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四章(ハッピーエンド編)
その2
しおりを挟むこ、こ、怖かった。
覚悟を決めて彼の家に来たは良いものの。やはり慣れない環境で己の身を委ねるというのは、案外恐ろしいものである。
というより、最中の須藤の様子が怖かった。徐々に間隔の狭まる荒い息。じっとりと舐るような獣の視線。興奮に震え汗ばむ手が、いつ理性をかなぐり捨てこちらを害するかもしれぬ状況に、正直自身も限界だった。あのまま続けていたら、一週間前の晩のよう人目を憚らず泣いていたかもしれない。
引っ越しに勘付かれぬよう、彼を家に近づけたくない。そんな打算からくる提案だったが、芳しくない状況に肩を落とす。しかし己以上に落ち込んだ様子を見せる須藤に、放置するのも良くないだろうと、躊躇いがちに声をかけた。
「須藤くん」
先程の件に触れるのは、藪蛇になるかと思い話題を選ぶ。
「俺、君の昔の話とか聞きたいな」
「えっ……」
「ほら、気分転換も兼ねてさ。せっかく須藤くんの家にも来れたし、君のことちゃんと知りたいんだ」
心にも思っていない台詞だった。しかしその言葉で、青年の目に光が戻る。
「は、はい! ええと、何から話せばいいか……」
そう言いつつ、須藤はぽつりぽつりと自身のことを語りはじめた。己の家族のことから始まり、幼少から現在に至るまでのエピソードを断片的にその唇から零す。
「母は俺を産んですぐ、不倫相手の男と駆け落ちしました。だから俺や兄達は父方の実家に預けられて、祖父母を親がわりに育ったんです」
「母似の俺は、祖父母と兄達から邪険にされ疎まれてた。ある時見兼ねた父が、当時恋人だった女の家に俺を住ませて、一時期は父と女の三人で暮らしていました」
「……そこで、虐待を受けて。最終的に、俺は遠い親戚の家に預けられることになりました。大人の男との接触に恐怖心を抱くようになった俺を、養母は親身に、甲斐甲斐しく世話をしてくれた」
「俺が学校で問題行動を起こしたり、逆に女絡みのいざこざに巻き込まれイジメを受けた時も、養母は俺の味方でいてくれた」
「父と違って、養母には育ててもらった恩を感じていたんです。だから例え何をされても、十八歳の時までずっと我慢していた。遠方の大学に通うため家を出る日、俺は逆上した養母に包丁で脇腹を刺されました」
その時の傷、まだ残ってるんですよ。そう何でもない事のように、須藤は服を捲り上げ、右脇腹にある引き攣れた傷跡を見せる。
「そういう経緯があって俺、男も女も同じぐらい苦手で……まともな会社勤めも出来ないので、大学卒業した後は父の金銭援助を受けながら、フリーランスの仕事をしてました。一昨年からは一人で生活出来る稼ぎになって、今は支援を断ってます。もう俺も、あまり彼とは関わりたくないので」
「須藤くん」
「何ですか」
「もう良いよ。もう、大丈夫だから」
声があからさまに震えているのを自覚する。
聞かなければ良かった。それが自身の率直な本音だ。
「…………アっ、す、みません。いきなりするには重い話でしたよね」
「それは……いや、確かに重かったけど」
ベッドの上に投げ出されていた、須藤の手を握る。びくと震える青年のそれを、より固く握り込んだ後、言葉を紡いだ。
「須藤くん、今日は何もしないで一緒に寝ようか」
「え、でも」
「大丈夫! 本当に何もしないから。それにもし、君が何かしても逃げないよ」
そう言ってぎこちない、しかし本心からの笑みを口元に浮かべる。
我ながら馬鹿なことをしていると思った。それでもただ、この時ばかりはそうしていたかったのだ。
自身が味わう恐怖も痛みも、きっとこの青年が今までの人生で受けてきたそれと比べたら、大したものでもない。
そう思った途端。文字通り何もかもが、どうでも良くなった。
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