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10.ご無理はなさらず
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謁見を終え、控えの間に戻った直後だった。
赤絨毯の上に、慌ただしい足音が響いたかと思うと、クラリーヌの前に一人の男がすがるように立ちはだかった。
「クラリーヌ、頼む……戻ってきてくれ。きみがいないと、もう仕事が……」
ティエリだった。
その姿は、かつて侯爵家の嫡男として傲然と振る舞っていた男とは思えないほど、余裕を失っていた。
周囲の貴族たちが一斉に視線を向けるなか、それすら気にも留めていない。
「きみがいたときは、何もかも回っていたんだ。書類も段取りも、母の機嫌取りさえ……。無理をするなって、ちゃんと気遣ってたつもりだ。なのに、どうして、そんなに冷たく……」
その言葉に、クラリーヌの足が止まる。
振り返ったその目には、怒りも憐れみもなかった。ただ、静かに真実を伝える視線だけがあった。
「……『無理をするな』。ええ、あなたは何度もそうおっしゃいましたね」
ティエリは、ほっとしたような表情を浮かべる──が、それは次の瞬間、粉々に砕かれる。
「でも、どうすれば無理せずに済むかを、あなたが考えたことは一度でもありましたか?」
沈黙が落ちる。
クラリーヌは、穏やかな声のまま続けた。
「言ったから優しい、言ったから責任は果たした……。あなたの『無理をするな』は、誰かを気遣う言葉ではなく、責任から逃れるための呪文にすぎませんでした」
「……っ!」
「私は、無理をしないために、今は本当に行動で支えてくれる人と共にいます。あなたのように言うだけの人ではなく、黙って手を差し伸べてくれる人と」
その言葉とともに、ジュリアンがそっとクラリーヌの隣に立つ。
彼は何も言わない。ただその存在が、すべての答えだった。
ティエリは、言葉を失ったまま立ち尽くす。
自分が繰り返してきた「優しさ」は、ただの空疎な自己満足に過ぎない──そのことに、ようやく気づいてしまった男の顔だった。
だが、その静寂を打ち破ったのは、冷たい女の声だった。
「情けないわね、ティエリさま」
エリサだった。
張りつめた表情でクラリーヌを睨みつけたあと、吐き捨てるように言葉を投げた。
「私がいるのに元婚約者にすがるなんて、どんな神経してるの? 最初から私なんてどうでもよかったんでしょう」
「お前じゃ務まらなかったんだよ! お飾りにはなれても、クラリーヌのように立ち回ることもできないくせに!」
「なによそれ!? 最初から自分でやるべきことを人に押しつけておいて、うまくいかなかったら使えない? 何様のつもりよ!」
エリサは吐き捨てるように言った。
「婚約者だから? 気が利くから? そんなの言い訳にもならないわ! 本来あんたがやるべきことよ、自分でやりなさいよ! 丸投げして当然みたいな態度こそが、終わってるのよ!」
ティエリの顔が歪む。
「……ふざけるな。お前だって知ってたくせに!」
「……は?」
「クラリーヌがどれだけの仕事を押しつけられていたか、最初から分かってたはずだろ。それでもお前は、ああいう子がいれば楽でいいですねなんて笑ってたじゃないか!」
「……っ!」
エリサの表情が引きつる。
「自分は苦労せずにすむと思って、知らんふりをしてただけだ。今さら『あたしは被害者です』みたいな顔をするな!」
エリサの表情が引きつったまま、沈黙が落ちた。
だが次の瞬間、彼女はふいに視線を逸らし、まるでその場を仕切り直すかのように、ドレスの裾を軽く整えてから、そっと口元に笑みを浮かべる。
「……なるほど。そうやって私に責任を押しつけたいわけね。いいわ、ティエリさま。あなたには、最初からがっかりしていたの」
その声音は一転して冷ややかだった。
次に向けられた視線は、クラリーヌ──ではなく、その隣に立つ黒髪の青年、ジュリアンだった。
「ベルモントさま。……いえ、ジュリアン殿下とお呼びすべきかしら?」
呼びかけの声に、ジュリアンの視線がわずかに動く。
エリサはそこに、わずかな望みをかけるように微笑んだ。
「かつては失礼なことを申し上げたかもしれません。でも、あのときはまさか……こんなに立派なご身分の方だったとは知らずに。今なら、私、もっと……誠意を込めてお付き合いできると思いますわ」
丁寧な言葉遣いとは裏腹に、その声音には明らかに媚びが交じっていた。
クラリーヌはしばし黙り込む。
そのあまりにも露骨な乗り換え発言に、何を言うべきか一瞬戸惑ったのだ。
だが、ジュリアンは特に表情を変えることなく、短く答えた。
「それは光栄ですね──ただ、私にはもう、最初から誠意を持って接してくれた方が隣にいますので」
エリサの笑みが引きつる。
その目に、はじめて明確な敗北の色が滲んだ。
その隣ではティエリが、苦々しい表情で拳を握りしめている。
エリサをなじりながらも、今この場で自分が最も愚かだったと証明されてしまった事実から、どうしても目を背けられないでいた。
二人の沈黙が痛々しいほど場に残るなか、クラリーヌは静かに一歩、前へ出る。
その瞳には、怒りも嘲りもなかった。あるのは、ただ澄んだ静けさだけ。
「お二人とも、ご無理はなさらず」
それはかつて、自分に向けて投げかけられてきた、あの空虚な言葉。
けれど今、その一言がこんなにも重く、響きを持って返せる日が来るとは思ってもみなかった。
そして何よりも──彼らはもう、クラリーヌにとって関わるべき相手ではなかった。
クラリーヌはジュリアンの隣へと戻り、静かに歩を進める。
