最強の師匠、最後の授業 ~「強くなれ」と教えた弟子が暴君になったので、責任を取って殺しに行きます~

トウガイ(灯亥)

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第9話 弱さを学ぶこと

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剣を握る手が震えている。

血が滲んで、柄が滑る。肩の傷口から熱が這い上がり、視界の端がぼやける。息を吸うたびに脇腹の切り傷が痛む。騎士団長との戦いで負った傷が、まだ塞がっていない。

それでも、俺は剣を構えた。

目の前にいるのは、怪物だ。

黒い霧に包まれ、人の形を失いかけている。腕は異様に長く伸び、指先は鉤爪に変わっている。背中から這い出た触手が、まるで意思を持つように蠢いている。

だが、顔だけはまだ人間のままだった。

「師匠……」

フェリクスの声が、霧の奥から漏れた。

苦しそうに、絞り出すような声だった。目が、俺を見ている。助けを求めているのか、それとも殺してほしいと懇願しているのか。

俺は、唾を飲み込んだ。

「来い」

声が、思ったより低く出た。

「授業は、まだ終わっていない」

フェリクスの目が、わずかに見開かれた。

次の瞬間、彼は地面を蹴った。

速い。

怪物化する前より、明らかに速い。黒い霧が彼の動きを加速させている。触手が空気を切り裂き、俺の首を狙って伸びてくる。

俺は横に跳んだ。

触手が地面に叩きつけられ、土が爆ぜる。その衝撃で俺の体が揺れる。着地の瞬間、肩の傷が悲鳴を上げた。

「ぐっ……」

歯を食いしばる。

フェリクスが振り返る。顔に苦悶の色が浮かんでいる。

「逃げて……」

彼の声が、懇願するように響いた。

「もう、抑えられない……」

「逃げない」

俺は剣を握り直した。

「お前と、向き合う」

フェリクスの目に、何かが宿った。

光なのか、絶望なのか、俺には判別できなかった。

彼が再び突進してくる。

今度は触手だけではなく、鉤爪になった両手も同時に襲いかかってきた。三方向からの攻撃。避けられる隙間がない。

俺は、剣を横に薙いだ。

刃が触手を切り裂く。だが黒い霧が傷口から噴き出し、すぐに再生する。鉤爪が俺の頬を掠めた。皮膚が裂け、血が飛ぶ。

痛みを無視して、俺は踏み込んだ。

フェリクスの懐に入る。剣の切っ先を、彼の首筋に突きつける。

「……っ」

フェリクスが、動きを止めた。

息が、荒い。俺の剣先が、彼の喉元に触れている。少しでも力を入れれば、刺さる距離だ。

「殺せ」

フェリクスの声が、かすれていた。

「俺を、殺してくれ」

「断る」

俺は剣を引いた。

「死んで楽になろうなんて、許さない」

フェリクスの目が、驚愕に染まった。

「リアと同じことを言うのか……」

「そうだ」

俺は剣を下ろした。

「お前は生きて、償え」

その瞬間、フェリクスの体から黒い霧が爆発的に噴き出した。

衝撃波が俺を襲う。

体が宙に浮き、地面に叩きつけられた。背中から落ちて、肺の空気が全部抜ける。視界が白く染まる。

「先生!」

エリナの声が遠くから聞こえた。

俺は咳き込みながら起き上がった。口の中に土の味がする。肩の傷が開いたのか、シャツが血で濡れている。

フェリクスを見た。

彼は、完全に制御を失っていた。

人の形がほとんど残っていない。黒い霧が渦を巻き、その中心に何かが蠢いている。触手が何本も生え、地面を這いずり回っている。

だが、顔だけはまだそこにあった。

苦しそうに歪んだ、フェリクスの顔が。

「師匠……」

霧の奥から、声が漏れた。

「なぜ……俺を、見ていてくれなかった……」

俺は、息を吐いた。

「見ていた」

静かに、答えた。

「だが、言葉を持っていなかった」

フェリクスの動きが、止まった。

「言葉を……?」

彼の声が、震えていた。

「俺が王になっても、何も言わなかった……」

「ああ」

俺は剣を握り直した。

「言うべき言葉を持っていなかったんだ」

沈黙が落ちた。

風が吹いて、黒い霧が揺れた。

「そうだ。俺の中には何もなかった。お前に与えるべき教えも、リアを救う力も。ただの空っぽな男だった」

