいた。
三夜目、彼は胸に手を当てた。
石と呼んできたものが、石であることをやめ、柔らかい筋が上下するのを感じた。
舌に似たものが、胸の奥でひとつ、またひとつ、芽を出していた。
* * *
彼は怒りを覚えなかった。
ただ、責任感に似たものを感じた。
——預かっている
そう言うと、柔らかいものは少し落ち着く。
「預かる」と口にすれば、人は頷き、彼の舌は味を得る。
循環は美しいと、彼は思った。一つの場所に流れ込み、一つの言葉で流れ出す。
循環の中心に自分がいることは、重く、同時に、彼に生を与えた。
* * *
ある夜、彼は台所の鏡の前で口を開いた。
舌の根元のさらに奥に、薄い襞がもう一枚見えた。
指を沈めると、そこは痛くなかった。
人の言葉で育ったものだけが持つ、痺れるような甘さがあった。
吐き出すと、掌に小さな舌が落ちた。
子どもの舌ほどの大きさ。表面には微かな刻み。
「ごめんなさい」の線が、幾筋も、浅く走っている。
彼は水で流し、しばらく排水の金属音を聞いた。
胸の中で、他の小さな舌たちが擦れ合う音がした。
鐘楼の音に似ていた。けれど、もっと低く、粘っていた。
* * *
告解室に列が伸びる。
新聞が記事を大きくする。
『他所からも相談者が集う小さな教会』
『静かな言葉で人を救う男』
遠方から送られてくる手紙。
『今度、町に行きます。どうか、置いていかせてください』
彼は手紙に指を置き、紙のざらつきとインクの乾きを舌で思い浮かべた。
* * *
その日も四人が来た。
黒い蜜の匂いを纏う男は、より上手に泣けるようになっていた。
「私は、また見ていました」
彼は泣き声の温度を測り、言葉を置く。
「よく話してくれました」
砂糖の女は、言葉を磨き、言い換えの技術を身につけていた。
「守る、と言わずに、寄り添う、と言えば、誰も気づかない」
恍惚の声がして、吐息が聞こえた。
「よく話してくれました」
炎の男は、語彙を減らしていた。
「——燃やしました」
端的に、作業のように。
「よく話してくれました」
羽織の女は、声がさらに乾いていた。
「返ってきます。洗っても、落ちない匂いが」
彼は頷いた。絹の摩れる音が聞こえた。
「よく話してくれました」
四つの声が、今日も彼の胸に降り積もる。
柔らかいものは塔のように積み上がり、喉の方へと伸びていく。
格子の向こう側の声よりも、半拍遅れの内側の声の方が、彼に近くなっていく。
——置いていきましょう
——置いていきましょう
彼は、復唱に背中を預けるようになっていた。
* * *
雨の夜、女が扉を押した。
深い藍の布の匂い、洗剤と涙の混ざった甘い悪臭。
「話を、聞いてほしくて」
「ここで」
椅子を向かい合わせにする。
女は膝に羽織を広げ、指先で縁をなぞった。
「私は弱さに寄り添うふりをして、弱さを欲しがりました」
「はい」
「泣き声が、重みが、私に来るから」
「——ええ」
「でも、あなたのところに来ると、私の声は、あなたの舌に吸われる」
彼女の言葉に、僅かばかり、瞳が膨らむ。
彼は微笑んだ。
「預かるのが、私の務めです」
女は首を振る。
「預かる、と、味わう、は、違う」
内側の声が、半拍遅れて囁く。
——違わない。
彼は胸に手を当てた。
「よく話してくれました」
女は眼を伏せ、羽織の端を握りしめた。
「ここに置いていきましょう」
彼自身の声と、内側の声が重なった。
女は爪を立て、布を裂きそうになって、やめた。
「また、戻ってきますから」
女はそれだけ言って去った。
扉が閉まる音が、内側の塔に響いた。
彼は喉に指を入れ、柔らかいものの先端に触れた。
舌は増殖していた。
そのうちひとつが、彼の指を舐めた。
子どもの舌の温度をしていた。
「ごめんなさい」と刻まれた線を、指先がなぞる。
彼は吐き気と快楽の境目で立ち止まる。
半拍遅れの声が、やわらかく言った。
——置いていきましょう
* * *
それから、彼は自分の仕事を速くした。
沈黙は少し短くなった。
格子越しの声が始まる前に、内側の復唱が先に立ち上がるようになったからだ。
彼は言葉を渡し続ける。気付くものはいない。