その背にあるのは、過去ではなく、これから歩む未来だけだった。
赤絨毯の上に、慌ただしい足音が響いたかと思うと、クラリーヌの前に一人の男がすがるように立ちはだかった。
「クラリーヌ、頼む……戻ってきてくれ。きみがいないと、もう仕事が……」
ティエリだった。
その姿は、かつて侯爵家の嫡男として傲然と振る舞っていた男とは思えないほど、余裕を失っていた。
周囲の貴族たちが一斉に視線を向けるなか、それすら気にも留めていない。
「きみがいたときは、何もかも回っていたんだ。書類も段取りも、母の機嫌取りさえ……。無理をするなって、ちゃんと気遣ってたつもりだ。なのに、どうして、そんなに冷たく……」
その言葉に、クラリーヌの足が止まる。
振り返ったその目には、怒りも憐れみもなかった。ただ、静かに真実を伝える視線だけがあった。
「……『無理をするな』。ええ、あなたは何度もそうおっしゃいましたね」
ティエリは、ほっとしたような表情を浮かべる──が、それは次の瞬間、粉々に砕かれる。
「でも、どうすれば無理せずに済むかを、あなたが考えたことは一度でもありましたか?」
沈黙が落ちる。
クラリーヌは、穏やかな声のまま続けた。
「言ったから優しい、言ったから責任は果たした……。あなたの『無理をするな』は、誰かを気遣う言葉ではなく、責任から逃れるための呪文にすぎませんでした」
「……っ!」
「私は、無理をしないために、今は本当に行動で支えてくれる人と共にいます。あなたのように言うだけの人ではなく、黙って手を差し伸べてくれる人と」
その言葉とともに、ジュリアンがそっとクラリーヌの隣に立つ。
彼は何も言わない。ただその存在が、すべての答えだった。
ティエリは、言葉を失ったまま立ち尽くす。
自分が繰り返してきた「優しさ」は、ただの空疎な自己満足に過ぎない──そのことに、ようやく気づいてしまった男の顔だった。
だが、その静寂を打ち破ったのは、冷たい女の声だった。
「情けないわね、ティエリさま」
エリサだった。
張りつめた表情でクラリーヌを睨みつけたあと、吐き捨てるように言葉を投げた。
「私がいるのに元婚約者にすがるなんて、どんな神経してるの? 最初から私なんてどうでもよかったんでしょう」
「お前じゃ務まらなかったんだよ! お飾りにはなれても、クラリーヌのように立ち回ることもできないくせに!」
「なによそれ!? 最初から自分でやるべきことを人に押しつけておいて、うまくいかなかったら使えない? 何様のつもりよ!」
エリサは吐き捨てるように言った。
「婚約者だから? 気が利くから? そんなの言い訳にもならないわ! 本来あんたがやるべきことよ、自分でやりなさいよ! 丸投げして当然みたいな態度こそが、終わってるのよ!」
ティエリの顔が歪む。
「……ふざけるな。お前だって知ってたくせに!」
「……は?」
「クラリーヌがどれだけの仕事を押しつけられていたか、最初から分かってたはずだろ。それでもお前は、ああいう子がいれば楽でいいですねなんて笑ってたじゃないか!」
「……っ!」
エリサの表情が引きつる。
「自分は苦労せずにすむと思って、知らんふりをしてただけだ。今さら『あたしは被害者です』みたいな顔をするな!」
エリサの表情が引きつったまま、沈黙が落ちた。
だが次の瞬間、彼女はふいに視線を逸らし、まるでその場を仕切り直すかのように、ドレスの裾を軽く整えてから、そっと口元に笑みを浮かべる。
「……なるほど。そうやって私に責任を押しつけたいわけね。いいわ、ティエリさま。あなたには、最初からがっかりしていたの」
その声音は一転して冷ややかだった。
次に向けられた視線は、クラリーヌ──ではなく、その隣に立つ黒髪の青年、ジュリアンだった。
「ベルモントさま。……いえ、ジュリアン殿下とお呼びすべきかしら?」
呼びかけの声に、ジュリアンの視線がわずかに動く。
エリサはそこに、わずかな望みをかけるように微笑んだ。
「かつては失礼なことを申し上げたかもしれません。でも、あのときはまさか……こんなに立派なご身分の方だったとは知らずに。今なら、私、もっと……誠意を込めてお付き合いできると思いますわ」
丁寧な言葉遣いとは裏腹に、その声音には明らかに媚びが交じっていた。
クラリーヌはしばし黙り込む。
そのあまりにも露骨な乗り換え発言に、何を言うべきか一瞬戸惑ったのだ。
だが、ジュリアンは特に表情を変えることなく、短く答えた。
「それは光栄ですね──ただ、私にはもう、最初から誠意を持って接してくれた方が隣にいますので」
エリサの笑みが引きつる。
その目に、はじめて明確な敗北の色が滲んだ。
その隣ではティエリが、苦々しい表情で拳を握りしめている。
エリサをなじりながらも、今この場で自分が最も愚かだったと証明されてしまった事実から、どうしても目を背けられないでいた。
二人の沈黙が痛々しいほど場に残るなか、クラリーヌは静かに一歩、前へ出る。
その瞳には、怒りも嘲りもなかった。あるのは、ただ澄んだ静けさだけ。
「お二人とも、ご無理はなさらず」
それはかつて、自分に向けて投げかけられてきた、あの空虚な言葉。
けれど今、その一言がこんなにも重く、響きを持って返せる日が来るとは思ってもみなかった。
そして何よりも──彼らはもう、クラリーヌにとって関わるべき相手ではなかった。
クラリーヌはジュリアンの隣へと戻り、静かに歩を進める。
その背にあるのは、過去ではなく、これから歩む未来だけだった。
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