俺は一歩、前に踏み出した。

「だから、逃げた。自分の空虚さを見透かされるのが嫌で」

フェリクスの体が、震えた。

黒い霧が激しく渦巻き、触手が無秩序に暴れ始めた。

「空っぽ……空っぽ……」

彼の声が、壊れたように反響する。

「師匠も、空っぽだったのか……」

触手が地面を叩く。土が跳ね上がる。

「俺も、空っぽだ……」

鉤爪が空を切る。

「中身なんか、何もない……」

黒い霧が膨れ上がる。

「なら、消えてしまえばいい……」

フェリクスの顔が、苦痛に歪んだ。

「全部、消えてしまえば……」

彼の体が、さらに膨張した。人間の面影が消えかけている。

俺は、走り出した。

傷ついた体が悲鳴を上げる。だが止まらない。剣を構え、フェリクスに向かって突進
する。

触手が襲いかかってくる。

俺は剣を振るった。一本、二本と切り落とす。だが次々に生えてくる。きりがない。
それでも、進んだ。

鉤爪が俺の腕を掠める。血が飛ぶ。痛みが走る。

構わず、踏み込んだ。

黒い霧が俺を包む。視界が奪われる。息が詰まる。

それでも、前に進んだ。

そこは、深海のようだった。

音もなく、光もなく、ただ圧倒的な孤独だけが沈殿していた。

重い水圧のような悲しみが、俺の肌にまとわりつく。誰もいない。誰も来ない。そう
信じ込んでいる子供の、閉ざされた箱庭。

俺は、その冷たい水をかき分けて進んだ。

霧の奥に、何かが見えた。

小さな影だ。

蹲って、泣いている。

幼い子供の姿だった。

俺は、その影に手を伸ばした。

「フェリクス」

声をかけた。

子供が、顔を上げた。

あの日、俺が拾った時の顔だった。

痩せて、汚れて、怯えていた顔。

「強くなれば、誰かが隣にいてくれると思ったんだな」

俺は、膝をついた。

子供が、目を見開いた。

「でも、違った。強くなればなるほど、周りから人がいなくなった」

俺は手を伸ばした。

子供の目から、涙が零れた。

「寒かったろう。高い場所は、風が強すぎる」

俺の指が、子供の頭に触れた。

子供が、泣き始めた。

声を上げて、泣いた。

「俺も、同じだった」

俺は、子供の頭を撫でた。

「高いところに登れば登るほど、寒くなった」

子供が、俺を見上げた。

「だから、降りてきたんだ」

だが、子供は泣き続けた。

俺の言葉が、届かない。

黒い霧が、また濃くなり始めた。

深海の水圧が、さらに重くなる。

このままでは、フェリクスは完全に飲み込まれる。

俺は、立ち上がった。

「フェリクス」

声をかけた。

だが、子供は泣き続けている。

俺は、拳を握った。

そして、その拳を、子供の頭に振り下ろした。

――ゴツン。

鈍い音が響いた。

子供の泣き声が、止まった。

彼は、頭を押さえて、俺を見上げた。

目が、丸くなっている。

「痛いか」

俺は、静かに言った。

「それが、生きているということだ」

子供の目から、涙が零れた。

だが、今度は違う涙だった。

「師匠……」

子供の声が、震えていた。

「痛い……」

「ああ」

俺は頷いた。

「痛いだろう。寒いだろう。苦しいだろう」

子供が、俺の腰にしがみついた。

「でも、それが生きているということだ」

俺は、子供を抱きしめた。

「お前は一人じゃない。俺がいる」

子供が、声を上げて泣いた。

深海が、揺らいだ。

光が、差し込んできた。

黒い霧が、薄れ始めた。

俺は、目を開いた。

霧が霧散し、朝の光が差し込んできた。

世界の輪郭が、ゆっくりと戻ってくる。

焼けた土の匂い。風が木々を揺らす音。遠くで鳥が鳴く声。

それらは、あまりにも当たり前で、残酷なほどに平和だった。

俺たちはただ、その圧倒的な日常の中に放り出された迷子のように、立ち尽くしていた。

俺の目の前に、フェリクスがいた。

人間の姿に戻っている。

地面に膝をつき、頭を押さえている。

「痛い……」

彼の声が、子供のように震えていた。

「痛い……師匠……」

俺は、彼の前にしゃがんだ。

「痛いなら、生きている証拠だ」

フェリクスは、顔を上げた。

涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。

「師匠……俺は……」

「分かっている」

俺は彼の肩に手を置いた。

「お前は、間違っただけだ」

フェリクスの目が、見開かれた。

「間違い……?」

「そうだ」

俺は彼に向き直った。

「お前は、間違った答えを選んだ。だが、それは俺が間違った問題を出したからだ」

フェリクスの体が、震えた。

「だから」

俺は立ち上がった。

「もう一度、教え直す」

フェリクスは、俺の手を見た。

差し出された手を。

長い沈黙が落ちた。

風が吹いて、彼の髪を揺らした。

やがて、彼は手を伸ばした。

震える手で、俺の手を掴んだ。

俺は、彼を引き上げた。

フェリクスが立ち上がる。足が震えている。だが、倒れない。

「師匠……」

彼の声が、小さくなった。

「俺は、許されるのか……」

「許されるかは、俺が決めることじゃない」

俺は村を見た。

村人たちが、こちらを見ている。エリナもいる。リアもいる。

「お前が傷つけた人たちに、聞け」

フェリクスは、村人たちを見た。

彼らの目が、彼を見つめていた。

恐怖ではなく、憐れみでもなく。

ただ、静かに見つめていた。

フェリクスは、震える足で歩き出した。

村人たちに向かって、一歩ずつ。

途中で膝をつきそうになる。だが、踏みとどまる。

やがて、村人たちの前に立った。

「俺は……」

彼の声が、かすれた。

「俺は、間違っていた……」

村人たちは、黙って聞いていた。

「俺が、お前たちを苦しめた……」

フェリクスの声が、震えた。

「お前たちの家族を、奪った……」

彼は、頭を下げた。

「許してくれとは、言えない……」

沈黙が落ちた。

長い、重い沈黙。

やがて、一人の老人が前に出た。

村長だった。

「王よ」

村長の声が、冷たく響いた。

「許すことはできん」

フェリクスの体が、震えた。

「わしの息子も、お前さんの戦で死んだ」

村長の目に、涙が浮かんでいた。

「許せるはずがない」

フェリクスは、何も言わなかった。

ただ、頭を下げ続けた。

「だが」

村長は続けた。

「死んで逃げることも、許さん」

フェリクスが、顔を上げた。

「一生かけて、この村の下働きとして働け」

村長の声が、重く響いた。

「王としての名は捨てろ。冠も、権力も、全て捨てろ」

フェリクスは、村長の目を見た。

「そして、マルクが愛した畑を耕せ」

村長の声が、震えた。

「あの馬鹿は、戦いから逃げてここに来た」

「そして、畑を耕しながら、笑っていた」

「お前も、そうしろ」

フェリクスの目から、涙が零れた。

「泥にまみれて、汗を流して、生きろ」

村長は、手を差し出さなかった。

ただ、じっと見つめていた。

「それが、お前の償いだ」

 フェリクスは、膝をついた。
 
そして、額を地面につけた。

「ありがとう……ございます……」

彼の声が、震えていた。

「一生……償います……」

沈黙が、重く横たわった。

その時、一人の若い男が前に出た。

腕に包帯を巻いている。飛竜戦で負った傷だろう。

男は、地面に転がっていた石を拾った。

そして、フェリクスに向かって腕を振り上げた。

「待て」

別の声が響いた。

中年の女性だった。顔に深い皺が刻まれている。

彼女は、若い男の腕を掴んだ。

「石を投げても、死んだ者は帰らない」

女性の声が、震えていた。

「わしの夫も、あの戦で死んだ」

若い男が、女性を見た。

「だったら、なぜ……」

「マルクなら、石を投げない」

女性は、静かに言った。

「あの子は、いつもこう言っていた。『憎しみは憎しみを生むだけだ』と」

若い男の手から、石が落ちた。

地面に転がる音が、静寂の中に響いた。

「許せない」

女性は、フェリクスを見た。

「許せるはずがない」

フェリクスは、頭を上げなかった。

「だが」

女性は、涙を拭った。

「お前さんが本当に償うというなら、見届けてやる」

フェリクスの肩が、震えた。

「死ぬまで、見届けてやる」

村人たちは、黙って見ていた。

誰も、言葉をかけなかった。

ただ、静かに見守っていた。