「よく話してくれました」
「ここに置いていきましょう」
列は伸びる。
新聞は、写真を載せる。
扉の外まで人の背中が重なり、鐘楼は鳴らないのに、礼拝堂には音が満ちる。
舌が擦れ合う音。
胸の塔の、低い鐘の音。
* * *
ある朝、彼は礼拝堂の最前列に座っていた。
背もたれにもたれず、きちんと腰掛けていた。
呼吸はなかった。
口は半開きで、口腔いっぱいに他人の舌がびっしりと詰め込まれていた。
舌は乾かず、湿りを保ったまま幾重にも重なり、何本かは喉の奥から外へ垂れ下がっていた。
舌の表面には、浅い刻みが無数に走り、それぞれが短い言葉の形をしていた。
──「ごめんなさい」
──「たすけて」
──「もうしない」
──「わるくない」
──「見て」
──「許して」
舌先が触れ合うたび、かすかな音がした。
鐘ほど大きくはないが、耳に残る音。
耳に残る音は、舌に残る味に似ている。
一度覚えると、忘れにくい。
胸を切り開いたわけではないのに、喉から胸にかけて膨らみが見えた。
内側で舌が積み上がり、塔のように伸びているのが、皮膚の上からも分かった。
掌は開かれていた。
指の腹には、告解室の格子の木目が、長い時間をかけて転写されたかのように刻まれている。
「……祈りの途中、だったのだろう」
誰かが言い、誰もそれを否定しなかった。
新聞は翌日、小さく記事を載せた。
『告解の務めの途中に逝く』
『町の人、“最後まで人のために”』
* * *
告解室の格子には、花が差し込まれた。
列は二日ほどで消え、三日目からは別の列ができた。
礼を述べる列、回想を語る列、写真を撮る列。
町は男を善き記憶の中に固定しようとしていた。
固定すれば、味は薄まる。
薄まれば、舌は沈黙する。
その仕組みを彼はもう確かめられない。
鐘楼の前に白い花束が積まれた。
人々が次々と置いていく。
「最後まで人のために尽くした人だった」
「ここに置いていきましょう」
誰かが男の口癖を真似た。
言葉は軽くなり、花の香りは甘く、腐敗の手前の匂いを漂わせた。
列の端に、深い藍の布が立っていた。
羽織の女だった。
目は乾いて光を映さず、死んだ目をしていた。
彼女は棺の前に立ち、花を一輪、そっと置いた。
唇が「可哀想に」と動いたが、声は出なかった。
長く祈りはしない。手を合わせる形だけが、丁寧に作られていた。
彼女の背後で、誰かが涙を拭き、誰かがカメラを向け、誰かが「救われた」と言った。
棺は閉じられている。
だが祭壇の奥から、舌が擦れ合うかすかな音が、ときおり聞こえた。
耳を近づけた者がいたのかもしれない。
その人はきっと、こう言うだろう。
『鐘の鳴らない日にも、ここには音がある』
羽織の女は列を離れた。
深藍の布は肩で重く、両手はその重みを受け止める仕方だけを覚えていた。
彼女は背筋を伸ばし、足を運んだ。
——誰かの弱さに寄り添うためではない。
歩くという行為のために、歩いた。
門を出ると、風が布を鳴らし、洗剤と涙の混ざった甘い悪臭が薄く流れた。
彼女は一度だけ振り返った。
祭壇の奥には、誰もいない。
舌の塔だけが、かすかに音を立て続けている。
彼女は眼を閉じ、短く呼吸を整え、街へ戻った。
深い藍の布は、夜を待たずに冷たさを取り戻していく。
列はまたできるだろう。
誰かが「置いていきましょう」と言うだろう。
そして、誰かが味わうだろう。
味わった痕跡は、舌に残る。
舌に残ったものは、塔になる。
塔は、いつでも、どこでも、静かに伸びる。
鐘楼は、曇りの日ほどよく音を通す。
しかし鐘は鳴らない。
代わりに、町のどこかで、舌が擦れ合うかすかな音がしている。
それは、祈りの形をして、誰かの喉の奥で続いている。
——置いていきましょう。
——————
これにて 三山怪談集・第一夜『仕方なかった者たち』 は終わりです。
救済も赦しもなく、残るのは胸糞と静かな余韻だけ。
……読んでしまったあなたもまた、“仕方なかった者たち”の一人です。
礼拝堂の天井は低く、雨の気配をそのまま抱き込むように湿っている。
彼は柱の影から人の列を見渡し、いつもの言葉を置いた。
「どうか、あなたがたの重荷が軽くなりますように」
声は静かで、低く、遠くまで届く類のものではないのに、なぜか最後尾まで満ちた。
礼拝が終わると、彼は扉口に立ってひとりずつ手を取る。
「よく来られました」
「今日は眠れそうですね」
「大丈夫。ここに置いていきましょう」
頷き、握り返し、肩が下りる。人は言葉の意味よりも、置かれ方で安堵することがある。
* * *
彼は告解室で、最初の沈黙を長く取る。
格子の向こう側の呼吸が自分の呼吸と重なるのを待ち、言葉が舌の上に乗るまで待つ。
その日、最初に入ってきたのは、目のふちを赤くした中年の男だった。
「助けられなかったんじゃない、助けなかったんです」
「ええ」
「暗い水の音がして、足が、動かなかった。呼んでいました。でも、私だけが岸にいました」
男は鼻をすすり、喉を震わせる。けれどその声には、どこか乾いた気配があった。
彼はうなずき、言葉を置いた。
「よく話してくれました」
舌に落ちたのは、甘くない、焦げた蜜の匂いだった。塩でも砂糖でもない、喉の奥に貼り付く黒いもの。
「ここに置いていきましょう」
男は泣き方を思い出した子どものように、肩を揺らした。
* * *
次に来たのは女だった。
「生徒のため、って言っていました」
「ええ」
「守る、という言葉を飾りにして、私は、教室の空気を自分の息で満たしていた。子どもたちの目が、私の言葉で揺れるのが好きでした。——守るふりをして、支配していました」
声は滑らかで、舌に砂糖を擦り込むように甘く残った。
彼は目を伏せる。
「よく話してくれました。ここに置いていきましょう」
甘みは遅れて苦みに変わる。砂糖を焦がした鍋の底に残る粘りのように、舌に居座った。
* * *
三人目の靴底は、煤の匂いを連れてきた。
「僕は、火を消すために火をつけました」
「……」
「英雄になるために。『助けて』が欲しかった。救い上げた瞬間の拍手のために」
言葉は熱を帯び、彼の舌に火傷の薄皮のような痛みを置いた。
彼は呼吸の速度を整え、言葉を渡す。
「よく話してくれました。ここに置いていきましょう」
熱は一度おさまり、代わりに金属の味が長く残った。
* * *
四人目が格子の前で立ち止まった。
扉の向こうから、布が擦れるような音がした。
「座ってください」
彼が言うと、女は静かに膝を折った。深い藍色の布が膝に広がる。
「私は弱さを欲しがりました」
女は目を閉じ、言葉をゆっくりほどいた。
「泣き顔を、肩の落ちる音を、息が深くなる瞬間を。『可哀想に』と羽織をかけると、重みがこの布に移るの。——それが、私だけの蜜でした」
声は乾いていて、布と皮膚の間を指先でなぞるような音をした。
彼の舌に残ったのは、洗いきれない洗剤の甘さと、乾いた塩。
「よく話してくれました。ここに置いていきましょう」
女は頷き、布の端を指で摘んだ。
四つの声が重なって、彼の胸に落ちていく。
嘘、支配、火、同情。
どれも形を持たないのに、落ちたあとだけははっきり重かった。
胸の中心に置かれていく「石」の輪郭が、柔らかいものに変わりはじめるのを、彼は認めた。
* * *
葬儀の日は、彼の仕事が多い。
遺族の肩に手を置く。ただそれだけで、言葉は半分終わる。
「最後まで、よく隣にいらっしゃいました」
彼は泣かない。泣かないことが、泣いているように見える日がある。
火葬炉の小窓の前では、眼を閉じる時間をほんの少しだけ長くする。
熱が頬に触れ、舌に影が落ちる。
市場でパンを包まれながら、彼は喉が渇いていないことに気づく。
舌は一日の味を覚えている。
保身の乾いた甘くない蜜、教師の焦げた砂糖、消防の金属の熱、羽織の洗剤の甘さと塩。
混ざるほどに、味ははっきりした。
夜、祭壇の前で灯を落とすと、内側から声が上がる。
——置いていきましょう
自分の声と同じ高さ、同じ長さで、半拍遅れて。
最初は空耳だと思った。
二夜目には、復唱の方が少し甘いと気づいた。
三夜目、彼は胸に手を当てた。
石と呼んできたものが、石であることをやめ、柔らかい筋が上下するのを感じた。
舌に似たものが、胸の奥でひとつ、またひとつ、芽を出していた。