その沈黙には、拒絶と、わずかな希望が混ざっていた。

俺は、リアを見た。

彼女は、壁にもたれかかっていた。顔が、青白い。

「リア」

俺は駆け寄った。

彼女の肩を抱く。

「大丈夫か」

「ええ……」

リアは、微笑んだ。

「ただ、少し疲れただけ」

だが、その声は弱々しかった。

「結界を張りすぎたんだ」

エリナが、心配そうに言った。

「もう、体が持たない」

俺は、リアの顔を見た。

彼女の目が、霞んでいる。

「無茶をするな」

「無茶をしたのは、師匠でしょう」

リアは、小さく笑った。

「傷だらけで、よく戦えましたね」

「お前に言われたくない」

俺も、苦笑した。

リアは、フェリクスを見た。

「フェリクス」

彼女の声が、優しかった。

「よく、立ち上がったわね」

フェリクスは、リアのもとに歩いてきた。

「リア……」

彼の声が、震えていた。

「俺は、お前に何をした……」

「生きてくれただけで、十分よ」

リアは、微笑んだ。

「これから、償いなさい。私の分まで、時間を動かして」

フェリクスの目から、涙が零れた。

「ああ……」

彼は、頷いた。

「必ず……」

リアは、遠くを見るような目をした。

そして、静かに言った。

「師匠」

「何だ」

「私の二十年は、止まっていました」

彼女の声が、遠くなった。

「でも、最後の数日は……宝石のように輝いていました」

俺は、、唇を噛み締めた。

「師匠が来てくれて、エリナがいて、フェリクスが戻ってきて……」

リアの唇が、微かに笑みを作った。

「私は、幸せでした」

リアの体が、力を失った。

「リア!」

俺は彼女を抱きしめた。

だが、彼女の目は閉じたままだった。

息が、浅い。

「リア、起きろ」

声が、震えた。

「まだ、終わってない」

だが、彼女は動かなかった。

「リア!」

フェリクスが、叫んだ。

「リア、目を開けてくれ!」

彼は、リアの手を握った。

「俺が、悪かった!」

「全部、俺のせいだ!」

エリナが、涙を流していた。

村人たちも、息を呑んで見守っていた。

俺は、リアの頬に手を当てた。

まだ、温かい。

生きている。

まだ、生きている。

「リア」

俺は、彼女の耳元で囁いた。

「お前には、まだやることがある」

リアの瞼が、わずかに動いた。

「フェリクスを、見守ってやってくれ」

彼女の唇が、微かに動いた。

「俺一人じゃ、足りない」

リアの目が、薄く開いた。

「師匠……」

彼女の声が、かすれていた。

「ずるい……」

俺は、笑った。

「ああ、ずるいな」

リアも、小さく笑った。

「分かり……ました」

彼女は、フェリクスを見た。

「まだ、見守ります」

フェリクスは、リアの手を握りしめた。

「ありがとう……」

彼の声が、震えていた。

「ありがとう、リア」

リアは、目を閉じた。

だが、その前に、彼女の手がエリナの腕を掴んだ。

弱々しく、だが確かに。

「エリナ……ちゃん」

リアの声が、かすれていた。

エリナが、リアに顔を近づけた。

「はい、リアさん」

「師匠を……お願い」

リアの唇が、微かに動いた。

「あの人は……不器用だから……」

エリナの目から、涙が零れた。

「あなたが……支えてあげて……」

「はい」

エリナは、リアの手を握った。

「任せてください」

リアの顔に、安堵の色が浮かんだ。

「ありがとう……」

彼女の手が、力を失った。

だが、今度は安らかな表情だった。

眠っているだけ、のような。

俺は、リアをエリナに預けた。

「村の医者に診てもらえ」

「はい」

エリナは、リアを抱えて走り出した。

その背中が、少しだけ大きく見えた。

俺は、フェリクスを見た。

彼は、地面に膝をついていた。

肩が、震えている。

「フェリクス」

俺は、彼の前に立った。

「これから、どうする」

フェリクスは、顔を上げた。

目が、赤く腫れていた。

「師匠……俺は、何をすればいい」

「弱さを、学べ」

俺は、静かに言った。

フェリクスの目が、揺れた。

「弱さ……?」

「そうだ」

俺は、彼の目を見た。

「お前は強さしか知らなかった」

「だから、弱い者の痛みが分からなかった」

フェリクスは、何も言わなかった。

「これから、弱さを知れ」

俺は、村を見た。

「ここで暮らせ。一人の人間として」

フェリクスは、村を見た。

そして、頷いた。

「分かった」

彼は、腰に差していた剣を外した。

黄金の剣だ。

俺が、昔彼に与えた剣。

彼は、それを俺に差し出した。

「これも、返します」

俺は、剣を見た。

そして、首を横に振った。

「いや」

「師匠……?」

「それは、お前が持っていろ」

俺は、剣を押し戻した。

「畑を耕すのに、剣は要らない」

フェリクスの目が、見開かれた。

「だが、いつか必要になる時が来る」

俺は、彼の目を見た。

「その時まで、大事に持っていろ」

フェリクスは、剣を見た。

そして、胸に抱いた。

「師匠、いつかまた会えるか」

「ああ」

俺は、笑った。

「お前が本当に変われたら、な」

フェリクスも、小さく笑った。

それは、久しぶりに見る彼の笑顔だった。

俺は、村長に頭を下げた。

「世話になった」

「いや」

村長は、首を横に振った。

「礼を言うのは、こっちじゃ」

俺は、視線を逸らした。

ただ、頷いた。

エリナが、戻ってきた。

「先生、リアさんは大丈夫です」

彼女は、ほっとした顔で言った。

「医者が診てくれました。しばらく休めば、回復するそうです」

「そうか」

俺は、息を吐いた。

エリナが、フェリクスを見た。

「フェリクスさん」

「……何だ」

「マルクさんの墓に、案内します」

フェリクスの体が、震えた。

「墓……」

「はい」

エリナは、村の外を指差した。

「あの丘の上です」

フェリクスは、丘を見た。

そして、頷いた。

「……ありがとう」

エリナとフェリクスが、丘に向かって歩き出した。

俺は、その背中を見送った。

しばらくして、二人は丘の上に着いた。

フェリクスが、墓の前に膝をついた。

そして、額を地面につけた。

長い時間、彼はそうしていた。

俺は、空を見た。

雲が流れている。

風が吹いて、木々を揺らしている。

世界は、何事もなかったかのように動き続けている。

やがて、フェリクスが立ち上がった。

彼とエリナが、戻ってきた。

フェリクスの目が、少しだけ穏やかになっていた。

「師匠」

彼は、俺の前に立った。

「いつか、マルクに顔向けできるような人間になる」

「ああ」

俺は頷いた。

「待っている」

フェリクスは、深く頭を下げた。

俺は、踵を返した。

背中に、フェリクスの視線を感じた。

だが、振り返らなかった。

前だけを見て、歩き出した。

エリナが、隣に並んだ。

「先生」

「何だ」

「フェリクスさんは、変われると思いますか」

俺は、少し考えた。

「分からない」

「でも」

俺は、昇り始めた朝日を見た。

「人間は、何度でもやり直せる」

エリナは、微笑んだ。

「マルクさんも、そう言っていました」

俺は、小さく頷いた。

ただ、前を向いて歩いた。

朝日が、地平線から昇り始めていた。

新しい一日が、始まろうとしていた。

村の入り口で、俺は一度だけ振り返った。

フェリクスが、畑の前に立っていた。

鍬を手に、土を見つめていた。

その姿は、もう王ではなかった。

一人の人間だった。

これから、長い償いの道を歩む人間だった。

俺は、また前を向いた。

「行くぞ」

「はい」

二人で、村を出た。

背後から、村人たちの声が聞こえた。

「気をつけて」

「また来てください」

俺は、手を振った。

振り返らずに。

道を歩きながら、エリナが言った。

「先生、次はどこへ行くんですか」

「さあな」

俺は、前を見た。

「歩いていれば、分かるだろう」

エリナは、笑った。

「それって、あてもなく歩くってことですか」

「そうだ」

俺も、笑った。

「だが、それでいい」

風が吹いて、俺たちの髪を揺らした。

新しい旅が、始まる。

終わりではなく、始まりだ。

俺は、そう思った。

前を向いて、歩き続けた。
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