* * *
彼は怒りを覚えなかった。
ただ、責任感に似たものを感じた。
——預かっている
そう言うと、柔らかいものは少し落ち着く。
「預かる」と口にすれば、人は頷き、彼の舌は味を得る。
循環は美しいと、彼は思った。一つの場所に流れ込み、一つの言葉で流れ出す。
循環の中心に自分がいることは、重く、同時に、彼に生を与えた。
* * *
ある夜、彼は台所の鏡の前で口を開いた。
舌の根元のさらに奥に、薄い襞がもう一枚見えた。
指を沈めると、そこは痛くなかった。
人の言葉で育ったものだけが持つ、痺れるような甘さがあった。
吐き出すと、掌に小さな舌が落ちた。
子どもの舌ほどの大きさ。表面には微かな刻み。
「ごめんなさい」の線が、幾筋も、浅く走っている。
彼は水で流し、しばらく排水の金属音を聞いた。
胸の中で、他の小さな舌たちが擦れ合う音がした。
鐘楼の音に似ていた。けれど、もっと低く、粘っていた。
* * *
告解室に列が伸びる。
新聞が記事を大きくする。
『他所からも相談者が集う小さな教会』
『静かな言葉で人を救う男』
遠方から送られてくる手紙。
『今度、町に行きます。どうか、置いていかせてください』
彼は手紙に指を置き、紙のざらつきとインクの乾きを舌で思い浮かべた。
* * *
その日も四人が来た。
黒い蜜の匂いを纏う男は、より上手に泣けるようになっていた。
「私は、また見ていました」
彼は泣き声の温度を測り、言葉を置く。
「よく話してくれました」
砂糖の女は、言葉を磨き、言い換えの技術を身につけていた。
「守る、と言わずに、寄り添う、と言えば、誰も気づかない」
恍惚の声がして、吐息が聞こえた。
「よく話してくれました」
炎の男は、語彙を減らしていた。
「——燃やしました」
端的に、作業のように。
「よく話してくれました」
羽織の女は、声がさらに乾いていた。
「返ってきます。洗っても、落ちない匂いが」
彼は頷いた。絹の摩れる音が聞こえた。
「よく話してくれました」
四つの声が、今日も彼の胸に降り積もる。
柔らかいものは塔のように積み上がり、喉の方へと伸びていく。
格子の向こう側の声よりも、半拍遅れの内側の声の方が、彼に近くなっていく。
——置いていきましょう
——置いていきましょう
彼は、復唱に背中を預けるようになっていた。
* * *
雨の夜、女が扉を押した。
深い藍の布の匂い、洗剤と涙の混ざった甘い悪臭。
「話を、聞いてほしくて」
「ここで」
椅子を向かい合わせにする。
女は膝に羽織を広げ、指先で縁をなぞった。
「私は弱さに寄り添うふりをして、弱さを欲しがりました」
「はい」
「泣き声が、重みが、私に来るから」
「——ええ」
「でも、あなたのところに来ると、私の声は、あなたの舌に吸われる」
彼女の言葉に、僅かばかり、瞳が膨らむ。
彼は微笑んだ。
「預かるのが、私の務めです」
女は首を振る。
「預かる、と、味わう、は、違う」
内側の声が、半拍遅れて囁く。
——違わない。
彼は胸に手を当てた。
「よく話してくれました」
女は眼を伏せ、羽織の端を握りしめた。
「ここに置いていきましょう」
彼自身の声と、内側の声が重なった。
女は爪を立て、布を裂きそうになって、やめた。
「また、戻ってきますから」
女はそれだけ言って去った。
扉が閉まる音が、内側の塔に響いた。
彼は喉に指を入れ、柔らかいものの先端に触れた。
舌は増殖していた。
そのうちひとつが、彼の指を舐めた。
子どもの舌の温度をしていた。
「ごめんなさい」と刻まれた線を、指先がなぞる。
彼は吐き気と快楽の境目で立ち止まる。
半拍遅れの声が、やわらかく言った。
——置いていきましょう
* * *
それから、彼は自分の仕事を速くした。
沈黙は少し短くなった。
格子越しの声が始まる前に、内側の復唱が先に立ち上がるようになったからだ。
彼は言葉を渡し続ける。気付くものはいない。
「よく話してくれました」
「ここに置いていきましょう」
列は伸びる。
新聞は、写真を載せる。
扉の外まで人の背中が重なり、鐘楼は鳴らないのに、礼拝堂には音が満ちる。
舌が擦れ合う音。
胸の塔の、低い鐘の音。
* * *
ある朝、彼は礼拝堂の最前列に座っていた。
背もたれにもたれず、きちんと腰掛けていた。
呼吸はなかった。
口は半開きで、口腔いっぱいに他人の舌がびっしりと詰め込まれていた。
舌は乾かず、湿りを保ったまま幾重にも重なり、何本かは喉の奥から外へ垂れ下がっていた。
舌の表面には、浅い刻みが無数に走り、それぞれが短い言葉の形をしていた。
──「ごめんなさい」
──「たすけて」
──「もうしない」
──「わるくない」
──「見て」
──「許して」
舌先が触れ合うたび、かすかな音がした。
鐘ほど大きくはないが、耳に残る音。
耳に残る音は、舌に残る味に似ている。
一度覚えると、忘れにくい。
胸を切り開いたわけではないのに、喉から胸にかけて膨らみが見えた。
内側で舌が積み上がり、塔のように伸びているのが、皮膚の上からも分かった。
掌は開かれていた。
指の腹には、告解室の格子の木目が、長い時間をかけて転写されたかのように刻まれている。
「……祈りの途中、だったのだろう」
誰かが言い、誰もそれを否定しなかった。
新聞は翌日、小さく記事を載せた。
『告解の務めの途中に逝く』
『町の人、“最後まで人のために”』
* * *
告解室の格子には、花が差し込まれた。
列は二日ほどで消え、三日目からは別の列ができた。
礼を述べる列、回想を語る列、写真を撮る列。
町は男を善き記憶の中に固定しようとしていた。
固定すれば、味は薄まる。
薄まれば、舌は沈黙する。
その仕組みを彼はもう確かめられない。
鐘楼の前に白い花束が積まれた。
人々が次々と置いていく。
「最後まで人のために尽くした人だった」
「ここに置いていきましょう」
誰かが男の口癖を真似た。
言葉は軽くなり、花の香りは甘く、腐敗の手前の匂いを漂わせた。
列の端に、深い藍の布が立っていた。
羽織の女だった。
目は乾いて光を映さず、死んだ目をしていた。
彼女は棺の前に立ち、花を一輪、そっと置いた。
唇が「可哀想に」と動いたが、声は出なかった。
長く祈りはしない。手を合わせる形だけが、丁寧に作られていた。
彼女の背後で、誰かが涙を拭き、誰かがカメラを向け、誰かが「救われた」と言った。
棺は閉じられている。
だが祭壇の奥から、舌が擦れ合うかすかな音が、ときおり聞こえた。
耳を近づけた者がいたのかもしれない。
その人はきっと、こう言うだろう。
『鐘の鳴らない日にも、ここには音がある』
羽織の女は列を離れた。
深藍の布は肩で重く、両手はその重みを受け止める仕方だけを覚えていた。
彼女は背筋を伸ばし、足を運んだ。
——誰かの弱さに寄り添うためではない。
歩くという行為のために、歩いた。
門を出ると、風が布を鳴らし、洗剤と涙の混ざった甘い悪臭が薄く流れた。
彼女は一度だけ振り返った。
祭壇の奥には、誰もいない。
舌の塔だけが、かすかに音を立て続けている。
彼女は眼を閉じ、短く呼吸を整え、街へ戻った。
深い藍の布は、夜を待たずに冷たさを取り戻していく。
列はまたできるだろう。
誰かが「置いていきましょう」と言うだろう。
そして、誰かが味わうだろう。
味わった痕跡は、舌に残る。
舌に残ったものは、塔になる。
塔は、いつでも、どこでも、静かに伸びる。
鐘楼は、曇りの日ほどよく音を通す。
しかし鐘は鳴らない。
代わりに、町のどこかで、舌が擦れ合うかすかな音がしている。
それは、祈りの形をして、誰かの喉の奥で続いている。
——置いていきましょう。
——————
これにて 三山怪談集・第一夜『仕方なかった者たち』 は終わりです。
救済も赦しもなく、残るのは胸糞と静かな余韻だけ。
……読んでしまったあなたもまた、“仕方なかった者たち”の一人です。
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指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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